Cat walK【完結】

Lucas

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町田陸翔

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 陸翔りくとは木漏れ日に目を細めた。いつだったか、ここで綺麗な蝶が飛んでいた。あの時、陸翔はなにも蝶に見惚れていたわけではない。
 木漏れ日がちらちらと動く。彼の目にだけそう映る。光を遮るものが木の枝からぶら下がって少年を見下ろしているからだ。正確には、木の枝にくくりつけたロープから垂れ下がっている者だ。
 ゆらゆら揺れる青年はにっこり笑って「お構いなく」と囁いた。いつものことである。
 陸翔は頷いて黒いランドセルを背負ったまま今度は砂場へ向かう。
 集団下校は解除された。時短授業や分散登校は今も続いているが、児童に声をかけていた不審者が逮捕されたからだ。とはいえ、誘拐の容疑については否認しているらしい。本当かどうか分からないが、児童を狙う不審者はきっとネズミ以上に多い。どんどん沸いて出てくる。
 だから、きっと安心できる時なんて来ないのだと陸翔は思った。砂場でレジャーシートを敷いて営業中の少女を見て余計にそう思う。
「こ、こんにちは」
 陸翔は勇気を振り絞って声をかけた。少女は黒いキャップを深く被って膝を抱えて泣いている。
「あ、あの」
 少女がふと顔を上げた。
「いつものかわいい子やん。どうしたん?」
「え、えっと、なんで泣いてるんかなって」
「いつもここに来てくれてたお兄さんが全然来てくれへんようになってん。ひどいわ、お花持ってきてくれるって約束したのに。やっぱりみんなあたしのこと忘れるんよ」
「そのお兄さんって、赤ちゃん抱いてた人?」
「そう。知ってる? 綺麗な標準語喋っとった人。あの人と喋ってると、自分も東京の人間なったみたいで楽しかったんよね」
 ぐすぐすと鼻をすすってはいたが、少女に笑顔が戻って来た。
「そうなんや。えっとね、急にね、お仕事の都合で、もう来られなくなっちゃったんやって」
「そうなん?」
 陸翔は頷いた。
 彼が亡くなったことは黙っていた。ニュースで彼の顔を見た時、この公園で少女と話していた人物だとすぐに気づいた。しばらく世間とネットの民たちを騒がせていた。幼児のことは報道されていなかったが十中八九彼の子どもではないだろう。
 彼のいた部屋の冷蔵庫からは女性の遺体が見つかった。もともとその部屋に住んでいた女性で女優を夢見ていた。風俗業に勤務する傍らでオーディションを受けては落ち続けていた。
 彼女は幼少時の親による迫害が影響していたのかどこかいつも不安定だった。そのことが仕事やオーディションにも影響を及ぼす。そういった人間は得てしてサンドバッグになりやすい。
 ネットのおもちゃと化した彼女に目をつけたのが、自称映画監督のあの男だった。
 映画への出演を餌に彼女に近づく。自分だけが彼女を愛せる、自分だけが彼女の魅力を理解している。そう甘い言葉を囁き、彼女の家にも住み着いた。
 彼の歪みに気づいた時にはもう遅かった。
 逃げ出そうとした彼女を彼は永遠にあの部屋に縛り付けた。そのことによって彼が精神に異常を来したのか、生来の性質だったのか今となっては分からない。
 彼の死によって、こうして嘆くものもいれば救われたものもいる。さくはあと少しでその彼女と同じ運命を辿ることになっていた。
 あの日助けが来なければ、彼はさくを殺害後彼女の自宅に出向いて財産を奪う気でいた。そして、行方をくらますつもりだったのだ。
 そんなことまでは陸翔の知る由ではないが、彼を待つ少女のことを思うと足を伸ばさずにはいられなかった。
「あの、それでね」
 陸翔がしゃがんでランドセルを降ろす。しかし、少女は陸翔の言葉を遮って話し始めた。
「あ、シャベルおじさん」
「え?」
 道路の向こう側をシャベルを振り回しながら一人の男性が駆けていく。
 陸翔にもその姿が見えている。ということは、きっと彼もまたこの世に生きる者ではないのだろう。
「相変わらず。あの人もお兄さんのこと気に入ってたみたいやから寂しいんかもね」
