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二十九、蟲毒之壺(皇帝視点)
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四月に入り、周囲の勧めもあって、俺は二度目の懐妊をした高氏を賢妃に、薛氏を九嬪の一つ、脩媛に昇格させた。
他の妃嬪の位を上げることで、詩阿の擅寵に対する批判が収まるならと考えたのだ。最も高位の夫人が趙淑妃一人だけ、というのも確かに均衡を欠いていた。高氏は高氏で面倒臭い女なのだが、趙淑妃といがみ合ってくれれば、均衡が保てるかもしれない、という計算もあった。
だが、直後に高賢妃は流産してしまった。
子供は残念ではあるが仕方のないことだと、見舞いだけを贈った俺に、どうしてもお会いしたいなどと騒いでいるという。
「いったい、何の用だ」
申し訳なさそうに伝言を伝える宦官の廉に対し、俺が急ぎの上奏文から目を離さずに聞けば、廉が言った。
「その……流産したのは、呪詛されたせいだと……」
俺は、手にした奏摺を卓に叩きつけていた。
――またか! いい加減にしろ!
前回、死産だったのも、趙淑妃の差し金で毒を盛られたせいだなどと、証拠も上げずに騒いだ。俺が脅しつけると静かになったが、今度は呪詛か!
要するに俺の同情を引きたいだけなのだ。
「太医を派遣し、養生させろ。朕は今、懸案事項が溜まっていて忙しい」
俺は廉に手を振って、賢妃は無視することに決めた。
だがその数日後、内侍監の劉が何やら難しい表情で俺の近くに寄ってきて、小声で囁いた。
「賢妃が、例の件について宮正に訴え出ました」
「……呪詛の件か?」
「はい。証拠の人形が出たと」
「そんなもの、信用できるか!」
およそ、呪詛ほど、自作自演しやすいものはない。
「いったい誰が呪っていると申すのだ。趙淑妃か?」
「それが、薛脩媛だと申しておりますとか」
「薛脩媛……」
言われて、とっさに誰だかわからなかった。
「最近、美人より九嬪に昇格させました」
「ああ、あの女!」
薛氏は、遠目に見た雰囲気が詩阿――その頃、俺は成長した詩阿を見たことがないから、「俺が想像する成長した詩阿」でしかないが――の雰囲気に近かったので寵愛した女だ。
童顔で素直そうな感じに好感を持ったのだが、抱いてみれば所詮、詩阿ではないと醒めてしまう。ただ、その頃、俺は手に入らない詩阿を想って悶々としていた時期で、何度か薛氏を召したのは憶えている。
しかし、直後に俺は詩阿を皇后として迎える決断をし、詩阿でない女のことなど、すっかり忘却の彼方であった。
詩阿以外の女のところにも通わねばならなくなり、俺は新しい女には手をつけたくなかったので、以前に寵愛した中で、比較的間の空いた者を……と伝え、候補に挙がったのが薛氏だった。それで御寝に召したのだが、通算で四度目だかで、尚宮からそろそろ昇級させてはどうかと言われた。それだけのことである。
「それがどうして、賢妃を呪う?」
「四度もご寵愛を受けたのに懐妊しないやっかみのせいだと申しております」
「そんなバカな!」
「光華殿からの訴えの通り、薛氏のもとの住居よりも呪いの人形が出たとして、薛氏を拘束して内侍伯に引き渡せと要求しておりますそうで――」
「内侍伯に?」
宮内の犯罪を取り締まるのは内侍伯の仕事だが、仮にも九嬪を内侍伯に引き渡すだと?
