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参、幽囚深宮
一、
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早朝の京師の街を、馬車は走り続ける。
宮中に向かうのなら、以前は朱雀大街を北上した。だが、徐公公の指示した道はそれとは違っていた。
待賢坊にある魏王府から、外郭城沿いの道を北上していく。
遠くに異国の教えの寺院の塔が見え、城の外れだと気づいた時、馬車は右に曲がった。皇城からではなく、皇帝の住まいである宮城の、それも西側にある掖庭宮に直接乗り付ける予定なのであろう。
宮殿の白い漆喰の塀が正面に見えてくる。紫玲の不安だけがどんどん昂じて、心臓が締め付けられる。
襦裙の上から割れた鏡を押さえ、紫玲が祈る。
――伯祥さまは今頃、どうしているのかしら――
紫玲が目を閉じて祈っているうちに、馬車が止まった。隣に座っていた徐公公が垂れ幕を掲げ、前からひらりと降りる。
そして中を覗き込み、言った。
「輿の支度を命じて参ります。しばし、お待ちください」
一瞬、四角く切り取られた窓がすぐに閉じられ、紫玲は薄暗い馬車に一人、取り残される。
――このまま逃げてしまいたい。
そんな衝動に耐えて、紫玲は一人、長いこと待たされた。永遠にも思える長い時が過ぎて――実際には、たいした時間ではなかったのだが――ようやく、徐公公が戻ってきた。
「お待たせいたしました。どうぞ、お手を」
垂れ幕から覗く徐公公の顔は表情が読めない。大きな手を差し出され、紫玲は一瞬、躊躇する。だがゴクリと唾を飲み込み、彼の手を取って馬車を下りた。
目のまえの門は、清明節の時に通った宮城の正門である朱明門よりはうんと小さい。それでも高い塀と大きな門扉は十分な威圧感があった。門の前に、小さな四角い一人乗りの椅子輿があり、担ぎ手が四人、膝をついている。
徐公公に導かれるまま、紫玲は輿に乗り込む。前垂れを下げてしまえば、内部は見えない。
ゆらゆらと揺れるように輿が担がれ、滑るように動き始める。
分厚い版築の塀の中をくぐるとき、空気がひやりと冷たくなるのを感じる。
紫玲は今、宮中と市井を隔てる巨大な門を潜りぬけている。ひとたびあの門をくぐったら、容易に出ることはできないだろう――
紫玲は唇を噛み締め、両手で懐の鏡を押さえる。
すっと周囲の明るさが戻り、門を抜けたとわかる。
ザッザッと規則正しい担ぎ手の足音だけを聞きながら、紫玲はただ、夫の無事を祈っていた。
輿は迷路を進むように何度も向きを変え、紫玲が行先を考えるのを諦めたころ、ようやく担ぎ手が歩みを止めた。ゆっくりと降ろされ、前の垂れ幕が開かれる。
回廊に囲まれた、小さな石畳みの院子だった。
今回も徐公公が手を差し伸べる。紫玲は一瞬、彼を見てからその手を取り、輿から降りる。
周囲を見回せば、背後には小さな門があり、その奥には丹塗りの壁が見えた。院子には松と樟が植えられ、石灯籠が二つ、左右対称に並ぶ。
「……ここは?」
「掖庭宮の一角、承仁宮でございます」
つまり、皇帝の妃嬪たちが住む、いわゆる後宮の一部。
徐公公が、紫玲を促した。
「さ、奥に参りましょう」
紫玲はゴクリと唾をのんで、大きく息を吐く。
逆らうことなどできそうもない。これから自分はどうなるのか、伯祥に再び会うことはできるのか。それに――
紫玲はまだ、まったく膨らまない腹に手を当てる。
――確かめたわけではないが、ここには伯祥さまの子が――
この子がいる以上、紫玲には自ら命を絶つ選択はない。
何があっても生きる。伯祥と、我が子のために――
覚悟を決めると、紫玲は徐公公の後について歩き始める。丹塗りの柱が並び、鴨居の彫刻には華やかな彩色が施されている。赤い柱と緑の欄干。坪庭の樹々も手入れが行き届き、小さな池が作られて、トプンと魚の跳ねる水音がする。回廊を曲がり、別の建物へと足を踏み入れれば、薄暗い廊下が続く。
――まるで、先の見えない迷路のよう。まるでわたしの未来だわ。
この先に待っているのは、地獄か、それとも――
紫玲が導かれたのは奥の堂、磚敷きの堂であった。
赤い丹塗りの柱が二本、中央に聳え、漆喰の壁には華麗な山水画が描かれている。
中央には大きな紫檀の長椅子。猫脚で、背面と肘掛には精緻な透かし彫りが施され、紫色の絹の席には五彩の飾り緒が垂れている。
部屋の設えも華麗で、天仙が舞う姿を象嵌された屏風、螺鈿の小卓、金の須弥山を模した香炉からは、馥郁とした香の煙が上がっている。
「そちらに」
正面の長椅子を薦められ、だがそこは主人の座だろうと思い、紫玲が首を振る。
「わたしに相応しい席とは思えません」
「こちらは、これから先、あなたさまの部屋となる予定です。遠慮は不要です」
「わたしは……」
後宮に住むつもりなどないのに、勝手に決められていく。
だが、早朝からの騒ぎに、紫玲は疲労の限界でもあった。
「お座りください。――朝から、何も食べていらっしゃらない。それでは……」
徐公公がすいっと進み出て紫玲の手を取り、自然な動作で長椅子に腰を下ろさせる。そうし自分は紫玲の膝の前に膝をつき、耳元で声を潜めた。
「それでは、お腹のお子に障ります」
その言葉に紫玲の息が止まる。一気に血の気が引き、手足の先から冷たくなっていく。
――どうして、それを!