「そうなんや……」
 死者は、見える者を好む。だから、優しくしすぎてはいけない。陸翔もそのことは自身の経験から理解しているつもりだった。それでもこの少女を放っておくことはできなかった。
 彼女もまた、鬼の犠牲者だからだ。
 この辺りで亡くなった人のことを調べてみた。そこで、彼女を発見した。だから、陸翔はここに来た。
「みんなに忘れられてくから、ちょっとでも引き留めたいんよ。自分のこと見える人おったら、縋っちゃうんよ。だって、ほんまにみんな冷たい。あそこ見て。あの横断歩道のとこ。お花枯れたまんま。誰ももう持ってきてくれへん。ひどくない?」
 少女の瞳から大きな涙の粒が次々に溢れ出した。木の枝で揺れる青年も心配そうな視線をこちらに送っている。
「ひどくない? 自業自得とか陰口叩いてる人もおった。ちゃんと気をつけてたのに、変な人がおるんよって先生にもちゃんとゆってたのに、いつも声かけられるって。その人嫌なことばっかりゆうんよ、変なことばっかりゆわれるんよ。変な風に近づいて来て、それであたしに触ろうとするんよ。でも、お母さんにはなんか言われへんくって、自分でなんとかしようって男子みたいな恰好もして、帰り道も変えて、できるだけみんなとギリギリまで一緒に帰れるようにして……」
 陸翔は涙をこらえて少女の声に耳を傾け続けた。
「頭も顔もいっぱい殴られたんよ。いっぱい血も出て、目もあんまり見えへんくなって。大人の力なんか敵うわけないやん。めっちゃ痛くって、車に連れ込まれそうになって、どうしても帰りたくて、嫌で、謝った。嫌やったけど、悔しかったけど、謝って家に帰らしてくださいってお願いしたのに、聞いてくれへんくって」
 彼女の声が少女のものでなくなっていく。歪みが見え始めた。それでも陸翔は恐怖をこらえてランドセルを前に構えたまま少女の声に集中する。
「やっと隙見て車から飛び出した。でも、もうなんも見えへんかった。車が来てたのも、見えへんかったんよ。あたし悪くないのに、悪くないのに」
「うん、悪くない」
「でも、お母さんは来てくれへん。お花もう持ってきてくれへん。お兄さんも結局嘘ついた。みんなあたしを忘れる」
 彼女の家は事件からしばらくして引っ越していたことが分かった。愛する娘を失った地に留まることに耐えられなかったのだろう。だが、それも陸翔の預かり知らぬことである。
 もう限界だ。陸翔はランドセルを開けてあるものを取り出した。
 それは小さな花束だった。
 それを見た少女の涙が止まる。
「お兄さんは忘れてへんかったよ」
「ほんまに?」
「うん。お花、預かってきた」
 陸翔の手から少女へと花束が渡る。
「かわいい」
 彼女にとって最上級の誉め言葉だ。少女の笑顔が花に活力を与えたようだった。ランドセルに詰められ元気のなかった花が空を仰ぐ。
「ありがとう。これを、ずっと待ってた。誰かが、お花持ってきてくれるの」
「また持ってくる。僕も忘れへんよ」
 その言葉が、きっと彼女の魂を救ったのだろう。砂場にはレジャーシートも商品もなにもない。小さな花束だけがそこに残されていた。
 陸翔は涙を拭って立ち上がる。ちょうど、彼にも迎えが来た。華やかな女性が公園脇に停めた車の中から手を振っている。
「陸翔くーん、ごめーん遅なって。ほら、乗って乗って!」
 もえの働いていた店、今もレンが黒服として勤務する店で同じく働いている女性の一人だ。
 陸翔を乗せたその車は、彼女の勤務先兼陸翔の新居へと出発する。
 浅野あさのと暮らしていたあのアパートにもう彼らは住んでいない。
 萌の勤務先の店はママの所有するマンションの一階に入っている。そのマンションの一室に住まわせてもらっているのだ。萌の復帰を条件に住まいを提供してくれたのだ。どうにもここのママは冷徹にはなりきれないらしい。
 新居は現在通う学校の校区からやや離れてしまっている。転校が決まるまでバスで通うことになったが、なにかしら理由をつけて店のキャストたちがマイカーやらタクシーやらで送り迎えをしてくれるのだった。
