残業女子と定食屋青年の 奪う恋じゃなくて、分け合うごはん

乾為天女

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第15話 手のひらの約束

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 土曜日の朝、商店街のアーケードは、まだ半分だけ目覚めたような顔をしていた。
 シャッターを開ける音と、パン屋のオーブンのタイマー音。
 魚屋の前を通ると、氷の入ったケースに水が注がれるざあっとした響きがする。

 みつよ食堂の引き戸の鍵を開けながら、琉叶は、胸ポケットの内側をそっと確かめた。
 薄いカードが一枚、折れないように入っている。
 そこには、震えた字で書かれた短い一行。

『ちゃんと自分で決めたい』

 先週の夜から、その言葉は何度も頭の中で反芻されていた。
 厨房に立つたび、包丁を握るたび、ふとした拍子に思い出す。
 奪われるとか、奪うとかではなく、自分で選ぶこと。
 それを、あの人はようやく自分の言葉で書いた。

「……だったら、こっちも中途半端にできないな」
 小さくつぶやいてから、いつものように厨房の電気をつける。
 蛍光灯の白い光が、ステンレスの台に反射して広がった。

     *

 仕込みがひと段落したころ、引き戸がガラリと開いた。
「おはようございます」
 エプロンを抱えた桜子が、少し早めの時間に顔を出す。
「今日も、お世話になります」
「こちらこそ」
 琉叶は、自然に笑みを浮かべた。
「指、だいぶ慣れてきました?」
「え?」
「ほら、玉ねぎとの付き合い方」
「ああ……」
 桜子は、自分の指先を見下ろした。
 小さなまめは、前より硬くなり、絆創膏の数は減っている。
「泣きながら刻んでた頃に比べると、少しだけ、仲良くなれたかも」
「それなら何よりです」

 エプロンをつけた桜子がカウンターの中に入ると、琉叶は、冷蔵庫の上の棚に目をやった。
 そこには、昨日のうちに買っておいた小さな箱が置かれている。
 中を開けると、一口サイズに切られた刺身用の魚と、色とりどりの具材が並んでいた。

「それ、今日の新メニューですか?」
 興味津々な視線に、琉叶は首を振る。
「いえ。今日は、もう一回だけ、シンデレラをお願いしようと思って」
「もう一回……?」
「前回のカード、覚えてます?」
 そう言って、胸ポケットからカードを取り出す。
 白い紙の中央に、あの一文がそのまま残っていた。

『ちゃんと自分で決めたい』

 桜子は、息を呑んだ。
 自分の字を、第三者として見るのは少し気恥ずかしい。
 それでも、その一行が、あの日の夜、自分をぎりぎりのところで支えてくれたことを思い出す。

「今日のシンデレラ定食、テーマはこれにします」
 琉叶は、カードを指先で軽く叩いた。
「嫌じゃなければ、ですけど」
「嫌じゃないです」
 桜子は、即答していた。
「ちゃんと自分で決めたい、って書いたのに、ここで曖昧にしたら、格好つかないので」
「了解しました」
 琉叶は、いつもより少しだけ真面目な表情でうなずいた。

     *

 昼のピークが近づくにつれ、店内の温度が少しずつ上がっていく。
 スープ鍋から立ちのぼる湯気と、フライパンから跳ねる油の音。
 カウンター席には、常連たちが次々と座り、テーブル席では家族連れが注文を決めあぐねていた。

「シンデレラ定食、一つ入りましたー」
 美津代の声が、厨房に届く。
「はいよ」
 琉叶は、返事をしながら、内心で小さく深呼吸をした。
 今日の「主役」は、もちろん桜子だ。

 炊き立てのご飯を少し冷まし、小さく丸める。
 そこに、さまざまな具材を少しずつ乗せていく。
 鮭フレーク、甘めに煮たしいたけ、細かく刻んだ梅、卵そぼろ、青じそ、胡麻。
 丸めてラップで包み、手のひらでそっと転がすと、ころんとした小さな手まり寿司がいくつも並んだ。

 一つだけ、中身を変える。
 外見はほとんど同じ。
 けれど、中に入っているのは、少しだけ辛みのある柚子胡椒を和えた鶏そぼろ。
 噛んだ瞬間、他とは違う風味が広がるように。

「ずいぶんかわいいの並べてるじゃない」
 横から、美津代が覗き込む。
「女子会でも開くのかい」
「いえ。今日は、一人分です」
「ほう」
 意味ありげな声に、琉叶は「からかわないでください」とだけ返した。

 手まり寿司の横には、いつもより具だくさんの味噌汁と、季節の野菜を使った小さな揚げびたし。
 皿全体が、軽やかな色で埋まっていく。

「……よし」
 最後に、箸袋を一つ取り、封を開ける。
 新しい箸を取り出し、自分の手のひらで一度だけ軽く転がした。
 木の感触を確かめてから、お盆の端にそっと置く。

