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10、皇帝親征
囚われのアルベラ
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シルルッサの手前、ウィード男爵領でイフリート公爵の派遣した騎士の手に落ちたアルベラは、馬車に押し込められ、レイジアまで戻ってカンダハル方面へと続く街道をナキアへと連行された。もちろん、ウィード男爵の居館で風呂に入れられて、女性物の長衣に着替えさせられたが、髪だけは短いままだ。ナキアの南でランパに切ってもらい、その後少し伸びたのをホーヘルミアの月神殿でも綺麗にしてもらっていた。だから、アルベラのストロベリー・ブロンドは一番長いところでうなじを覆う程度しかない。肌は日に焼け、山道の小枝にひっかけて腕は傷だらけ、脚にはいつの間に作ったのか、打ち身までできていた。酷い有様に、世話をしてくれた若い侍女が息を飲んだが、アルベラにとってはどうでもいいことだった。
(シリルは、無事にシルルッサに着いたかしら――)
鎧戸もガッチリ閉められた、真っ暗な馬車に一人揺られながら、アルベラは座席に背中を預け、物思いにふける。
敵地にも等しい場所に、シリルを一人で置いてきてしまった。――どこに逃げたところで、アルベラにはもう、味方と言える人はいないのだから、仕方のない話だ。シリルが辛い思いをしていないかと、それだけが気がかりだった。東の騎士たちがシリルを平民だからと差別しなかったことが、アルベラの微かな心の支えになっている。他の何を犠牲にしても、シリルには幸せになって欲しい。王女であるアルベラに庇われる形で命を拾ったシリルは、今頃自分を責めているだろう。でも、テセウスに続いてシリルまで命を落としていたら、アルベラはもう、自身の命の価値を認めることができなくなる。テセウスの命を犠牲にして生き延びた自分の、存在自体を消してしまいたくなる。
死ぬなよ。テセウスとの約束だぜ――。
最後に、月光にテセウスの短剣を煌めかせ、ゾラが叫んだ。……テセウスにそっくりな、でもテセウスとは違う顔で。
思い出すたびに、懐かしさで涙が零れそうになる。シリルだけじゃなくて、ゾラ、ゾーイ、フエル、トルフィン、ランパ、そしてシウリン――。優しく、強かった東の騎士たち。自分が、自分であることが、こんなに苦しかったことはなかった。ゾラの祖父も、フエルの祖父も、そしてトルフィンの父もランパの伯父も、皆な、父ウルバヌスが背後で糸を引いて起こした、帝都の叛乱で命を落としたのだと言う。その話は衝撃的すぎてアルベラの理解を超えていたが、嘘ではないとわかった。それでも、彼らはアルベラを受け入れ、命を懸けて守ってくれた。自分はこの先、彼らにその恩を返すことができるのか――。
下腹部に走る鈍い痛みに、アルベラは思わず顔を顰める。
旅に出て以来、ずっと来なかった月のものが、囚われの日々になって突然、戻ってきた。
旅の間止まっていたのは、王女である生まれも、イフリートの血筋も、女であることすら、捨てるつもりでいたからだろう。だが、そんな甘えは通用しない、お前はイフリートの血を引く女王の娘なのだと、運命に突きつけられたようだ。
父は、自分をどうするつもりか――。
あの淫祀に捧げられるのだけは嫌だと思う。相手がシメオンであれ、他の兄であれ、邪教の神の捧げものにはされたくない。だが、どうやってそれに抗うのか。
絶望は常に、アルベラの前に用意されている。
だが、アルベラは最後まで、諦めたりしないと決めていた。
この命はテセウスのものだ。テセウスへの恋は、今にして思えば淡く溶ける初雪のように儚いもの。それでも、アルベラにはもう、命を懸けて愛してくれたテセウスに返せるものは、それ以外にない。
どれほどの屈辱でも耐えて見せる。――わたしの誇りも何もかも、すべてテセウスのために――。
久しぶりに戻ってきたナキアだが、しかし街の様子は以前とまるで違っていた。
そっと鎧戸の隙間を指で開き、周囲を盗み見てみれば、アルベラもよく知る街区に入ったとわかる。そこは市場の側で、以前であれば屋台や行商人が許可なく店を出し、市場の役人と小競り合いを繰り返す場所だったが、今は人もまばらである。
アルベラはそっと身体を窓から離し、溜息をつく。
カンダハルはナキアの生命線だ。そこを押さえられてしまえば、物流が止まる。ウルバヌスは南方の物資をナキアに回すよう指令を出していたが、それにも限度がある。――何より、ホーヘルミアより南には魔物も発生したのだ。人々は故郷を捨てて神殿や、さらに聖地へと逃れて街道を北上していた。ナキア市民の生活は成り立っているのだろうか。――王女の最後の誇りとして、ナキアを守りたかった。本当に、自分は無力で、無能で、何の役にも立たなくて、生きていることが辛くなる。
