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捻くれ子爵の不本意な結婚
◎23
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その日、シャノンは朝早くに目が覚めたけれど、昼過ぎまでシーツにくるまったままベッドの上に横たわっていた。
アーデンと結婚して彼への想いを自覚してからというもの、シャノンはずっと眠たくても眠れない夜を過ごしてきた。昨夜も彼が夜更け過ぎに屋敷に戻り、夜も明けようという頃に寝室の明かりが消えるのを見届けて、ようやくうとうとと眠りについたのだった。
シャノンの眠りは浅く、ちょっとした物音でもすぐに目が覚めてしまうほどだった。屋敷の前を馬車が通り過ぎるだけで、彼が出掛けてしまったのではないかと不安に駆られて跳び起きて、窓から外を確認しては、気にし過ぎだと溜め息を吐いた。
毎日毎晩、そんな生活を続けているものだから、シャノンはいつも睡眠不足と鈍い頭痛に悩まされていた。それでも、昼を過ぎても寝間着のままでいるなんてだらしがないと思ったので、部屋付きのメイドを呼んで、室内着のドレスに着替えて部屋を出た。
美しく磨き上げられたオーク材の手すりに手を滑らせて、毛の長い絨毯が敷かれた階段を一段一段降りていく。カワードテラスのエントランスホールはプラムウェル・マナーと造りが似ていて、板張りの床にはペルシャ織の絨毯が敷いてあった。シャノンはホールの真ん中で立ち止まり、絨毯に描かれたアラベスク文様をぼんやりと見下ろした。
朝食はいつも寝室に運んでもらっていたけれど、今朝は食欲がなく、まだ何も食べていなかった。水でも飲もうと考えて、厨房に向かいかけたところで、食欲を刺激する優しい匂いがシャノンの鼻先を掠めた。
シャノンはごくりと息を飲んだ。その匂いは食堂から漂ってきているようで、カトラリーと陶磁器が触れ合う軽やかな音が微かに聞こえてくるようだった。当然といえば当然ではあるけれど、使用人を除けば、この街屋敷で暮らしているのはアーデンとシャノンだけだ。
急激に胸の鼓動が高鳴っていく。シャノンは恐る恐る食堂へと近付いて、開け放たれた扉の陰から室内を覗き込んだ。
最初に目に飛び込んできたのはマホガニーの長いダイニングテーブルだった。白いレース編みのテーブルクロスのうえに、燭台と花瓶とフルーツ篭が並んでいる。一番奥の席には食器が一式揃えられて並んでおり、きっちりとスーツを着たアーデンが新聞を片手に座っていた。湯気の立つコーヒーカップを口元に運ぶその仕草に、なぜだか胸がどきどきする。シャノンが身動きできずにいると、煮詰めた珈琲色の瞳が不意にシャノンに向けられた。
「おはよう」
アーデンが穏やかに笑って言った。シャノンは咄嗟にうなずいて、手持ち無沙汰な指で首筋にかかる後れ毛を引っ張った。アーデンは新聞を置いて席を立つと、まっすぐシャノンの側に歩いてきた。
「ちょうど良かった。どうかな、一緒に朝食でも」
ざらついた低音が心地良く耳に響く。今朝の彼は、髭剃り用石鹸と珈琲の香りがした。
彼が肘を曲げ、腕を差し出したので、シャノンは黙ってうなずいて、彼の腕に手を掛けた。彼はシャノンを自分の右隣の席にエスコートすると、シャノンが料理を取りにサイドボードへ向かうあいだ、黙って椅子のそばに立ち、シャノンが戻るのを待っていてくれた。シャノンは卵と豆の炒め物を皿に取り、心持ち急いで席に戻った。
シャノンとアーデンが朝食で同じ席に着くのは初めてのことだった。結婚して間もない頃から彼は屋敷を空けることが多く、シャノンが知らないうちに食事をとって、入浴を済ませて睡眠をとって、いつのまにか出掛けていることがほとんどだった。だからシャノンはなんとなく、彼はシャノンのそばにいたくないのではないかと考えるようになっていた。
シャノンがナプキンを手に取って膝に掛けると、タイミングを見計らっていたかのようにアーデンが口を開いた。
「午後の予定は?」
シャノンは驚いた。両手を膝の上に置いたまま、彼女はアーデンと向き合った。
「……特になにも。レティに誘われなければ、いつも部屋でぼうっとしているだけですもの」