 彼女たちは楽しんでいるようだが陸翔は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。それでも以前のように学校を休まずに登校するようになったのは彼なりに少しでも母を心配させまいとしていたからだ。
 浅野を失った萌は、悲しみに打ちひしがれていた。食事もままならない状態の萌を励まし続けたのは、陸翔とレン、そして上原だった。
 めでたく病院をクビになった彼女は徐々に営業を再開していたこの店のキャストとして働き出したのだ。そして、さくも一緒にここへ連れてきた。
 持ち前の明るさと押しの強さで今では店でも人気者だ。ママもすぐに彼女の人柄を見抜き、満更ではないようだった。頼りない黒服の教育もしてくれているようだ。すぐに心身ともにボロボロになるこの黒服レンもママにとっては放ってはおけないが頭痛の種でもあった。
 さくについては上原からかいつまんだ説明しかされていなかったが、この店では彼女のような問題を抱えている者はそう珍しくはなかった。
 さくもまた立ち直るのに時間を要した。母親からの経済的搾取はまだ続いているらしいが、上原が間に入ることで緩和したらしい。
 ともあれ、みんなが前を向いて進み始めていた。
 浅野明那あさのあきな以外は。
 浅野明那。陸翔の父親になる予定だったその男は、殺人の容疑で指名手配中だ。
 あの日、彼の車はあの館の跡地前で発見された。車内には木下の血液が付着した包丁が残されていた。彼はそこから逃亡したことになっている。そのため、警察に事情は話したものの正当防衛とすることは難しいらしい。
 世間は殺人鬼がいまだこの世をさ迷っていると思い込んでいる。
 そして、萌もまたその一人。彼女にとって殺人鬼ではなくヒーローではあったが、彼が生きて戻ってくることを信じている。
 陸翔だけが気づいている。彼はもう帰って来られないということに。
 マンションに着くと、店の前を掃除しているレンを見つけた。陸翔を送ってくれたネネというこのキャストはあまりレンを良く思ってはいないらしく、陸翔に手を振って店の中へと消えて行った。
 頼りない黒服は一部ベテランキャストから距離を置かれている。そのことを知ってはいるが、彼はなにも言わずに黙々と働いていた。
 陸翔は彼らの事情には踏み込まない。小学生らしく、無邪気にレンに近づいていく。
「レンくん、ただいま」
「え? ああ、陸翔くん。お帰り」
 顔の怪我はすっかり治り、持ち前の美貌を取り戻していた。彼に付きまとっていた鬼である橘川きっかわは今はもう完全に接触を絶っているようだ。上原の仕掛けたトラップのせいで一時期はネット民のおもちゃとなっていたようだが、それももう落ち着いている。
「学校どうやった?」
「うん。今年はやっぱ運動会もプールもなくなったから、なんかちょっとつまんないかも」
「あ、そっか。まだまだ問題も片付いてへんもんなあ。あ、じゃあ今度僕らだけで運動会する? 蓮華れんかさんもたぶんそういうの好きそうやし」
「うん!」
 上原うえはらとはどうやらうまくいっているようだった。陸翔もレンのセクシュアリティのことは知ってはいたので少しだけ不思議には思ったが、レンが幸せならそれで良かった。
「あ、そういや今日メイさんと病院行ってきたよ。赤ちゃん順調やって」
 萌の中で育つ新しい命。浅野の血を引いた命。色々なことが起きたが、その子もまた強くしぶとく育ち続けている。
「良かった! 早く生まれて欲しいな。すっごい楽しみ」
 きょうだいができるのは純粋に嬉しかった。ごくたまにではあるが、陸翔は萌と二人きりになると息が詰まりそうになる。感情を素直に表に出せる母親を、陸翔は羨ましいとも疎ましいとも感じてしまうのだ。でも、そんなことはけしておくびにも出さない。ただ、それは子どもがこなすタスクとしてはやや重い。
 そういった日常に疲れた時、浅野を求めてしまう。
 どうしても会いたいと願ってしまう。叶わないことを知っても。
 萌はそういった感情を隠そうとしない。彼を求めて泣く母親を見ると、耳を塞ぎたくなるのだった。
 上原やレンが共にいると、そんな彼女を慰めてくれる。その役割から解放された時、安らいでいる自分がいることに気づく。それは、新たな罪悪感となって陸翔の心を蝕む。
