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捻くれ子爵の不本意な結婚
◇29
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遠くで銃声が鳴り響き、野鳥の群れが一斉にばさばさと翼を羽ばたかせて飛び立った。トリスタンは構えていた猟銃を下ろし、樹々の向こう——岩が点在する傾斜の緩やかな丘の頂きを仰ぎ見た。
朝早くにセオドア・マナーを出た紳士たちは、ふたつのグループに分かれて狩りをしていた。先ほどの銃声は鹿狩りのグループが向かった丘からのもので、例年であれば、トリスタンもそちらのグループに加わっていた。けれど、今年は事情が違っている。道の先に視線を戻すと、雉は相変わらず草に覆われた傾斜のうえをちょこちょこと走って——いや、歩いていた。
雉は先ほど森を騒がせた野鳥とは違う。鳥のくせに空を飛ぶのが苦手なのか、勢子や猟犬に空へと追いやられるまで地面の上を歩いて逃げる。撃ち殺すのは簡単だが、狩り仲間やゲームキーパー、部外者の人間に怪我を負わせる事故を防ぐため、一度空に舞い上がらせてから撃ち落とすのが暗黙のルールだ。逃げることそのものが不得手に思えるこの鳥を撃ち殺すのは、男を上手くあしらえない無垢な乙女に言い寄るのと同様に、少々気を咎めるものがある。
「調子が悪そうだな。寝不足か?」
聞き慣れた声に振り返る。前裾がウエストでカットされた紺のジャケットにベージュのブリーチズといった、典型的なハンティングスタイルのラーズクリフが、猟銃を片手に樹々の合間から現れた。トリスタンは小首を傾げ、皮肉に口の端を吊り上げた。
ラーズクリフの言うとおりだ。昨夜、散々シャノンに煽られて、そのままふたりでベッドに入るという苦行を課せられて、トリスタンは寝不足だった。ささやかな仕返しに、部屋を出る前、不意打ちでキスをお見舞いしてやったものの、ほんのりあまい彼女の匂いと、唇が感じ取った柔らかな肌の感触のせいで、余計に自分を苦しめただけだった。
「いや、単純な話、ぼくは小銃は得意だけど散弾銃は苦手なんだ」
「なるほど。確かに私も、アーデン卿は牡鹿を撃ち殺すのが趣味なのだと思っていた。雉狩りのグループに加わるとは、いったいどんな了見だ?」
「人聞きの悪い言い方はやめてくれ」トリスタンは軽く肩をすくめた。「妻が雉料理をご所望なんだ。期待に応えないわけにはいかないだろう?」
「随分な愛妻家だな。よほど新妻が可愛いと見える」
「ああ、可愛いね。きみも結婚するといい。ぼくの気持ちがわかるだろうさ」
トリスタンが言うと、ラーズクリフは戯れ言だと鼻で笑い、猟銃を構えて、ビーターが道の先で空へと追いやった雉を楽々と撃ち落とした。
「私の結婚事情はきみとは違う。面倒な誓約に縛られる前に、もうしばらく独身生活を楽しみたいね」
「それが、ミス・メイウッドを招待した理由か?」
トリスタンの問いに、ラーズクリフは不敵に笑って首を振った。
ヴァイオレットを連れてきたのは正解だった、とトリスタンは思っていた。今の彼は欲求不満を拗らせていて、シャノンとふたりで過ごしていると何をしでかしてしまうかわからない。彼が紳士達と過ごすあいだ、信用できる女性がシャノンのそばにいてくれるのは、本当にありがたいことだった。
一方で彼は、ヴァイオレットをここに連れてきたのは間違いだったのではないかとも思っていた。招待を受けた当初、彼はラーズクリフがシャノンのことを気遣ってヴァイオレットとミセス・ドノヴァンの同行を勧めたものだと思っていたが、その考えが間違いだったと気付いてしまったからだ。
「ラーズクリフ、きみに確認しておきたいことがあるんだ」
猟銃の安全装置を掛け直し、トリスタンは切り出した。ラーズクリフはもう一羽雉を撃ち落とすと、トリスタンを振り返り、怪訝そうに眉を顰めた。
「ミス・メイウッドのことだ。招待状を受け取った当初では、ぼくはきみが妻のことを気遣って、彼女の同行を許してくれたものだと思っていた。けれど、どうもその考えは間違っていた気がしてならない。いったいなぜ、彼女をぼくらに同行させたんだ?」
ラーズクリフは素知らぬ顔で、控えていた従僕に猟銃を手渡した。それから革の手袋をゆっくりとした手付きではめ直した。勿体ぶったその様子に微かに苛立ちを覚え、トリスタンは続けて言った。
「安定志向のきみのことだ。中産階級の娘に求婚するとは思えない。火遊び気分で彼女に手を出すつもりなら、ぼくは全力できみを非難するぞ」
突然、ラーズクリフが纏う空気が変わった。突き付けられたあからさまな敵意に、トリスタンは一瞬言葉を失った。
「驚いたな。妹を妻に娶っておきながら、まだ彼女に執着しているのか?」
「そんなんじゃない。彼女はぼくの愛する妻が最も大切に思う人だ。今となっては、ぼくの数少ない家族でもある。家族が食い物にされるのを、黙って見過ごすわけにはいかない」
「なるほど。私が信用できないわけだ」
ラーズクリフが仄暗い笑みを浮かべる。その声には、どこか得体の知れない感情が滲んでいた。
「勘違いしないでくれ。ぼくは貴族としてのきみのことは信頼している。きみの領地経営の手腕や事業展開における先見は見事なものだし、ノブレス・オブリージュを指針とする領地と領民への在り方は尊敬に値すると思ってる」
「だが、男としての人間性は信頼に値しない」
トリスタンの言葉を遮って、ラーズクリフはにやりと笑った。トリスタンは困惑した。いったい彼は、何をそんなにムキになっているんだ?
