134 / 236
12、女王の寝室
アデライードの不安
しおりを挟む
夜、初めて女王の寝室に入り、入浴も済ませて二人、大きな寝台の上で寄り添い合う。
リリアとアンジェリカが淹れてくれた薬草茶を飲み終えて、アデライードはまだ寝酒の馬鈴薯酒を嗜んでいる夫の側にごそごそと寄っていく。女王の寝台は四本柱の彫刻も豪華で、高い格天井の装飾は花々や天使の華麗な絵画で埋め尽くされ、慌てて取り換えたらしい真新しい天蓋布の襞も重厚で、何となく落ち着かない。
一方の夫は、普段どおりの東方風の絹の夜着を緩く着て、大きく開いた襟もとから金鎖に通した神器の指輪を覗かせ、優しく微笑むとアデライードを抱き寄せた。
「今日は大変だったな……体調は、どうだ?」
「ん……少し、疲れた、けど……」
飲み干したショットグラスを寝台脇の卓上に置いて、シウリンはアデライードを抱き寄せ軽く唇を塞ぐ。
ナキアに近づくにつれて、アデライードの緊張が高まっていくのを、シウリンは否応なく感じ取っていた。レイノークス領の時もそうだったが、そちらはまだしも、幸福な記憶の残る故郷だった。ナキアには嫌な思い出しかないのかもしれない。
「……この部屋に入ったのは、アライア女王とのお別れの時だけです」
アデライードがポツリと言う。アライア女王の危篤が伝えられ、ユウラとレイノークス辺境伯ユーシス夫妻、アデライード、そしてユリウスは、慌ててレイノークス領からナキアに駆けつけたけれど、死に目には間に合わなかった。だが柩に収める前のアライア女王の遺体とは対面できた。幼かったアデライードの記憶は、ずいぶん曖昧だ。数度会っただけの、母の姉だという人が亡くなり、おそらくはその娘である従姉の姫が女王になるはずだった。その即位式を見届けたら、すぐに領地に帰る。――それだけのつもりだった。
幼いアデライードはユリウスに守られるように、王城の一角に滞在していたが、その日々はあまり楽しいものではなかった。
狭い場所に閉じこめられたのも、レイノークス領でのびのび育ったアデライードには苦痛だった。異母兄のユリウスはアデライードを精一杯可愛がってくれるけれど、一番仲のよかった異母弟のマルクスとも遊びたい。他の異母姉たちともお喋りしたい。とにかくレイノークス城に帰りたい。無聊を慰めるために、王城を出入りする、ナキア周辺の貴族の少女たちとのお茶会が設定されたけれど、言葉の端々に地方への偏見が滲んでいて、田舎の素朴な暮らしに慣れたアデライードはなじめなかった。少女たちの着るゴテゴテした長衣は遊ぶには邪魔そうで、アデライードには全く魅力的には見えなかった。――だって、お母様もお父様も、すっきりした衣服を着ているけれど、誰よりもお美しい。飾り立てた衣装を着たところで、中身が綺麗になるわけではないのに――。
どうにも我慢の限界が来たころに告げられた、母の女王戴冠の話。父の急死、そして――。
悪夢のようなあの日。雪崩れ込んできたギュスターブたちが母ユウラを監禁し、アデライードもユリウスもユウラから遠ざけられてしまう。数日後、束の間再会した母は、見る影もなく窶れていた。母はアデライードに神器の指輪を渡し、とにかく王城を出ろと言う。
馬車の窓から遠ざかる王城を覗いて、せいせいした気分だった。お母様もお兄様も、すぐに追いつくから――そう、乳母に言われた言葉を疑いもせず、カンダハルから船に乗り、海を渡る。海の向こうに、あんな孤独が待ち受けているなんて、想像もせずに――。
アデライードはぎゅっと、シウリンの鍛えた胸に顔を押し付けて抱き着く。目の前で、あの日母から手渡された神器の指輪が揺れる。聖地の森でこれをシウリンに渡した時は、母にもすぐに逢えると信じていた。ただ、ほんの一時、彼に預かってもらうだけのつもりだった。
シウリンの力強い腕がアデライードの身体に回されて、抱きしめられる。瞬間、息が詰まるけれど、その苦しさにアデライードはようやく安心する。
――怖い。
十年ぶりのナキアの王城。
隣にこの人がいなければ。この人の熱い腕のぬくもりがなければ、到底、その場に立っていられなかった。白鳥城と呼ばれる王城の優雅な姿は、アデライードになんの安らぎももたらさない。馬車から降り立った時の、周囲の視線。出迎えた貴族たちの値踏みするような、そして微かな失望の気配。優雅ににこやかに、女王らしく自信満々に振る舞うなんて、できるはずがない。なぜならアデライードにとって、ナキアの貴族たちは父を殺し、虐待される母を見殺しにした、イフリートの手先でしかないからだ。聖地の修道院に閉じこめられたアデライードにも、そしてギュスターブの手の内に監禁されたユウラ女王にも、誰一人として救いの手を差し伸べなかったではないか。
