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第2話 冷たい微笑、最後のドレス
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ローレンス侯爵邸の応接間は、朝日が差し込んで柔らかい光に包まれていた。その美しい光景の中でも、空気はどこか重く、緊張が漂っている。
長いテーブルの端に、リディアは静かに座っていた。目の前には父であるローレンス侯爵と、母のエリサ夫人。二人とも、娘の顔を見つめるまなざしに深い憂いを宿している。
「リディア……本当に、王家との縁を断ってもいいのか。」
侯爵の低い声が響く。政治の世界で数多の交渉を成し遂げてきた男も、今は一人の父として、悲しみを隠せなかった。
「我が家は王家と長年にわたって盟約を結んできた。その繋がりを失うのは、決して小さな損失ではない。だが……無礼を受けた娘を、そのまま放っておく父親でもいたくない。」
リディアは小さく頷いた。
「お父様、私は大丈夫です。どんなに大切な縁でも、嘘の上に成り立つものなら、それはもう腐ってしまっていると思うの。」
エリサ夫人がそっと彼女の手を握る。
「あなたは強い子ね。だけど、たまには泣いていいのよ。」
その手の温もりに、リディアの胸が少し締めつけられた。涙を流したら、崩れてしまいそうな気がして、彼女は静かに微笑むだけだった。
「泣いたら前に進めなくなってしまいますから。……それに、昨日のことで得たものもあるんです。」
侯爵の眉が動く。
「得たもの?」
リディアは少し考えてから言葉を選んだ。
「人の本心です。誰が私を本当に見てくれていて、誰が肩書きしか見ていなかったのか。それがわかっただけでも、無駄じゃありません。」
沈黙ののち、侯爵は感嘆したように笑った。
「……やはりお前は、私の自慢の娘だ。」
だが、和やかな時間も束の間。侍従が小走りに入ってきて、頭を下げた。
「ご令嬢に、陛下からの伝令がございます。」
部屋の空気が再び緊張に包まれる。
「陛下から……?」
「はい。正式に、婚約解消を勅令として布告する文書と……補償に関する通達でございます。」
リディアは目を伏せた。形式上の手続きを終えたということは、彼女と王家との結びつきが、完全に途絶えたことを意味している。
侯爵が書簡を手に取り、封を切る。目を通した彼の表情が険しくなった。
「……なんという無礼だ。」
「お父様、どうなさいましたか?」
侯爵は文書をテーブルに叩きつけた。
「補償だと称して、王太子の婚約者に贈る予定だった領地の権利を、そのままレイナ嬢に移すと書かれている。まるで、お前が不要物のように扱われているではないか。」
リディアの胸に、冷たい痛みが走った。けれど、すぐに深呼吸をして気持ちを押し殺す。
「……いいんです。手放しましょう。」
「リディア!」
「どうせ私はあの人に“退屈でつまらない女”だと言われたんです。なら、今さら未練を残す理由なんてありません。」
声は静かだったが、瞳の奥には確かな決意が宿っていた。その強さに、侯爵も返す言葉を失った。
そのとき、使用人が再び慌ただしく入ってきた。
「お嬢様、仕立てのマルス夫人がいらっしゃっています。」
「ドレスの件ね。」
リディアは少し考えたあと、席を立った。
「最後に、一着仕上げてもらわないと。」
エリサ夫人が心配そうに問いかける。
「まさか、舞踏会の続きを……?」
「ええ。けじめをつけるために、最後のドレスを作ります。」
◇
仕立て部屋に入ると、マルス夫人が布地を広げていた。長年、リディアの衣装を担当してきた老婦人だ。彼女はリディアの姿を見るなり、ため息をついた。
「まあ、なんということ。昨日の騒ぎ、私も耳にしましたよ。ほんとうに、よく耐えられましたね。」
「ありがとうございます。……今日はお願いがあるんです。」
リディアは、静かに椅子に腰掛けた。
「婚約の証として仕立てていた赤のドレス、まだ完成していませんよね。あれを、最後まで仕上げてください。」
マルス夫人は戸惑ったように眉をひそめる。
「……あのドレスは、殿下の意向で選ばれた布でしたけれど。」
「ええ、それでもいいんです。私の人生の一部として、完成させておきたいんです。」
老仕立師はしばらく彼女を見つめ、やがてうなずいた。
「……わかりました。」
彼女が慎重に針を動かす間、リディアは窓の外の雪を見つめていた。
“象徴”という言葉が頭の中をよぎる。昨日、エリアス殿下が言った言葉。あれは政治的な意図から出た台詞だとわかっているのに、何故だか心に残っていた。
「君を王家に必要としている。」
