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伍、紫微炎上
四、
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火災を免れた太極殿には叛乱軍の中枢が置かれていた。
叛乱を起こしたのは北辺の藩鎮、北稜節度使・張敬源の軍である。
張敬源が主と仰ぐ、片目を黒い眼帯で覆った「隻眼の龍」と呼ばれる人物の正体は謎に包まれていたが、張敬源らは「殿下」と呼んで崇めていた。具体的な軍の指揮は張敬源が行うが、全体の作戦立案はその男の指示による。
長く伏せられていた「隻眼の龍」の正体だが、京師を落とし、皇城を制圧した現在、叛乱軍は彼が何者であるか、正体を明かした。
先帝の皇長子にしてもとの魏王、姚伯祥その人であると。
十年前、火事で死亡したとされる魏王・伯祥が生きていた。その事実に京師は驚愕する。
左目から頬にかけて大きな刀創があったが、右半面の端麗さはかつてのままであった。
冤罪をかけられ刺客に襲われた彼は、返り討ちにした刺客の死体を自分に見せかけ、起死回生をかけて姿を隠していたのだ。
皇宮を制圧した伯祥は命令を下した。
――幼帝・偉祥と皇太后蔡氏を確保せよ。
彼こそ、先帝の晩年を狂わせた傾国の毒婦・皇太后蔡氏の元の夫である。
その事実に気づいた者たちは、その後の成り行きを固唾を飲んで見守った。
ほどなくして、奉霊殿にいた皇太后と幼帝の身柄を確保したとの報せが入る。
幼帝は内廷の麟徳殿に、皇太后は掖庭宮内の承仁宮にそれぞれ収監される。
宰相以下の主だった官僚は逮捕し、恭順を誓う者も厳しい監視下に置かれた。
幼帝を廃位して伯祥が帝位に即くのだろうと、誰もが考えていた。
甲冑に身を包んだ張敬源が、足早に階を上っていく。殿庭に焚かれた篝火の明かりが、銀色の明光鎧を赤く染める。背中の斗篷が風を孕み、翻る裏地の緋色が鮮やかであった。
張敬源は護衛と補佐官を従え、宮殿の奥へと向かう。太極殿の奥にある皇帝の書斎。木扉を乱暴に開けて中に踏み込んだ。
「殿下!」
さほど広くない室内は高官の集議が開かれる部屋で、中央には西方渡りの青い段通が敷かれ、周囲に肘掛椅子が並ぶ。最奥に大きな紫檀の卓。その前に入口に背を向けて、背の高い男が立っていた。黒い髪は上半分だけ結って金の小冠を被り、残りは背中を覆っている。
「殿下!」
もう一度呼びかけられ、男が振りかえる。秀麗な顔立ちだが左目は黒い眼帯が覆い、刀創が見える。露わになった右目は切れ長で、眼光は鋭い。
甲冑を着込んだ張敬源が、大股に近づきながら言った。
「外朝はすべて制圧しました。……蔡業は変装して城外へ逃げようとしたが、城門で捕らえました」
「そうか。ご苦労だった」
「蔡氏の邸では、蔡方直と林夫人を拘束した。あの家族は逆らう気はないようですが」
隻眼の男が凛々しい眉を寄せ、しばし天を仰いだ。
「……そうか。あの一家はむしろ、周囲から襲われないように保護してやれ」
「承知」
張敬源が兜を脱ぎ、小脇に抱える。
「さて、皇帝と皇太后はどうするおつもりで?」
「……」
男の目の前、卓上には割れた鏡が二つ、置かれていた。それはピッタリと合う。
「破鏡……」
覗き込んだ張敬源が胡乱げに首を傾げる。
隻眼の男――伯祥が詩を吟じた。
玉匣清光復たは持さず、菱花散亂して月輪虧けたり。
秦臺一たび照らす山鶏の後、便ち是れ孤鸞舞を罷めるの時。
「殿下、俺は田舎育ちの無骨者で、そういうのは苦手だ。解説してくれないか」
「破れた鏡は、夫婦が破綻した象徴だ」
硬い――やや掠れた声で言う伯祥に、張敬源が尋ねる。
「裏切った妻にまだ未練が?」
「未練? 未練ならある。未練があるから裏切りを許せなかったし、兵を挙げた」
「まさか取り戻すつもりで挙兵したのか?」
「そのまさかだよ」
殿下と呼ばれた男は鏡の欠片をくっつけ、一つの匣に入れた。
「これ……修理できるかな?」
「そんな壊れた鏡のことは、今、どうでもいいだろうが!」
イライラと詰め寄る張敬源に、伯祥が呟くように言った。
「徐公公が……」
伯祥は立っていられないとでもいうように、ふらふらと椅子に倒れ込み、大きな手で顔を覆った。
「徐公公と言うと、あの、太監か。皇太后付きの」
張敬源が椅子の前に移動してなおも問う。伯祥が、胃の腑から声を絞り出す。