シャノンが答えると、アーデンは「ほんとうに?」と訝しむように眉を顰めた。
「独身時代とは違うんだ。きみはシャペロンの許可がなくても自由に馬車を使って出掛けられるし、買い物だって好きなように楽しむことができるんだよ」
「そういう贅沢には興味がないの。ひとりで出掛けたって、つまらないでしょう?」
「そういうものかな」
シャノンはうなずいて、卵と豆の料理を口に運んだ。
「どうして急にそんなことを訊くの?」
「どうしてって、わからないのかい?」アーデンは困ったように首を傾げ、言った。「今日はきみの誕生日だろう?」
シャノンは驚いて、今日が何月何日だったか考えた。慌ただしい日々のなかですっかり記憶の隅に追いやられてしまっていたけれど、たしかにアーデンの言うとおり、今日はシャノンとレティの誕生日だった。
「すっかり忘れていたわ」
まばたきしてつぶやくと、アーデンは「きみらしい」と朗らかに笑った。
シャノンはめまぐるしく頭を働かせて、一所懸命に考えた。結婚してからずっとほったらかしだったのに、急に優しくされる理由がわからない。たまたま愛人の都合がつかなかったのか、単なる気まぐれか、それとも、かたちだけの妻の誕生日でも祝う程度の甲斐性はあると言いたいのだろうか。
「では、今日あなたがここにいるのは、私の誕生日を祝うためということ?」
「そういうこと」
アーデンはうなずいて、コーヒーカップに口を付けた。
シャノンは考えた。問題は——どうしようもないのは、シャノンが純粋にこの状況を嬉しく思っていることだった。あれだけ毎日ほったらかしにされていたのに、アーデンが誕生日を覚えていて、こうして気にかけてくれた、たったそれだけのことで、こんなにも心が浮ついて舞い上がってしまうだなんて、まったくもって救いようがない。
「それで、どうする? どこか行きたいところは? 何かぼくにして欲しいことはあるかい?」
アーデンに急かされて、シャノンは笑いだしてしまうのを止められなかった。
「待って、急に言われても思いつかないわ。ほんとうに何を頼んでもいいの?」
「ぼくにできることなら」
「遠くに出かけることもできる?」
「どこにだってお伴しますよ、奥様」
アーデンがにっこり笑い、仰々しく頭を垂れる。シャノンは口元で手を合わせて、声を弾ませて言った。
「それなら、そう……王立公園はどうかしら」
「王立公園? なんでまた、そんないつでも行けるところに? 老舗の宝飾店で宝石をねだったって、有名デザイナーの店で一点物のドレスを仕立てたって構わないのに」
「それなら買い物でもいいわ。なんだっていいのよ、トリスタン。あなたと出掛けられるなら」
そういうわけで、遅い朝食を済ませたあと、アーデンはシャノンをカブリオレに乗せて街へと繰り出した。有名デザイナーの店でオートクチュールのドレスを注文して、老舗の宝飾店で夜会用のアクセサリーを一式揃えて、それからふたりは国立公園で薔薇の展示を見て回った。
どこへ行っても彼はいつもどおり、紳士らしく丁重にシャノンをエスコートしてくれた。シャノンは幸せだった。まるで結婚する前、式の準備で毎日のようにふたり一緒に出かけていたあの頃に戻ったようだった。
カワードテラスにふたりが戻った頃には、すっかり陽が沈んでいた。料理長が腕をふるった晩餐のご馳走の数々をアーデンとふたりで楽しみながら、シャノンはちょっぴり緊張していた。
もしかしたら、今夜はアーデンと一緒にいられるのかもしれない。初夜のアリバイ工作以降、ふたりが同じ部屋で夜を明かしたことはなかったけれど、今夜こそ本当の夫婦になれるのかもしれない。
馬鹿げた考えかもしれないけれど、シャノンにはそれが自分だけの願望ではないように思えていた。晩餐のあいだじゅう、アーデンの熱っぽい視線が絶えずシャノンに向けられていたからだ。肉料理のラズベリーソースが唇についたときだって、何気ないふうを装ってはいたけれど、シャノンが舌で唇を舐めるのを見て、彼は喉を鳴らしていた。
彼の心をものにするなら——レティや愛人から引き離すなら、今夜しかない。
シャノンは意を決して、赤ワインのグラスに手を伸ばした。ちょうどそのとき食堂の扉が開き、アーデンの従者のブライソンがデザートを運んできた。
