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捻くれ子爵の不本意な結婚
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芳しい薔薇の香りを胸いっぱいに吸い込んで、ヴァイオレットはぐっと気を引き締めた。ドレスに皺が寄っていないか確認して、カポートのリボンを整えて、それからしゃんと背筋を伸ばし、ふたたび小道を歩き出した。
紳士はゆったりとベンチに腰掛けて、緑の絨毯に点在する常緑樹を眺めているようだった。ヴァイオレットからは顔が見えなかったけれど、すっきりとした輪郭が好ましく思えた。トップハットを被っているので髪の色は見えないものの、彼はかなりの長身で、ちょっとした仕草にも品があった。けれど、そのすべてを目にするのが初めてではない気がして、ヴァイオレットが微かな胸騒ぎを覚えたとき、彼がくるりとこちらを向いた。
「ミス・メイウッド」
彼はトップハットを軽く持ち上げ、愛想良く会釈をした。ベルベットのようになめらかなこの声は、忘れたくてもそうそう忘れられるものではない。ヴァイオレットは動揺を気取られないよう、にこやかに微笑んで会釈を返した。
「ご機嫌よう、伯爵様。良いお天気ですわね」
ヴァイオレットが言うと、ラーズクリフはベンチを立ち、整ったその顔に穏やかな笑みを浮かべた。
「素晴らしい散歩日和だ。どうかな、一緒に」
「結構ですわ」
「それは残念」
軽く肩を竦めてそう言って、彼はふたたびベンチに腰を下ろした。
ヴァイオレットは何気ないふうを装ってあたりを見回した。シシリー子爵らしき人影はまだ見えない。けれど、じきに彼はここに来るはずだ。どうやら散歩の途中らしいラーズクリフを、なんとか理由をつけて追い払わなければ。
「待ち合わせかい?」
「ええ」
唐突に問われ、反射的にうなずいて、ヴァイオレットはぎくりとした。危惧したとおり、彼が口を開く。
「相手の名前を聞いては野暮かな?」
深い海のような蒼い瞳が眩しいものでも見るかのように細められる。笑っているのか訝しんでいるのか、ヴァイオレットには彼の感情が上手く読み取れなかった。うっかり返事をしてしまったけれど、まさか、シシリー子爵との約束を教えるわけにもいかない。
「ですから、私のことはもう、そっとしておいていただけません?」
ぷいとそっぽを向いてヴァイオレットが言うと、ラーズクリフは「ふむ」と小さくうなずいて、そのままベンチに背を預けた。
どうやら退く気はないらしい。ヴァイオレットはどうしたものかと考えながら、ふたたびあたりを見回した。広々とした公園にはちらほらと人影があるものの、薔薇園の側にはふたりの他に誰もいない。シシリー子爵らしき姿も見当たらなかった。
「たまには散歩も良いものだ。こうしてきみに会えたのだから」満足げにつぶやいて、彼は続けた。「実は少々心配していたんだ。あれからずっと、夜会できみの姿を見かけなかったものでね」
「……夜会に出る必要がなくなりましたの。あなたと会う機会もなくなりますから、二度とご迷惑をかけることもありませんわ」
つんと澄ましてそう言うと、ヴァイオレットはベンチの端に——できる限り彼から離れて——腰を下ろした。あからさまに拒絶したというのに、彼は鼻歌でも歌い出しそうに見えるほどご機嫌だった。
「あの……伯爵様はまだこちらにいらっしゃるおつもり?」
「何か問題でも?」
質問を質問で返されて、ヴァイオレットは思わず眉を顰めてしまった。腹立たしい男だ。誰かと待ち合わせていることを伝えてあるというのに、自分が邪魔になるとは考えもしないのだろうか。
「……彼が、誤解してしまうのではないかと思って」
気不味い思いでヴァイオレットが言うと、彼は意地悪く微笑んで言った。
「そうか。では、相手の男の名前を教えてくれたら帰ることにしよう」
——どうしてあなたなんかに!
