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伍、紫微炎上
二、
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「城門のすべてはわが軍が押さえました」
宮城の正門を落ちた様子を確認し、背の高い男二人が城壁の上から北――宮城を見下ろす。
ひとりは銀色に輝く明光鎧に銀の兜を被り、黒い斗篷を翻している。裏地の緋色が焔のようだ。
「後宮の一部から、火の手が上がっています。火を放ったものがいるな」
「後々、城が使えないと不便だ。燃え広がらないよう、消せ」
もう一人は、白い頭巾を目深にかぶっていて、斗篷には白い毛皮の縁取りがある。その下は軍装ではない普通の道袍。
風で頭巾がめくれ、長い黒髪が露わになる。上半分だけを小さな髷に結い、金色の小冠をつけている。その下の顔は秀麗だが、左目を黒い眼帯で覆っていた。眼帯では隠しきれない刀創が頬に伸びている。
すでに陽は落ちて、落日の残照が宮殿の瑠璃瓦の屋根を照らす。漂う煙と、ところどころに火の手が見える。
「張将軍は、皇宮は初めてか?」
「数年前に一度来た。あそこの――でかい殿舎の庭に並んで儀式をした。子供が皇帝になった時だ」
「ああ、その時か」
男が、眼帯をしていない片目を懐かしそうに眇める。
「あっけないものだな。もう少し骨があると思ったのに」
張将軍と呼ばれた鎧姿の男が逞しい肩を竦める。
「北稜節度使張敬源の精鋭の前に、皆、矛を降ろしたからな」
隻眼の男が低い声で笑うように、都城を守る皇帝直属軍、禁軍十二衛は、叛乱軍に寝返っていた。
「傾国の毒婦と蔡業らの乱脈政治に飽き飽きだっただけですよ。みな、あなたを待望していた。――隻眼の龍を」
張敬源の言葉に、隻眼の男は端麗な右半面を歪めた。
「その呼び方はやめてくれないか。私はただの、復讐鬼でしかない」
張敬源は男の左半面の黒い眼帯とその下の創を感慨深く眺める。
異母弟が寄越した刺客と乱闘になり、片目を失って創を負い、殺した刺客を自分に見せかけて邸第に火を放ち、身分を偽って逃亡した――創がなければ、そんな過去が信じられないくらい、穏やかで典雅な男である。
「張将軍! 密使です。――後宮から」
ひとりの兵が一目で宦官とわかる若い男を連れてきた。宦官はその場で膝をつく。
「徐公公からか?」
「はい」
宦官が差し出す手紙を隻眼の男がむしり取るようにして、中を改める。
「……幼帝と太后は奉霊殿にいるそうだ」
「奉霊殿?」
張敬源の問いに、隻眼の男が言った。
「歴代皇帝の神主を収めている。……おそらく死ぬつもりだ」
「……毒婦はそんなタマなのか?」
隻眼の男がギロリと右目だけで張敬源を睨んだ。
「太后蔡氏の父親は儒者だ。最初から毒婦だったわけではない。――少なくとも私の妻だった時は物堅い女だった」
男は、眼下に広がる瑠璃瓦の宮殿群をもう一度見下ろす。
比翼連理を誓った妻。だが彼女は父に奪われ、子を産み、皇太后として国政を壟断し、国を傾けた。
全土に満ちる民衆の怨嗟の声に耳を塞ぎ、国が乱れるままに放置した。
「攻撃準備は整ったようだ。殿下、ご命令を」
張敬源が言い、男は頷いて言った。
「徐公公が上手くやるはずだ。太后と幼帝は殺さずに確保しろ。乱戦の中で失うようなことがあれば、後々面倒なことになる」
「承知! あちこちから偽物が湧いて出られても面倒だからな」
将軍が手にした青い旗幟を振り、進軍の喇叭が響き、軍太鼓が勇壮に打ち鳴らされる。
城門が開かれ、兵が城内になだれ込む。すでに皇軍に戦意はなく、砂の城に水を放つように、脆く崩れていく。
「俺も出る。殿下はこちらで待っていてくれ」
「承知した」
黒い斗篷を翻して去っていく張敬源の後ろ姿を見送り、男は再び、一つしかない目を眼下の宮殿に向ける。
「……紫玲……私は帰ってきた。そなたのもとに――」
道袍の懐に手をやり、布でくるんだ堅いものに触れる。
かつての妻との約束の、破鏡。忘れようとしても忘れられなかった、最愛の女。
