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浅野明那 伊庭雨夜
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三崎萌ことレンがその場所へ辿り着いたのはすべて終わったあとだった。
長身の浅野明那が包丁を振り下ろすと部屋全体が悲鳴を上げた。だが、建物内にいるであろう住人たちは一人も姿を見せない。
きっと誰かが通報している。
誰もがそう考えて嵐が去るのを巣穴の中でじっと待っている。レンは目を閉じた。胸を撫で下ろす穴熊たちの顔が浮かんだ。
――みんないつもそうだ。見て見ぬ振り。
先程の惨状のことを思い出す。残酷なショーはただの見世物に過ぎない。その危険が自分に降りかかりそうになれば観客は目を瞑る。
レンは間に合わなかったことを悔やんだ。扉の前でうずくまる。
背後の扉が勢いよく開く。押されるようにしてレンが立ち上がる。
飛び出してきたのはシャツを鮮血で染めた浅野だった。右手にはまだ包丁が握られたままだ。
二人の目が合う。
「俺、やっぱり戻らなあかん。雨夜のとこに」
浅野のその言葉を聞いてレンは事実を伝えることにした。
彼が今まで見ていたものをすべて。
「アッキーさん……戻るって、あの場所にですか? あそこには、雨夜さんはいないですよ。だって、あの場所に家なんかないです! ずいぶん前に取り壊されたんですよ!」
彼の話を聞いた時、レンは本当のことをすぐに言い出せなかった。浅野の目にはたしかに館が映っているのだと思った。彼だけに見える館が、レンの目には更地にしか見えないあの場所に。
すぐに真実を伝えてはいけないと思った。その時は。
彼の心がどこまで耐えられるのか分からなかったからだ。
だが、もう話すしかないと思った。そうしなければ、彼には二度と会うことができなくなると思ったからだ。
それでも、彼を止めることは叶わなかった。
これが、レンの見た浅野の最後の姿だった。
そして、黒の王もまたこの一部始終を見ていた。
今までと同じように、ずっと、彼らを監視し続けていた。
愚かな人類は、どこまでいくのか。どう生きるのか。
浅野が凶行に及んだのは、愛する家族が襲われていたからだった。
鬼は定石を守らない。本当の悪意は、人の悪意というものは、災害と変わらない。防ぎようのないものだ。
上の階に住む善良な一市民であったはずの木下は突如牙を剥いた。
彼に暴行されそうになっている萌を庇って、陸翔が殴られた。彼らから奪われたスマホは遠くで力尽きている。ついさっきまで浅野に繋がっていたスマホだ。
標的はやはり萌だった。だから、陸翔は必死に立ち向かった。ヒーローの登場を信じながら。
だけど、負傷した彼らを見たヒーローは我を忘れた。
なによりも幼き者への暴力が彼の殺意の枷を外したのだ。
何度も、何度も、浅野は木下に包丁を振り下ろした。冴えない中年男は、彼自身の父親にも、雨夜の父親にも、萌の義父にも重なって見えた。駆除すべき獣だと思った。
なにかに突き動かされるように、浅野は刺し続けた。とっくに動かなくなったその体に。
暴力の嵐が去り、浅野は彼らに目を向けた。
そこには恐怖の色に染まった瞳があった。
お互いを抱き寄せるようにして、浅野のことを見ている。
そんな二人を見た瞬間、浅野は自身の居場所を破壊してしまったことに気づいた。そして、自分の本来帰るべき場所は、あの地獄の舞台なのだと。
これ以上親愛なる同居人たちを怯えさせたくなかった。彼は家を飛び出した。そしてレンの制止をも振り切って、あの場所へと車を走らせた。
伊庭雨夜の待つあの地獄へ。
走り去った車と、泣き崩れるレンを交互に見つめる。それから上原はバイクにヘルメットを置いてレンの元へと駆け寄った。黒猫もついてくる。
