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さくの危機
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「じゃあ、十六時からやったね。半には出発するからそれまで待機しててくれる?」
「は、はい」
一件の仕事を終え、私は待機室へと向かった。時刻は十五時だ。今日は個室待機所が空いていたのでそこで待機する。
ネットカフェほどのスペースで扉替わりにカーテンで仕切られている。中には座椅子とローテーブルに鏡。壁際からコードが伸びていてコンセントもある。そこで私はスマホを取り出した。
あゆむさんにLINEを送る。今日あの映画監督に会いに行くと。事前に言われていたとおり、彼の家のアパートの住所も送った。
さっきアサノさんが出勤してきていた。どうやら今日は非番だったらしくやや機嫌が悪そうな彼にタナカさんが何かを話していた。いけないことだと分かっていたが、私はそれを立ち聞きした。姫予約の件を伝えた時から何か疑われている気配を感じていた。私がお客さんと連絡先を交換していたこともスタッフさんにとっては意外だったらしい。
不審に思ったらしく、この店ではどちらかというと武闘派であるアサノさんが急遽呼び出しを食らった。何かあったらすぐに対処できるようにだ。そのことは私にとってラッキーだった。急に連絡を取り始めたことで裏引きを疑われているのかと思ったが、そうではなくお客さんとのトラブルを懸念しているだけのようだった。
ともかく、アパートの外にアサノさんがずっと待機してくれるのなら心強い。
何かあるとは思わない。私は今日話をするだけだ。とにかく、あの赤ちゃんの無事を確認したい。あとは、隙があればあの開かずの扉を二つとも確認してみたい気持ちもあるが、それはおそらく無理だろう。
なにが隠れているにせよ、その場では何も言わずとにかく無事に帰ることだけを優先する。
いざという時のためのあゆむさんの防犯グッズはバッグに入れた。
もしも、あの家に住んでいたはずの誰かが開かずの部屋に監禁されていたら。もしも、あの赤ちゃんがどこかから攫われてきた子だったら。なんにせよ、私はとりあえず帰還し、あゆむさんの言っていたように匿名で児相へ連絡する。
どこまで調査してくれるのか分からないが、不審な点があれば彼らから警察に電話してくれるはずだ。私たち風俗嬢の話よりもきっとまともに取り合ってくれる。
私がすることは、今日したいことは、なんとか円滑に彼との関係を切ること。
引っ越しや病気を理由にして、この店を辞めることを伝える。彼自身、私というよりも私の境遇に興味があっただけだ。引き留めたり、脅迫したりはしてこないはず。個人情報は握られたままなのでどうにかしたいが、彼を怒らせさえしなければきっとどこかに晒すこともしない。そう思いたい。彼は良心からでなく、揉め事を面倒だと思ってそうすると思う。
すべて希望的観測に過ぎない。でも、一度身バレしてしまったらもうどうしようもできない。彼の記憶が消えるか、彼が亡くなるかしないことには。
彼からのギャラがなくなるのはかなり厳しいが、これ以上踏み込むのは危険だ。
離れなければ。本能がそう告げている。
私にとって、これまでの人生でいちばん恐ろしかったのは母親だ。今もそうだ。それに変わりはない。私からの仕送りが途切れることになれば、どんな地獄が待っているのか。それに、実家にはまだ中学生の弟がいる。人質のようなものだ。あの子が家を出られる年になるまでは母から逃げることもできない。
今月の仕送りはお給料と前回の彼からのギャラでなんとかなる。今日彼から解放してもらえたとしても、来月なんとかしなければいけない。この店は他店との掛け持ち禁止だ。思い切って別の店に行くべきか。
でも、私のような女が稼げる店は、もうきっと裏風俗しか残されていない。
なんの取り柄もない。どこに行っても浮いてしまって昼職は続かない。
うまく生きられない。
だから、誰からも愛されない。