どうして従僕や客間女中ではなく、彼の従者がデザートを運んできたのだろう。シャノンは不思議に思った。
ブライソンはまずシャノンの隣に立ち、トライフルの載った銀色のトレーを差し出した。シャノンがトライフルを皿に取ると、彼は優雅にお辞儀をして、続いてアーデンの隣に歩み寄った。銀色のトレーを手にしたまま身を屈め、アーデンの耳元で何ごとかを囁くと、アーデンが眉を顰めて席を立った。
シャノンはぎょっとした。勢いよく立ち上がったせいで椅子が大きな音をたて、アーデンの注意を引きつけた。彼は足早にシャノンのそばに歩み寄ると、宥めるようにシャノンに告げた。
「すまない、ダーリン。ちょっと不味いことが起きて」
「出掛けるの?」
一緒に誕生日を祝ってくれるはずだったのに。
シャノンが訊ねると、彼は「ああ」とうなずいて、気不味い表情でシャノンを見た。どうやら良心の呵責はあるようだ。シャノンは震える両手を握り締め、できる限り平静を装ってアーデンに言った。
「私が口を出すべきことではないとわかっているの。でも、そうやって毎晩のように他の女性のところへ出掛けるのは、やめていただけないかしら」
アーデンの珈琲色の瞳が一瞬大きく見開かれた。
言ってはいけないことを口にしてしまった。シャノンはそう直感した。けれど、一度口に出してしまったが最後、シャノンはもう、溢れ出る言葉を止めることができなかった。
「あなたがそうしていると、私は結婚して間もないうちからあなたに飽きられたつまらない女だと世間で噂されてしまうのよ。もちろん、自分は身体を許さないのにあなたが他の女性と関係を持つことを嫌がるなんて、虫が良すぎる話だと思ってる。だから、全ての女性関係を断てとは言わないわ。私はただ、あなたに毎晩のように出掛けるのをやめてほしいだけなの」
アーデンは無言だった。深々と眉間に皺を寄せて、次に返す言葉を真剣に考えているようだった。険悪な様子を見兼ねたのか、ブライソンがふたりの間に割って入った。
「差し出がましいようですが奥様、旦那様は——」
「ブライソン」
アーデンの険しい声が室内に響く。片手を上げてブライソンを退がらせると、彼はシャノンを見下ろして高慢に告げた。
「キス一回だ」
「え……?」
「きみがキスしてくれるなら、今夜は出掛けないと約束しよう」
シャノンは耳を疑った。アーデンにキスをするのが嫌なわけではない。けれど、この状況で、こんなふうに何かの罰のようにキスをするのは違うと思った。シャノンが黙っていると、アーデンは腕を組み、溜め息混じりに続けた。
「残念だけど、ぼくは聖人じゃない。禁欲生活を強いると言うなら、きみはそれなりの代償を支払うべきだ。満足いく見返りがなければ、要求は受け入れられない」
シャノンはうつむいて唇を噛み締めた。アーデンが好きだった。皮肉なことばかり言うけれど、いつだって彼はシャノンに優しかったから。それなのに、誕生日を一緒に過ごして欲しかった、ただそれだけのことで、どうしてこのような辱めを強要されなければならないのかがわからない。
「ダーリン、残念だけど、ぼくには時間が——」
ふいと顔を背け、アーデンが踵を返す。同時にシャノンは爪先立って、彼のネクタイを引っ張った。唇に唇を押し付けて、言葉の先を封じ込める。その口で、その声で、他の誰かを気にかける言葉なんて、言わせるわけにはいかなかった。
アーデンは僅かなあいだ目を見開いて、シャノンのされるがままになっていた。それから躊躇いがちにシャノンに触れると、逞しいその腕でシャノンの身体を抱き寄せた。大きな手がゆっくりと背中を撫で上げ、耳を、頬を包み込む。唇のあわいを熱いぬめりがたどり、シャノンのなかに滑り込んだ。
彼の呼吸は荒く激しく、舌は燃えるように熱かった。初めて出会ったあの夜のような——それよりももっと性急で情熱的なキスの嵐に、シャノンは夢中になっていた。膝のちからが抜けてしまって、まっすぐ立っていられなくて、シャノンは無意識に彼の首に腕を回し、縋り付いた。
アーデンの大きな手がうなじを撫でて、シャノンの後頭部を包み込む。唇を合わせる角度が変わり、さらに深く、貪るように吐息が奪われた。