「胎児とはいえ皇帝の子を呪い殺したのだから厳しい詮議をと、言い張っておりますとか」
「いい加減にしろ! 生まれてもいない子供の、それも呪詛で!」
「奴才の権限で、宮正より要請があっても取り上げるなと、すでに止めてございます。ですが、一つ気になることが」
俺が劉を見れば、劉がいっそう声を潜めた。
「どうも今回、手際が良すぎます。宮正の司馬は熟練で、その手の陽動には乗りません。それもあって、別から手を回し、内侍伯を動かそうとしているのではないかと存じます」
「……それで?」
「宮正は女官でございますから、尋問と申しましても手荒なことはいたしません。ですが内侍伯は――」
この国の犯罪捜査において、尋問は拷問とほぼ同義である。
「九嬪に対し、苛烈な詮議など認められぬ」
「普通はそうでございます。ですが、もし意を持って行うものがおりましたら……」
「薛氏に、何か証言をさせようという意図があると?」
劉がじっと俺を見つめた。
「薛脩媛は、娘娘のお気に入りでございまして」
「……詩阿の? まさか、呪詛の黒幕が詩阿だと言わせるつもりか?」
「御意。おそらくはそれを狙っておりますかと」
俺は拳を握りしめ、思わず卓に叩きつけた。
「……内侍省を動かすとなると、黒幕は高賢妃ではあるまい? あれにはそんな知恵は回らぬ」
「そこまでは。あるいは淑妃あたりの息がかかっているかもしれませんが……ただ、賢妃が騒げば、劉平章が動くかもしれません」
現在、俺に皇子がおらず、後継者が不在であることを、外朝の宰相も重く見ている。
後宮内の呪詛で皇子が呪い殺されるなど、あの宰相が信じるとは思わないが、どんな小さなきっかけでも利用してくる小賢しい男だ。
俺は落ち着こうと大きく息を吸った。
「劉内侍、例の計画、他所に漏れてはいないだろうな?」
「は。……知る者はございません」
「ならばそろそろ、大々的に離宮行幸について告知せよ」
「仰せの通りに」
劉が頭を下げ、下がったいくと、入れ替わりに廉がやってきた。
「娘娘が、近々、お目にかかりたいと仰っています」
「詩阿が?」
詩阿から逢いたいなどと、初めてではないかと思い、さっきの劉の話だと気づく。
「わかった。今すぐに参る。支度をせよ」
「は」
廉は頭を下げ、すぐに控えの間に待機する内侍たちに知らせる。
バタバタと動き回る宦官たちを見ながら、俺は廉に尋ねた。
「今回の光華殿の件、後宮内ではどう、言われている」
「はい。賢妃のご懐妊を、娘娘は内心、面白からず思い、薛脩媛に示唆して呪わせたのではと……」
「そんなバカな。ありえない」
廉も目を伏せた。
「奴才もそう、思います」
「そちは気づいているだろう。……中宮は嫉妬で他の女を呪うほど、朕のことを愛しておらぬ」
廉がハッとして俺を見、すぐに再び視線を逸らす。
「それは……娘娘はその……」
「よい、わかっている。……詩阿は朕のことを、夫ではなく皇帝としか思っておらぬ。故に、他の女と朕を共有してもなんとも思わぬし、他の女に子ができたところで呪ったりはせぬ」
改めて口に出せば傷つかないわけでもないが、実際、詩阿の立場であればそう、思わねば心が保たぬかもしれない。
後宮というところは、独占欲を押し隠した女たちが、微妙な均衡の上で一人の男を共有していく歪んだ場所だ。
俺は詩阿のことを本気で愛しているけれど、傍からは、何人もの女たちを間を蜜蜂よろしく飛び回っているようにしか見えない。充たされぬ女たちの嫉妬心が凝って、蜜は次第に毒を孕み、やがて、皇帝の愛を独占する女を殺してしまう。――俺の、母親のように。
まるで後宮自体が蟲毒の壺のようなものだ。
後宮の安寧を保つためには、上に立つ者こそ殊更に身を正し、節制を求められる。
嫉妬もせず、独占もせず、慈母のごとき広い心で、皇帝が他の女に愛を振りまく姿を見つめ続けなければならない。前の皇后は嫉妬に狂って俺の母を殺し、さらに俺の命まで奪おうとした。それを許すつもりはないが、同情の余地があるのは理解する。
詩阿はきっと、そうはなるまるまいと自らを戒めているのだ。
だから、俺が閨でどれほど愛の言葉を尽くしたところで、それを信じようとはしない。
自ら俺とは距離を保とうとし、けして自ら甘えることもなく、俺に愛を乞うこともない。
俺を愛さないことで、心を保とうとしている。
だから詩阿は、他の女を呪ったりはしない。
「……噂の出所は、光華殿あたりか?」
俺が質問を変えれば、廉は露骨にホッとしたような表情で、知る所を説明した。
「さあ……賢妃は呪詛の人形が出たことで動揺しておりましたが……」
「賢妃に子ができて、呪い殺してやりたいと思うような女が、後宮に確かにいた、ということではあろうな」
「……御意」
そうこうするうちに、後宮に行く支度ができたと、別の宦官が伝えに来た。
「ならば参る。……先触れを発せよ」
なんとしてでも、詩阿は俺が守らねばならぬ。――どんな手段を講じても。
そして俺は、詩阿の苦しい立場を理解した上で、それでも詩阿の心が欲しいと思うのだ。
早足で階を降り、待っていた輦に乗り込み、俺は覚悟を決めた。
他の妃嬪の位を上げることで、詩阿の擅寵に対する批判が収まるならと考えたのだ。最も高位の夫人が趙淑妃一人だけ、というのも確かに均衡を欠いていた。高氏は高氏で面倒臭い女なのだが、趙淑妃といがみ合ってくれれば、均衡が保てるかもしれない、という計算もあった。
だが、直後に高賢妃は流産してしまった。
子供は残念ではあるが仕方のないことだと、見舞いだけを贈った俺に、どうしてもお会いしたいなどと騒いでいるという。
「いったい、何の用だ」
申し訳なさそうに伝言を伝える宦官の廉に対し、俺が急ぎの上奏文から目を離さずに聞けば、廉が言った。
「その……流産したのは、呪詛されたせいだと……」
俺は、手にした奏摺を卓に叩きつけていた。
――またか! いい加減にしろ!
