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捻くれ子爵の不本意な結婚
◎28
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シャノンが目を覚ますと、隣はすでにもぬけの殻で、窓から差し込む夏の日差しが、窓枠と同じ幾何学模様をシーツと絨毯に描いていた。
「お目覚めかい、ダーリン」
ざらついた低い声にどきりとする。慌てて身を起こすと、洗面台の前に立ったトリスタンがこちらを見ていた。どうやら朝の髭剃りをしていたらしい。彼は麻布のタオルを肩にかけ、角張った顎を撫でていた。濃褐色の髪は無造作に撫で付けられて、襟元は大きく寛げられている。いつもよりも荒っぽいその姿は雄々しく野性味があって、シャノンの胸をいっそうざわつかせた。
「早起きなのね、トリスタン。どこかに出掛けるの?」
シャノンが訊ねると、彼は珈琲色の目を細めて、片側の口の端を吊り上げた。
「きみも早めにそこを出て、出掛ける準備をしたほうが良い。せっかちなきみの姉さんが、さっききみを迎えに来た」
「レティが? どうして?」
「きみとふたりで庭園を散策したいらしい。丁度良かったよ。ぼくはこれから紳士の集いに付き合わなければならないからね」
「どこかに行くの?」
「湖の向こう側に森があっただろう? そこで狩りをするんだ。上手くいけば、鹿肉料理や雉料理が晩餐に並ぶかもしれない」
シャノンと話をしているうちに、彼は手早くシャツのボタンを留め、茶色のベストを身に付けて、黒いジャケットに腕を通した。
毎年恒例のこのハウスパーティーでは、紳士達はラーズクリフ伯爵の、淑女達はレディ・ラーズクリフのもてなしを受ける。二日目、三日目の昼間、紳士達はセオドア・ガーデンの広大な自然の中で、狩りや乗馬や野外ゲームに興じるらしい。一方で、淑女達は庭園の散策やお茶会や室内ゲームを楽しむことになっており、四日目の午後に晩餐会と舞踏会が控えていた。もちろん参加は任意だけれど、親友の丁重なもてなしをトリスタンが断る理由はないはずだ。
「着いて早々きみをひとりにするのは忍びないけど、ぼくはもう行かなければ。後のことはアナに任せてあるから、好きなときに呼ぶと良い」
「ええ、わかったわ、トリスタン。晩餐では雉料理が食べたいわ」
シャノンがにっこり笑って言うと、彼は「任せて」と笑い、シャノンにくるりと背を向けた。それから扉に向かいかけた足をぴたりと止めて、わずかに躊躇ったあと、ベッドの前までやってきて、初めて散歩に出かけた日、テラスハウスの応接室でそうしたように、シャノンの前で素早く身を屈めた。
「良い子にしているんだよ、ダーリン」
吐息混じりにそう囁いて、彼はシャノンの頬に口付けた。
***
「あきれた! 怪しいとは思っていたけど、ここまで人目につかない場所だったなんて!」
ツゲの生垣を見上げてレティが声をあげたので、シャノンは改めてぐるりと周囲を見渡した。まるで庭園の一角を外界から切り取るようにして、オールドローズで飾られたツゲの生垣が煉瓦敷きの小道の脇に聳え立っている。花殻の剪定を終えたモッコウバラがアーケードをつくり、生い茂る木の葉の隙間からこぼれ落ちた光が足元を淡く照らしていた。
セオドア・ガーデンの広大な敷地には複数の区画があって、それらは大きく分けてふたつの形式——領主館を取り囲む風景式庭園と、刺繍模様花壇やトピアリーが美しい、人の手を感じさせる整形式庭園——に分かれていた。シャノンたちが今いる迷路は、それらの整形式庭園のひとつだ。シャノンは小道の端でしゃがみ込み、チェリーセージのほんのり甘い香りを楽しみながら、腰の両側に手を置いて肩を怒らせているレティに言った。
「でも、静かで幻想的で、とてもロマンチックな場所だと思うわ。意中の相手を誘うにはぴったりの庭よ」
「そうかしら。樹々や草花のかたちを無理矢理に人の手で造り変えるなんて悪趣味よ。屋敷の主人と同じように、傲慢で支配的な庭だわ」
刺々しい口調でそう言って、レティはシャノンに向き直った。
「それからシャノン、『意中』だなんて冗談でも言わないで」
「ねえ、レティ、どうしてそんなにラーズクリフ伯爵のことを毛嫌いするの? 彼は親切で礼儀正しい方じゃない」
「親切で礼儀正しい?」美しく整ったレティの細い眉が吊り上がる。「未婚の女性をこんな人目につかない場所に散歩に誘うような男が?」
シャノンの言葉を鼻で笑い飛ばし、レティは胸の前で腕を組んだ。
「とにかく彼の提案は却下ね。散歩をするにしても、もっと安全な場所に変えてもらわないと」