「萌くん、一体どういうことなん? アサノさん、どうしはったん?」
レンは首を振るだけで何も言わない。上原は浅野の飛び出してきた部屋の中を覗き込んだ。そして、そこに広がる地獄を見て状況を把握した。すぐに通報を済ませると怯える二人に寄り添う。
「大丈夫ですか? すぐ警察が来ます。怪我人がいることも伝えてますから。ぼく大丈夫? 痛い?」
陸翔は涙をこらえ気丈に振る舞う。小さな腕にしっかりと母親を抱きかかえている。
「ここはあれですから、こちらへ。外で待ちましょう」
上原は彼らを外へ誘導する。その時に死体が彼らの目に入らないように自分の体で隠した。さすがの上原看護師でも目を背けたくなるような光景だった。
外でレンを発見した萌と陸翔はすぐに彼に駆け寄った。レンは彼らに謝り続ける。「止められなかった」と。子どものように泣きじゃくりながら謝罪を続けた。
上原はそんなレンの姿から礼儀正しく目を逸らした。イカレている自覚はある彼女だったが、なによりも情に厚い女性でもあった。黒き王も好敵手に敬意を表してそれに倣う。
地球が自転の速度を早めたようだった。浅野の車があの館へ近づくにつれ、辺りはどんどん闇に包まれていく。
浅野は車を止めた。
レンの言葉を思い出し、一瞬で頭から振り払う。
館はやはりそこにあった。あの事件の後も、何度も何度も中に入って雨夜を探し回ったのだ。取り壊されていたはずなどない。
浅野は館へと向かう。
玄関の扉が開いている。鍵はかかっていないとはいえ、いつもは閉まっているのに。
館の中に入る。月明かりだけが頼りだったあの夜と、まったく同じ光景が広がっている。でも、やはり少しだけ異なるのは、地下への扉が開いていることだった。
浅野はそちらに向かう。以前侵入した時はとっくに切れていたはずの電球が灯っている。不思議に思う。何故攫われていた当時も地下にだけ電気が通っていたのだろう。そんなことを考えながら浅野は階段を下りていく。
彼らには知らされなかった。この館にいた鬼たちのことを。結局のところ、この家の持ち主を辿れば簡単にあの犯人グループに辿り着けたことを。だから、警察は浅野たちをしつこく追い回さなかった。島崎兄弟のファインプレーによりあの男の体はいまだ発見されていないようだが。
地下以外に明かりが灯らなかったのは、単に近隣の目を誤魔化すためだった。
とはいえ、それはあくまで当時のことだ。そういった事情を知らなくとも、地下に明かりが灯っていることに疑問を持つべきだった。そうすれば、まだ引き返せたのかも知れなかった。
それとも、こうなることは確定済みだったのか。
きっとそうなのだろう。
そこに、伊庭雨夜はしっかりと存在していたのだから。
浅野は、永遠に終わらない地獄へと舞い戻ってきた。
浅野は見つけた。
少女の姿のまま、時を止めた伊庭雨夜を。
あの夜、犯人であるあの男はロープを持って降りてきた。それでお互いを縛れと。そのあと、あの悪童二人による暴露があり浅野は犯人から受けた暴行により意識を失う。
そう、そして意識を取り戻し、地下を出た。
雨夜を残して。
雨夜と、ロープを残して。
雨夜は、そのロープで首を吊っていた。
ドアノブがかろうじて彼女の体を支えている。
浅野は駆け寄り、ロープをドアノブから外した。大きく見開かれた瞳にはもう何も映っていない。
「雨夜……嘘やろ? なんで、だって、お前……」
探し求めていた幼なじみはやはりここにいた。だが、この場所の時間はあの時のまま止まっているようだった。世界から切り離されたように停止していた。
「雨……」
もう一度呼びかけようとした時、背中に衝撃を感じた。浅野の体が前に倒れる。その体の下敷きになる前に、彼と雨夜の間に少年が体を滑り込ませる。
