破鏡悲歌~傾国の寵姫は復讐の棘を孕む

無憂

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参、幽囚深宮

二、

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 紫玲が目を覚ました時、周囲はすっかり夜になっていた。      

 慌てて飛び起きると、肩から羽毛の掛け布が滑り落ちる。一瞬、自分の今いる場所がわからず混乱する。
 長椅子のすぐ横に燈篭が吊り下げられている以外は明かりがなく、室内は薄ぼんやりとしていた。

 紫玲は周囲を見回し、姿勢を正して座り直す。燈篭の明かりに照らされた自身の影が壁に映り、大きく蠢いた。
 ようやく、朝方のできごとを思い出す。

「ああ、そうか、後宮だわ――」

 朝の騒ぎが遠い夢のよう。すべてがいっそ夢ならば――
 深く眠ったことで頭はすっきりしていたが、なおさら不安と恐怖だけが育っていく。

「無事なのかしら――」

 自分の声がかえって不安を煽る気がして、紫玲は口を閉ざした。  

 ――伯祥さま。

 懐に隠した鏡の存在を確かめる。これが、伯祥の命のような気さえしていた。
 その時、室外からざわざわと廊下をやってくる数人の足音が聞こえ、紫玲が身を固くする。
 部屋の木の扉が開き、徐公公が入ってきて紫玲と目が合う。

「お目覚めでございましたか。ちょうど、よかった」

 続いて長い柄のついた燈篭を掲げた童女が四人。髪を二つに分け、耳のところで輪にした総角あげまきに結っている。彼女たちが部屋の壁沿いにそれぞれ立ったことで、室内は急に明るくなった。

 その後ろから大きな楕円の団扇を持った宦官が二人。団扇を交差させて背後の人物を隠している。

サン!」

 徐公公が鋭く叫べば、交差させた団扇がバッと左右に開き、黄色い龍袍を着た人物が現れた。

皇上到ホワンシャンタオ!」

 徐公公が甲高い独特の抑揚で叫ぶと、手振りで紫玲に立ち上がるように合図した。
 反射的に紫玲は立ち上がり、右腰に両手を当て膝を折る。

「よい、楽にせよ」

 皇帝は堂々とした足取りで紫玲の前を通りすぎ、龍袍の後ろの垂れをピンと張ってから長椅子に座る。楽にせよ、と言われたからと言ってくつろげるわけはないので、紫玲はそのままの姿勢で頭を下げていた。

平身なおれ。堅苦しい礼は不要じゃ。こちらへ参れ」

 すでに皇帝は紫玲のすぐそばにいる。これ以上近づくのは無理だと思い、紫玲がためらっていると、さらに手招きされる。

「もっと近う」

 仕方なく一歩進む。長椅子に座る皇帝の龍袍の膝に触れていまいそうだ。

「ほれ、遠慮するな」

 皇帝が紫玲の手首を掴み、グイッと引き寄せる。勢いのまま、紫玲はなんと皇帝の膝の上に乗ってしまった。あまりのことに悲鳴を上げそうになるが喉がひりついて声すら出ない。

「ひっ……」

 龍顔りゅうがんを直接見るのは不敬だ。しみついた礼法で紫玲は必死に顔を背け、皇帝の手から逃れようとする。

「お、お許しくださいッ……」

 だが、大きな手が紫玲の顎を掴み、グイッと正面を向かせられる。

 至近距離で紫玲を見つめてくる、壮年の男。――彫の深い整った顔に年輪を示す皺が刻まれ、それがむしろ男の威厳を高めている。顎髭を蓄えている以外は、驚くほど伯祥に似ていた。二十年後の伯祥と言われても信じてしまいそう。

 先日の宴の時、紫玲は礼法通り視線を落としていたから、皇帝の顔をはっきり見るのはこれが初めてだった。
 皇帝の大きな手が紫玲の顎を離さない。射るような視線に心臓と胃の腑がギュッと縮み上がり、ドクドクと音を立てる。

「あ……」
「やはり、美しい。……これほど美姫と知っていれば、みすみす伯祥の嫁になどせぬものを」

 冷たい声が胸に刺さる。紫玲はただ、ハクハクと息を吸った。

「は、伯祥さまは……」
「あれのことはもう忘れろ」

 皇帝はもう一つの手を紫玲の細腰に回し、膝の上でぐっと抱き寄せる。がっちり抱き込む腕は力強く、逃げることも叶わない。夫以外の男に抱きしめられて、紫玲は恐慌に陥っていた。

「お、お放しください! どうか……ッ」

 しかもこの男は皇帝とはいえ、要は夫の父親だ。紫玲が叩き込まれた倫理観では到底、許されない。人ののりを越える恐怖で身体がガタガタと震えているのに、男はそれに構うことなく、紫玲に顔を寄せきた。思わずギュッと目を閉じた紫玲は、顎髭が頬に触れる感覚に息を止めた。次の瞬間、唇が塞がれる。

「!!」

 頭が真っ白になり、身体が硬直する。熱い舌が唇を叩き、強引に分け入ってくる。

 ――嫌! 

 本能的な恐怖と嫌悪感。突き飛ばしたいのに、この男の持つ威厳が、抵抗を許さなかった。
 ここは後宮で、皇帝はその主。唯一絶対の、神にも等しい権力者なのだ。  

 怖い。嫌。助けて――

 どこからも救いの手は伸ばされない。皇帝を咎める声すらかからない。燈篭持ちの童女四人と、団扇持ちの宦官二人。そのほかにもおそらくは何人か。そして、徐公公――

 誰も、助けてはくれない。衆人環視の場で唇を貪られる屈辱感に、紫玲の目から涙が溢れ、流れ落ちていく。
 ずいぶん長い間、皇帝は紫玲の唇を堪能して、ようやく顔を離し、満足そうにため息を零す。

「そなたの唇はことに美味じゃ」 
「あ……お願いです、許して……」

 涙ながらに慈悲を請えば、皇帝が意地悪く言った。

「何の許しを請うておる。唇に免じて聞いてやってもよい」
「伯祥、さまを――」    

 だが、夫の名を口にした紫玲に、わずかに目を眇める。

「あれの疑いはまだ、晴れておらぬ」

 紫玲は必死に首を振る。

「伯祥さまは無実です! どうか、わたしを伯祥さまのもとにお返しください!」
「ならぬ!」

 ぴしゃりと一言のもとに切り捨ててから、皇帝が宥めるような声を出す。

「だが、朕も男だ。寵姫に閨でねだられれば、聞かぬでもない」

 閨に侍れと言われて、紫玲の絶望が深くなる。それだけは――

「どうか、それだけはお許しください。……陛下は、わたしの夫の父……」      
「黙れ」

 ずしっと、腹の底に響くような声に、紫玲は声も出せなくなる。

「あやつは朕の命に背いた。そなたを差し出すくらいなら死ぬと。そなたが、あくまで朕を拒むならば、ともども殺す。そなたの、家族も道連れに」
「そんな……!」 

 あまりに理不尽な命令に、紫玲は愕然とする。そんな無道が許されるのか? 

「朕を誰だと思うておる。朕は天子であるぞ? この天下のことは、朕が望めばすべてが叶う。朕に逆らう者は死す。この世の生殺与奪は皆、朕の手中にある」

 皇帝の大きな手がねっとりと紫玲の背中を這っていく。顎を掴んでいた手が細い頸に伸び、ぐっと力籠めて掴まれる。

「そなたや、そなたの家族を殺すことなど、朕にとっては児戯にも等しい。……どうする? おとなしく朕のものになるか、あるいは、朕を拒んで家族とともに死ぬか? ――」

 ギリギリと首を絞められ、紫玲は苦しさで顔を歪める。死が、脳裏をかすめる。夫の父親に犯されるくらいなら、死んだ方がマシかもしれない。

 ――でも、わたし、お腹に、子供が……



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