あの日、赤い面布の下から現れたあまりに美しい容も、素直でまっすぐに注がれた彼女の愛も、何もかも――
落日の陽に、瑠璃瓦が赤く染まっていく――
宮城の正門を落ちた様子を確認し、背の高い男二人が城壁の上から北――宮城を見下ろす。
ひとりは銀色に輝く明光鎧に銀の兜を被り、黒い斗篷を翻している。裏地の緋色が焔のようだ。
「後宮の一部から、火の手が上がっています。火を放ったものがいるな」
「後々、城が使えないと不便だ。燃え広がらないよう、消せ」
もう一人は、白い頭巾を目深にかぶっていて、斗篷には白い毛皮の縁取りがある。その下は軍装ではない普通の道袍。
風で頭巾がめくれ、長い黒髪が露わになる。上半分だけを小さな髷に結い、金色の小冠をつけている。その下の顔は秀麗だが、左目を黒い眼帯で覆っていた。眼帯では隠しきれない刀創が頬に伸びている。
すでに陽は落ちて、落日の残照が宮殿の瑠璃瓦の屋根を照らす。漂う煙と、ところどころに火の手が見える。
「張将軍は、皇宮は初めてか?」
「数年前に一度来た。あそこの――でかい殿舎の庭に並んで儀式をした。子供が皇帝になった時だ」
「ああ、その時か」
男が、眼帯をしていない片目を懐かしそうに眇める。
「あっけないものだな。もう少し骨があると思ったのに」
張将軍と呼ばれた鎧姿の男が逞しい肩を竦める。
「北稜節度使張敬源の精鋭の前に、皆、矛を降ろしたからな」
隻眼の男が低い声で笑うように、都城を守る皇帝直属軍、禁軍十二衛は、叛乱軍に寝返っていた。
「傾国の毒婦と蔡業らの乱脈政治に飽き飽きだっただけですよ。みな、あなたを待望していた。――隻眼の龍を」
張敬源の言葉に、隻眼の男は端麗な右半面を歪めた。
「その呼び方はやめてくれないか。私はただの、復讐鬼でしかない」
張敬源は男の左半面の黒い眼帯とその下の創を感慨深く眺める。
異母弟が寄越した刺客と乱闘になり、片目を失って創を負い、殺した刺客を自分に見せかけて邸第に火を放ち、身分を偽って逃亡した――創がなければ、そんな過去が信じられないくらい、穏やかで典雅な男である。
「張将軍! 密使です。――後宮から」
ひとりの兵が一目で宦官とわかる若い男を連れてきた。宦官はその場で膝をつく。
「徐公公からか?」
「はい」
宦官が差し出す手紙を隻眼の男がむしり取るようにして、中を改める。
「……幼帝と太后は奉霊殿にいるそうだ」
「奉霊殿?」
張敬源の問いに、隻眼の男が言った。
「歴代皇帝の神主を収めている。……おそらく死ぬつもりだ」
「……毒婦はそんなタマなのか?」
隻眼の男がギロリと右目だけで張敬源を睨んだ。
「太后蔡氏の父親は儒者だ。最初から毒婦だったわけではない。――少なくとも私の妻だった時は物堅い女だった」
男は、眼下に広がる瑠璃瓦の宮殿群をもう一度見下ろす。
比翼連理を誓った妻。だが彼女は父に奪われ、子を産み、皇太后として国政を壟断し、国を傾けた。
全土に満ちる民衆の怨嗟の声に耳を塞ぎ、国が乱れるままに放置した。
「攻撃準備は整ったようだ。殿下、ご命令を」
張敬源が言い、男は頷いて言った。
「徐公公が上手くやるはずだ。太后と幼帝は殺さずに確保しろ。乱戦の中で失うようなことがあれば、後々面倒なことになる」
「承知! あちこちから偽物が湧いて出られても面倒だからな」
将軍が手にした青い旗幟を振り、進軍の喇叭が響き、軍太鼓が勇壮に打ち鳴らされる。
城門が開かれ、兵が城内になだれ込む。すでに皇軍に戦意はなく、砂の城に水を放つように、脆く崩れていく。
「俺も出る。殿下はこちらで待っていてくれ」
「承知した」
黒い斗篷を翻して去っていく張敬源の後ろ姿を見送り、男は再び、一つしかない目を眼下の宮殿に向ける。
「……紫玲……私は帰ってきた。そなたのもとに――」
道袍の懐に手をやり、布でくるんだ堅いものに触れる。
かつての妻との約束の、破鏡。忘れようとしても忘れられなかった、最愛の女。
あの日、赤い面布の下から現れたあまりに美しい容も、素直でまっすぐに注がれた彼女の愛も、何もかも――
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