驚愕の眼差しを徐公公に向ければ、彼はふっと目を眇める。
「ご安心を。奴才の当てずっぽうでございます。黙っていればわかりっこありません」
「徐公公……?」
「大丈夫です。約束します。奴才はあなたさまの味方です」
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
心臓の鼓動がうるさいほど高まり、紫玲はギュッと、胸に隠した鏡を握りしめる。
「大丈夫です……大丈夫です……」
徐公公が紫玲の耳元で何度も繰り返した。
徐公公が用意させた粥を一口か二口、ようやく喉に流し込んだ紫玲は、徐公公の差し出す薬草茶を飲んで、しばらくして急激な眠気に襲われる。
何か盛られた?――
この人を信じてはいけなかった? 敵――?
意識が朦朧として体を起こしていられなくなり、紫玲は寝椅子に倒れ込んで眠りに落ちる。
その様子を見届けて、徐公公は紫玲の頭の下に柔らかな枕を宛がい、羽毛の掛け布を被せる。
「お気の毒に――」
伏せた長い睫毛の先から零れ落ちた涙の雫を、そっと指先で拭い、しばし祈るように目を閉じる。
それから、何かを吹っ切るように顔を上げ、立ち上がると部屋を出て行った。
宮中に向かうのなら、以前は朱雀大街を北上した。だが、徐公公の指示した道はそれとは違っていた。
待賢坊にある魏王府から、外郭城沿いの道を北上していく。
遠くに異国の教えの寺院の塔が見え、城の外れだと気づいた時、馬車は右に曲がった。皇城からではなく、皇帝の住まいである宮城の、それも西側にある掖庭宮に直接乗り付ける予定なのであろう。
宮殿の白い漆喰の塀が正面に見えてくる。紫玲の不安だけがどんどん昂じて、心臓が締め付けられる。
襦裙の上から割れた鏡を押さえ、紫玲が祈る。
――伯祥さまは今頃、どうしているのかしら――
紫玲が目を閉じて祈っているうちに、馬車が止まった。隣に座っていた徐公公が垂れ幕を掲げ、前からひらりと降りる。
そして中を覗き込み、言った。
「輿の支度を命じて参ります。しばし、お待ちください」
一瞬、四角く切り取られた窓がすぐに閉じられ、紫玲は薄暗い馬車に一人、取り残される。
――このまま逃げてしまいたい。
そんな衝動に耐えて、紫玲は一人、長いこと待たされた。永遠にも思える長い時が過ぎて――実際には、たいした時間ではなかったのだが――ようやく、徐公公が戻ってきた。
「お待たせいたしました。どうぞ、お手を」
垂れ幕から覗く徐公公の顔は表情が読めない。大きな手を差し出され、紫玲は一瞬、躊躇する。だがゴクリと唾を飲み込み、彼の手を取って馬車を下りた。
目のまえの門は、清明節の時に通った宮城の正門である朱明門よりはうんと小さい。それでも高い塀と大きな門扉は十分な威圧感があった。門の前に、小さな四角い一人乗りの椅子輿があり、担ぎ手が四人、膝をついている。
徐公公に導かれるまま、紫玲は輿に乗り込む。前垂れを下げてしまえば、内部は見えない。
ゆらゆらと揺れるように輿が担がれ、滑るように動き始める。
分厚い版築の塀の中をくぐるとき、空気がひやりと冷たくなるのを感じる。
紫玲は今、宮中と市井を隔てる巨大な門を潜りぬけている。ひとたびあの門をくぐったら、容易に出ることはできないだろう――
紫玲は唇を噛み締め、両手で懐の鏡を押さえる。
すっと周囲の明るさが戻り、門を抜けたとわかる。
ザッザッと規則正しい担ぎ手の足音だけを聞きながら、紫玲はただ、夫の無事を祈っていた。
輿は迷路を進むように何度も向きを変え、紫玲が行先を考えるのを諦めたころ、ようやく担ぎ手が歩みを止めた。ゆっくりと降ろされ、前の垂れ幕が開かれる。
回廊に囲まれた、小さな石畳みの院子だった。
今回も徐公公が手を差し伸べる。紫玲は一瞬、彼を見てからその手を取り、輿から降りる。
