破鏡悲歌~傾国の寵姫は復讐の棘を孕む

無憂

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伍、紫微炎上

三、

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 目覚めた紫玲は、見覚えのある天蓋に目を瞬く。
 そこは、彼女のいつもの房室――承仁宮だった。

 (――夢?)

 後宮に火が放たれ、彼女は息子の偉祥を連れて奉霊殿に向かい、そこで、薬を――

 カタン、と音がして誰かが入ってくる。帳台の紗幕越しに目をやれば、いつもの、徐公公だった。

「お目覚めでしたか、娘娘」
「徐公公?」

 徐公公がそっと紗幕をめくり、普段通りに頭を下げる。

「ご気分はいかがですか。体調などでいつもと違うところはございませんね」

 ――すべてが、いつも通りに見える。だが、そんな――馬鹿な――     

 すん、と鼻を鳴らす。
 わずかに、自身の白絹の長衫が煙臭い気がした。

「偉祥は?」
「皇上は、麟徳殿に居られます」
「麟徳殿? すぐにこちらに――」
「それはなりません。この宮と麟徳殿は賊軍の監視下にございます」

 紫玲が、大きな目を見開いてじっと徐公公を見る。

「どういう、こと? そもそもわたしは――」

 徐公公が表情の読めない目で紫玲を見つめる。

「娘娘と皇上に飲ませたのは、眠り薬です。命に、別条はございません」
「な!!」

 紫玲は絶句した。
 昨日、紫玲は偉祥とともに毒を煽り、伯祥のもとに行くつもりだった。
 ――それで、すべてが終わるはずだったのに。

 はくはくと大きく息を吐いて、紫玲は徐公公を見る。

「お前、裏切ったの……?」   

 徐公公は少しだけ切なげに目を伏せた。

「まさか! 奴才は娘娘の下僕にございます。過去も、未来も――」
「ではなぜ!!」

 紫玲はハッとした。あの時、自分は鏡を握りしめていたはず。あれは、どこに?

「徐公公! 鏡は! 鏡はどこ?!」

 半狂乱になって徐公公に縋りつけば、徐公公が首を振った。

「大丈夫でございます。相応しいところに運んでございますれば」
「相応しい、ところ……?」

 鏡を奪われたことに、紫玲は絶望する。

「返して! あれは返して! それから偉祥は無事なの?」

 徐公公が紫玲の至近距離に顔を寄せ、囁く。

「娘娘、落ち着いてください。奴才はあなたさまを裏切ったりはしません。すべて、大丈夫なのです」
「嘘よ、嘘……どうして……!」

 すべての緊張の糸が切れ、紫玲が泣き崩れる。その背中を徐公公がそっと撫で続けていた。
 



 数刻の後、ようやく落ち着いた紫玲は徐公公よりある程度の事情を知らされた。
 賊軍により宮城は制圧された。徐公公ともう一人の宦官・薛宝は、皇太后蔡氏と皇帝をそれぞれ承仁宮と麟徳殿に運び、二人は現在、軟禁状態にある。

 自分は徐公公に裏切られたのか? 紫玲はただ愕然とし、いまだ混乱の中にあった。

「どうして……」
「奴才は、娘娘と主上が死ぬべきではないと考えておりました。お二人が死ねば皇統が絶え、全土は乱れます。お二人が生きていれば、速やかに権力を移譲し、混乱を最小限に抑えることができる」
「そんな!」

 紫玲は頭を抱える。母子で伯祥のもとに行くつもりだったのに。

「せめて偉祥の側にいさせて!」
「そうしたら、もう一度死を望まれましょう。離れていれば、たやすく死ぬことはできない」

 徐公公の言葉に、紫玲は首を振る。

「偉祥は安全なの? まさかひどい目に……」
「大丈夫です。奴才が保証いたします」
「なぜ、お前は賊軍をそんなに信じられるの? まさかもともと通じて……?」

 徐公公が微かに眉尻を下げた。

「通じていると言われれば、その通りでございますね。奴才は、この宮殿に真実相応しい主の帰還を待っておりましたので」
「相応しい……主……?」

 なんのことかわからず、紫玲は眉を顰める。

 叛乱を起こしたのは北方、雲州の北稜節度使、張敬源。彼は主と仰ぐ「隻眼の龍」を奉じ兵を挙げた。
 「隻眼の龍」なる人物が何者なのか、従兄の蔡業らがあれこれと報告していたが、興味がなくてほとんど聞いていなかった。正体などどうでもいいと思っていたからだ。

「後宮には賊軍が踏み込んだのでしょう? 残っていた者たちの安全は――」
「統制は取れており、後宮から、軍は排除されております。明日にも、皇上を中心に新しい体制が敷かれ、政務を刷新するはずです」

 徐公公の言葉に、紫玲は首を傾げる。

「節度使の張某が即位するのではないの?」
「そんな大それたことはいたしませんよ」
「傾国の毒婦を除きに来たのでしょう?」

 徐公公が薄く笑った。

「娘娘と主上は国権の枢要です。これを抑えなければ権力を得られない」

 紫玲は顔を覆った。

「わたしは――偉祥をそんな目に遭わせたくなかったのに!」
「だから、伯祥殿下のもとに行こうと思われた。ですが――」

 徐公公が紫玲の足元に膝をつき、囁く。

「黄泉に、伯祥殿下はいらっしゃいません。伯祥殿下はここにいらっしゃる。――戻ってこられたのです」

 その言葉に、紫玲は息を呑んだ。

「伯祥さまが、生きている……?」 
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