 そういったことに、上原はいち早く気づく。彼女の提案する様々な新しい遊びは陸翔の心を癒してくれる。浅野によく似ているとも思った。
 レンはきっと大人としては少し頼りないのだと思う。しかし、彼が浅野に好意を抱いていたことも陸翔は知っている。陸翔から見ていた浅野の像は、レンから見ていたものと一致する。だから、レンと話すことも陸翔にとっては安らぎとなる。
 他の者たちが気を遣って避ける浅野の話題を、レンだけはそうはせずに思い出に付き合ってくれるのだ。そこに母のような嘆きは含まれていない。
「あ、さくさん。おはようございます」
 レンがこちらに向かってくる影に声をかけた。陸翔が振り向く。さくがおどおどとした様子で紙袋を持ってきた。
「お、おはようございます、レンさん。えっと、陸翔くんおかえり」
「ただいま、さくさん」
 さくもまたこのマンションに住まわせてもらうことになった。というより、レンも上原も、全員がここに住んでいる。同じフロアに彼らの部屋は並んでいた。
「あ、あのね、これ」
 紙袋を陸翔に手渡す。
「なに? あ、お寿司!」
「えっとね、今お客さんがお寿司くれはって、でも私お魚苦手で、良かったらお母さんと食べて」
 キャストたちは、このように理由をつけて町田親子に差し入れをしてくれる。たいていは客からもらったからお裾分けとのことだったが、その中に実は彼女たちが自ら購入してきてくれたものもあることを陸翔は知っている。頭が上がらない思いだった。
 彼女たちの純粋な優しさもまた、町田親子の傷を癒していった。
「さくさん、今日同伴出勤ですか?」
「は、はい。そこ、お客さん待ってて。今からご飯行って七時にはお店入るようにします」
 ということは、この寿司は彼女かはたまた親切なお客か、どちらかが好意で買ってきてくれたのだろう。陸翔はもう一度礼を言う。
「いいよいいよ。それじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 さくが駆けていく方向に一台の車が停まっている。彼女もこの仕事に慣れてきたようだった。本名を嫌う彼女はここでもさくという名前で通っている。
「陸翔くん、それ持って部屋に上がり。僕もそろそろ店開ける準備せんなあかんし」
「うん。またね、レンくん」
 ほうきを持ったレンが店の玄関の方へ消えて行く。陸翔は彼とは逆の方向、マンションの玄関へ向かう。古くからあるマンションで、珍しくオートロックもない。エレベーターはあるが、陸翔は三階の自分の部屋まで階段で駆け上る。
 このマンションには他のキャストも何人か住んでいる。心優しいキャストが多数だが、その中にも町田親子や子どもとどう接していいか戸惑っている者もいる。そんな彼女たちと顔を合わせて気を遣わせないようにするためだ。
「お母さん、ただいま!」
 部屋に入ると、淀んだ空気が彼を出迎えた。
 今日はダメな日かな、と思いながら陸翔は部屋の奥へと進む。1LDKの部屋。彼らには十分な広さだった。奥のリビングから、萌のすすり泣く声が聞こえる。陸翔は部屋の扉を開く前に大きく息を吸った。
「お母さん、見て見て。さくさんがお寿司くれた! お客さんがくれたけど、さくさんお魚あかんのやって」
 精一杯明るい声を出す。萌はまるで幼い少女のように泣きじゃくっている。そんな母の背中を陸翔は小さな手で一生懸命撫でた。まだ妊娠中の身である萌は、正式には店に復帰していない。あくまで復帰予定だ。ママの人の良さがそこにも表れている。誰が見ても、今の萌には復帰を期待できないだろう。
「お母さん、大丈夫。アッキーならきっと大丈夫。それより、ちゃんとご飯食べな。赤ちゃんもお腹すいちゃうで」
 何度も何度もそう言って、なだめて、ようやく母は笑顔を取り戻す。
 母の笑った顔は、陸翔も大好きだった。自分のことを愛してくれていることも分かっている。悲しみを乗り越える速度は人それぞれだ。母も頑張っている。立ち直ろうとしてくれているのを知っている。
 でも、陸翔も本当は包み込んでもらいたかった。誰かに甘えたくて仕方なかった。
 浅野の大きな手のぬくもりが懐かしかった。
