破鏡悲歌~傾国の寵姫は復讐の棘を孕む

無憂

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伍、紫微炎上

一、

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 伯祥の死を知ったあの日から、紫玲はただ、彼の復讐のために生きてきた。
 夫を殺した男とその母を破滅させるために、夫の父親に抱かれ続けた。

 ――わたしを、皇帝の目に触れさせたのを後悔させてやる。

 今、紫玲は皇后へと冊立された。

 皇后の第一の礼服である褘衣きい。大きな袖の深衣は、深い藍色で全面に雀鳥の文様があり、中着では白地に赤い縁取りが施されている。玉佩と長い綬(印璽を結ぶ紐)を垂らし、やはり雀鳥紋の蔽膝(前掛け)。
 結い上げた黒髪には金色に輝く十二の花樹と花釵でできた宝冠を被る。
 古代の皇后の衣装を模した深衣を着るなんて、伯祥との婚礼以来だった。

 ――あれから、もう六年。

 皇后になりたいと思ったこともないが、伯祥の子である偉祥を即位させて、紫玲の復讐はようやく完成する。
 殿庭に並ぶ百官を見下ろし、紫玲は思う。

 ――あと少し。必ずやり遂げて見せる。

 百官の中に父と兄、そして長らく疎遠であった従兄の蔡業の姿を見つけ、微かに眉を寄せた。

 蔡業は博打ばくち過ぎの遊び人で、真面目に働かず、厄介事ばかり引き起こした。
 紫玲が入宮し、皇帝の寵姫となった後、しれっと蔡氏の門に擦り寄り、親族枠で出世を遂げていた。

 あの男が皇后の親族になったら、ロクでもないことを仕出かす未来しか見えなない。
 だが、その考えを紫玲は追い払った。

 ――どうでもいい。復讐のためならば、この国を亡ぼすことも厭わない。

 紫玲は視線を逸らし、背後に控える徐公公を見る。
 徐公公がいつもと変わらぬ美貌で微笑みかけ、頷いた。
 
 

 絶頂にあるかに見えた帝国の威光。
 だがそれは、黄昏の前の最後の輝きに過ぎなかった。
 
 息子の妻を奪い、糟糠そうこうの妻である皇后を廃して若い女を皇后に立て、まだ幼い末の皇子を後継ぎにする。
 歴史の中で幾度も繰り返されてきた、滅びの予兆。

 心のある者はみな、眉を顰め、国家衰亡の危機に怯えた。
 華やかな繁栄の陰で、さまざまな綻びが露呈し始める。 
 新たに皇后になった蔡氏の一族が要職に登用されたが、下級官吏だった彼らは政治に不慣れであり、にわかに得た権力を制御しきれない。よからぬ思惑の者たちが蛆のごとく集り、賄賂や不正が横行する。
 繁栄の極みにあった王朝は、一気に斜陽の坂を転がり落ちていく。
 後宮の奢靡しゃびは度を越し、税は上がる一方だった。折からの凶作に疫病が蔓延する。
 土地を維持できなくなった農民が流民となって耕地を放棄し、奢り崩れた辺境軍の弱体化を見て、異民族の侵入が頻繁になる。辺境防衛の費えが財政を圧迫し、元元たみくさはさらなる重税に喘いだ。
 都に、地方に、辺境に、人々の怨嗟の声が満ち、新たな世を待望する者もあらわれる。


 北の辺境に、隻眼せきがんの龍が現れた。
 噂が密かにめぐる。天命は移ろうのか、あるいは――
 

 暗雲が垂れ込める中で、皇帝がついにたおれた。
 強壮剤と偽り、わずかずつ毒を盛られて――

 何も知らずに紫玲の看病を受け、皇帝は最後の時を迎えた。
 天下のすべてをその手に握った男も、いまや病みやつれた老人となり果てている。

「……紫玲よ……朕は……そなたを……」
「陛下……」  

 皇帝の痩せた手を握りながら、紫玲が囁く。

「ずっと、憎んでおりました。……ようやく、くたばってくれると思うと、せいせい致します」
「紫玲……?」

 驚愕に目を見開く皇帝は突然、襲ってきた断末魔の苦しみに身体を硬直させる。

「う……あ……」
「陛下……」    

 皇帝の急変に近寄ってきた太医らに見せつけるように、紫玲は必死に呼びかける。

「陛下、しっかりなさって! 陛下ッ!」

 臨終の後に、半ば開いた口に翡翠でできた蝉を含ませる。来世への生まれ変わりを祈り。

 ――地獄に堕ちればいいのに。

「陛下……陛下……なんてこと……陛下……」

 う、う、と細い肩を震わせて、悲しみに身を捩る皇后の涙が偽りだと知るのは、徐公公ただ一人であった。 
  


 即日、幼い偉祥が即位する。わずか六歳の幼帝と、それを支える若い皇太后。
 皇太后の親族・蔡業が政治を壟断し、帝国は崩壊へ向かう。
 腐敗と不正義はますます広がり、民衆の絶望は深まるばかり。
 三年後、隻眼の龍を奉じ、辺境を守る一将軍が兵を挙げる。叛乱は野火のごとく燃え広がり、全土の大半が賊軍の手に落ちた。賊軍の足音がしだいに近づき、ついに、その青い旌旗が都の城壁を取り囲んだ。

 皇宮に賊軍が侵入を始めた日、紫玲はようやく、復讐の成就を確信した。

「お父様のところに参りましょう」

 幼い偉祥の手を引き、紫玲は後宮の最奥にある奉霊殿へと向かう。
 そこで、すべてを終わりにしよう。

 倬たる彼の雲漢、天に昭回す。
 王曰く於乎ああ、何のつみあるか今の人。 

 ――大いなるかの天の川が天に大きく横たわる。
   王は言った。「ああ、今の世の人に罪があるわけでないのに」

 天命は移り行く。この無道の国が亡ぶのは民のせいではないけれど、それでも、紫玲は許すことができなかった。


 何よりも自分自身を――
 

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