十年を経て、帝国の強大な軍に守られ、〈狂王〉と渾名される夫の庇護のもとに、アデライードはようやく、ナキアに帰ることができた。そう、ここはアデライードにとって、敵地に等しい。
アデライードは夫に操られる傀儡のように、一声も発しなかった。その姿を見て、帝国に囚われた無力な女王と、アデライードを侮る気配が元老院に満ちていた。あの壇上にポツンと置かれた椅子、一人ならば到底、座ることなんてできないと思われた孤独な玉座。シウリンの膝の上に抱き込まれたからこそ、アデライードは上から議場を見下ろすことができた。そうでなければあの場で倒れたかもしれない。微かに震えるアデライードの身体を、シウリンが大きな手で宥めるように撫でてくれた。
心配はいらない。ただ、生きてこの場にあればいい。――ただ、あなたは私だけのものだから。
そう、言われたような気がして、アデライードはそれから、夢見心地で女王即位の宣誓だけを辛うじてこなした。
ああ、わたしにはこの人だけなのだ。
豪華な寝台の絹の褥の上で、アデライードはさらに夫の胸に顔を寄せる。このままずっと身体を寄せ合って、隙間なくピッタリとくっついて、互いの肌さえなくなるほど、一つになれればいいのに。
「アデライード……?」
妻の抱く不安を感じ取ったのか、シウリンが呼びかける。
「……しない、の?」
リリアとアンジェリカが淹れてくれた薬草茶を飲み終えて、アデライードはまだ寝酒の馬鈴薯酒を嗜んでいる夫の側にごそごそと寄っていく。女王の寝台は四本柱の彫刻も豪華で、高い格天井の装飾は花々や天使の華麗な絵画で埋め尽くされ、慌てて取り換えたらしい真新しい天蓋布の襞も重厚で、何となく落ち着かない。
一方の夫は、普段どおりの東方風の絹の夜着を緩く着て、大きく開いた襟もとから金鎖に通した神器の指輪を覗かせ、優しく微笑むとアデライードを抱き寄せた。
「今日は大変だったな……体調は、どうだ?」
「ん……少し、疲れた、けど……」
飲み干したショットグラスを寝台脇の卓上に置いて、シウリンはアデライードを抱き寄せ軽く唇を塞ぐ。
ナキアに近づくにつれて、アデライードの緊張が高まっていくのを、シウリンは否応なく感じ取っていた。レイノークス領の時もそうだったが、そちらはまだしも、幸福な記憶の残る故郷だった。ナキアには嫌な思い出しかないのかもしれない。
「……この部屋に入ったのは、アライア女王とのお別れの時だけです」
アデライードがポツリと言う。アライア女王の危篤が伝えられ、ユウラとレイノークス辺境伯ユーシス夫妻、アデライード、そしてユリウスは、慌ててレイノークス領からナキアに駆けつけたけれど、死に目には間に合わなかった。だが柩に収める前のアライア女王の遺体とは対面できた。幼かったアデライードの記憶は、ずいぶん曖昧だ。数度会っただけの、母の姉だという人が亡くなり、おそらくはその娘である従姉の姫が女王になるはずだった。その即位式を見届けたら、すぐに領地に帰る。――それだけのつもりだった。
幼いアデライードはユリウスに守られるように、王城の一角に滞在していたが、その日々はあまり楽しいものではなかった。
狭い場所に閉じこめられたのも、レイノークス領でのびのび育ったアデライードには苦痛だった。異母兄のユリウスはアデライードを精一杯可愛がってくれるけれど、一番仲のよかった異母弟のマルクスとも遊びたい。他の異母姉たちともお喋りしたい。とにかくレイノークス城に帰りたい。無聊を慰めるために、王城を出入りする、ナキア周辺の貴族の少女たちとのお茶会が設定されたけれど、言葉の端々に地方への偏見が滲んでいて、田舎の素朴な暮らしに慣れたアデライードはなじめなかった。少女たちの着るゴテゴテした長衣は遊ぶには邪魔そうで、アデライードには全く魅力的には見えなかった。――だって、お母様もお父様も、すっきりした衣服を着ているけれど、誰よりもお美しい。飾り立てた衣装を着たところで、中身が綺麗になるわけではないのに――。
どうにも我慢の限界が来たころに告げられた、母の女王戴冠の話。父の急死、そして――。