シャノンはもう、まともに考えることすらできなくなっていた。彼の匂いとぬくもりが、思考のすべてを塗り潰していた。彼と自分を隔てるすべてのものを脱ぎ捨てて、彼とひとつになりたかった。初めてに伴う痛みなんて、少しも怖いと思わなかった。身も心もすべて、彼に乱暴に奪い尽くして欲しかった。
ようやく解放されたとき、シャノンは朦朧としていて、自分が今、どのような状況に置かれているのか、すぐには理解できなかった。熱っぽい珈琲色の瞳にみつめられて、シャノンは溺れた犬のように息を喘がせた。
「キス、一回って…」
途切れ途切れにシャノンが言うと、アーデンは口の端を吊り上げて、いつものように皮肉に笑った。
「そう、一回だ。きみが想像していたものとは少々違っていたようだけどね」
少々なんてものじゃない。恥ずかしさと情けなさで頬が真っ赤に染まっていく。シャノンはめいっぱい肩を怒らせて、アーデンを睨み付けた。
「そんなに怒らないでくれ。今夜、ぼくはきみの願いどおり、ひとり孤独に夜を明かさなければならないんだ。少しばかり余興がなくては自分を慰められないだろう?」
茶化すようにそう言って、彼は片目を瞑ってみせた。
「慰めるって……」
シャノンはつぶやいて、赤く染まったその頬をさらに真っ赤に火照らせた。アーデンが「くっ」と声を洩らし、顔を背けた。どうやら彼は、噴き出しそうになるのを堪えているようで、いつもと変わらないその仕草に、シャノンはちょっぴり安堵した。
「約束は守ってくださる?」
シャノンが訊くと、彼は人差し指でシャノンの顎を掬い、親指で唇をなぞりながら囁いた。
「もちろん。安心してゆっくりおやすみ、ダーリン」
「おやすみなさい、トリスタン」
言い終える前に、シャノンは走り出していた。エントランスホールを抜けて階段を駆け上がり、寝室に飛び込んで、扉に背を預けてへたり込む。
心臓が破裂してしまいそうなほど暴れ狂っていた。身体の隅々まであまい痺れに犯されて、下腹部がきゅんと疼くようだった。アーデンの声が、匂いが、ぬくもりが忘れられない。
シャノンはしばらくのあいだ、膝を抱えて床に座っていた。それからふと思い立ち、窓辺に立って外を見た。アーデンの寝室は真っ暗だった。けれど、書斎の窓から微かに明かりが漏れていて、真っ暗な闇夜に一筋の明かりが浮かびあがって見えた。
アーデンと結婚して彼への想いを自覚してからというもの、シャノンはずっと眠たくても眠れない夜を過ごしてきた。昨夜も彼が夜更け過ぎに屋敷に戻り、夜も明けようという頃に寝室の明かりが消えるのを見届けて、ようやくうとうとと眠りについたのだった。
シャノンの眠りは浅く、ちょっとした物音でもすぐに目が覚めてしまうほどだった。屋敷の前を馬車が通り過ぎるだけで、彼が出掛けてしまったのではないかと不安に駆られて跳び起きて、窓から外を確認しては、気にし過ぎだと溜め息を吐いた。
毎日毎晩、そんな生活を続けているものだから、シャノンはいつも睡眠不足と鈍い頭痛に悩まされていた。それでも、昼を過ぎても寝間着のままでいるなんてだらしがないと思ったので、部屋付きのメイドを呼んで、室内着のドレスに着替えて部屋を出た。
美しく磨き上げられたオーク材の手すりに手を滑らせて、毛の長い絨毯が敷かれた階段を一段一段降りていく。カワードテラスのエントランスホールはプラムウェル・マナーと造りが似ていて、板張りの床にはペルシャ織の絨毯が敷いてあった。シャノンはホールの真ん中で立ち止まり、絨毯に描かれたアラベスク文様をぼんやりと見下ろした。
朝食はいつも寝室に運んでもらっていたけれど、今朝は食欲がなく、まだ何も食べていなかった。水でも飲もうと考えて、厨房に向かいかけたところで、食欲を刺激する優しい匂いがシャノンの鼻先を掠めた。
シャノンはごくりと息を飲んだ。その匂いは食堂から漂ってきているようで、カトラリーと陶磁器が触れ合う軽やかな音が微かに聞こえてくるようだった。当然といえば当然ではあるけれど、使用人を除けば、この街屋敷で暮らしているのはアーデンとシャノンだけだ。
急激に胸の鼓動が高鳴っていく。シャノンは恐る恐る食堂へと近付いて、開け放たれた扉の陰から室内を覗き込んだ。
