Cat walK【完結】

Lucas

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映画監督から見た世界

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 僕の家の中はあまり感染が始まっていないので比較的過ごしやすい。
「宅配便が届いてるわよ」
 玄関の扉が僕を呼ぶ。人間を無理やり長方形に引き延ばした彼女はドアノブ代わりの手をこちらに向かってヒラヒラと振った。僕の家の扉が女性だとは思わなかったな。扉を開ける度に、女性と握手することになるとは。
「どうも」
 手首を軽く捻るようにして扉を開ける。そこには、大きな段ボール箱が一つ。置き配というのは便利なシステムだ。以前までは対面で受け取りをしていたが、たまに伝票の宛名と僕を見比べられた。女でも男でも通る名前なので判断がつきかねているのか。そうやって見られるのは非常に気味が悪かった。
 僕は手早く荷物を部屋の中に入れる。虫が部屋に入ったら大変だ。
 僕は虫が大の苦手で、絶対に今度は高層階に住もうと思っていた。今はこのアパートで我慢している。でも、ゴキブリもクモも出なくて快適だ。とはいえ、今は何でも感染してしまえば同じなので、もうそれほど怖がる必要はなかったのかもしれない。
 さっそく箱を開ける。中身は昨日あの女が注文した離乳食や子ども服だ。
 昨日は結局パンを与えた。とくに嫌がりもしないし、泣きもしなかった。あの女は一回りは離れている兄弟の面倒を見ていたと言っていたわりに使えない。そろそろお金もきついし呼ぶのやめようかな。脚本さえできあがればもう用はない。
豆太まめた、服が届いたよ。どれが着たい?」
 豆太は僕が与えたタオルをがじがじと噛んでいる。呼びかけは無視だ。服は適当に選ぶ。
 外は気温が上がったり下がったりで落ち着かない。この状況のせいか人が少ないのは助かるけど。
 僕は黄色い長袖のトレーナーを豆太に着せた。そういえば靴がない。どこまでも役に立たないなあの女。まあ、元々犬なのだし裸足でいいか。
「散歩に行こう、豆太」
 よちよちとこちらに向かってきた豆太を抱き上げる。全然鳴かないんだなあ。小型犬ってもっとうるさいものだと思ってた。この姿だからかな。まったく困ったウイルスが流行ったものだ。
「じゃあ、行ってくるよ。みんなおとなしくしててね」
 返事はない。この家でよく喋るのは玄関の扉くらいだ。
 僕は豆太を抱いたまま近所の公園へと向かった。ちょうど昼時だし、近くの保育園の子たちもいないだろう。たまに見かけることがある。そういう場所に犬を連れていくのはきっとよくないだろう。
 歩きながらスマホを操作する。いつもの掲示板。かわいそうな人間であれば誰でもいい。僕の恋人が撮りたがっていたもの、演じたがっていたもの、そういったものに近い環境にいるものであれば。親にも教師にも友人にも恵まれていない人。地獄に生きる人。
 公園まであと少しというところで通行人に出くわした。ジャージ姿で手にはシャベルを持っている。口元には黒いマスク。
「難儀だよ」
 男は僕に近づいて来てそう言った。
「難儀ですか」
「ああ、難儀だ」
 男はなぜか並んで歩き出す。豆太が体を小さく丸めた。緊張が伝わってきた。確かに難儀だと、僕は思った。
「今日は休日か?」
「人によります」
「そうだな。俺は今日仕事が休みだから、こうしてガキを遊びに連れてきてやったんだ。たまには家族プランに参加しないとな」
「家族サービスですか?」
「それだな。あんたは?」
「ただの散歩です」
 では、これで。そうはいわせてもらえないらしい。男はにんまり笑ってさらにピッタリ足並み揃えてついてくる。
「息子が反抗期だ」
「それは難儀ですね」
「難儀だよ。まったくだ。口もきかねえ」
 男はシャベルを振り上げるとアスファルトの歩道を打った。腕がしびれそうな音がした。
「このクソガキが」
 歩道とシャベル。どちらがこの男の息子なのだろう。ぼくはぼんやり考える。
「お前も挨拶くらいしろや」
 シャベルに向かって喋る。そっちが息子か。
「構いませんよ。そういう年頃なんでしょう」
「いや、礼儀は必要だ」
 男がさらに地面を打つ。力任せに振り上げるので危険を感じた僕は男から離れた。男はシャベルを打ち続ける。今のうちに逃げた方がよさそうだ。他人の家庭事情に口を出すとろくなことがない。
