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第21話 家賃交渉の知らせ
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朝いちばんの紙月堂は、湯気と紙の匂いだけが静かに混ざっている。
シャッターを上げ、ガラス戸のカギを外し、エスプレッソマシンのスイッチを入れる。悠之介は、いつもの手順をひとつひとつこなしながら、ポストの中身をレジ横の棚にまとめて置いた。
チラシ数枚、請求書が一通、そして茶色い封筒が一つ。
茶封筒の左上には、見慣れた管理会社の名前が印刷されている。
「……更新、そろそろだったか」
悠之介は、タオルで手を拭きながら、封筒の端を指でなぞった。まだ開けてもいないのに、紙の重さがいつもと違って感じられる。
ひと呼吸おいてから、封を切った。
中から出てきたのは、淡々とした文言の通知文だった。
『賃料改定のお知らせ』
『近隣相場の変動に伴い』
『次回契約更新より、月額〇〇円に』
数字の部分だけ、妙にくっきりと目に飛び込んでくる。
悠之介は、紙を持つ手を少し強く握りしめた。
机の奥から電卓を取り出し、家賃の欄に新しい金額を書き込む。ノートの端に、「水道」「電気」「仕入れ」と、いつもの出費を並べ、そこに増えた家賃を足す。
カチカチと電卓の音が、やけに大きく響いた。
「……ふむ」
出てきた数字を見て、口から漏れたのは、意味のない相づちだけだった。
単純に数字だけを見れば、「絶対に無理」というほどではない。けれど、毎月確実に増えていくこの額を、今の紙月堂が背負えるのかどうか。
ノートの余白に、「もしもの月」と書き足した。雨が続いて人通りが減った日、体調を崩して店を閉めざるを得ない日。そんな「もしも」の月に、今日の数字が重くのしかかる想像が、頭の中で膨らんでいく。
ガラス戸の向こうで、足音が止まった。
「おはようございます」
紗菜が、いつもの落ち着いた声で店に入ってくる。
「おはよう」
悠之介は、返事をしながら、咄嗟に通知文をノートの下に滑り込ませた。
だが、その動きはほんのわずか遅かったらしい。紗菜の視線が、茶色い封筒の切れ端に止まる。
「さっきの……?」
「管理会社から。更新の通知だ」
「更新、ですか」
紗菜は、エプロンを掛けながら、少しだけ眉を寄せた。
悠之介がノートの上から通知文をそっと取り出すと、紗菜は無言で読み始めた。
数秒後、視線だけで金額の欄を指し示す。
「ここ、変わってますね」
「ああ」
「何パーセントくらいでしょう」
「……だいたい、今の一割増し」
電卓の表示を見ながら答えると、紗菜は小さく息を吐いた。
「一割」
「数字だけ見ると、『がんばれば払えなくはない』って範囲なんだけどな」
悠之介は、ノートに視線を落とす。
「でも、毎月増える一割は、『がんばれば』のままじゃ続かない」
「ですね」
紗菜は、レジの横にある小さなメモ帳を取り出した。
「まずは、今の売上と経費を、ざっくり洗い出しましょうか。家賃の話は、そのあとです」
「話を聞く前に、数字を並べるのか」
「気持ちが先に走ると、交渉じゃなくて感想になってしまうので」
言いながらも、紗菜の声には、わずかな苛立ちが混ざっているように聞こえた。
「急だよな」
「そうですね。『近隣相場の変動』って、便利な言葉です」
紗菜は、通知文のその一文をそっと指でなぞった。
開店時間が近づく。
ガラス戸に「OPEN」の札をかけてからも、悠之介の頭の片隅には、家賃の数字が居座り続けていた。
「いらっしゃいませ」
最初に入ってきたのは、いつものスーツ姿の男性だった。カウンター席に腰を下ろし、「いつもの」を頼んでから、カバンの中からノートパソコンを取り出す。
「今日、少し早いですね」