口にしかけたその言葉を、ヴァイオレットは慌てて飲み込んだ。恐ろしいほど傲慢な態度に苛立ちこそ覚えるけれど、この男はラーズクリフ伯爵なのだ。本来なら、貴族でもない中産階級の小娘であるヴァイオレットが逆らえる相手ではない。それを充分に理解して——あるいは利用するつもりらしく、ラーズクリフは小憎らしいほど余裕な顔でヴァイオレットの出方を窺っているようだった。
「良いだろう? 名前くらい」
促されて、舌打ちしたい気持ちをぐっと堪える。
「……教えれば、本当に帰ってくださるの?」
ヴァイオレットが渋々尋ねると、彼は「もちろん、約束は守るよ」と愉しそうにうなずいた。信用ならない表情だ。ぎりと奥歯を噛み締めて、ヴァイオレットは言った。
「……シシリー子爵です」
「ほう」
彼は折り曲げた長い脚の膝の上に両ひじをつき、組んだ手の甲に顎をのせて、遠くをみつめて目を細めた。
はやく帰ってくれないかしら。のんびりと構えたまま一向に動こうとしない彼に、ヴァイオレットがさらなる苛立ちを覚えたときだった。
「彼は来ないと思うよ」
淡々と彼が言った。ヴァイオレットは弾かれたように顔をあげ、思わず身を乗り出して言った。
「どうしてあなたにわかるの?」
「彼のことをよく知っているからさ」
彼は得意げにうなずくと、ヴァイオレットの菫色の瞳をまっすぐに覗き込んだ。
「厳密に言えば、彼はこの公園には来ているだろう。けれど、きみが彼に気付くことはできない。絶対にね」
「……あなたがここに居るから?」
思わず眉を顰めてしまう。ラーズクリフは軽く肩を竦め、意地悪くヴァイオレットに微笑んだ。
なんてこと! この男は、この期に及んで私をシシリー子爵と会わせない気だわ!
「どうして? どうして私の邪魔をするの!?」
ヴァイオレットはかっとなって、ラーズクリフに掴みかかった。相手が自分よりも遥かに身分が高い伯爵だという事実なんて、すっかり忘れてしまっていた。
彼は素早くヴァイオレットの両手首を掴むと、興奮して暴れる彼女の動きを巧みに封じてみせた。余裕綽々のその表情に余計に怒りが煽られて、ヴァイオレットは震える声を張り上げた。
「私はあなたに失礼なことをしたかもしれない。でも、だからって、こんな嫌がらせをされる謂れはないはずだわ」
「なぜそう思うんだい?」
「なぜって、私だって普通の恋を——」
「そうじゃない。なぜ私がきみに嫌がらせをしていると思うのかを訊いているんだ」
穏やかだった彼の瞳が鋭く光る。ヴァイオレットはびくりと身を強張らせて、咄嗟に彼から身を引いた。
解放された両手首が燃えるように熱かった。じんと痺れる両腕をさすりながら、ヴァイオレットは悔しさに唇を噛みしめた。
「なぜ私がきみに嫌がらせをしていると?」
ふたたび彼が言った。ヴァイオレットは顔を背けたまま、震える声を絞り出した。
「……私を憎んでいるからよ」
「なぜそう思う? あんなことがあった後だ。普通、私はきみに好意があると解釈するものじゃないか?」
彼の声は微かに動揺が滲んでいた。ちらりとその顔を盗み見ると、先ほどまでの人を小馬鹿にしたような表情はきれいさっぱり消え去って、その代わりに、戸惑いと不安が入り混じったような、歪な表情が浮かんでいた。
「……普通、好意があるのなら、その人のちからになりたいと思うはずだからよ」ヴァイオレットは吐き捨てるように言った。「あなたは私のために力を貸したりしないでしょう?」
「ミス・メイウッド、それは違う。力を貸さないわけではない。私は、相手のためになると考えられることしかしないだけだ」
「傲慢なひとね。必ずしもあなたの考えが正解とは限らないのに」
「確かに。だが、残念ながら私はまだ一度も間違った選択をしたことがない」
彼はきっぱりと言い切った。実際そのとおりなのだろう。ヴァイオレットは思った。
おそらく彼はこれまでの人生において、一度も間違った選択をしたことがないのだ。何事においても感情を切り離して、最善の選択を選び続けてきたに違いない。けれど、彼は独善的で合理的すぎる。感情的な性格のヴァイオレットでは、到底理解が及ばないほどに。
「私とこうしていることが間違いだとは思わないの?」
「思わないよ」