前回、死産だったのも、趙淑妃の差し金で毒を盛られたせいだなどと、証拠も上げずに騒いだ。俺が脅しつけると静かになったが、今度は呪詛か!
要するに俺の同情を引きたいだけなのだ。
「太医を派遣し、養生させろ。朕は今、懸案事項が溜まっていて忙しい」
俺は廉に手を振って、賢妃は無視することに決めた。
だがその数日後、内侍監の劉が何やら難しい表情で俺の近くに寄ってきて、小声で囁いた。
「賢妃が、例の件について宮正に訴え出ました」
「……呪詛の件か?」
「はい。証拠の人形が出たと」
「そんなもの、信用できるか!」
およそ、呪詛ほど、自作自演しやすいものはない。
「いったい誰が呪っていると申すのだ。趙淑妃か?」
「それが、薛脩媛だと申しておりますとか」
「薛脩媛……」
言われて、とっさに誰だかわからなかった。
「最近、美人より九嬪に昇格させました」
「ああ、あの女!」
薛氏は、遠目に見た雰囲気が詩阿――その頃、俺は成長した詩阿を見たことがないから、「俺が想像する成長した詩阿」でしかないが――の雰囲気に近かったので寵愛した女だ。
童顔で素直そうな感じに好感を持ったのだが、抱いてみれば所詮、詩阿ではないと醒めてしまう。ただ、その頃、俺は手に入らない詩阿を想って悶々としていた時期で、何度か薛氏を召したのは憶えている。
しかし、直後に俺は詩阿を皇后として迎える決断をし、詩阿でない女のことなど、すっかり忘却の彼方であった。
詩阿以外の女のところにも通わねばならなくなり、俺は新しい女には手をつけたくなかったので、以前に寵愛した中で、比較的間の空いた者を……と伝え、候補に挙がったのが薛氏だった。それで御寝に召したのだが、通算で四度目だかで、尚宮からそろそろ昇級させてはどうかと言われた。それだけのことである。
「それがどうして、賢妃を呪う?」
「四度もご寵愛を受けたのに懐妊しないやっかみのせいだと申しております」
「そんなバカな!」
「光華殿からの訴えの通り、薛氏のもとの住居よりも呪いの人形が出たとして、薛氏を拘束して内侍伯に引き渡せと要求しておりますそうで――」
「内侍伯に?」
宮内の犯罪を取り締まるのは内侍伯の仕事だが、仮にも九嬪を内侍伯に引き渡すだと?