「雨夜! しっかりしろ!」
その少年『浅野明那』は雨夜の首からロープを外す。そしてその体を持ち上げようとしてふらつく。
「今助けたるから! 絶対、絶対助かるからな!」
階段でふらついた浅野少年は一旦少女の体を持ち上げるのを諦め壁にもたれかけさせた。少女の頭は前に項垂れたままぴくりとも動かない。それでも少年は諦めなかった。助けを呼ぶべく、外へ飛び出していく。今度は朝を迎える予定の夜へ駆けていく。この永遠の夜から抜け出して。
背中を包丁で刺された浅野は、その光景を見て、そして理解した。あの時、自分が浴びた返り血が、犯人のものではなくすべて浅野のものだった理由を。
痛みをこらえ、浅野は雨夜の元へと這っていく。
すると、雨夜の首が動いた。
少女の瞳がぐるりと動き、地を這う浅野の姿を捉える。そして、にっこりと微笑んだ。
「戻ってきてくれたんやね、明那……」
雨夜が足を引きずってこちらに歩いてくる。いつもより大きく傾いたその体は、まるで壊れた人形のようだなと思った。そしてそれは大きくは間違っていない。浅野の頬に触れた手には温度はなかった。
彼女は倒れている浅野の頭を膝に乗せる。そして髪を撫で続ける。
「ずっと待ってた。約束したもんね、ずっと一緒って」
瞳は動かないのに、口角を上げて必死に笑顔を維持しようとしている。かつては浅野少年を繋ぎ止めた笑顔だ。
浅野は悲しくなった。過去の自分を呪いたくなった。
「……そうやで、約束、したやろ、雨夜」
雨夜の目が細められたのを見て、浅野も微笑む。
彼の心を奪った笑顔だ。そして、雨夜の未来を奪ったのは自分だ。
監禁されている間に、雨夜は正気を失いつつあった。犯人や死への恐怖からではない。いつか助けがきて、また地獄に送り帰されてしまうという恐怖だ。「帰りたくない」と繰り返す彼女に、浅野はいつかの教室での誓いを繰り返した。「大丈夫、ずっと一緒やから」と。この世に彼女を繋ぎ止めたあの言葉を。
地下からやっと出られるとなった時も「帰りたくない」と呟き続ける彼女を置き去りにして外に出た。
彼女を絶望に突き落としたのは、浅野本人だ。
彼女の生きてきた地獄を知っていたはずだったのに。この地下でさえ、彼女にとっては楽園だったのだ。
彼女は新たな地獄を自身で作り出した。今度こそ、彼とたった二人でずっと一緒にいられるように、鬼と化すことも厭わなかった。
「うれしい、もうどこにも行かんで。一緒やからな、明那」
「分かってる……雨夜」
自分が今いる場所が、世界から切り離されたことを悟った。さっきまで感じていた痛みはもうない。でも、体を起こす気力もなかった。
血の気のない顔なのに、雨夜の笑顔は変わらず愛らしかった。
浅野は、地獄を選んだ。雨夜とともに過ごす地獄を。この地獄から一度は抜け出した浅野少年もまた、同じ時間を過ごし、ここに舞い戻ってくることになるのだろう。自らが作り出したこの無間地獄、いや、無限地獄へと。
だったら、最初から離れるべきではなかった。ずっとここに留まれば、萌や陸翔をあんなに怯えさせることもなかった。日高に子どもを堕ろさせることもなかった。自分のような人間は未来に期待すべきではなかった。
「明那、泣いてるん?」
「……泣いてへん」
「ジャイアンにやられたんか?」
雨夜がクスクス笑う。浅野の口からも笑い声が漏れる。
「あんなんにやられるかボケ」
「はいはい、そういうことにしといたるわ」
軽口を叩き合うのも昔と変わらない。大人になった自分は、今の雨夜にはどう映っているのだろう。そう思ったが、何も聞かなかった。ほんの少しでも均衡が崩れることになれば、この時間は失われてしまうかも知れない。
残してきた者たちへの未練が浅野の不安を誘い出そうとするが、彼は必死に振り払った。そして、視線をさ迷わせる。電球の一つが点滅しているのが遠くに見える。
