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龍の生きた時代

大地を血に染めて 5

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「その報告、間違いないのか?」

 曹操軍の主だった武将や軍師が集まる幕舎の中で、郭嘉は伝令に念を押す。

「はい、間違いありません。徐州城に残った陳登が呂布を裏切り、こちらに寝返りました。それによって呂布は徐州城を追われ、逃亡した模様」

「っしゃ!」

 郭嘉は短くだが、それでも勝ちを確信した様に声を上げる。

 曹操軍にしても、今回の侵攻は賭けの要素が強い事は否めなかった。

 それは作戦を立てた郭嘉が一番良く知っていた。

 呂布軍の強さを知り過ぎている曹操軍にとって、呂布と戦って勝つと言う目標を掲げた時、その士気は大きくくじかれる事になる。

 それでも曹操軍にとって、これからの戦いの為にも『天下無双の呂布軍にさえ、曹操軍は打ち破る事が出来た』と言う実績がどうしても欲しかった。

 しかし、戦場での呂布の強さは常識が通用しない破格と評するに足る実力者であり、十倍の兵力で取り囲んだとしても討ち取れるかは分からないほどである。

 が、呂布とて非常識な戦闘能力を有しているとはいえ、人間である事は違いない。

 尋常ならざる実力者である呂布であったとしても、連戦を可能にするには充分な補給と休息は絶対条件である。

 つまり、曹操軍が呂布軍に勝利する為には補給と休息の機会を奪う事が急所になると郭嘉は睨んだ。

 呂布軍にとってもっとも重要な拠点は、当然本拠地となる徐州城なのだがそれを落とすと言う事が、そもそも至難なのである。

 曹操と荀彧が徐州内に内応者を作る為に動いている事は知っていたので、それは二人に任せて郭嘉は呂布軍を本拠地から引っ張り出す方法を考えていた。

 とはいえ、相手はあの陳宮である。

 こちらが意図した通りに動かそうとした場合、こちらの狙いを看破される事になってしまうと、確実に対策されてしまう。

 陳宮は軍師としての資質もさる事ながら、自ら戦場に出て兵を指揮する事も出来る稀有な人物でもあり、実戦経験も豊富である。

 そこで郭嘉は通常の策とは真逆の方法で策を練った。

 一般的に策を練る時には相手から対策されない方法を編み出し、それによって勝利すると言うものなのだが、相手が並外れた実力者である場合は上手くいかず、逆に裏を突かれる恐れがある。

 今回は勝つ条件の前提として、本拠点から呂布軍の主力を引っ張り出す事であり、陳宮に本拠地から出て戦うしか対策出来ない方法を考える事にしたのだ。

 もし郭嘉が陳宮だった場合、どうすれば外に迎撃に向かおうとするか。

 そうして考えたのが、大軍による短期決戦である。

 郭嘉であればそれに対して遅滞戦の戦術で対抗するだろうと判断し、陳宮であれば必ずその方法に至る事も確信した。

 問題になるのは人選である。

 短期決戦を望み、相手が遅滞戦を望んでいるのであれば必ず伏兵が待っている。

 先鋒の役割は伏兵を引き出す事であり、もっとも過酷な役割になる。

 場合によっては、と言うより極めて高い確率で命を落とす事になるほど危険な役割であり、誰もそれをやりたがらないのではないかと言う不安があった。

 が、曹操軍の勇将達は軍師の感覚とはまったく違う価値観の持ち主であり、それぞれに実力と胆力を持ち合わせている者が多かった。

 最初に郭嘉が候補に上げたのは、楽進だった。

 充分な戦働きが出来る武将で、いざと言う時に臆病風に吹かれる事の無い胆力を持ち、かつ現時点で失っても曹操軍に対して大きな損害にならない武将と言う条件を、楽進は全て備えていると思えたのだ。