     *

「お待たせしました」
 カウンターの内側から、お盆が差し出される。
 桜子は、目の前に置かれた皿を見て、素直に声を上げた。

「わあ……」
 白い皿の上に、小さな丸いご飯がいくつも並んでいる。
 それぞれに少しずつ違う色の具材が乗り、まるで小さな花が咲いているみたいだった。

「今日のシンデレラ定食です」
 琉叶が、静かに説明する。
「全部、一口で食べられます。
 中身は、少しずつ違いますけど」
「かわいいですね。
 お弁当箱に詰めて持って帰りたいくらい」
「それは、それで面白そうですね」
 思わずこぼれた感想に、琉叶の表情が少し柔らかくなる。

「一つだけ、中身が特別なやつがあります」
「特別?」
「見た目は、ほとんど同じですけど」
 琉叶は、棚から小さなプレートを取り出し、その上に箸を載せる。
「どれから食べるかは、桜子さんに決めてもらっていいです」

 そう言って、箸を持った手を、カウンター越しにそっと差し出した。
 桜子は、一瞬、その意味がわからず瞬きをする。

「料理って、口に入れる前に、必ず『手』が選ぶんです」
 琉叶の声は、忙しい店内のざわめきに紛れないように、少し低く抑えられていた。
「どれを先に、どれをあとに。
 どれを残して、どれを最後の一口にするか。
 それを決めるのは、いつも食べる人の『手』なので」

 桜子は、静かに自分の手のひらを差し出した。
 そこへ、琉叶が箸をそっと乗せる。
 木の感触と一緒に、体温がかすかに伝わってきた。

「……自分で選べる人になってください」
 短く、しかしはっきりとした声だった。
「誰かに奪われたとか、取られたとかじゃなくて。
 自分で決めたって、あとで胸を張れるように」

 桜子の喉が、きゅっと鳴る。
 心臓の鼓動が、箸を通して手のひらまで響いてくるようだった。

「それ、料理の話ですよね」
 なんとか絞り出した冗談めいた一言に、琉叶は、少しだけ目を細める。
「もちろん、料理の話です」
「……そうですよね」
 その「もちろん」に、少しだけ救われた気がした。

 箸を握り直し、桜子は、手まり寿司の列を見つめる。
 どれも、同じようにおいしそうに見える。
 でも、どれか一つから始めなければ、何も変わらない。

 一番手前の、梅の色が少しだけ強い一つを選んだ。
 口に入れると、酸味と塩気がふわっと広がり、すぐに白いご飯の甘さが追いかけてくる。
 じんわりとした味が喉を通り過ぎるころ、胸の奥の緊張も少し解けた。

 二つ目、三つ目と食べ進めるうちに、どれが「特別な一つ」なのかを探す気持ちより、いま自分が選んだ順番そのものが、不思議と愛おしく思えてくる。

 そして、残りが二つになったとき。
 皿の端にいた一つをつまんで口に運ぶと、ほんのりと辛い香りが広がった。
 柚子胡椒と鶏そぼろ。
 他のものよりも少しだけ強い味わい。
 けれど、不思議と嫌ではなかった。

「当たり、でした」
 カウンターの向こうで、琉叶が小さく笑う。
「それが、今日の『特別』です」
「やっぱり、そうなんですね」
 桜子は、水を一口飲んでから、そっと息を吐いた。
「辛いけど、なんか、癖になりそうな感じでした」
「最初にそれを選ぶ人もいれば、最後まで取っておく人もいます。
 桜子さんは、ちゃんと迷ってから選ぶタイプだと思ってました」
「見られてますね、ずっと」
「仕事柄です」
 素っ気なく返したその一言が、逆に照れ隠しのように聞こえた。

     *

 少し遅れて店に来た勇一と実記は、カウンターの端の席に座りながら、そのやりとりを横目で見ていた。
「ねえ、いまの台詞、聞いた?」
「『自分で選べる人になってください』のとこ?」
「そう。
 あれ、完全に告白一歩手前じゃない?」
「本人は、『料理の話です』って顔してたけどね」
 実記が、ノートパソコンを開きながら肩をすくめる。
「タイトル案、『手のひらの約束』で一本書けそう」
「それ、連載の中盤にちょうどよさそうだな」
 勇一は、スケッチブックの隅にその言葉を書き留めた。

 隣のテーブルでは、雄之がひだまりベーカリーのパンを差し入れながら、静かに様子を眺めている。
「二番目とか三番目とか、外野は勝手に言うけどさ」
 ぼそっと呟く。
「本人たちが、自分の手で決めればいいだけの話なんだよな」
「珍しく、まっとうなこと言った」
「失礼だな」
 そんな軽口が飛び交う中、カウンターの中央では、桜子が最後の一つをゆっくりと口に運んでいた。

 全部食べ終わった皿の上には、もうどれが「特別」だったのか、目印は何も残っていない。
 残っているのは、自分の「手」が選んだ順番と、手のひらに乗せられた箸の感触だけ。

「ごちそうさまでした」
 桜子が頭を下げると、琉叶も、いつもより少しだけ丁寧にお辞儀を返した。
「こちらこそ。
 選んでくれて、ありがとうございます」

 その言葉の意味を、桜子はすぐにはうまく飲み込めなかった。
 でも、胸の奥で何かが静かにほどけていく感覚だけは、確かにあった。
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