紗菜が声をかけると、男性は苦笑いで返した。
「朝イチの会議が、午後イチに飛んだんですよ。ひと息つきに来ました」
「それは、うちとしてはありがたい飛び方です」
そう言いながら、紗菜は慣れた手つきでカップを用意する。
その横で悠之介は、ミルクピッチャーを持ちながら、ふと電卓に手を伸ばしかけた。
慌てて自分の手を止める。
「……」
「店長?」
「いや。何でもない」
返事をしながら、ラテアートの模様が、ほんの少しだけ歪んだ。
午前中の忙しい時間が過ぎたころ、紙月堂のドアベルが、やけに元気な音を立てた。
「お邪魔しまーす!」
臣全が、いつもの倍くらいの声量で店に飛び込んでくる。
片手には、商店街の回覧板。もう片方の手には、コンビニの袋。
「はい、差し入れと情報をお届けに参りました」
「情報?」
悠之介が首をかしげると、臣全はカウンター席にどっかと腰を下ろした。
「家賃、上がるって話、来ました?」
「……来た」
宙ぶらりんになっていた通知文を、ようやく言葉にした瞬間だった。
「やっぱり。うちにも朝、届いてました」
臣全は、コンビニの袋からドーナツを一つ取り出し、テーブルの上に置く。
「亜友堂さんのところにも、スマホショップさんにも。どうやら、星見商店街の古い区画全体で、家賃を一律に上げるつもりみたいです」
「一律で」
紗菜の眉が、さらにきゅっと寄る。
「『近隣相場の変動』ってやつね」
「そうそう。それ」
臣全は、回覧板をくるりと回した。
そこには、商店街の会合のお知らせが挟まっている。日付と時間の欄の下に、「家賃改定について情報共有」と、小さく書き加えられていた。
「とりあえず、今度の夜に集まりましょうって話になってます。大家さんのところにも、『一回話し合いの場を作ってほしい』って連絡は入れておきました」
「動きが早い」
悠之介が、素直に感心する。
「こういうときこそ、『口を出したがる人』の出番ですから!」
臣全は、胸をどんと叩いた。
「でも、ただ『嫌です』って言いに行っても仕方ないので。各店で、今どんな状況か、数字と一緒に持ち寄りたいんですよね」
「数字と一緒に」
悠之介は、視線をノートに落とした。
「売上と経費、ざっくりでいいので。あと、『この場所で何をしているか』も」
臣全は、ドーナツを一口かじりながら続ける。
「大家さんからすると、『テナントが何をしているか』って、案外知られてないんですよ。灯りがついてて、家賃が入ってきてればそれでいい、みたいな」
「まあ、確かに」
紗菜が、カウンターに肘をついた。
「紙月堂が『文具屋』なのか『喫茶店』なのか『相談窓口』なのか、説明しようとすると、ちょっと長くなりますし」
「全部ですって言うと、怪しいですしね」
靖治が、いつの間にか裏口から顔を出した。
「全部です、って言うと、『何屋さん?』ってなるやつ」
「靖治、いたのか」
「さっきから、段ボール潰してました」
靖治は、ぐしゃぐしゃになった段ボールを抱えながら、ぽりぽりと頭をかいた。
「家賃上がるって、本気ですか」
「通知が届いてるから、本気だろうな」
「うわあ……」
素直なため息が、店内の空気に混ざる。
「でもまあ、嘆いてても仕方ないですから」
臣全は、ホワイトボードも何もないのに、話し合いモードに入っていた。
「まずは、商店街全体で、『この金額だとどうなるか』を整理しましょう。売上に対する割合とか、『このままだと誰が一番苦しいか』とか」
「『誰が一番苦しいか』って、競わなくていいところですけどね」
紗菜が、苦笑まじりに指摘する。
「そこは、『誰から順に声が出にくくなるか』っていう意味で」
臣全は、言い直した。
「大きなチェーン店は、たぶん本部と相談すれば何とかなるかもしれない。でも、個人店は、『もうちょっとがんばります』って言い続けて、気づいたら限界超えてることが多いから」