周囲を見回せば、背後には小さな門があり、その奥には丹塗りの壁が見えた。院子には松と樟が植えられ、石灯籠が二つ、左右対称に並ぶ。
「……ここは?」
「掖庭宮の一角、承仁宮でございます」
つまり、皇帝の妃嬪たちが住む、いわゆる後宮の一部。
徐公公が、紫玲を促した。
「さ、奥に参りましょう」
紫玲はゴクリと唾をのんで、大きく息を吐く。
逆らうことなどできそうもない。これから自分はどうなるのか、伯祥に再び会うことはできるのか。それに――
紫玲はまだ、まったく膨らまない腹に手を当てる。
――確かめたわけではないが、ここには伯祥さまの子が――
この子がいる以上、紫玲には自ら命を絶つ選択はない。
何があっても生きる。伯祥と、我が子のために――
覚悟を決めると、紫玲は徐公公の後について歩き始める。丹塗りの柱が並び、鴨居の彫刻には華やかな彩色が施されている。赤い柱と緑の欄干。坪庭の樹々も手入れが行き届き、小さな池が作られて、トプンと魚の跳ねる水音がする。回廊を曲がり、別の建物へと足を踏み入れれば、薄暗い廊下が続く。
――まるで、先の見えない迷路のよう。まるでわたしの未来だわ。
この先に待っているのは、地獄か、それとも――
紫玲が導かれたのは奥の堂、磚敷きの堂であった。
赤い丹塗りの柱が二本、中央に聳え、漆喰の壁には華麗な山水画が描かれている。
中央には大きな紫檀の長椅子。猫脚で、背面と肘掛には精緻な透かし彫りが施され、紫色の絹の席には五彩の飾り緒が垂れている。
部屋の設えも華麗で、天仙が舞う姿を象嵌された屏風、螺鈿の小卓、金の須弥山を模した香炉からは、馥郁とした香の煙が上がっている。
「そちらに」
正面の長椅子を薦められ、だがそこは主人の座だろうと思い、紫玲が首を振る。
「わたしに相応しい席とは思えません」
「こちらは、これから先、あなたさまの部屋となる予定です。遠慮は不要です」
「わたしは……」
後宮に住むつもりなどないのに、勝手に決められていく。
だが、早朝からの騒ぎに、紫玲は疲労の限界でもあった。
「お座りください。――朝から、何も食べていらっしゃらない。それでは……」
徐公公がすいっと進み出て紫玲の手を取り、自然な動作で長椅子に腰を下ろさせる。そうし自分は紫玲の膝の前に膝をつき、耳元で声を潜めた。
「それでは、お腹のお子に障ります」
その言葉に紫玲の息が止まる。一気に血の気が引き、手足の先から冷たくなっていく。
――どうして、それを!
驚愕の眼差しを徐公公に向ければ、彼はふっと目を眇める。
「ご安心を。奴才の当てずっぽうでございます。黙っていればわかりっこありません」
「徐公公……?」
「大丈夫です。約束します。奴才はあなたさまの味方です」
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
心臓の鼓動がうるさいほど高まり、紫玲はギュッと、胸に隠した鏡を握りしめる。
「大丈夫です……大丈夫です……」
徐公公が紫玲の耳元で何度も繰り返した。
徐公公が用意させた粥を一口か二口、ようやく喉に流し込んだ紫玲は、徐公公の差し出す薬草茶を飲んで、しばらくして急激な眠気に襲われる。
何か盛られた?――
この人を信じてはいけなかった? 敵――?
意識が朦朧として体を起こしていられなくなり、紫玲は寝椅子に倒れ込んで眠りに落ちる。
その様子を見届けて、徐公公は紫玲の頭の下に柔らかな枕を宛がい、羽毛の掛け布を被せる。
「お気の毒に――」
伏せた長い睫毛の先から零れ落ちた涙の雫を、そっと指先で拭い、しばし祈るように目を閉じる。
それから、何かを吹っ切るように顔を上げ、立ち上がると部屋を出て行った。
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