 お暇しようとした瞬間、強く打ち付けた際に、柄の部分から剣先が取れて飛んで行ってしまった。男は、壊れたシャベルをじっと見ていたが、やがてそれをぼくらに向けた。
「あゆむもいってたよなあ。家族サービスは大事だけどさあ、ガキを甘やかすのはよくないって」
 誰だよあゆむ。
「そうですね」
 男がシャベルを下ろして破顔する。そのままこちらに向かってきたので、僕は豆太を抱えたまま全力で逃げた。
 なんとか無事に公園にたどり着いた。しかし残念ながら先客が。
「なあ、マスクしやな怒られるで」
 無遠慮に話しかけてきたのは小学生男児。パンツのようなマスクをつけた子だ。最近手作りマスクをしている人をよく見かける。おかしなものが流行っているものだ。
「こんにちは。僕はいいんだよ。それよりきみ、学校は?」
「今日は午前授業やし。ほんまは何人かで帰らなあかんねんけど、今日も江波えなみ休みやし」
 誰だよ江波。
「ふうん。そうなんだ」
 僕は適当に返事をしながら豆太を公園に放した。何度か歩こうと試みるが、諦めてハイハイで駆け回る。
「あれおっちゃんの子?」
 おっちゃん? まあ、そうか。小学生から見れば三十歳の男なんておっさんになるのか。
「まあ、そんな感じ」
 面倒だからそう答える。それにしても慣れ慣れしい子どもだな。一定の距離は保って近づいてはこないものの、立ち去る気はないらしくどんどん話しかけてくる。
「なんでおむつなん?」
「赤ちゃんだからだよ」
「赤ちゃんでも普通はちゃんと服着るんやで。だってな、島崎しまざきくんとこ去年弟生まれたんやけどな、服着とったで」
 誰だよ島崎。
「ふうん」
「あ、ちゃうわ。弟ちゃうんやっけ。えーっと、島崎くんのお姉ちゃん、あ、ちゃう。お兄ちゃんの子どもやったかな? あの家いっぱい人おるからややこい」
「じゃあ島崎くんは叔父さんになったんだね」
「は? 島崎くんは一個上やから六年生やで。まだ子どもやからおじさんちゃうし」
「そうだね、ごめんね」
 僕は進んで無知になった。豆太は我関せずだ。ぺたりと座って砂を握っては離してを繰り返している。
「砂食べちゃうで」
「大丈夫。あれ、お腹すいてるんじゃないらしいから。すぐにぺってするよ」
「おっちゃん、親やのに最悪やな。ちゃんと見やなあかんやん」
 親なのに最悪、か。中々面白い台詞だ。脚本に使おうかな。
「それよりきみ、帰らないの?」
 そう聞くとその子は砂を蹴って俯いた。なるほど、この子にも『親なのに最悪』なものが近くにいるのかな。それとも、単純に暇なだけか。
「友達と遊ばないの?」
「やから、江波休みやもん。島崎くんも。いつも二人でようどっか行くねん」
「きみは行かないの?」
「ぼくんちは夜とか子どもだけで出かけたら怒られるもん。江波も島崎くんも兄弟いっぱいおるしみんなしっかりしてるし、それに強いから大丈夫やねん」
 夜に出かけたら怒られるのならきっとこの子の親は最悪ではないのだな。じゃあ、ただのぼっちか。
「きみのお友達の家は面白そうだね」
 豆太がえずいている。さすがに砂を飲み込んでしまったらまずいので、僕は近づいていって口から砂を出してあげた。豆太はよだれを垂らしたままにんまりと笑って、きゃっきゃっと手を振り回した。
「江波と島崎くんちはおもろいっていうか、すごい。なんかあの二人はかっこいいねん」
 子どもは足で砂に円を描く。ぐるぐると。
「いま世界が大変なことなってるやん? でもなあの二人全然焦らんし、変な大人とかにもビビらんし、前もな、警察に頼らんと自分らでなんとかするってゆってた」
「ふーん、何とかって何を?」
 僕がそう聞き返すと、子どもの足が止まった。代わりにぐるりと目玉が動いて豆太を捉える。
「その赤ちゃん、ほんまにおっちゃんの子?」
「そうだよ」
「名前は?」
「豆太」
「なんでそんな変な名前つけるん?」
「最悪な親だから」
「ほんまにおっちゃんの子?」
「きみの周りではこういう感染の仕方は起きてないの?」
「感染? その赤ちゃんが?」
「そうだよ」
「嘘や。咳もしてへんし」
「そういう症状が出るの? 『ヒト』に」
「ひとか?」
 子どもが僕から一歩距離を取る。そんなに警戒しなくても、別に近づいたくらいでは移らないのに。
「まあ、ペットとか飼ってなかったらあんまり見ない現象なのかな。基本無機質な物からどんどん変化していったもんね。僕だって、本当はちゃんとした犬を飼いたかったのに。ヒト化のせいで散々だよ」