「……耳が痛い」
悠之介は、小さく呟きながら、自分のノートを閉じる。
「じゃあうちは、『このままいくと、どこにしわ寄せが来るか』を書き出しておく」
「それ、大事です」
紗菜が頷く。
「単純に売上から家賃を引いた数字だけじゃなくて、『誰のどの時間が削られるか』まで想像しておいた方がいい」
午後。
常連客が途切れた隙に、悠之介と紗菜は、テーブルの端にノートを広げた。
「まず、今の一か月分のざっくりしたお金の流れ」
紗菜が、ボールペンを走らせる。
「家賃、水道光熱費、仕入れ、人件費。それから、『ひと息セット』用の特別分」
「あと、紙とインクと……」
「店長の『静かに作業する時間』も、いちおう枠を作りますか」
「それは、金額にできないだろう」
「でも、削られたら一番困るところですよ」
紗菜は、「店主の一人作業タイム」と書かれた欄をノートの端に作った。
「家賃が上がるぶん、ここが削られるなら、それは『数字だけでは決められないこと』です」
「……なるほどな」
悠之介は、しばらくペン先を見つめてから、ゆっくりと書き始めた。
ノートの片隅に、小さく「この場所で何をしたいか」と書く。
その下に、箇条書きで言葉を並べた。
『静かに仕事を整理したい人が、座っていられる席を守ること』
『商店街の人たちが、閉店後に帳簿を持って集まれる場所であること』
『働き方の相談を、誰かに笑われずに話せる空気』
書きながら、何度もペンが止まる。
「言葉にするの、苦手なんだよな」
「苦手だからこそ、今のうちに書いておきましょう」
紗菜は、穏やかな声で促した。
「交渉の場で、いきなり出てくる言葉って、たいてい『納得いかないです』の一言ですから」
「それは、そうかもしれない」
夕方。
商店街のアーケードに、オレンジ色の照明が灯り始める。
紙月堂の前を通りかかった亜友が、中の様子を覗き込んだ。
「家賃の話、聞きました」
「ああ」
悠之介が頷くと、亜友は胸の前でエプロンの端をぎゅっと握った。
「うちも、同じ額だけ上がるみたいです。朝の仕込みの時間を増やせば、なんとか……と思わなくもないんですけど」
「でも、『仕込みを増やす』って、体が一本しかないのに、どうやって、って話になるよな」
「そうなんです」
亜友の笑顔は、いつもより少しだけ硬かった。
「だから、ちゃんと話を聞いてもらえる場所があるなら、ありがたいです」
「臣全が、場を作ってくれてる」
悠之介は、昼間の回覧板を思い出す。
「たぶん、うるさいくらい前に出てくれるだろうから、その分、こっちは静かにノートを持って行こう」
「静かなノート、頼もしいですね」
亜友は、ほっとしたように笑った。
閉店後。
レジを締め、カウンターの上を片づけ終えると、店の中には、昼間書き込んだノートだけがぽつんと残った。
悠之介は、そのノートを手に取り、ページをゆっくりめくる。
数字が並んだページの先に、小さな文字で書かれた自分の言葉がある。
この場所で何をしたいか。
家賃の数字の向こう側にあるものが、ほんの少しだけ見えた気がした。
「……まあ、まずは話を聞いてみるか」
誰にともなくつぶやいて、ガラス戸の鍵をかける。
商店街の夜風が、ポストの口をかすかに揺らした。
そこには、朝と同じ茶色い封筒がもう一つ、入っているわけではなかった。代わりにあるのは、明日の分の新聞と、近所のスーパーの安売りチラシだけだ。
増えるのが通知ばかりじゃないといい。
そう思いながら、悠之介はシャッターを静かに下ろした。
シャッターを上げ、ガラス戸のカギを外し、エスプレッソマシンのスイッチを入れる。悠之介は、いつもの手順をひとつひとつこなしながら、ポストの中身をレジ横の棚にまとめて置いた。
チラシ数枚、請求書が一通、そして茶色い封筒が一つ。