最初に目に飛び込んできたのはマホガニーの長いダイニングテーブルだった。白いレース編みのテーブルクロスのうえに、燭台と花瓶とフルーツ篭が並んでいる。一番奥の席には食器が一式揃えられて並んでおり、きっちりとスーツを着たアーデンが新聞を片手に座っていた。湯気の立つコーヒーカップを口元に運ぶその仕草に、なぜだか胸がどきどきする。シャノンが身動きできずにいると、煮詰めた珈琲色の瞳が不意にシャノンに向けられた。
「おはよう」
アーデンが穏やかに笑って言った。シャノンは咄嗟にうなずいて、手持ち無沙汰な指で首筋にかかる後れ毛を引っ張った。アーデンは新聞を置いて席を立つと、まっすぐシャノンの側に歩いてきた。
「ちょうど良かった。どうかな、一緒に朝食でも」
ざらついた低音が心地良く耳に響く。今朝の彼は、髭剃り用石鹸と珈琲の香りがした。
彼が肘を曲げ、腕を差し出したので、シャノンは黙ってうなずいて、彼の腕に手を掛けた。彼はシャノンを自分の右隣の席にエスコートすると、シャノンが料理を取りにサイドボードへ向かうあいだ、黙って椅子のそばに立ち、シャノンが戻るのを待っていてくれた。シャノンは卵と豆の炒め物を皿に取り、心持ち急いで席に戻った。
シャノンとアーデンが朝食で同じ席に着くのは初めてのことだった。結婚して間もない頃から彼は屋敷を空けることが多く、シャノンが知らないうちに食事をとって、入浴を済ませて睡眠をとって、いつのまにか出掛けていることがほとんどだった。だからシャノンはなんとなく、彼はシャノンのそばにいたくないのではないかと考えるようになっていた。
シャノンがナプキンを手に取って膝に掛けると、タイミングを見計らっていたかのようにアーデンが口を開いた。
「午後の予定は?」
シャノンは驚いた。両手を膝の上に置いたまま、彼女はアーデンと向き合った。
「……特になにも。レティに誘われなければ、いつも部屋でぼうっとしているだけですもの」
シャノンが答えると、アーデンは「ほんとうに?」と訝しむように眉を顰めた。
「独身時代とは違うんだ。きみはシャペロンの許可がなくても自由に馬車を使って出掛けられるし、買い物だって好きなように楽しむことができるんだよ」
「そういう贅沢には興味がないの。ひとりで出掛けたって、つまらないでしょう?」
「そういうものかな」
シャノンはうなずいて、卵と豆の料理を口に運んだ。
「どうして急にそんなことを訊くの?」
「どうしてって、わからないのかい?」アーデンは困ったように首を傾げ、言った。「今日はきみの誕生日だろう?」
シャノンは驚いて、今日が何月何日だったか考えた。慌ただしい日々のなかですっかり記憶の隅に追いやられてしまっていたけれど、たしかにアーデンの言うとおり、今日はシャノンとレティの誕生日だった。
「すっかり忘れていたわ」
まばたきしてつぶやくと、アーデンは「きみらしい」と朗らかに笑った。
シャノンはめまぐるしく頭を働かせて、一所懸命に考えた。結婚してからずっとほったらかしだったのに、急に優しくされる理由がわからない。たまたま愛人の都合がつかなかったのか、単なる気まぐれか、それとも、かたちだけの妻の誕生日でも祝う程度の甲斐性はあると言いたいのだろうか。
「では、今日あなたがここにいるのは、私の誕生日を祝うためということ?」
「そういうこと」
アーデンはうなずいて、コーヒーカップに口を付けた。
シャノンは考えた。問題は——どうしようもないのは、シャノンが純粋にこの状況を嬉しく思っていることだった。あれだけ毎日ほったらかしにされていたのに、アーデンが誕生日を覚えていて、こうして気にかけてくれた、たったそれだけのことで、こんなにも心が浮ついて舞い上がってしまうだなんて、まったくもって救いようがない。
「それで、どうする? どこか行きたいところは? 何かぼくにして欲しいことはあるかい?」
アーデンに急かされて、シャノンは笑いだしてしまうのを止められなかった。
「待って、急に言われても思いつかないわ。ほんとうに何を頼んでもいいの?」
「ぼくにできることなら」
「遠くに出かけることもできる?」
「どこにだってお伴しますよ、奥様」
アーデンがにっこり笑い、仰々しく頭を垂れる。シャノンは口元で手を合わせて、声を弾ませて言った。
「それなら、そう……王立公園はどうかしら」