トリスタンが紳士達と連れ立って狩りに出ているあいだ、シャノンはレティと一緒に庭園を散歩することにした。どうやらレティはラーズクリフ伯爵に午後の散歩に誘われているらしく、彼が案内したいという庭園の下見を兼ねて、シャノンをここに連れて来たらしい。禁欲を花言葉に持つツゲの生垣で囲まれたこのメイズは、確かにレティの言うとおり、未婚の男女が訪れるには、少々親密すぎる空気がある。
「それで、彼には会えそうなの?」
シャノンが立ち上がり、スカートの裾を払いながら訊くと、レティはゆっくり首を横に振った。
「わからないわ。今のところ、それらしいひとは見かけていないの。ラーズクリフが狩りから戻ったら、その件について問い詰めるつもりよ」
ラーズクリフ伯爵を問い詰める。レティの計画を聞きながら、シャノンは瞳を翳らせた。シャノンはレティの物怖じしない性格が羨ましかった。シャノンもレティのように、トリスタンに愛人のことをはっきり問い質すことができたなら、どんなに良かったことだろう。
「なんだか浮かない顔ね。まさか、あの男が約束を破って妻の務めを無理強いしたわけじゃないわよね?」
訝しむようにレティが言ったので、シャノンは慌てて首を振った。
「彼は誠実よ。約束もちゃんと守ってくれているわ。約束を守れそうにないのは……むしろ私のほうなのよ」それからシャノンはうつむいて、もう一言付け加えた。「彼、愛人がいるみたいなの」
沈黙がメイズに降りる。堪えきれずに顔を上げると、レティはさして驚いた様子もなく、シャノンの顔をまっすぐ見ていた。レティは社交の場での噂話から情報を集めるのが得意だった。シャノンに言わなかっただけで、彼女はきっとずっと以前から、トリスタンの女性関係について知っていたのだ。
レティの菫色の瞳に促されるようにして、シャノンは続けた。
「お互いに干渉しないと約束したのに、私、彼に愛人と別れて欲しいと思っているの。彼が他の女性と話をするのも嫌なのよ。私だけを見て欲しいって、勝手なことを考えてる」
「重症ね」レティが言った。「彼女はここに来ているの?」
シャノンは首を振り、「わからないわ」とつぶやいた。それからレティに駆け寄って、縋るようにその言葉を口にした。
「ねえ、レティ、このあとラーズクリフ伯爵に会うのでしょう? シシリー子爵のことだってあるし、招待客のリストを見せてもらうわけにはいかないかしら」
レティはふうと溜め息をつくと、穏やかで慈悲深い、優しい眼差しでシャノンをみつめた。
「できるかどうかはわからないけど、頼むだけ頼んでみるわ」
そう言ってシャノンの手を取ると、彼女はゆっくりとした足取りで煉瓦敷きの小道を歩きだした。
「お目覚めかい、ダーリン」
ざらついた低い声にどきりとする。慌てて身を起こすと、洗面台の前に立ったトリスタンがこちらを見ていた。どうやら朝の髭剃りをしていたらしい。彼は麻布のタオルを肩にかけ、角張った顎を撫でていた。濃褐色の髪は無造作に撫で付けられて、襟元は大きく寛げられている。いつもよりも荒っぽいその姿は雄々しく野性味があって、シャノンの胸をいっそうざわつかせた。
「早起きなのね、トリスタン。どこかに出掛けるの?」
シャノンが訊ねると、彼は珈琲色の目を細めて、片側の口の端を吊り上げた。
「きみも早めにそこを出て、出掛ける準備をしたほうが良い。せっかちなきみの姉さんが、さっききみを迎えに来た」
「レティが? どうして?」
「きみとふたりで庭園を散策したいらしい。丁度良かったよ。ぼくはこれから紳士の集いに付き合わなければならないからね」
「どこかに行くの?」
「湖の向こう側に森があっただろう? そこで狩りをするんだ。上手くいけば、鹿肉料理や雉料理が晩餐に並ぶかもしれない」
シャノンと話をしているうちに、彼は手早くシャツのボタンを留め、茶色のベストを身に付けて、黒いジャケットに腕を通した。
毎年恒例のこのハウスパーティーでは、紳士達はラーズクリフ伯爵の、淑女達はレディ・ラーズクリフのもてなしを受ける。二日目、三日目の昼間、紳士達はセオドア・ガーデンの広大な自然の中で、狩りや乗馬や野外ゲームに興じるらしい。一方で、淑女達は庭園の散策やお茶会や室内ゲームを楽しむことになっており、四日目の午後に晩餐会と舞踏会が控えていた。もちろん参加は任意だけれど、親友の丁重なもてなしをトリスタンが断る理由はないはずだ。
「着いて早々きみをひとりにするのは忍びないけど、ぼくはもう行かなければ。後のことはアナに任せてあるから、好きなときに呼ぶと良い」
「ええ、わかったわ、トリスタン。晩餐では雉料理が食べたいわ」
シャノンがにっこり笑って言うと、彼は「任せて」と笑い、シャノンにくるりと背を向けた。それから扉に向かいかけた足をぴたりと止めて、わずかに躊躇ったあと、ベッドの前までやってきて、初めて散歩に出かけた日、テラスハウスの応接室でそうしたように、シャノンの前で素早く身を屈めた。