「胎児とはいえ皇帝の子を呪い殺したのだから厳しい詮議をと、言い張っておりますとか」
「いい加減にしろ! 生まれてもいない子供の、それも呪詛で!」
「奴才の権限で、宮正より要請があっても取り上げるなと、すでに止めてございます。ですが、一つ気になることが」
俺が劉を見れば、劉がいっそう声を潜めた。
「どうも今回、手際が良すぎます。宮正の司馬は熟練で、その手の陽動には乗りません。それもあって、別から手を回し、内侍伯を動かそうとしているのではないかと存じます」
「……それで?」
「宮正は女官でございますから、尋問と申しましても手荒なことはいたしません。ですが内侍伯は――」
この国の犯罪捜査において、尋問は拷問とほぼ同義である。
「九嬪に対し、苛烈な詮議など認められぬ」
「普通はそうでございます。ですが、もし意を持って行うものがおりましたら……」
「薛氏に、何か証言をさせようという意図があると?」
劉がじっと俺を見つめた。
「薛脩媛は、娘娘のお気に入りでございまして」
「……詩阿の? まさか、呪詛の黒幕が詩阿だと言わせるつもりか?」
「御意。おそらくはそれを狙っておりますかと」
俺は拳を握りしめ、思わず卓に叩きつけた。
「……内侍省を動かすとなると、黒幕は高賢妃ではあるまい? あれにはそんな知恵は回らぬ」
「そこまでは。あるいは淑妃あたりの息がかかっているかもしれませんが……ただ、賢妃が騒げば、劉平章が動くかもしれません」
現在、俺に皇子がおらず、後継者が不在であることを、外朝の宰相も重く見ている。
後宮内の呪詛で皇子が呪い殺されるなど、あの宰相が信じるとは思わないが、どんな小さなきっかけでも利用してくる小賢しい男だ。
俺は落ち着こうと大きく息を吸った。
「劉内侍、例の計画、他所に漏れてはいないだろうな?」
「は。……知る者はございません」
「ならばそろそろ、大々的に離宮行幸について告知せよ」
「仰せの通りに」
劉が頭を下げ、下がったいくと、入れ替わりに廉がやってきた。
「娘娘が、近々、お目にかかりたいと仰っています」
「詩阿が?」
詩阿から逢いたいなどと、初めてではないかと思い、さっきの劉の話だと気づく。
「わかった。今すぐに参る。支度をせよ」
「は」
廉は頭を下げ、すぐに控えの間に待機する内侍たちに知らせる。
バタバタと動き回る宦官たちを見ながら、俺は廉に尋ねた。
「今回の光華殿の件、後宮内ではどう、言われている」
「はい。賢妃のご懐妊を、娘娘は内心、面白からず思い、薛脩媛に示唆して呪わせたのではと……」
「そんなバカな。ありえない」
廉も目を伏せた。
「奴才もそう、思います」
「そちは気づいているだろう。……中宮は嫉妬で他の女を呪うほど、朕のことを愛しておらぬ」
廉がハッとして俺を見、すぐに再び視線を逸らす。
「それは……娘娘はその……」
「よい、わかっている。……詩阿は朕のことを、夫ではなく皇帝としか思っておらぬ。故に、他の女と朕を共有してもなんとも思わぬし、他の女に子ができたところで呪ったりはせぬ」
改めて口に出せば傷つかないわけでもないが、実際、詩阿の立場であればそう、思わねば心が保たぬかもしれない。
後宮というところは、独占欲を押し隠した女たちが、微妙な均衡の上で一人の男を共有していく歪んだ場所だ。
俺は詩阿のことを本気で愛しているけれど、傍からは、何人もの女たちを間を蜜蜂よろしく飛び回っているようにしか見えない。充たされぬ女たちの嫉妬心が凝って、蜜は次第に毒を孕み、やがて、皇帝の愛を独占する女を殺してしまう。――俺の、母親のように。
まるで後宮自体が蟲毒の壺のようなものだ。
後宮の安寧を保つためには、上に立つ者こそ殊更に身を正し、節制を求められる。
嫉妬もせず、独占もせず、慈母のごとき広い心で、皇帝が他の女に愛を振りまく姿を見つめ続けなければならない。前の皇后は嫉妬に狂って俺の母を殺し、さらに俺の命まで奪おうとした。それを許すつもりはないが、同情の余地があるのは理解する。
詩阿はきっと、そうはなるまるまいと自らを戒めているのだ。
だから、俺が閨でどれほど愛の言葉を尽くしたところで、それを信じようとはしない。
自ら俺とは距離を保とうとし、けして自ら甘えることもなく、俺に愛を乞うこともない。
俺を愛さないことで、心を保とうとしている。
だから詩阿は、他の女を呪ったりはしない。
「……噂の出所は、光華殿あたりか?」
俺が質問を変えれば、廉は露骨にホッとしたような表情で、知る所を説明した。
「さあ……賢妃は呪詛の人形が出たことで動揺しておりましたが……」
「賢妃に子ができて、呪い殺してやりたいと思うような女が、後宮に確かにいた、ということではあろうな」
「……御意」
そうこうするうちに、後宮に行く支度ができたと、別の宦官が伝えに来た。
「ならば参る。……先触れを発せよ」
なんとしてでも、詩阿は俺が守らねばならぬ。――どんな手段を講じても。
そして俺は、詩阿の苦しい立場を理解した上で、それでも詩阿の心が欲しいと思うのだ。
早足で階を降り、待っていた輦に乗り込み、俺は覚悟を決めた。
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