「王立公園? なんでまた、そんないつでも行けるところに? 老舗の宝飾店で宝石をねだったって、有名デザイナーの店で一点物のドレスを仕立てたって構わないのに」
「それなら買い物でもいいわ。なんだっていいのよ、トリスタン。あなたと出掛けられるなら」
そういうわけで、遅い朝食を済ませたあと、アーデンはシャノンをカブリオレに乗せて街へと繰り出した。有名デザイナーの店でオートクチュールのドレスを注文して、老舗の宝飾店で夜会用のアクセサリーを一式揃えて、それからふたりは国立公園で薔薇の展示を見て回った。
どこへ行っても彼はいつもどおり、紳士らしく丁重にシャノンをエスコートしてくれた。シャノンは幸せだった。まるで結婚する前、式の準備で毎日のようにふたり一緒に出かけていたあの頃に戻ったようだった。
カワードテラスにふたりが戻った頃には、すっかり陽が沈んでいた。料理長が腕をふるった晩餐のご馳走の数々をアーデンとふたりで楽しみながら、シャノンはちょっぴり緊張していた。
もしかしたら、今夜はアーデンと一緒にいられるのかもしれない。初夜のアリバイ工作以降、ふたりが同じ部屋で夜を明かしたことはなかったけれど、今夜こそ本当の夫婦になれるのかもしれない。
馬鹿げた考えかもしれないけれど、シャノンにはそれが自分だけの願望ではないように思えていた。晩餐のあいだじゅう、アーデンの熱っぽい視線が絶えずシャノンに向けられていたからだ。肉料理のラズベリーソースが唇についたときだって、何気ないふうを装ってはいたけれど、シャノンが舌で唇を舐めるのを見て、彼は喉を鳴らしていた。
彼の心をものにするなら——レティや愛人から引き離すなら、今夜しかない。
シャノンは意を決して、赤ワインのグラスに手を伸ばした。ちょうどそのとき食堂の扉が開き、アーデンの従者のブライソンがデザートを運んできた。
どうして従僕や客間女中ではなく、彼の従者がデザートを運んできたのだろう。シャノンは不思議に思った。
ブライソンはまずシャノンの隣に立ち、トライフルの載った銀色のトレーを差し出した。シャノンがトライフルを皿に取ると、彼は優雅にお辞儀をして、続いてアーデンの隣に歩み寄った。銀色のトレーを手にしたまま身を屈め、アーデンの耳元で何ごとかを囁くと、アーデンが眉を顰めて席を立った。
シャノンはぎょっとした。勢いよく立ち上がったせいで椅子が大きな音をたて、アーデンの注意を引きつけた。彼は足早にシャノンのそばに歩み寄ると、宥めるようにシャノンに告げた。
「すまない、ダーリン。ちょっと不味いことが起きて」
「出掛けるの?」
一緒に誕生日を祝ってくれるはずだったのに。
シャノンが訊ねると、彼は「ああ」とうなずいて、気不味い表情でシャノンを見た。どうやら良心の呵責はあるようだ。シャノンは震える両手を握り締め、できる限り平静を装ってアーデンに言った。
「私が口を出すべきことではないとわかっているの。でも、そうやって毎晩のように他の女性のところへ出掛けるのは、やめていただけないかしら」
アーデンの珈琲色の瞳が一瞬大きく見開かれた。
言ってはいけないことを口にしてしまった。シャノンはそう直感した。けれど、一度口に出してしまったが最後、シャノンはもう、溢れ出る言葉を止めることができなかった。
「あなたがそうしていると、私は結婚して間もないうちからあなたに飽きられたつまらない女だと世間で噂されてしまうのよ。もちろん、自分は身体を許さないのにあなたが他の女性と関係を持つことを嫌がるなんて、虫が良すぎる話だと思ってる。だから、全ての女性関係を断てとは言わないわ。私はただ、あなたに毎晩のように出掛けるのをやめてほしいだけなの」
アーデンは無言だった。深々と眉間に皺を寄せて、次に返す言葉を真剣に考えているようだった。険悪な様子を見兼ねたのか、ブライソンがふたりの間に割って入った。
「差し出がましいようですが奥様、旦那様は——」
「ブライソン」
アーデンの険しい声が室内に響く。片手を上げてブライソンを退がらせると、彼はシャノンを見下ろして高慢に告げた。
「キス一回だ」
「え……?」
「きみがキスしてくれるなら、今夜は出掛けないと約束しよう」
シャノンは耳を疑った。アーデンにキスをするのが嫌なわけではない。けれど、この状況で、こんなふうに何かの罰のようにキスをするのは違うと思った。シャノンが黙っていると、アーデンは腕を組み、溜め息混じりに続けた。