ラーズクリフとは二十年近くの付き合いになるが、トリスタンが知る限り、彼が誠実さに欠けた言動を取ったことはない。彼に真摯に扱われて勝手にのぼせあがる女性は多いが、彼自身が女性に対して思わせぶりな態度を取ることはない。確かに彼は信頼できる。信頼に値するはずなのだが……ことヴァイオレットに関しては、何か腑に落ちないものがあった。
もし仮にラーズクリフの不機嫌の原因が、トリスタンにヴァイオレットとのことについて口を出されたことだとしたら。彼がヴァイオレットを憎からず思っているのだとしたら、大問題だ。
トリスタンには、シャノンやヴァイオレットが望むようなかたちでラーズクリフがヴァイオレットを愛する姿が想像できない。ラーズクリフが結婚に——彼の妻に求めるものが、ヴァイオレットにはなにひとつ備わっていないからだ。由緒ある家柄、高貴な血筋はもちろん、品位のある振る舞いは付け焼き刃だと知られているし、人に愛される資質は男を誑かすだけのものだと思われている。
ラーズクリフは愛のために他のものを犠牲にしたりしない。たとえ本心ではヴァイオレットに惹かれていたとしても、彼は必ず、誰もが認める良家の令嬢を結婚相手に選ぶはずだ。そして、その結果導かれる結末は悲劇でしかない。
「気を悪くしたなら謝るよ。ぼくはただ…」
トリスタンがふたたび口を開いたときにはすでに、ラーズクリフはいつものように落ち着き払っていた。彼は穏やかな笑みを浮かべ、従僕から猟銃を受け取ると、トリスタンを振り返って言った。
「心配には及ばない。ミス・メイウッドは賢い女性だ。私のような毒のある男に誘惑されたりしないよ。そんなことよりも、明後日の晩餐ではイヴェットも同席する。席順はきみの隣だ。良いようにしてやってくれ」
朝早くにセオドア・マナーを出た紳士たちは、ふたつのグループに分かれて狩りをしていた。先ほどの銃声は鹿狩りのグループが向かった丘からのもので、例年であれば、トリスタンもそちらのグループに加わっていた。けれど、今年は事情が違っている。道の先に視線を戻すと、雉は相変わらず草に覆われた傾斜のうえをちょこちょこと走って——いや、歩いていた。
雉は先ほど森を騒がせた野鳥とは違う。鳥のくせに空を飛ぶのが苦手なのか、勢子や猟犬に空へと追いやられるまで地面の上を歩いて逃げる。撃ち殺すのは簡単だが、狩り仲間やゲームキーパー、部外者の人間に怪我を負わせる事故を防ぐため、一度空に舞い上がらせてから撃ち落とすのが暗黙のルールだ。逃げることそのものが不得手に思えるこの鳥を撃ち殺すのは、男を上手くあしらえない無垢な乙女に言い寄るのと同様に、少々気を咎めるものがある。
「調子が悪そうだな。寝不足か?」
聞き慣れた声に振り返る。前裾がウエストでカットされた紺のジャケットにベージュのブリーチズといった、典型的なハンティングスタイルのラーズクリフが、猟銃を片手に樹々の合間から現れた。トリスタンは小首を傾げ、皮肉に口の端を吊り上げた。
ラーズクリフの言うとおりだ。昨夜、散々シャノンに煽られて、そのままふたりでベッドに入るという苦行を課せられて、トリスタンは寝不足だった。ささやかな仕返しに、部屋を出る前、不意打ちでキスをお見舞いしてやったものの、ほんのりあまい彼女の匂いと、唇が感じ取った柔らかな肌の感触のせいで、余計に自分を苦しめただけだった。
「いや、単純な話、ぼくは小銃は得意だけど散弾銃は苦手なんだ」
「なるほど。確かに私も、アーデン卿は牡鹿を撃ち殺すのが趣味なのだと思っていた。雉狩りのグループに加わるとは、いったいどんな了見だ?」
「人聞きの悪い言い方はやめてくれ」トリスタンは軽く肩をすくめた。「妻が雉料理をご所望なんだ。期待に応えないわけにはいかないだろう?」
「随分な愛妻家だな。よほど新妻が可愛いと見える」
「ああ、可愛いね。きみも結婚するといい。ぼくの気持ちがわかるだろうさ」
トリスタンが言うと、ラーズクリフは戯れ言だと鼻で笑い、猟銃を構えて、ビーターが道の先で空へと追いやった雉を楽々と撃ち落とした。
「私の結婚事情はきみとは違う。面倒な誓約に縛られる前に、もうしばらく独身生活を楽しみたいね」
「それが、ミス・メイウッドを招待した理由か?」
トリスタンの問いに、ラーズクリフは不敵に笑って首を振った。