「さくちゃん、出発するから準備できたら声かけてね」
タナカさんの声だ。
待機所を出ると、そこにはまだアサノさんが立っていた。マスク越しではあるが不機嫌さは窺える。タナカさんの見送りは玄関までらしい。私とアサノさんは一緒にエレベーターに乗り込む。
何か言いたげだが何も言ってこない。私からも何も言わなかった。
店から彼への接触は避けたい。できる限りいつも通り振る舞わなければ。
でも、私はいつだって後悔する。自分の選択に。
今日も今日とて道は空いている。あっという間に彼のアパートに到着する。
すると、珍しくアサノさんが呼び止めてきた。
「なんかあったら鳴らしてください」
スマホの画面をこちらに向けてくる。そこにはQRコードが映し出されていた。
「あ、ありがとうございます」
「なんもなければすぐ消してもらっていいんで」
ドライバーさんと女の子も通常は連絡先を交換してはいけない。何かあった場合もまずはお店に連絡し、お店からドライバーさんへ連絡が入る。でも、本当に何かあった場合はその手間も惜しい。
アサノさんの心遣いに感謝して、私は彼の部屋へと向かった。
前回私の様子のおかしさにアサノさんは気づいていた。だから、きっと心配してくれているのだろう。
大丈夫。きっと騒ぎを起こすようなことは彼は好まない。面倒だと感じれば私なんかお払い箱だ。晒す価値もないと思わせればいい。
震える指でインターホンを押す。いつものようにすぐ扉は開いた。その腕にはやはりあの赤ちゃんがいる。ちゃんと服も着ているし、はむはむとソフトせんべいをくわえている姿に安堵した。
「あ、あの、今日は無理言ってすみませんでした」
「いいよ。さっさと入って。虫入るから」
「あ、はい」
彼は部屋の奥へと進んでいく。玄関の扉の鍵はかけない。逃げ道は確保しておく。私は彼のあとを追う振りをして、そっと扉に目を向けた。開かずの間だ。
前を見る。彼はもう奥の部屋だ。
もしかして、チャンスか。
私はそっと扉を開いてみた。
なんのことはない。そこはただの衣裳部屋のようだった。ハンガーラックや衣装ボックスがところせましと置かれている。ただ気になったのは一瞬見えた部分だけにしろ、すべてが女物だったこと。
私はすぐに扉を閉め奥へと向かった。
「どうしたの?」
「あ、すみません。ストッキングが伝線してたのかと思って……大丈夫でした」
彼はこちらを見て立っていた。玄関で手間取ったことにする。「ふーん」といつものように興味なさそうな返事がきてほっとした。赤ちゃんはベッドの上だ。彼は財布から万札を五枚取り出しこちらに渡してきた。
「はい。今日も百二十分だからこれでいいよね? お釣りはあげる」
「あ、は、はい。ありがとうございます」
私はお金を受け取ってからインコールを済ませた。彼は所在なさげに立ったままだ。
「あ、あの」
「ごめん、今日はいつものなくていい? 呼ぶ予定なかったから用意できてないんだよね」
いつも別に受け取るギャラのことだ。
「もちろんです。今日はこちらから無理にお願いしてしまったので」
「手、洗わないの?」
「え?」
「いつも念入りに消毒してるじゃん」
「あ、は、はい。すみません、ではキッチンお借りします」
彼は私から目を離さない。なぜだろう。いつも通りのはずなのに、どこか違和感がある。私はとりあえず不審に思われないようにうがいと消毒を続けた。
「ねえ、今日は急にどうしたの? きみから呼んで欲しいなんて言うのはじめてだよね?」
やはりそこは気になっていたようだ。私は彼に向き直り、考えてきたシナリオを披露することにした。
「えっと、実はもうすぐ、あの、お店を辞めることになると思うので、最後にちゃんとご挨拶をしたくて……」
彼は私に背を向ける。
「あ、あの」
彼は、開かずの間を開いた。予想外の行動に、私は動けずにいた。彼の陰になってすべては見えなかったが、どうやらカーテンが引かれているらしく部屋は暗い。でも、そこにあったのは、倒れた冷蔵庫らしきもの。新品のようにビニールで梱包されている。