「残念だけど、ぼくは聖人じゃない。禁欲生活を強いると言うなら、きみはそれなりの代償を支払うべきだ。満足いく見返りがなければ、要求は受け入れられない」
シャノンはうつむいて唇を噛み締めた。アーデンが好きだった。皮肉なことばかり言うけれど、いつだって彼はシャノンに優しかったから。それなのに、誕生日を一緒に過ごして欲しかった、ただそれだけのことで、どうしてこのような辱めを強要されなければならないのかがわからない。
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ふいと顔を背け、アーデンが踵を返す。同時にシャノンは爪先立って、彼のネクタイを引っ張った。唇に唇を押し付けて、言葉の先を封じ込める。その口で、その声で、他の誰かを気にかける言葉なんて、言わせるわけにはいかなかった。
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アーデンの大きな手がうなじを撫でて、シャノンの後頭部を包み込む。唇を合わせる角度が変わり、さらに深く、貪るように吐息が奪われた。
シャノンはもう、まともに考えることすらできなくなっていた。彼の匂いとぬくもりが、思考のすべてを塗り潰していた。彼と自分を隔てるすべてのものを脱ぎ捨てて、彼とひとつになりたかった。初めてに伴う痛みなんて、少しも怖いと思わなかった。身も心もすべて、彼に乱暴に奪い尽くして欲しかった。
ようやく解放されたとき、シャノンは朦朧としていて、自分が今、どのような状況に置かれているのか、すぐには理解できなかった。熱っぽい珈琲色の瞳にみつめられて、シャノンは溺れた犬のように息を喘がせた。
「キス、一回って…」
途切れ途切れにシャノンが言うと、アーデンは口の端を吊り上げて、いつものように皮肉に笑った。
「そう、一回だ。きみが想像していたものとは少々違っていたようだけどね」
少々なんてものじゃない。恥ずかしさと情けなさで頬が真っ赤に染まっていく。シャノンはめいっぱい肩を怒らせて、アーデンを睨み付けた。
「そんなに怒らないでくれ。今夜、ぼくはきみの願いどおり、ひとり孤独に夜を明かさなければならないんだ。少しばかり余興がなくては自分を慰められないだろう?」
茶化すようにそう言って、彼は片目を瞑ってみせた。
「慰めるって……」
シャノンはつぶやいて、赤く染まったその頬をさらに真っ赤に火照らせた。アーデンが「くっ」と声を洩らし、顔を背けた。どうやら彼は、噴き出しそうになるのを堪えているようで、いつもと変わらないその仕草に、シャノンはちょっぴり安堵した。
「約束は守ってくださる?」
シャノンが訊くと、彼は人差し指でシャノンの顎を掬い、親指で唇をなぞりながら囁いた。
「もちろん。安心してゆっくりおやすみ、ダーリン」
「おやすみなさい、トリスタン」
言い終える前に、シャノンは走り出していた。エントランスホールを抜けて階段を駆け上がり、寝室に飛び込んで、扉に背を預けてへたり込む。
心臓が破裂してしまいそうなほど暴れ狂っていた。身体の隅々まであまい痺れに犯されて、下腹部がきゅんと疼くようだった。アーデンの声が、匂いが、ぬくもりが忘れられない。
シャノンはしばらくのあいだ、膝を抱えて床に座っていた。それからふと思い立ち、窓辺に立って外を見た。アーデンの寝室は真っ暗だった。けれど、書斎の窓から微かに明かりが漏れていて、真っ暗な闇夜に一筋の明かりが浮かびあがって見えた。
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これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
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※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
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