彼は断定的にそう答えた。それから思い出したように「ああ、そうだ」とつぶやいて、ジャケットの内側から白い封筒を取り出した。
「きみに会えたら渡すつもりだったんだ。来月、セオドア・ガーデンで毎年恒例の母の誕生パーティーを開くんだが、是非きみを招待したくてね」
まったく悪怯れることなく微笑まれて、ヴァイオレットは困惑した。今の流れから、どうしてこんな話になるのか理解ができない。
「結構よ」
はっきりとそう告げて、ヴァイオレットは白いベンチを後にした。シシリー子爵には悪いけれど、これ以上あの場所に留まることなんてできそうになかった。足早に小道を突き進む。その途中で、彼特有のなめらかな声がヴァイオレットの耳を掠めた。
「パーティーに来てくれれば、シシリーにも会えるかもしれないよ」
紳士はゆったりとベンチに腰掛けて、緑の絨毯に点在する常緑樹を眺めているようだった。ヴァイオレットからは顔が見えなかったけれど、すっきりとした輪郭が好ましく思えた。トップハットを被っているので髪の色は見えないものの、彼はかなりの長身で、ちょっとした仕草にも品があった。けれど、そのすべてを目にするのが初めてではない気がして、ヴァイオレットが微かな胸騒ぎを覚えたとき、彼がくるりとこちらを向いた。
「ミス・メイウッド」
彼はトップハットを軽く持ち上げ、愛想良く会釈をした。ベルベットのようになめらかなこの声は、忘れたくてもそうそう忘れられるものではない。ヴァイオレットは動揺を気取られないよう、にこやかに微笑んで会釈を返した。
「ご機嫌よう、伯爵様。良いお天気ですわね」
ヴァイオレットが言うと、ラーズクリフはベンチを立ち、整ったその顔に穏やかな笑みを浮かべた。
「素晴らしい散歩日和だ。どうかな、一緒に」
「結構ですわ」
「それは残念」
軽く肩を竦めてそう言って、彼はふたたびベンチに腰を下ろした。
ヴァイオレットは何気ないふうを装ってあたりを見回した。シシリー子爵らしき人影はまだ見えない。けれど、じきに彼はここに来るはずだ。どうやら散歩の途中らしいラーズクリフを、なんとか理由をつけて追い払わなければ。
「待ち合わせかい?」
「ええ」
唐突に問われ、反射的にうなずいて、ヴァイオレットはぎくりとした。危惧したとおり、彼が口を開く。
「相手の名前を聞いては野暮かな?」
深い海のような蒼い瞳が眩しいものでも見るかのように細められる。笑っているのか訝しんでいるのか、ヴァイオレットには彼の感情が上手く読み取れなかった。うっかり返事をしてしまったけれど、まさか、シシリー子爵との約束を教えるわけにもいかない。
「ですから、私のことはもう、そっとしておいていただけません?」
ぷいとそっぽを向いてヴァイオレットが言うと、ラーズクリフは「ふむ」と小さくうなずいて、そのままベンチに背を預けた。
どうやら退く気はないらしい。ヴァイオレットはどうしたものかと考えながら、ふたたびあたりを見回した。広々とした公園にはちらほらと人影があるものの、薔薇園の側にはふたりの他に誰もいない。シシリー子爵らしき姿も見当たらなかった。
「たまには散歩も良いものだ。こうしてきみに会えたのだから」満足げにつぶやいて、彼は続けた。「実は少々心配していたんだ。あれからずっと、夜会できみの姿を見かけなかったものでね」
「……夜会に出る必要がなくなりましたの。あなたと会う機会もなくなりますから、二度とご迷惑をかけることもありませんわ」
つんと澄ましてそう言うと、ヴァイオレットはベンチの端に——できる限り彼から離れて——腰を下ろした。あからさまに拒絶したというのに、彼は鼻歌でも歌い出しそうに見えるほどご機嫌だった。
「あの……伯爵様はまだこちらにいらっしゃるおつもり?」
「何か問題でも?」
質問を質問で返されて、ヴァイオレットは思わず眉を顰めてしまった。腹立たしい男だ。誰かと待ち合わせていることを伝えてあるというのに、自分が邪魔になるとは考えもしないのだろうか。
「……彼が、誤解してしまうのではないかと思って」
気不味い思いでヴァイオレットが言うと、彼は意地悪く微笑んで言った。
「そうか。では、相手の男の名前を教えてくれたら帰ることにしよう」
——どうしてあなたなんかに!