でも、彼の目当ては何も部屋の披露ではないらしい。かがんで何かを拾い上げた彼。私は動けない。
その手には、のこぎりが握られていた。
「は、はい」
一件の仕事を終え、私は待機室へと向かった。時刻は十五時だ。今日は個室待機所が空いていたのでそこで待機する。
ネットカフェほどのスペースで扉替わりにカーテンで仕切られている。中には座椅子とローテーブルに鏡。壁際からコードが伸びていてコンセントもある。そこで私はスマホを取り出した。
あゆむさんにLINEを送る。今日あの映画監督に会いに行くと。事前に言われていたとおり、彼の家のアパートの住所も送った。
さっきアサノさんが出勤してきていた。どうやら今日は非番だったらしくやや機嫌が悪そうな彼にタナカさんが何かを話していた。いけないことだと分かっていたが、私はそれを立ち聞きした。姫予約の件を伝えた時から何か疑われている気配を感じていた。私がお客さんと連絡先を交換していたこともスタッフさんにとっては意外だったらしい。
不審に思ったらしく、この店ではどちらかというと武闘派であるアサノさんが急遽呼び出しを食らった。何かあったらすぐに対処できるようにだ。そのことは私にとってラッキーだった。急に連絡を取り始めたことで裏引きを疑われているのかと思ったが、そうではなくお客さんとのトラブルを懸念しているだけのようだった。
ともかく、アパートの外にアサノさんがずっと待機してくれるのなら心強い。
何かあるとは思わない。私は今日話をするだけだ。とにかく、あの赤ちゃんの無事を確認したい。あとは、隙があればあの開かずの扉を二つとも確認してみたい気持ちもあるが、それはおそらく無理だろう。
なにが隠れているにせよ、その場では何も言わずとにかく無事に帰ることだけを優先する。
いざという時のためのあゆむさんの防犯グッズはバッグに入れた。
もしも、あの家に住んでいたはずの誰かが開かずの部屋に監禁されていたら。もしも、あの赤ちゃんがどこかから攫われてきた子だったら。なんにせよ、私はとりあえず帰還し、あゆむさんの言っていたように匿名で児相へ連絡する。
どこまで調査してくれるのか分からないが、不審な点があれば彼らから警察に電話してくれるはずだ。私たち風俗嬢の話よりもきっとまともに取り合ってくれる。
私がすることは、今日したいことは、なんとか円滑に彼との関係を切ること。
引っ越しや病気を理由にして、この店を辞めることを伝える。彼自身、私というよりも私の境遇に興味があっただけだ。引き留めたり、脅迫したりはしてこないはず。個人情報は握られたままなのでどうにかしたいが、彼を怒らせさえしなければきっとどこかに晒すこともしない。そう思いたい。彼は良心からでなく、揉め事を面倒だと思ってそうすると思う。
すべて希望的観測に過ぎない。でも、一度身バレしてしまったらもうどうしようもできない。彼の記憶が消えるか、彼が亡くなるかしないことには。
彼からのギャラがなくなるのはかなり厳しいが、これ以上踏み込むのは危険だ。
離れなければ。本能がそう告げている。
私にとって、これまでの人生でいちばん恐ろしかったのは母親だ。今もそうだ。それに変わりはない。私からの仕送りが途切れることになれば、どんな地獄が待っているのか。それに、実家にはまだ中学生の弟がいる。人質のようなものだ。あの子が家を出られる年になるまでは母から逃げることもできない。
今月の仕送りはお給料と前回の彼からのギャラでなんとかなる。今日彼から解放してもらえたとしても、来月なんとかしなければいけない。この店は他店との掛け持ち禁止だ。思い切って別の店に行くべきか。
でも、私のような女が稼げる店は、もうきっと裏風俗しか残されていない。
なんの取り柄もない。どこに行っても浮いてしまって昼職は続かない。
うまく生きられない。
だから、誰からも愛されない。
「さくちゃん、出発するから準備できたら声かけてね」
タナカさんの声だ。
待機所を出ると、そこにはまだアサノさんが立っていた。マスク越しではあるが不機嫌さは窺える。タナカさんの見送りは玄関までらしい。私とアサノさんは一緒にエレベーターに乗り込む。