ヴァイオレットを連れてきたのは正解だった、とトリスタンは思っていた。今の彼は欲求不満を拗らせていて、シャノンとふたりで過ごしていると何をしでかしてしまうかわからない。彼が紳士達と過ごすあいだ、信用できる女性がシャノンのそばにいてくれるのは、本当にありがたいことだった。
一方で彼は、ヴァイオレットをここに連れてきたのは間違いだったのではないかとも思っていた。招待を受けた当初、彼はラーズクリフがシャノンのことを気遣ってヴァイオレットとミセス・ドノヴァンの同行を勧めたものだと思っていたが、その考えが間違いだったと気付いてしまったからだ。
「ラーズクリフ、きみに確認しておきたいことがあるんだ」
猟銃の安全装置を掛け直し、トリスタンは切り出した。ラーズクリフはもう一羽雉を撃ち落とすと、トリスタンを振り返り、怪訝そうに眉を顰めた。
「ミス・メイウッドのことだ。招待状を受け取った当初では、ぼくはきみが妻のことを気遣って、彼女の同行を許してくれたものだと思っていた。けれど、どうもその考えは間違っていた気がしてならない。いったいなぜ、彼女をぼくらに同行させたんだ?」
ラーズクリフは素知らぬ顔で、控えていた従僕に猟銃を手渡した。それから革の手袋をゆっくりとした手付きではめ直した。勿体ぶったその様子に微かに苛立ちを覚え、トリスタンは続けて言った。
「安定志向のきみのことだ。中産階級の娘に求婚するとは思えない。火遊び気分で彼女に手を出すつもりなら、ぼくは全力できみを非難するぞ」
突然、ラーズクリフが纏う空気が変わった。突き付けられたあからさまな敵意に、トリスタンは一瞬言葉を失った。
「驚いたな。妹を妻に娶っておきながら、まだ彼女に執着しているのか?」
「そんなんじゃない。彼女はぼくの愛する妻が最も大切に思う人だ。今となっては、ぼくの数少ない家族でもある。家族が食い物にされるのを、黙って見過ごすわけにはいかない」
「なるほど。私が信用できないわけだ」
ラーズクリフが仄暗い笑みを浮かべる。その声には、どこか得体の知れない感情が滲んでいた。
「勘違いしないでくれ。ぼくは貴族としてのきみのことは信頼している。きみの領地経営の手腕や事業展開における先見は見事なものだし、ノブレス・オブリージュを指針とする領地と領民への在り方は尊敬に値すると思ってる」
「だが、男としての人間性は信頼に値しない」
トリスタンの言葉を遮って、ラーズクリフはにやりと笑った。トリスタンは困惑した。いったい彼は、何をそんなにムキになっているんだ?
ラーズクリフとは二十年近くの付き合いになるが、トリスタンが知る限り、彼が誠実さに欠けた言動を取ったことはない。彼に真摯に扱われて勝手にのぼせあがる女性は多いが、彼自身が女性に対して思わせぶりな態度を取ることはない。確かに彼は信頼できる。信頼に値するはずなのだが……ことヴァイオレットに関しては、何か腑に落ちないものがあった。
もし仮にラーズクリフの不機嫌の原因が、トリスタンにヴァイオレットとのことについて口を出されたことだとしたら。彼がヴァイオレットを憎からず思っているのだとしたら、大問題だ。
トリスタンには、シャノンやヴァイオレットが望むようなかたちでラーズクリフがヴァイオレットを愛する姿が想像できない。ラーズクリフが結婚に——彼の妻に求めるものが、ヴァイオレットにはなにひとつ備わっていないからだ。由緒ある家柄、高貴な血筋はもちろん、品位のある振る舞いは付け焼き刃だと知られているし、人に愛される資質は男を誑かすだけのものだと思われている。
ラーズクリフは愛のために他のものを犠牲にしたりしない。たとえ本心ではヴァイオレットに惹かれていたとしても、彼は必ず、誰もが認める良家の令嬢を結婚相手に選ぶはずだ。そして、その結果導かれる結末は悲劇でしかない。
「気を悪くしたなら謝るよ。ぼくはただ…」
トリスタンがふたたび口を開いたときにはすでに、ラーズクリフはいつものように落ち着き払っていた。彼は穏やかな笑みを浮かべ、従僕から猟銃を受け取ると、トリスタンを振り返って言った。
「心配には及ばない。ミス・メイウッドは賢い女性だ。私のような毒のある男に誘惑されたりしないよ。そんなことよりも、明後日の晩餐ではイヴェットも同席する。席順はきみの隣だ。良いようにしてやってくれ」
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