一体あの人は何を考えているのだろう。冷たい目をしているようで、確かに優しさを宿していた。
意図も読めず、距離も掴めない。ただ一つ確かなのは、彼の言葉を聞いたとき、胸の奥の氷がほんの少しだけ溶けたこと。
「お嬢様?」
マルス夫人の声が現実に引き戻した。
「裾はどうされます?いつもより少し長めにいたしましょうか。」
「はい。思い出に残るように。」
◇
夕刻、ドレスが仕上がった。深紅の絹が光を受けて美しく輝く。
鏡の前でリディアはその姿を見つめる。かつて王太子が“花嫁にふさわしい”と選んだ色。それなのに、今は傷を隠すための鎧のように感じた。
「お嬢様、本当にお綺麗です……」
ミーナが涙ぐんでいる。
リディアは静かに言った。
「ありがとう、ミーナ。でも、これは始まりのための最後のドレスよ。」
胸元に祖母の形見のブローチを留める。その瞬間、鏡の中で見えた自分の顔が少しだけ変わった気がした。哀しみよりも、冷たい決意の色が宿る。
「この姿で、しばらく静養の旅に出ます。」
「旅、ですか?」
「ええ。領地の管理も見直したいし、自分を見つめ直す時間が必要だから。」
ミーナは心配そうに問いかけた。
「でも、お嬢様……護衛はどうなさいます?」
「父が人をつけてくれるでしょう。しばらくは人目を避けて、リディアとしてではなく、一人の女性として暮らしたいの。」
その言葉に、ミーナは深くうなずいた。
「きっと、新しい風を見つけられますよ。」
リディアは小さく笑った。
「そうだといいわ。」
その夜、荷造りを終えて寝室に戻ると、机の上に一通の手紙が置かれていた。封蝋には王家の紋章――だが、第一王太子ではなく、第二王子エリアスのものである。
手が震えた。封を切ると、そこには簡潔な文が並んでいた。
『明日、正午。城外の東門で待つ。話がある。』
署名は“E・G”。それだけだった。
まるで、彼の性格をそのまま映したような短い文。だが、その一行だけで、リディアの心臓は静かに高鳴った。
何を話すつもりなのだろう。彼は一体、どこまで知っているのだろう。
“王家に必要”という言葉の意味。その裏に何があるのか。
窓の外を見ると、夜の空に雪が舞っていた。
冷たい月の光の下、枯れた薔薇の枝がゆっくり揺れる。けれど、枝の先には、わずかに新しい蕾が芽吹いていた。
リディアはその光景を見つめながら、そっとつぶやいた。
「……寒い冬にも、春は来るのね。」
瞼を閉じて、小さく微笑む。
明日がどんな一日になるのか、彼女にもわからない。けれど確かに、心の奥では何かが芽吹いている。
それは後の“ざまぁ”の始まりでもあり、“溺愛”の種でもあった。
(続く)
長いテーブルの端に、リディアは静かに座っていた。目の前には父であるローレンス侯爵と、母のエリサ夫人。二人とも、娘の顔を見つめるまなざしに深い憂いを宿している。
「リディア……本当に、王家との縁を断ってもいいのか。」
侯爵の低い声が響く。政治の世界で数多の交渉を成し遂げてきた男も、今は一人の父として、悲しみを隠せなかった。
「我が家は王家と長年にわたって盟約を結んできた。その繋がりを失うのは、決して小さな損失ではない。だが……無礼を受けた娘を、そのまま放っておく父親でもいたくない。」
リディアは小さく頷いた。
「お父様、私は大丈夫です。どんなに大切な縁でも、嘘の上に成り立つものなら、それはもう腐ってしまっていると思うの。」
エリサ夫人がそっと彼女の手を握る。
「あなたは強い子ね。だけど、たまには泣いていいのよ。」
その手の温もりに、リディアの胸が少し締めつけられた。涙を流したら、崩れてしまいそうな気がして、彼女は静かに微笑むだけだった。
「泣いたら前に進めなくなってしまいますから。……それに、昨日のことで得たものもあるんです。」
侯爵の眉が動く。
「得たもの?」
リディアは少し考えてから言葉を選んだ。
「人の本心です。誰が私を本当に見てくれていて、誰が肩書きしか見ていなかったのか。それがわかっただけでも、無駄じゃありません。」
沈黙ののち、侯爵は感嘆したように笑った。
「……やはりお前は、私の自慢の娘だ。」
だが、和やかな時間も束の間。侍従が小走りに入ってきて、頭を下げた。
「ご令嬢に、陛下からの伝令がございます。」
部屋の空気が再び緊張に包まれる。
「陛下から……?」
「はい。正式に、婚約解消を勅令として布告する文書と……補償に関する通達でございます。」
リディアは目を伏せた。形式上の手続きを終えたということは、彼女と王家との結びつきが、完全に途絶えたことを意味している。
侯爵が書簡を手に取り、封を切る。目を通した彼の表情が険しくなった。
「……なんという無礼だ。」
「お父様、どうなさいましたか?」
侯爵は文書をテーブルに叩きつけた。