茶封筒の左上には、見慣れた管理会社の名前が印刷されている。
「……更新、そろそろだったか」
悠之介は、タオルで手を拭きながら、封筒の端を指でなぞった。まだ開けてもいないのに、紙の重さがいつもと違って感じられる。
ひと呼吸おいてから、封を切った。
中から出てきたのは、淡々とした文言の通知文だった。
『賃料改定のお知らせ』
『近隣相場の変動に伴い』
『次回契約更新より、月額〇〇円に』
数字の部分だけ、妙にくっきりと目に飛び込んでくる。
悠之介は、紙を持つ手を少し強く握りしめた。
机の奥から電卓を取り出し、家賃の欄に新しい金額を書き込む。ノートの端に、「水道」「電気」「仕入れ」と、いつもの出費を並べ、そこに増えた家賃を足す。
カチカチと電卓の音が、やけに大きく響いた。
「……ふむ」
出てきた数字を見て、口から漏れたのは、意味のない相づちだけだった。
単純に数字だけを見れば、「絶対に無理」というほどではない。けれど、毎月確実に増えていくこの額を、今の紙月堂が背負えるのかどうか。
ノートの余白に、「もしもの月」と書き足した。雨が続いて人通りが減った日、体調を崩して店を閉めざるを得ない日。そんな「もしも」の月に、今日の数字が重くのしかかる想像が、頭の中で膨らんでいく。
ガラス戸の向こうで、足音が止まった。
「おはようございます」
紗菜が、いつもの落ち着いた声で店に入ってくる。
「おはよう」
悠之介は、返事をしながら、咄嗟に通知文をノートの下に滑り込ませた。
だが、その動きはほんのわずか遅かったらしい。紗菜の視線が、茶色い封筒の切れ端に止まる。
「さっきの……?」
「管理会社から。更新の通知だ」
「更新、ですか」
紗菜は、エプロンを掛けながら、少しだけ眉を寄せた。
悠之介がノートの上から通知文をそっと取り出すと、紗菜は無言で読み始めた。
数秒後、視線だけで金額の欄を指し示す。
「ここ、変わってますね」
「ああ」
「何パーセントくらいでしょう」
「……だいたい、今の一割増し」
電卓の表示を見ながら答えると、紗菜は小さく息を吐いた。
「一割」
「数字だけ見ると、『がんばれば払えなくはない』って範囲なんだけどな」
悠之介は、ノートに視線を落とす。
「でも、毎月増える一割は、『がんばれば』のままじゃ続かない」
「ですね」
紗菜は、レジの横にある小さなメモ帳を取り出した。
「まずは、今の売上と経費を、ざっくり洗い出しましょうか。家賃の話は、そのあとです」
「話を聞く前に、数字を並べるのか」
「気持ちが先に走ると、交渉じゃなくて感想になってしまうので」
言いながらも、紗菜の声には、わずかな苛立ちが混ざっているように聞こえた。
「急だよな」
「そうですね。『近隣相場の変動』って、便利な言葉です」
紗菜は、通知文のその一文をそっと指でなぞった。
開店時間が近づく。
ガラス戸に「OPEN」の札をかけてからも、悠之介の頭の片隅には、家賃の数字が居座り続けていた。
「いらっしゃいませ」
最初に入ってきたのは、いつものスーツ姿の男性だった。カウンター席に腰を下ろし、「いつもの」を頼んでから、カバンの中からノートパソコンを取り出す。
「今日、少し早いですね」
紗菜が声をかけると、男性は苦笑いで返した。
「朝イチの会議が、午後イチに飛んだんですよ。ひと息つきに来ました」
「それは、うちとしてはありがたい飛び方です」
そう言いながら、紗菜は慣れた手つきでカップを用意する。
その横で悠之介は、ミルクピッチャーを持ちながら、ふと電卓に手を伸ばしかけた。
慌てて自分の手を止める。
「……」
「店長?」
「いや。何でもない」
返事をしながら、ラテアートの模様が、ほんの少しだけ歪んだ。
午前中の忙しい時間が過ぎたころ、紙月堂のドアベルが、やけに元気な音を立てた。
「お邪魔しまーす!」