口にしかけたその言葉を、ヴァイオレットは慌てて飲み込んだ。恐ろしいほど傲慢な態度に苛立ちこそ覚えるけれど、この男はラーズクリフ伯爵なのだ。本来なら、貴族でもない中産階級の小娘であるヴァイオレットが逆らえる相手ではない。それを充分に理解して——あるいは利用するつもりらしく、ラーズクリフは小憎らしいほど余裕な顔でヴァイオレットの出方を窺っているようだった。
「良いだろう? 名前くらい」
促されて、舌打ちしたい気持ちをぐっと堪える。
「……教えれば、本当に帰ってくださるの?」
ヴァイオレットが渋々尋ねると、彼は「もちろん、約束は守るよ」と愉しそうにうなずいた。信用ならない表情だ。ぎりと奥歯を噛み締めて、ヴァイオレットは言った。
「……シシリー子爵です」
「ほう」
彼は折り曲げた長い脚の膝の上に両ひじをつき、組んだ手の甲に顎をのせて、遠くをみつめて目を細めた。
はやく帰ってくれないかしら。のんびりと構えたまま一向に動こうとしない彼に、ヴァイオレットがさらなる苛立ちを覚えたときだった。
「彼は来ないと思うよ」
淡々と彼が言った。ヴァイオレットは弾かれたように顔をあげ、思わず身を乗り出して言った。
「どうしてあなたにわかるの?」
「彼のことをよく知っているからさ」
彼は得意げにうなずくと、ヴァイオレットの菫色の瞳をまっすぐに覗き込んだ。
「厳密に言えば、彼はこの公園には来ているだろう。けれど、きみが彼に気付くことはできない。絶対にね」
「……あなたがここに居るから?」
思わず眉を顰めてしまう。ラーズクリフは軽く肩を竦め、意地悪くヴァイオレットに微笑んだ。
なんてこと! この男は、この期に及んで私をシシリー子爵と会わせない気だわ!
「どうして? どうして私の邪魔をするの!?」
ヴァイオレットはかっとなって、ラーズクリフに掴みかかった。相手が自分よりも遥かに身分が高い伯爵だという事実なんて、すっかり忘れてしまっていた。
彼は素早くヴァイオレットの両手首を掴むと、興奮して暴れる彼女の動きを巧みに封じてみせた。余裕綽々のその表情に余計に怒りが煽られて、ヴァイオレットは震える声を張り上げた。
「私はあなたに失礼なことをしたかもしれない。でも、だからって、こんな嫌がらせをされる謂れはないはずだわ」
「なぜそう思うんだい?」
「なぜって、私だって普通の恋を——」
「そうじゃない。なぜ私がきみに嫌がらせをしていると思うのかを訊いているんだ」
穏やかだった彼の瞳が鋭く光る。ヴァイオレットはびくりと身を強張らせて、咄嗟に彼から身を引いた。
解放された両手首が燃えるように熱かった。じんと痺れる両腕をさすりながら、ヴァイオレットは悔しさに唇を噛みしめた。
「なぜ私がきみに嫌がらせをしていると?」
ふたたび彼が言った。ヴァイオレットは顔を背けたまま、震える声を絞り出した。
「……私を憎んでいるからよ」
「なぜそう思う? あんなことがあった後だ。普通、私はきみに好意があると解釈するものじゃないか?」
彼の声は微かに動揺が滲んでいた。ちらりとその顔を盗み見ると、先ほどまでの人を小馬鹿にしたような表情はきれいさっぱり消え去って、その代わりに、戸惑いと不安が入り混じったような、歪な表情が浮かんでいた。
「……普通、好意があるのなら、その人のちからになりたいと思うはずだからよ」ヴァイオレットは吐き捨てるように言った。「あなたは私のために力を貸したりしないでしょう?」
「ミス・メイウッド、それは違う。力を貸さないわけではない。私は、相手のためになると考えられることしかしないだけだ」
「傲慢なひとね。必ずしもあなたの考えが正解とは限らないのに」
「確かに。だが、残念ながら私はまだ一度も間違った選択をしたことがない」
彼はきっぱりと言い切った。実際そのとおりなのだろう。ヴァイオレットは思った。
おそらく彼はこれまでの人生において、一度も間違った選択をしたことがないのだ。何事においても感情を切り離して、最善の選択を選び続けてきたに違いない。けれど、彼は独善的で合理的すぎる。感情的な性格のヴァイオレットでは、到底理解が及ばないほどに。
「私とこうしていることが間違いだとは思わないの?」
「思わないよ」
彼は断定的にそう答えた。それから思い出したように「ああ、そうだ」とつぶやいて、ジャケットの内側から白い封筒を取り出した。
「きみに会えたら渡すつもりだったんだ。来月、セオドア・ガーデンで毎年恒例の母の誕生パーティーを開くんだが、是非きみを招待したくてね」
まったく悪怯れることなく微笑まれて、ヴァイオレットは困惑した。今の流れから、どうしてこんな話になるのか理解ができない。
「結構よ」
はっきりとそう告げて、ヴァイオレットは白いベンチを後にした。シシリー子爵には悪いけれど、これ以上あの場所に留まることなんてできそうになかった。足早に小道を突き進む。その途中で、彼特有のなめらかな声がヴァイオレットの耳を掠めた。
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