何か言いたげだが何も言ってこない。私からも何も言わなかった。
店から彼への接触は避けたい。できる限りいつも通り振る舞わなければ。
でも、私はいつだって後悔する。自分の選択に。
今日も今日とて道は空いている。あっという間に彼のアパートに到着する。
すると、珍しくアサノさんが呼び止めてきた。
「なんかあったら鳴らしてください」
スマホの画面をこちらに向けてくる。そこにはQRコードが映し出されていた。
「あ、ありがとうございます」
「なんもなければすぐ消してもらっていいんで」
ドライバーさんと女の子も通常は連絡先を交換してはいけない。何かあった場合もまずはお店に連絡し、お店からドライバーさんへ連絡が入る。でも、本当に何かあった場合はその手間も惜しい。
アサノさんの心遣いに感謝して、私は彼の部屋へと向かった。
前回私の様子のおかしさにアサノさんは気づいていた。だから、きっと心配してくれているのだろう。
大丈夫。きっと騒ぎを起こすようなことは彼は好まない。面倒だと感じれば私なんかお払い箱だ。晒す価値もないと思わせればいい。
震える指でインターホンを押す。いつものようにすぐ扉は開いた。その腕にはやはりあの赤ちゃんがいる。ちゃんと服も着ているし、はむはむとソフトせんべいをくわえている姿に安堵した。
「あ、あの、今日は無理言ってすみませんでした」
「いいよ。さっさと入って。虫入るから」
「あ、はい」
彼は部屋の奥へと進んでいく。玄関の扉の鍵はかけない。逃げ道は確保しておく。私は彼のあとを追う振りをして、そっと扉に目を向けた。開かずの間だ。
前を見る。彼はもう奥の部屋だ。
もしかして、チャンスか。
私はそっと扉を開いてみた。
なんのことはない。そこはただの衣裳部屋のようだった。ハンガーラックや衣装ボックスがところせましと置かれている。ただ気になったのは一瞬見えた部分だけにしろ、すべてが女物だったこと。
私はすぐに扉を閉め奥へと向かった。
「どうしたの?」
「あ、すみません。ストッキングが伝線してたのかと思って……大丈夫でした」
彼はこちらを見て立っていた。玄関で手間取ったことにする。「ふーん」といつものように興味なさそうな返事がきてほっとした。赤ちゃんはベッドの上だ。彼は財布から万札を五枚取り出しこちらに渡してきた。
「はい。今日も百二十分だからこれでいいよね? お釣りはあげる」
「あ、は、はい。ありがとうございます」
私はお金を受け取ってからインコールを済ませた。彼は所在なさげに立ったままだ。
「あ、あの」
「ごめん、今日はいつものなくていい? 呼ぶ予定なかったから用意できてないんだよね」
いつも別に受け取るギャラのことだ。
「もちろんです。今日はこちらから無理にお願いしてしまったので」
「手、洗わないの?」
「え?」
「いつも念入りに消毒してるじゃん」
「あ、は、はい。すみません、ではキッチンお借りします」
彼は私から目を離さない。なぜだろう。いつも通りのはずなのに、どこか違和感がある。私はとりあえず不審に思われないようにうがいと消毒を続けた。
「ねえ、今日は急にどうしたの? きみから呼んで欲しいなんて言うのはじめてだよね?」
やはりそこは気になっていたようだ。私は彼に向き直り、考えてきたシナリオを披露することにした。
「えっと、実はもうすぐ、あの、お店を辞めることになると思うので、最後にちゃんとご挨拶をしたくて……」
彼は私に背を向ける。
「あ、あの」
彼は、開かずの間を開いた。予想外の行動に、私は動けずにいた。彼の陰になってすべては見えなかったが、どうやらカーテンが引かれているらしく部屋は暗い。でも、そこにあったのは、倒れた冷蔵庫らしきもの。新品のようにビニールで梱包されている。
でも、彼の目当ては何も部屋の披露ではないらしい。かがんで何かを拾い上げた彼。私は動けない。
その手には、のこぎりが握られていた。
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