浅野はそれを数えた。
そんな浅野の様子を見て、雨夜は囁いた。
「そうそう、その調子」
長身の浅野明那が包丁を振り下ろすと部屋全体が悲鳴を上げた。だが、建物内にいるであろう住人たちは一人も姿を見せない。
きっと誰かが通報している。
誰もがそう考えて嵐が去るのを巣穴の中でじっと待っている。レンは目を閉じた。胸を撫で下ろす穴熊たちの顔が浮かんだ。
――みんないつもそうだ。見て見ぬ振り。
先程の惨状のことを思い出す。残酷なショーはただの見世物に過ぎない。その危険が自分に降りかかりそうになれば観客は目を瞑る。
レンは間に合わなかったことを悔やんだ。扉の前でうずくまる。
背後の扉が勢いよく開く。押されるようにしてレンが立ち上がる。
飛び出してきたのはシャツを鮮血で染めた浅野だった。右手にはまだ包丁が握られたままだ。
二人の目が合う。
「俺、やっぱり戻らなあかん。雨夜のとこに」
浅野のその言葉を聞いてレンは事実を伝えることにした。
彼が今まで見ていたものをすべて。
「アッキーさん……戻るって、あの場所にですか? あそこには、雨夜さんはいないですよ。だって、あの場所に家なんかないです! ずいぶん前に取り壊されたんですよ!」
彼の話を聞いた時、レンは本当のことをすぐに言い出せなかった。浅野の目にはたしかに館が映っているのだと思った。彼だけに見える館が、レンの目には更地にしか見えないあの場所に。
すぐに真実を伝えてはいけないと思った。その時は。
彼の心がどこまで耐えられるのか分からなかったからだ。
だが、もう話すしかないと思った。そうしなければ、彼には二度と会うことができなくなると思ったからだ。
それでも、彼を止めることは叶わなかった。
これが、レンの見た浅野の最後の姿だった。
そして、黒の王もまたこの一部始終を見ていた。
今までと同じように、ずっと、彼らを監視し続けていた。
愚かな人類は、どこまでいくのか。どう生きるのか。
浅野が凶行に及んだのは、愛する家族が襲われていたからだった。
鬼は定石を守らない。本当の悪意は、人の悪意というものは、災害と変わらない。防ぎようのないものだ。
上の階に住む善良な一市民であったはずの木下は突如牙を剥いた。
彼に暴行されそうになっている萌を庇って、陸翔が殴られた。彼らから奪われたスマホは遠くで力尽きている。ついさっきまで浅野に繋がっていたスマホだ。
標的はやはり萌だった。だから、陸翔は必死に立ち向かった。ヒーローの登場を信じながら。
だけど、負傷した彼らを見たヒーローは我を忘れた。
なによりも幼き者への暴力が彼の殺意の枷を外したのだ。
何度も、何度も、浅野は木下に包丁を振り下ろした。冴えない中年男は、彼自身の父親にも、雨夜の父親にも、萌の義父にも重なって見えた。駆除すべき獣だと思った。
なにかに突き動かされるように、浅野は刺し続けた。とっくに動かなくなったその体に。
暴力の嵐が去り、浅野は彼らに目を向けた。
そこには恐怖の色に染まった瞳があった。
お互いを抱き寄せるようにして、浅野のことを見ている。
そんな二人を見た瞬間、浅野は自身の居場所を破壊してしまったことに気づいた。そして、自分の本来帰るべき場所は、あの地獄の舞台なのだと。
これ以上親愛なる同居人たちを怯えさせたくなかった。彼は家を飛び出した。そしてレンの制止をも振り切って、あの場所へと車を走らせた。
伊庭雨夜の待つあの地獄へ。
走り去った車と、泣き崩れるレンを交互に見つめる。それから上原はバイクにヘルメットを置いてレンの元へと駆け寄った。黒猫もついてくる。
「萌くん、一体どういうことなん? アサノさん、どうしはったん?」