悪夢のようなあの日。雪崩れ込んできたギュスターブたちが母ユウラを監禁し、アデライードもユリウスもユウラから遠ざけられてしまう。数日後、束の間再会した母は、見る影もなく窶れていた。母はアデライードに神器の指輪を渡し、とにかく王城を出ろと言う。
馬車の窓から遠ざかる王城を覗いて、せいせいした気分だった。お母様もお兄様も、すぐに追いつくから――そう、乳母に言われた言葉を疑いもせず、カンダハルから船に乗り、海を渡る。海の向こうに、あんな孤独が待ち受けているなんて、想像もせずに――。
アデライードはぎゅっと、シウリンの鍛えた胸に顔を押し付けて抱き着く。目の前で、あの日母から手渡された神器の指輪が揺れる。聖地の森でこれをシウリンに渡した時は、母にもすぐに逢えると信じていた。ただ、ほんの一時、彼に預かってもらうだけのつもりだった。
シウリンの力強い腕がアデライードの身体に回されて、抱きしめられる。瞬間、息が詰まるけれど、その苦しさにアデライードはようやく安心する。
――怖い。
十年ぶりのナキアの王城。
隣にこの人がいなければ。この人の熱い腕のぬくもりがなければ、到底、その場に立っていられなかった。白鳥城と呼ばれる王城の優雅な姿は、アデライードになんの安らぎももたらさない。馬車から降り立った時の、周囲の視線。出迎えた貴族たちの値踏みするような、そして微かな失望の気配。優雅ににこやかに、女王らしく自信満々に振る舞うなんて、できるはずがない。なぜならアデライードにとって、ナキアの貴族たちは父を殺し、虐待される母を見殺しにした、イフリートの手先でしかないからだ。聖地の修道院に閉じこめられたアデライードにも、そしてギュスターブの手の内に監禁されたユウラ女王にも、誰一人として救いの手を差し伸べなかったではないか。
十年を経て、帝国の強大な軍に守られ、〈狂王〉と渾名される夫の庇護のもとに、アデライードはようやく、ナキアに帰ることができた。そう、ここはアデライードにとって、敵地に等しい。
アデライードは夫に操られる傀儡のように、一声も発しなかった。その姿を見て、帝国に囚われた無力な女王と、アデライードを侮る気配が元老院に満ちていた。あの壇上にポツンと置かれた椅子、一人ならば到底、座ることなんてできないと思われた孤独な玉座。シウリンの膝の上に抱き込まれたからこそ、アデライードは上から議場を見下ろすことができた。そうでなければあの場で倒れたかもしれない。微かに震えるアデライードの身体を、シウリンが大きな手で宥めるように撫でてくれた。
心配はいらない。ただ、生きてこの場にあればいい。――ただ、あなたは私だけのものだから。
そう、言われたような気がして、アデライードはそれから、夢見心地で女王即位の宣誓だけを辛うじてこなした。
ああ、わたしにはこの人だけなのだ。
豪華な寝台の絹の褥の上で、アデライードはさらに夫の胸に顔を寄せる。このままずっと身体を寄せ合って、隙間なくピッタリとくっついて、互いの肌さえなくなるほど、一つになれればいいのに。
「アデライード……?」
妻の抱く不安を感じ取ったのか、シウリンが呼びかける。
「……しない、の?」
12
あなたにおすすめの小説
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです
きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」
5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。
その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?
〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】毒を飲めと言われたので飲みました。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃シャリゼは、稀代の毒婦、と呼ばれている。
国中から批判された嫌われ者の王妃が、やっと処刑された。
悪は倒れ、国には平和が戻る……はずだった。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる