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参、幽囚深宮
三、
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自分ひとりの命であるならば、夫への操を守り、命を捨てるのに迷いはなかった。
だが、紫玲が死ねば、胎の子も死ぬ。
「へ……へいか……」
「朕のものになるか?」
至近距離から覗き込む男の顔に、冷酷な笑みが浮かぶ。この世に自分を拒む女などいないと、知っている顔だ。
屈辱と嫌悪、そして夫を裏切る罪悪感。何もできない無力感――さまざまな感情が、紫玲の胸中で渦巻く。悔しさで涙が溢れ、目尻から流れ落ちた。
必死に頷けば、喉を絞めていた手が緩められ、紫玲はひゅうひゅうと激しい息をつく。その首筋に皇帝は顔を埋め、口づけを這わせる。顎髭が肌に触れ、熱い息がかかる。
「絹のような肌だ。……閨が楽しみじゃな」
背筋に悪寒が走り、紫玲がぶるりと身を震わせる。
「皇上。お湯の支度ができております」
徐公公が告げ、皇帝は渋々、紫玲の身体を離した。
「わかった。湯を賜え。今宵、我が閨に御す」
「仰せの通りに」
徐公公は力なくぐったりしている紫玲を皇帝の膝から抱きおろす。足に力が入らない紫玲を軽々と横抱きにすると、皇帝に背を向けず後ろ向きに下がっていく。
紫玲のうつろな目に、満足そうに見送る龍袍の男が映る。夫によく似た、夫の、父親。
――伯祥さま。わたし……どうすれば――
巨大な檜の桶に満々と湯がたたえられ、水面には白い花びらが浮いていた。
白い湯気とともに、花びらから甘ったるい匂いが浴室中に漂っている。
素裸にされた紫玲は湯舟に沈められ、無表情の侍女たちに身体を洗われる。白い肌の上をお湯の雫が粒になり、滑るように零れ落ちていくのを、自身が夢の中にいるような心持ちでただ見下ろしていた。
――夢なら、早く覚めてほしい。
すべて、夢ならば――
湯浴みを終えた紫玲は素裸のまま、浴室内の臥床に敷かれた白い大きな毛皮の上に横たえられる。全身くまなく香油を塗りこめられ、髪をねじって笄でまとめられる。強い甘い香りに酩酊して、もはや抵抗もできず、されるがままだ。
徐公公が入ってきて侍女たちを下がらせ、浴室に二人きりになる。
宦官とはいえ徐公公は背も高く、髭のない顔は美形である。普段の紫玲なら、一糸まとわぬ姿で相見えるなど羞恥に耐えなかったであろう。
朝から起きた衝撃的な出来事と、これから起こるであろうことへの絶望。そして、浴室に充満する白い花の香と香油の効能で、紫玲の思考は半ば混濁し、運命に抗う気力もすっかり折れていた。
徐公公の黒い瞳が、紫玲を見下ろしていた。
「こちら、お預かりしておきますね」
徐公公は手にした巾着を掲げて見せる。わずかに心が動いて紫玲が手を伸ばしたが、徐公公は首を振る。
「皇上の御寝に侍る際は、何も身に着けることは許されません」
徐公公が表情の読めない顔を近づけ、紫玲の耳元で囁いた。
「間違いなく、皇上の寵を賜りますように。お腹のお子を助けるには、それしか方法はございません」
少しだけ力の戻った紫玲の黒い瞳が、徐公公の目と合う。
「皇上はあまりに媚びた女はお好みでない。少しためらう風を見せ、皇上の抗いがたい魅力に堕ちたふりをなさいませ」
紫玲がゴクリと喉を動かすと、それを了承の合図と取ったのか、徐公公の口元がほんのわずかに緩む。そして、紫玲を毛皮で簀巻きのようにくるむと、ひょいと絨毯か何かのように肩に担ぎ上げてしまった。
「あ……」
つい、口から洩れた驚きの声に、徐公公が言った。
「これが、後宮の作法です。以後、慣れていただくしかありません」
数代前、閨に刃物を持ち込み、皇帝の命を狙った女がいた。以後、この仕来りができた。そんな説明をしながら徐公公は静かな歩調で廊下に出る。薄暗い回廊には、長い柄のついた燈篭を掲げた少年宦官が控えていた。
丹塗りの柱の並ぶ回廊を、白い毛皮に包まれ荷物のように運ばれて、紫玲は思う。
――きっとこれは、悪い夢。目が覚めたら、きっと、伯祥さまに――
うつつに、徐公公に預けた鏡の欠片のこと考えた。
――再会を約した鏡。破鏡はカササギに変じて夫の元に飛び去り、妻の裏切り告げたとか。
紫玲の鏡も、あるいはあの人にもとに――
その夜、紫玲は皇帝の寵幸を蒙った。
夫以外の男に抱かれる。
――そんな夜が来るなんて、想像すらしなかった。
もし、不幸にも伯祥に先立たれることがあったとしても、紫玲は再婚などせず、伯祥に操を捧げるつもりでいた。
妻の再婚は禁じられてはいないが、終生一人の夫に仕えるのが、貞潔の美徳とされる。
儒門の家に生まれた紫玲は、そう教えられて生きてきたのだ。
だが、この夜、紫玲は貞潔の誓いに背き、夫の父親に身を任せた。
裏切りと背徳の夜を、紫玲は生涯忘れまい――
だが、紫玲が死ねば、胎の子も死ぬ。
「へ……へいか……」
「朕のものになるか?」
至近距離から覗き込む男の顔に、冷酷な笑みが浮かぶ。この世に自分を拒む女などいないと、知っている顔だ。
屈辱と嫌悪、そして夫を裏切る罪悪感。何もできない無力感――さまざまな感情が、紫玲の胸中で渦巻く。悔しさで涙が溢れ、目尻から流れ落ちた。
必死に頷けば、喉を絞めていた手が緩められ、紫玲はひゅうひゅうと激しい息をつく。その首筋に皇帝は顔を埋め、口づけを這わせる。顎髭が肌に触れ、熱い息がかかる。
「絹のような肌だ。……閨が楽しみじゃな」
背筋に悪寒が走り、紫玲がぶるりと身を震わせる。
「皇上。お湯の支度ができております」
徐公公が告げ、皇帝は渋々、紫玲の身体を離した。
「わかった。湯を賜え。今宵、我が閨に御す」
「仰せの通りに」
徐公公は力なくぐったりしている紫玲を皇帝の膝から抱きおろす。足に力が入らない紫玲を軽々と横抱きにすると、皇帝に背を向けず後ろ向きに下がっていく。
紫玲のうつろな目に、満足そうに見送る龍袍の男が映る。夫によく似た、夫の、父親。
――伯祥さま。わたし……どうすれば――
巨大な檜の桶に満々と湯がたたえられ、水面には白い花びらが浮いていた。
白い湯気とともに、花びらから甘ったるい匂いが浴室中に漂っている。
素裸にされた紫玲は湯舟に沈められ、無表情の侍女たちに身体を洗われる。白い肌の上をお湯の雫が粒になり、滑るように零れ落ちていくのを、自身が夢の中にいるような心持ちでただ見下ろしていた。
――夢なら、早く覚めてほしい。
すべて、夢ならば――
湯浴みを終えた紫玲は素裸のまま、浴室内の臥床に敷かれた白い大きな毛皮の上に横たえられる。全身くまなく香油を塗りこめられ、髪をねじって笄でまとめられる。強い甘い香りに酩酊して、もはや抵抗もできず、されるがままだ。
徐公公が入ってきて侍女たちを下がらせ、浴室に二人きりになる。
宦官とはいえ徐公公は背も高く、髭のない顔は美形である。普段の紫玲なら、一糸まとわぬ姿で相見えるなど羞恥に耐えなかったであろう。
朝から起きた衝撃的な出来事と、これから起こるであろうことへの絶望。そして、浴室に充満する白い花の香と香油の効能で、紫玲の思考は半ば混濁し、運命に抗う気力もすっかり折れていた。
徐公公の黒い瞳が、紫玲を見下ろしていた。
「こちら、お預かりしておきますね」
徐公公は手にした巾着を掲げて見せる。わずかに心が動いて紫玲が手を伸ばしたが、徐公公は首を振る。
「皇上の御寝に侍る際は、何も身に着けることは許されません」
徐公公が表情の読めない顔を近づけ、紫玲の耳元で囁いた。
「間違いなく、皇上の寵を賜りますように。お腹のお子を助けるには、それしか方法はございません」
少しだけ力の戻った紫玲の黒い瞳が、徐公公の目と合う。
「皇上はあまりに媚びた女はお好みでない。少しためらう風を見せ、皇上の抗いがたい魅力に堕ちたふりをなさいませ」
紫玲がゴクリと喉を動かすと、それを了承の合図と取ったのか、徐公公の口元がほんのわずかに緩む。そして、紫玲を毛皮で簀巻きのようにくるむと、ひょいと絨毯か何かのように肩に担ぎ上げてしまった。
「あ……」
つい、口から洩れた驚きの声に、徐公公が言った。
「これが、後宮の作法です。以後、慣れていただくしかありません」
数代前、閨に刃物を持ち込み、皇帝の命を狙った女がいた。以後、この仕来りができた。そんな説明をしながら徐公公は静かな歩調で廊下に出る。薄暗い回廊には、長い柄のついた燈篭を掲げた少年宦官が控えていた。
丹塗りの柱の並ぶ回廊を、白い毛皮に包まれ荷物のように運ばれて、紫玲は思う。
――きっとこれは、悪い夢。目が覚めたら、きっと、伯祥さまに――
うつつに、徐公公に預けた鏡の欠片のこと考えた。
――再会を約した鏡。破鏡はカササギに変じて夫の元に飛び去り、妻の裏切り告げたとか。
紫玲の鏡も、あるいはあの人にもとに――
その夜、紫玲は皇帝の寵幸を蒙った。
夫以外の男に抱かれる。
――そんな夜が来るなんて、想像すらしなかった。
もし、不幸にも伯祥に先立たれることがあったとしても、紫玲は再婚などせず、伯祥に操を捧げるつもりでいた。
妻の再婚は禁じられてはいないが、終生一人の夫に仕えるのが、貞潔の美徳とされる。
儒門の家に生まれた紫玲は、そう教えられて生きてきたのだ。
だが、この夜、紫玲は貞潔の誓いに背き、夫の父親に身を任せた。
裏切りと背徳の夜を、紫玲は生涯忘れまい――
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