「偉祥は、私の子だと……」
その言葉に、張将軍と呼ばれた男が目を剥いた。
「なんだって?」
叛乱を起こしたのは北辺の藩鎮、北稜節度使・張敬源の軍である。
張敬源が主と仰ぐ、片目を黒い眼帯で覆った「隻眼の龍」と呼ばれる人物の正体は謎に包まれていたが、張敬源らは「殿下」と呼んで崇めていた。具体的な軍の指揮は張敬源が行うが、全体の作戦立案はその男の指示による。
長く伏せられていた「隻眼の龍」の正体だが、京師を落とし、皇城を制圧した現在、叛乱軍は彼が何者であるか、正体を明かした。
先帝の皇長子にしてもとの魏王、姚伯祥その人であると。
十年前、火事で死亡したとされる魏王・伯祥が生きていた。その事実に京師は驚愕する。
左目から頬にかけて大きな刀創があったが、右半面の端麗さはかつてのままであった。
冤罪をかけられ刺客に襲われた彼は、返り討ちにした刺客の死体を自分に見せかけ、起死回生をかけて姿を隠していたのだ。
皇宮を制圧した伯祥は命令を下した。
――幼帝・偉祥と皇太后蔡氏を確保せよ。
彼こそ、先帝の晩年を狂わせた傾国の毒婦・皇太后蔡氏の元の夫である。
その事実に気づいた者たちは、その後の成り行きを固唾を飲んで見守った。
ほどなくして、奉霊殿にいた皇太后と幼帝の身柄を確保したとの報せが入る。
幼帝は内廷の麟徳殿に、皇太后は掖庭宮内の承仁宮にそれぞれ収監される。
宰相以下の主だった官僚は逮捕し、恭順を誓う者も厳しい監視下に置かれた。
幼帝を廃位して伯祥が帝位に即くのだろうと、誰もが考えていた。
甲冑に身を包んだ張敬源が、足早に階を上っていく。殿庭に焚かれた篝火の明かりが、銀色の明光鎧を赤く染める。背中の斗篷が風を孕み、翻る裏地の緋色が鮮やかであった。
張敬源は護衛と補佐官を従え、宮殿の奥へと向かう。太極殿の奥にある皇帝の書斎。木扉を乱暴に開けて中に踏み込んだ。
「殿下!」
さほど広くない室内は高官の集議が開かれる部屋で、中央には西方渡りの青い段通が敷かれ、周囲に肘掛椅子が並ぶ。最奥に大きな紫檀の卓。その前に入口に背を向けて、背の高い男が立っていた。黒い髪は上半分だけ結って金の小冠を被り、残りは背中を覆っている。
「殿下!」
もう一度呼びかけられ、男が振りかえる。秀麗な顔立ちだが左目は黒い眼帯が覆い、刀創が見える。露わになった右目は切れ長で、眼光は鋭い。
甲冑を着込んだ張敬源が、大股に近づきながら言った。
「外朝はすべて制圧しました。……蔡業は変装して城外へ逃げようとしたが、城門で捕らえました」
「そうか。ご苦労だった」
「蔡氏の邸では、蔡方直と林夫人を拘束した。あの家族は逆らう気はないようですが」
隻眼の男が凛々しい眉を寄せ、しばし天を仰いだ。
「……そうか。あの一家はむしろ、周囲から襲われないように保護してやれ」
「承知」
張敬源が兜を脱ぎ、小脇に抱える。
「さて、皇帝と皇太后はどうするおつもりで?」
「……」
男の目の前、卓上には割れた鏡が二つ、置かれていた。それはピッタリと合う。
「破鏡……」
覗き込んだ張敬源が胡乱げに首を傾げる。
隻眼の男――伯祥が詩を吟じた。
玉匣清光復たは持さず、菱花散亂して月輪虧けたり。
秦臺一たび照らす山鶏の後、便ち是れ孤鸞舞を罷めるの時。
「殿下、俺は田舎育ちの無骨者で、そういうのは苦手だ。解説してくれないか」
「破れた鏡は、夫婦が破綻した象徴だ」
硬い――やや掠れた声で言う伯祥に、張敬源が尋ねる。
「裏切った妻にまだ未練が?」
「未練? 未練ならある。未練があるから裏切りを許せなかったし、兵を挙げた」
「まさか取り戻すつもりで挙兵したのか?」
「そのまさかだよ」
殿下と呼ばれた男は鏡の欠片をくっつけ、一つの匣に入れた。
「これ……修理できるかな?」
「そんな壊れた鏡のことは、今、どうでもいいだろうが!」
イライラと詰め寄る張敬源に、伯祥が呟くように言った。
「徐公公が……」
伯祥は立っていられないとでもいうように、ふらふらと椅子に倒れ込み、大きな手で顔を覆った。
「徐公公と言うと、あの、太監か。皇太后付きの」
張敬源が椅子の前に移動してなおも問う。伯祥が、胃の腑から声を絞り出す。
「偉祥は、私の子だと……」
その言葉に、張将軍と呼ばれた男が目を剥いた。
「なんだって?」
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