自分は、どこへ行くのか――。
〈栄光は、誇りを捨てざる者にこそ、輝く〉
以前、ゾーイに言われた言葉を思い出す。わたしがわたしであることは、わたしのせいではない、とも言った。わたしは生き抜かなければならない。テセウスにもらった命を全うするために――。
(シリルは、無事にシルルッサに着いたかしら――)
鎧戸もガッチリ閉められた、真っ暗な馬車に一人揺られながら、アルベラは座席に背中を預け、物思いにふける。
敵地にも等しい場所に、シリルを一人で置いてきてしまった。――どこに逃げたところで、アルベラにはもう、味方と言える人はいないのだから、仕方のない話だ。シリルが辛い思いをしていないかと、それだけが気がかりだった。東の騎士たちがシリルを平民だからと差別しなかったことが、アルベラの微かな心の支えになっている。他の何を犠牲にしても、シリルには幸せになって欲しい。王女であるアルベラに庇われる形で命を拾ったシリルは、今頃自分を責めているだろう。でも、テセウスに続いてシリルまで命を落としていたら、アルベラはもう、自身の命の価値を認めることができなくなる。テセウスの命を犠牲にして生き延びた自分の、存在自体を消してしまいたくなる。
死ぬなよ。テセウスとの約束だぜ――。
最後に、月光にテセウスの短剣を煌めかせ、ゾラが叫んだ。……テセウスにそっくりな、でもテセウスとは違う顔で。
思い出すたびに、懐かしさで涙が零れそうになる。シリルだけじゃなくて、ゾラ、ゾーイ、フエル、トルフィン、ランパ、そしてシウリン――。優しく、強かった東の騎士たち。自分が、自分であることが、こんなに苦しかったことはなかった。ゾラの祖父も、フエルの祖父も、そしてトルフィンの父もランパの伯父も、皆な、父ウルバヌスが背後で糸を引いて起こした、帝都の叛乱で命を落としたのだと言う。その話は衝撃的すぎてアルベラの理解を超えていたが、嘘ではないとわかった。それでも、彼らはアルベラを受け入れ、命を懸けて守ってくれた。自分はこの先、彼らにその恩を返すことができるのか――。
下腹部に走る鈍い痛みに、アルベラは思わず顔を顰める。
旅に出て以来、ずっと来なかった月のものが、囚われの日々になって突然、戻ってきた。
旅の間止まっていたのは、王女である生まれも、イフリートの血筋も、女であることすら、捨てるつもりでいたからだろう。だが、そんな甘えは通用しない、お前はイフリートの血を引く女王の娘なのだと、運命に突きつけられたようだ。
父は、自分をどうするつもりか――。
あの淫祀に捧げられるのだけは嫌だと思う。相手がシメオンであれ、他の兄であれ、邪教の神の捧げものにはされたくない。だが、どうやってそれに抗うのか。
絶望は常に、アルベラの前に用意されている。
だが、アルベラは最後まで、諦めたりしないと決めていた。
この命はテセウスのものだ。テセウスへの恋は、今にして思えば淡く溶ける初雪のように儚いもの。それでも、アルベラにはもう、命を懸けて愛してくれたテセウスに返せるものは、それ以外にない。
どれほどの屈辱でも耐えて見せる。――わたしの誇りも何もかも、すべてテセウスのために――。
久しぶりに戻ってきたナキアだが、しかし街の様子は以前とまるで違っていた。
そっと鎧戸の隙間を指で開き、周囲を盗み見てみれば、アルベラもよく知る街区に入ったとわかる。そこは市場の側で、以前であれば屋台や行商人が許可なく店を出し、市場の役人と小競り合いを繰り返す場所だったが、今は人もまばらである。
アルベラはそっと身体を窓から離し、溜息をつく。
カンダハルはナキアの生命線だ。そこを押さえられてしまえば、物流が止まる。ウルバヌスは南方の物資をナキアに回すよう指令を出していたが、それにも限度がある。――何より、ホーヘルミアより南には魔物も発生したのだ。人々は故郷を捨てて神殿や、さらに聖地へと逃れて街道を北上していた。ナキア市民の生活は成り立っているのだろうか。――王女の最後の誇りとして、ナキアを守りたかった。本当に、自分は無力で、無能で、何の役にも立たなくて、生きていることが辛くなる。
自分は、どこへ行くのか――。
〈栄光は、誇りを捨てざる者にこそ、輝く〉
以前、ゾーイに言われた言葉を思い出す。わたしがわたしであることは、わたしのせいではない、とも言った。わたしは生き抜かなければならない。テセウスにもらった命を全うするために――。
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