「良い子にしているんだよ、ダーリン」
吐息混じりにそう囁いて、彼はシャノンの頬に口付けた。
***
「あきれた! 怪しいとは思っていたけど、ここまで人目につかない場所だったなんて!」
ツゲの生垣を見上げてレティが声をあげたので、シャノンは改めてぐるりと周囲を見渡した。まるで庭園の一角を外界から切り取るようにして、オールドローズで飾られたツゲの生垣が煉瓦敷きの小道の脇に聳え立っている。花殻の剪定を終えたモッコウバラがアーケードをつくり、生い茂る木の葉の隙間からこぼれ落ちた光が足元を淡く照らしていた。
セオドア・ガーデンの広大な敷地には複数の区画があって、それらは大きく分けてふたつの形式——領主館を取り囲む風景式庭園と、刺繍模様花壇やトピアリーが美しい、人の手を感じさせる整形式庭園——に分かれていた。シャノンたちが今いる迷路は、それらの整形式庭園のひとつだ。シャノンは小道の端でしゃがみ込み、チェリーセージのほんのり甘い香りを楽しみながら、腰の両側に手を置いて肩を怒らせているレティに言った。
「でも、静かで幻想的で、とてもロマンチックな場所だと思うわ。意中の相手を誘うにはぴったりの庭よ」
「そうかしら。樹々や草花のかたちを無理矢理に人の手で造り変えるなんて悪趣味よ。屋敷の主人と同じように、傲慢で支配的な庭だわ」
刺々しい口調でそう言って、レティはシャノンに向き直った。
「それからシャノン、『意中』だなんて冗談でも言わないで」
「ねえ、レティ、どうしてそんなにラーズクリフ伯爵のことを毛嫌いするの? 彼は親切で礼儀正しい方じゃない」
「親切で礼儀正しい?」美しく整ったレティの細い眉が吊り上がる。「未婚の女性をこんな人目につかない場所に散歩に誘うような男が?」
シャノンの言葉を鼻で笑い飛ばし、レティは胸の前で腕を組んだ。
「とにかく彼の提案は却下ね。散歩をするにしても、もっと安全な場所に変えてもらわないと」
トリスタンが紳士達と連れ立って狩りに出ているあいだ、シャノンはレティと一緒に庭園を散歩することにした。どうやらレティはラーズクリフ伯爵に午後の散歩に誘われているらしく、彼が案内したいという庭園の下見を兼ねて、シャノンをここに連れて来たらしい。禁欲を花言葉に持つツゲの生垣で囲まれたこのメイズは、確かにレティの言うとおり、未婚の男女が訪れるには、少々親密すぎる空気がある。
「それで、彼には会えそうなの?」
シャノンが立ち上がり、スカートの裾を払いながら訊くと、レティはゆっくり首を横に振った。
「わからないわ。今のところ、それらしいひとは見かけていないの。ラーズクリフが狩りから戻ったら、その件について問い詰めるつもりよ」
ラーズクリフ伯爵を問い詰める。レティの計画を聞きながら、シャノンは瞳を翳らせた。シャノンはレティの物怖じしない性格が羨ましかった。シャノンもレティのように、トリスタンに愛人のことをはっきり問い質すことができたなら、どんなに良かったことだろう。
「なんだか浮かない顔ね。まさか、あの男が約束を破って妻の務めを無理強いしたわけじゃないわよね?」
訝しむようにレティが言ったので、シャノンは慌てて首を振った。
「彼は誠実よ。約束もちゃんと守ってくれているわ。約束を守れそうにないのは……むしろ私のほうなのよ」それからシャノンはうつむいて、もう一言付け加えた。「彼、愛人がいるみたいなの」
沈黙がメイズに降りる。堪えきれずに顔を上げると、レティはさして驚いた様子もなく、シャノンの顔をまっすぐ見ていた。レティは社交の場での噂話から情報を集めるのが得意だった。シャノンに言わなかっただけで、彼女はきっとずっと以前から、トリスタンの女性関係について知っていたのだ。
レティの菫色の瞳に促されるようにして、シャノンは続けた。
「お互いに干渉しないと約束したのに、私、彼に愛人と別れて欲しいと思っているの。彼が他の女性と話をするのも嫌なのよ。私だけを見て欲しいって、勝手なことを考えてる」
「重症ね」レティが言った。「彼女はここに来ているの?」
シャノンは首を振り、「わからないわ」とつぶやいた。それからレティに駆け寄って、縋るようにその言葉を口にした。
「ねえ、レティ、このあとラーズクリフ伯爵に会うのでしょう? シシリー子爵のことだってあるし、招待客のリストを見せてもらうわけにはいかないかしら」
レティはふうと溜め息をつくと、穏やかで慈悲深い、優しい眼差しでシャノンをみつめた。
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