レンは首を振るだけで何も言わない。上原は浅野の飛び出してきた部屋の中を覗き込んだ。そして、そこに広がる地獄を見て状況を把握した。すぐに通報を済ませると怯える二人に寄り添う。
「大丈夫ですか? すぐ警察が来ます。怪我人がいることも伝えてますから。ぼく大丈夫? 痛い?」
陸翔は涙をこらえ気丈に振る舞う。小さな腕にしっかりと母親を抱きかかえている。
「ここはあれですから、こちらへ。外で待ちましょう」
上原は彼らを外へ誘導する。その時に死体が彼らの目に入らないように自分の体で隠した。さすがの上原看護師でも目を背けたくなるような光景だった。
外でレンを発見した萌と陸翔はすぐに彼に駆け寄った。レンは彼らに謝り続ける。「止められなかった」と。子どものように泣きじゃくりながら謝罪を続けた。
上原はそんなレンの姿から礼儀正しく目を逸らした。イカレている自覚はある彼女だったが、なによりも情に厚い女性でもあった。黒き王も好敵手に敬意を表してそれに倣う。
地球が自転の速度を早めたようだった。浅野の車があの館へ近づくにつれ、辺りはどんどん闇に包まれていく。
浅野は車を止めた。
レンの言葉を思い出し、一瞬で頭から振り払う。
館はやはりそこにあった。あの事件の後も、何度も何度も中に入って雨夜を探し回ったのだ。取り壊されていたはずなどない。
浅野は館へと向かう。
玄関の扉が開いている。鍵はかかっていないとはいえ、いつもは閉まっているのに。
館の中に入る。月明かりだけが頼りだったあの夜と、まったく同じ光景が広がっている。でも、やはり少しだけ異なるのは、地下への扉が開いていることだった。
浅野はそちらに向かう。以前侵入した時はとっくに切れていたはずの電球が灯っている。不思議に思う。何故攫われていた当時も地下にだけ電気が通っていたのだろう。そんなことを考えながら浅野は階段を下りていく。
彼らには知らされなかった。この館にいた鬼たちのことを。結局のところ、この家の持ち主を辿れば簡単にあの犯人グループに辿り着けたことを。だから、警察は浅野たちをしつこく追い回さなかった。島崎兄弟のファインプレーによりあの男の体はいまだ発見されていないようだが。
地下以外に明かりが灯らなかったのは、単に近隣の目を誤魔化すためだった。
とはいえ、それはあくまで当時のことだ。そういった事情を知らなくとも、地下に明かりが灯っていることに疑問を持つべきだった。そうすれば、まだ引き返せたのかも知れなかった。
それとも、こうなることは確定済みだったのか。
きっとそうなのだろう。
そこに、伊庭雨夜はしっかりと存在していたのだから。
浅野は、永遠に終わらない地獄へと舞い戻ってきた。
浅野は見つけた。
少女の姿のまま、時を止めた伊庭雨夜を。
あの夜、犯人であるあの男はロープを持って降りてきた。それでお互いを縛れと。そのあと、あの悪童二人による暴露があり浅野は犯人から受けた暴行により意識を失う。
そう、そして意識を取り戻し、地下を出た。
雨夜を残して。
雨夜と、ロープを残して。
雨夜は、そのロープで首を吊っていた。
ドアノブがかろうじて彼女の体を支えている。
浅野は駆け寄り、ロープをドアノブから外した。大きく見開かれた瞳にはもう何も映っていない。
「雨夜……嘘やろ? なんで、だって、お前……」
探し求めていた幼なじみはやはりここにいた。だが、この場所の時間はあの時のまま止まっているようだった。世界から切り離されたように停止していた。
「雨……」
もう一度呼びかけようとした時、背中に衝撃を感じた。浅野の体が前に倒れる。その体の下敷きになる前に、彼と雨夜の間に少年が体を滑り込ませる。
「雨夜! しっかりしろ!」
その少年『浅野明那』は雨夜の首からロープを外す。そしてその体を持ち上げようとしてふらつく。
「今助けたるから! 絶対、絶対助かるからな!」