「補償だと称して、王太子の婚約者に贈る予定だった領地の権利を、そのままレイナ嬢に移すと書かれている。まるで、お前が不要物のように扱われているではないか。」
リディアの胸に、冷たい痛みが走った。けれど、すぐに深呼吸をして気持ちを押し殺す。
「……いいんです。手放しましょう。」
「リディア!」
「どうせ私はあの人に“退屈でつまらない女”だと言われたんです。なら、今さら未練を残す理由なんてありません。」
声は静かだったが、瞳の奥には確かな決意が宿っていた。その強さに、侯爵も返す言葉を失った。
そのとき、使用人が再び慌ただしく入ってきた。
「お嬢様、仕立てのマルス夫人がいらっしゃっています。」
「ドレスの件ね。」
リディアは少し考えたあと、席を立った。
「最後に、一着仕上げてもらわないと。」
エリサ夫人が心配そうに問いかける。
「まさか、舞踏会の続きを……?」
「ええ。けじめをつけるために、最後のドレスを作ります。」
◇
仕立て部屋に入ると、マルス夫人が布地を広げていた。長年、リディアの衣装を担当してきた老婦人だ。彼女はリディアの姿を見るなり、ため息をついた。
「まあ、なんということ。昨日の騒ぎ、私も耳にしましたよ。ほんとうに、よく耐えられましたね。」
「ありがとうございます。……今日はお願いがあるんです。」
リディアは、静かに椅子に腰掛けた。
「婚約の証として仕立てていた赤のドレス、まだ完成していませんよね。あれを、最後まで仕上げてください。」
マルス夫人は戸惑ったように眉をひそめる。
「……あのドレスは、殿下の意向で選ばれた布でしたけれど。」
「ええ、それでもいいんです。私の人生の一部として、完成させておきたいんです。」
老仕立師はしばらく彼女を見つめ、やがてうなずいた。
「……わかりました。」
彼女が慎重に針を動かす間、リディアは窓の外の雪を見つめていた。
“象徴”という言葉が頭の中をよぎる。昨日、エリアス殿下が言った言葉。あれは政治的な意図から出た台詞だとわかっているのに、何故だか心に残っていた。
「君を王家に必要としている。」
一体あの人は何を考えているのだろう。冷たい目をしているようで、確かに優しさを宿していた。
意図も読めず、距離も掴めない。ただ一つ確かなのは、彼の言葉を聞いたとき、胸の奥の氷がほんの少しだけ溶けたこと。
「お嬢様?」
マルス夫人の声が現実に引き戻した。
「裾はどうされます?いつもより少し長めにいたしましょうか。」
「はい。思い出に残るように。」
◇
夕刻、ドレスが仕上がった。深紅の絹が光を受けて美しく輝く。
鏡の前でリディアはその姿を見つめる。かつて王太子が“花嫁にふさわしい”と選んだ色。それなのに、今は傷を隠すための鎧のように感じた。
「お嬢様、本当にお綺麗です……」
ミーナが涙ぐんでいる。
リディアは静かに言った。
「ありがとう、ミーナ。でも、これは始まりのための最後のドレスよ。」
胸元に祖母の形見のブローチを留める。その瞬間、鏡の中で見えた自分の顔が少しだけ変わった気がした。哀しみよりも、冷たい決意の色が宿る。
「この姿で、しばらく静養の旅に出ます。」
「旅、ですか?」
「ええ。領地の管理も見直したいし、自分を見つめ直す時間が必要だから。」
ミーナは心配そうに問いかけた。
「でも、お嬢様……護衛はどうなさいます?」
「父が人をつけてくれるでしょう。しばらくは人目を避けて、リディアとしてではなく、一人の女性として暮らしたいの。」
その言葉に、ミーナは深くうなずいた。
「きっと、新しい風を見つけられますよ。」
リディアは小さく笑った。
「そうだといいわ。」
その夜、荷造りを終えて寝室に戻ると、机の上に一通の手紙が置かれていた。封蝋には王家の紋章――だが、第一王太子ではなく、第二王子エリアスのものである。
手が震えた。封を切ると、そこには簡潔な文が並んでいた。
『明日、正午。城外の東門で待つ。話がある。』
署名は“E・G”。それだけだった。
まるで、彼の性格をそのまま映したような短い文。だが、その一行だけで、リディアの心臓は静かに高鳴った。
何を話すつもりなのだろう。彼は一体、どこまで知っているのだろう。
“王家に必要”という言葉の意味。その裏に何があるのか。
窓の外を見ると、夜の空に雪が舞っていた。
冷たい月の光の下、枯れた薔薇の枝がゆっくり揺れる。けれど、枝の先には、わずかに新しい蕾が芽吹いていた。
リディアはその光景を見つめながら、そっとつぶやいた。
「……寒い冬にも、春は来るのね。」
瞼を閉じて、小さく微笑む。
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