 しかし、それに異を唱えたのが夏侯惇である。

 策の全貌を話した時、夏侯惇は楽進では名の通りに問題があり、伏兵が先鋒隊である楽進をやり過ごし後続の本隊に向けて攻撃してくる事も考えられる。

 そうなっては陳宮の望む遅滞戦に持ち込まれ、行動の自由を得た呂布と野戦を強いられる恐れがあると指摘した。

 自分が武勲を立てたいと言うより、以前の雪辱の機会を強く望んでいるのは郭嘉にも分かったが、それでも夏侯惇の指摘は一理ある。

 それで郭嘉の策は完成したのだが、新たな問題が発生した。

 内応者と条件を詰めたいと思っていたのだが、陳宮の締めつけが想像以上に強く内応者と接触出来なくなってしまったのである。

「……と言うより、内応者って誰だ?」

 郭嘉は荀彧にそんな事を尋ねた時、荀彧は露骨に呆れ顔になった。

 戦が無い時の郭嘉は賭場に入り浸り、勝ったり負けたり勝ったり勝ったりしてはそこで出来た金で酒と娼婦を買い漁ると言う、これ以上は無いほど風紀を乱す問題児である。

 そんな郭嘉だったので、孫策の使いが許昌に来た事さえ知らなかった。

 それでも曹操と荀彧が対呂布戦の切り札として内応者を作っている事は知っていたので、話はついていると思い込んでいたのだが実際には相手に提案したところまでしか進んでいないと言う。

 実際に内応するかどうかは賭けの部分が大きくなったが、夏侯惇は自らの右目を失いながらもこちらの期待以上の働きを見せ、徐州の者達の心胆を寒からしめる武勇を示した。

 おそらくそれに背中を押されて、徐州の臣下はこちらに寝返ったのだろう。

 気位の高い夏侯惇が自ら潰れ役を引き受け、実際に軍を率いるのは夏侯淵と言う事も飲み込んでくれた事も大きかった。

 伝令の報告を受けた時に勝ちを確信したのは郭嘉だけでなく、曹操軍のほとんどが同じように感じた。

「それで、呂布はどこに逃げたんだ? と言っても、呂布の逃げる先は江東しか残っていないだろうが」

 郭嘉は笑いながら言う。

 これは郭嘉だけでなく、現状の呂布にとってそれしか逃げる先が無いと言うだけである。

 本来であれば袁紹のところに逃げ込みたいだろうが、呂布はすでに袁紹の元を追われている。

 元の拠点と言えなくもない荊州も親袁紹派の劉表なので、迎え入れられる確証は無い。

 それに対して孫策は友好関係であり、呂布を快く迎え入れる事だろう。

 そこで問題になるのが、陸路では江東へ行けない事である。

 どこかで必ず船が必要になり、その時に徐州軍と衝突する時が来る。

 そこを狙って曹操軍が呂布軍を一網打尽にする。

 郭嘉にはそこまでの詰み筋が見えていた。

 郭嘉に見えていると言う事は曹操や荀彧、そして陳宮にもその詰み筋が見えているはずだった。

「呂布軍は徐州城を追われた後、北上して下邳かひに入りました」

 と言う報告は、郭嘉の予想の範疇に無い答えだった。

「……あ? どこだと?」

「下邳です」

 その伝令の答えに、勝ちを確信して浮ついていた幕舎の中の空気が揺れる。

「地図を」

 これまで特に何も言ってこなかった荀彧が、いち早く言う。

 すぐに徐州の地図が広げられる。

 下邳城は徐州城から北西にあり、城としての規模はさほど大きくはない。

「劉備を呼べ」

 郭嘉が兵士に言うと、目を地図に向ける。

 下邳城は徐州北方を守る城である事は間違いないところだが、だからと言って最前線と言う訳でもない。

 そう言う城なので城塞都市と言うほどの防衛力も無く、最後に縋る城としては少々心許無い城と言うのが郭嘉の印象である。

 いや、そうじゃない。あの陳宮が最後に身を寄せた城として選んだ場所である以上、何かここであるべき理由があるのではないか。
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