階段でふらついた浅野少年は一旦少女の体を持ち上げるのを諦め壁にもたれかけさせた。少女の頭は前に項垂れたままぴくりとも動かない。それでも少年は諦めなかった。助けを呼ぶべく、外へ飛び出していく。今度は朝を迎える予定の夜へ駆けていく。この永遠の夜から抜け出して。
背中を包丁で刺された浅野は、その光景を見て、そして理解した。あの時、自分が浴びた返り血が、犯人のものではなくすべて浅野のものだった理由を。
痛みをこらえ、浅野は雨夜の元へと這っていく。
すると、雨夜の首が動いた。
少女の瞳がぐるりと動き、地を這う浅野の姿を捉える。そして、にっこりと微笑んだ。
「戻ってきてくれたんやね、明那……」
雨夜が足を引きずってこちらに歩いてくる。いつもより大きく傾いたその体は、まるで壊れた人形のようだなと思った。そしてそれは大きくは間違っていない。浅野の頬に触れた手には温度はなかった。
彼女は倒れている浅野の頭を膝に乗せる。そして髪を撫で続ける。
「ずっと待ってた。約束したもんね、ずっと一緒って」
瞳は動かないのに、口角を上げて必死に笑顔を維持しようとしている。かつては浅野少年を繋ぎ止めた笑顔だ。
浅野は悲しくなった。過去の自分を呪いたくなった。
「……そうやで、約束、したやろ、雨夜」
雨夜の目が細められたのを見て、浅野も微笑む。
彼の心を奪った笑顔だ。そして、雨夜の未来を奪ったのは自分だ。
監禁されている間に、雨夜は正気を失いつつあった。犯人や死への恐怖からではない。いつか助けがきて、また地獄に送り帰されてしまうという恐怖だ。「帰りたくない」と繰り返す彼女に、浅野はいつかの教室での誓いを繰り返した。「大丈夫、ずっと一緒やから」と。この世に彼女を繋ぎ止めたあの言葉を。
地下からやっと出られるとなった時も「帰りたくない」と呟き続ける彼女を置き去りにして外に出た。
彼女を絶望に突き落としたのは、浅野本人だ。
彼女の生きてきた地獄を知っていたはずだったのに。この地下でさえ、彼女にとっては楽園だったのだ。
彼女は新たな地獄を自身で作り出した。今度こそ、彼とたった二人でずっと一緒にいられるように、鬼と化すことも厭わなかった。
「うれしい、もうどこにも行かんで。一緒やからな、明那」
「分かってる……雨夜」
自分が今いる場所が、世界から切り離されたことを悟った。さっきまで感じていた痛みはもうない。でも、体を起こす気力もなかった。
血の気のない顔なのに、雨夜の笑顔は変わらず愛らしかった。
浅野は、地獄を選んだ。雨夜とともに過ごす地獄を。この地獄から一度は抜け出した浅野少年もまた、同じ時間を過ごし、ここに舞い戻ってくることになるのだろう。自らが作り出したこの無間地獄、いや、無限地獄へと。
だったら、最初から離れるべきではなかった。ずっとここに留まれば、萌や陸翔をあんなに怯えさせることもなかった。日高に子どもを堕ろさせることもなかった。自分のような人間は未来に期待すべきではなかった。
「明那、泣いてるん?」
「……泣いてへん」
「ジャイアンにやられたんか?」
雨夜がクスクス笑う。浅野の口からも笑い声が漏れる。
「あんなんにやられるかボケ」
「はいはい、そういうことにしといたるわ」
軽口を叩き合うのも昔と変わらない。大人になった自分は、今の雨夜にはどう映っているのだろう。そう思ったが、何も聞かなかった。ほんの少しでも均衡が崩れることになれば、この時間は失われてしまうかも知れない。
残してきた者たちへの未練が浅野の不安を誘い出そうとするが、彼は必死に振り払った。そして、視線をさ迷わせる。電球の一つが点滅しているのが遠くに見える。
浅野はそれを数えた。
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