 涙をこらえ、夕食の準備をする。お湯を沸かそうとする陸翔を、「火は危ないよー、お母さんがやるね」と言って止めてくれる母のことはとても好きだった。浅野がいた頃を思い出すから。
 こうして、小さな勇者の長い一日がまた幕を下ろす。
 夜が更けていく。
 すると、窓の外からいつもの声が聞こえた。
 陸翔はそれを無視する。
 聞かなかったことにしていた。今までは。
 でも、そろそろ限界だ。
 『彼』も、苦しんでいる。
 陸翔はこっそり布団から抜け出すと、ベランダに出た。
 大好きなアニメキャラクターのサンダルを履いて、『彼』の隣に立つ。
 『浅野明那』の隣に。
 彼はぼんやり月を見上げてなにか呟いていた。
「綺麗やな、明日は晴れかな」
 陸翔は「そうやね」と囁く。
「明日仕事休もうかな。陸翔も学校休むか? みんなで、遊園地にでも行くか。あ、でもまだどこも閉まっとるかな」
 陸翔は涙が零れ落ちそうになるのをこらえた。彼がこうしてここに毎晩現れる。それは、浅野がもうこの世に存在していないということの証明でもあった。
 どんな形であれ、浅野に会えるのは嬉しかった。彼の声が聞きたかった。でも、もう解放してやらなければならないと陸翔は思った。彼もまた犠牲者なのだから。
 彼が命を奪ってしまった木下という男は、まさに鬼だった。
 多くの女性たちが彼によって殺されてきた。体はこの世にあれど、彼は彼女たちの魂を殺し続けてきたのだ。
 魂を殺された女性たちの憎しみの念が彼にいつも取り憑いていた。彼によって口を塞がれてきた女性たちの放つ思念の渦が、陸翔を悩ませていたものの一つだった。
 こういったものが見えてしまうこと、感づいてしまうこと、そういうことは浅野にさえも話すことができなかった。
 あの日、木下が再び凶行に及ぼうとした時、浅野がやってきた。彼の持つ殺意に、彼女たちの憎悪が拍車をかけた。思念が浅野の手を何度も何度も突き動かした。彼を通して、彼女たちは木下に復讐を果たした。
 現実の彼女たちが今どんな状態にあるのかは分からない。だが、ニュースで木下の死を知った彼女たちは、きっとわずかではあるが救われたのではないだろうかと陸翔は思う。
 そうあって欲しかった。そうでなければ、あまりにも報われなさすぎる。
 陸翔は、まだ救われていない男に向き合う。
 せめて、自分たちからは解放してやりたい。そう決意して、口を開いた。
「アッキー、遊園地は大丈夫。学校も、楽しい。転校はするかもやけど、きっと大丈夫」
 浅野が首を傾げて隣の少年を見る。
「お母さんも大丈夫。赤ちゃんも元気やで。生まれたら、きっとアッキーみたいに優しい子になる。僕が、ちゃんと守る。きょうだいも、お母さんも、僕がアッキーの代わりに守るから、だから、大丈夫やで……お父さん」
 浅野の瞳が、しっかりと光を取り戻した。ようやく、ちゃんと隣にいる勇気ある少年の姿を捉えたようだった。
 浅野の大きな手が陸翔の頭を撫でる。
 そこにぬくもりはなくとも、陸翔の大好きな手の感触だった。
「おう、任せたで。陸翔」
「うん」
 最後に笑顔を残して、彼は消えた。浅野明那は、完全にこの世から消滅した。彼は、きっとあるべき場所へと戻ったのだ。それは、もう陸翔には関与できない場所なのだろう。
 陸翔は大きく息を吸って、夜空を見上げた。
 進むしかない。どんな未来が待っていたとしても、強く生きるしかない。
 鬼はこの世にも溢れている。囚われてしまわぬよう、うまく泳ぎ続けなくてはならない。
 少年は誓いを立てる。自分はけして囚われない。
 その時、猫の声がした。
 陸翔は柵から顔を出して下を眺める。黒い影が横切った気がしたが、高すぎてよくは見えなかった。
 月明かりが生み出す影に隠れるようにして、一匹の黒猫がその建物を見上げた。少年がちゃんと部屋へ戻っていくのを見届けてから、もう一度凛とした声で鳴いた。
 愚かでおかしな人類へ。親しみを込めて。彼らの守るべきもの、彼らの愛するものへの敬意も含めて。
 ――きっときみたちは、そのために生きるんだね。
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