 扉が喋る。冷蔵庫が笑う。石鹸が泣く。彼らはどんどん人に近づく。虫も、鳥も、犬さえも。人間は恐怖で閉じこもる。意味のないマスクをつけて。
「おっちゃん、親やのに頭おかしいん?」
 随分な質問だ。でも、きっと彼の親はいわゆる善い人なのだろう。親でも頭がおかしい人はわんさかいるというのに。
「帰らなくていいの? 宿題は?」
 子どもが顔をしかめる。非難しているような目だ。豆太は構わずに僕の膝に手を置いてつかまり立ちを楽しんでいる。
「……宿題なんてやってる場合ちゃうし。こんな状況で勉強て将来何の役に立つん?」
「こんな状況でなくても小学生はそう言うものだよ」
「でも、意味ないやん。これから勉強して大学とか行っても、ウイルスでちゃんとした会社とかなくなってるかも知らんし、もうこのままずっとこんな生活かもせんのに」
「ヒト化のこと? まあ、どちらにせよ人間は人間社会を営んでいく必要はあるんだから。最低限の勉強はしたら?」
「おっちゃん、それ後遺症とかゆうやつ? なんでそんな変なことばっかり言うん?」
 子どもがゆっくりとランドセルを下ろす。変なことばっかり言っていると思うのなら帰ればいいのに。学校で習わないのかな。知らない大人とお喋りしてはいけませんって。
「さあね。じゃあ僕は忙しいからそろそろ帰るよ」
 豆太を抱いて立ち上げる。子どもは下ろしたランドセルを漁っている。持ち出したのはキッズ用のスマホらしきもの。おもむろにそれをこちらに向けて、カシャリと不快な音を立てた。
「江波と島崎くんが帰ってきたら報告するからな。頭おかしいやつおったって」
「そういう時は先生や、最悪ではない親に報告するものじゃないの?」
「あの二人の方がすごいもん。それにな、あの二人の兄ちゃんらもすごいんやで! 昔悪い大人やっつけたって。やから、江波と島崎くんも悪い大人をやっつけるんやで!」
「犬の散歩をしている大人は悪い大人なの?」
「犬ちゃうのにそんなんゆってんの悪い大人やんか! そういうのじどーぎゃくたいってゆうんやで!」
 それは初耳だ。とはいえ、これ以上相手にしていても埒が明かないので僕は公園を出て歩き出した。子どもは追ってくる。ぶつぶつと言いながら後をつけてくる。背後のカシャリ、カシャリという音に豆太が興奮してうきゃうきゃと笑う。
 アパートの前まで戻ってきてしまったが、残念ながら子ども探偵は撒けていない。スマホを銃のように構えたまま僕を睨め上げている。どこまでついてくる気なのか。そろそろ追い払った方がいいだろう。
「きみ、その江波くんと島崎くんとやらとどうして一緒にいないの?」
「さっきもゆったやん。ぼくんちは夜とか外で遊んだらあかんねん」
 僕が止まると、子どもも止まる。一定の距離は保つ。頭は悪そうだけど危機察知能力だけは高いらしい。いいことだ。そういう子は長生きできる。
 でも、僕はそういう子は好きじゃない。そもそも地獄を知らないクソガキに興味はない。この子は要らない。
「江波くんと島崎くんの方がその決まりを作った大人よりはすごいんでしょ? きみ、邪魔だから置いて行かれただけじゃないのかな」
 子どもの顔が真っ赤になる。
「ちゃうし! ぼくらにはぼくらの役割分担っていうやつがあんねん。ぼくはこうやって情報集めたり武器とか買ったりする役割やねん。めっちゃ重要な役割やって島崎くんゆってたし!」
 ああ、そういうことか。この子はその子たちのお財布なのか。最高の友情だ。
「だったらきみは任務をまっとうしなければね。頭のおかしいやつのアジトを突き止めたのだから早く報告しないと、ほら」
 その子は鼻息荒くアパートを撮影すると、そのまま駆け足で去っていった。まあおそらく相手にされないだろうな。
 ようやく厄介払いできたので向き直ると、黒猫が目の前を横切ろうとしていた。
 なんだか不吉だなと思いつつも無視してアパートに帰ろうとすると、その猫が僕の足元にすり寄ってきた。しかし僕がご馳走を持ち合わせていないことに気づくと、責めるようにまあるい瞳が語った。
 恥ずかしくないの、きみたちは。
 僕は歩き出す。
 猫の鳴き声が僕に伝える。
 なんのために生きているの。
 愚かな人類の目撃者は、僕を追い越して手の代わりに尻尾を振った。今日も世界は狂っている。
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