臣全が、いつもの倍くらいの声量で店に飛び込んでくる。
片手には、商店街の回覧板。もう片方の手には、コンビニの袋。
「はい、差し入れと情報をお届けに参りました」
「情報?」
悠之介が首をかしげると、臣全はカウンター席にどっかと腰を下ろした。
「家賃、上がるって話、来ました?」
「……来た」
宙ぶらりんになっていた通知文を、ようやく言葉にした瞬間だった。
「やっぱり。うちにも朝、届いてました」
臣全は、コンビニの袋からドーナツを一つ取り出し、テーブルの上に置く。
「亜友堂さんのところにも、スマホショップさんにも。どうやら、星見商店街の古い区画全体で、家賃を一律に上げるつもりみたいです」
「一律で」
紗菜の眉が、さらにきゅっと寄る。
「『近隣相場の変動』ってやつね」
「そうそう。それ」
臣全は、回覧板をくるりと回した。
そこには、商店街の会合のお知らせが挟まっている。日付と時間の欄の下に、「家賃改定について情報共有」と、小さく書き加えられていた。
「とりあえず、今度の夜に集まりましょうって話になってます。大家さんのところにも、『一回話し合いの場を作ってほしい』って連絡は入れておきました」
「動きが早い」
悠之介が、素直に感心する。
「こういうときこそ、『口を出したがる人』の出番ですから!」
臣全は、胸をどんと叩いた。
「でも、ただ『嫌です』って言いに行っても仕方ないので。各店で、今どんな状況か、数字と一緒に持ち寄りたいんですよね」
「数字と一緒に」
悠之介は、視線をノートに落とした。
「売上と経費、ざっくりでいいので。あと、『この場所で何をしているか』も」
臣全は、ドーナツを一口かじりながら続ける。
「大家さんからすると、『テナントが何をしているか』って、案外知られてないんですよ。灯りがついてて、家賃が入ってきてればそれでいい、みたいな」
「まあ、確かに」
紗菜が、カウンターに肘をついた。
「紙月堂が『文具屋』なのか『喫茶店』なのか『相談窓口』なのか、説明しようとすると、ちょっと長くなりますし」
「全部ですって言うと、怪しいですしね」
靖治が、いつの間にか裏口から顔を出した。
「全部です、って言うと、『何屋さん?』ってなるやつ」
「靖治、いたのか」
「さっきから、段ボール潰してました」
靖治は、ぐしゃぐしゃになった段ボールを抱えながら、ぽりぽりと頭をかいた。
「家賃上がるって、本気ですか」
「通知が届いてるから、本気だろうな」
「うわあ……」
素直なため息が、店内の空気に混ざる。
「でもまあ、嘆いてても仕方ないですから」
臣全は、ホワイトボードも何もないのに、話し合いモードに入っていた。
「まずは、商店街全体で、『この金額だとどうなるか』を整理しましょう。売上に対する割合とか、『このままだと誰が一番苦しいか』とか」
「『誰が一番苦しいか』って、競わなくていいところですけどね」
紗菜が、苦笑まじりに指摘する。
「そこは、『誰から順に声が出にくくなるか』っていう意味で」
臣全は、言い直した。
「大きなチェーン店は、たぶん本部と相談すれば何とかなるかもしれない。でも、個人店は、『もうちょっとがんばります』って言い続けて、気づいたら限界超えてることが多いから」
「……耳が痛い」
悠之介は、小さく呟きながら、自分のノートを閉じる。
「じゃあうちは、『このままいくと、どこにしわ寄せが来るか』を書き出しておく」
「それ、大事です」
紗菜が頷く。
「単純に売上から家賃を引いた数字だけじゃなくて、『誰のどの時間が削られるか』まで想像しておいた方がいい」
午後。
常連客が途切れた隙に、悠之介と紗菜は、テーブルの端にノートを広げた。
「まず、今の一か月分のざっくりしたお金の流れ」
紗菜が、ボールペンを走らせる。
「家賃、水道光熱費、仕入れ、人件費。それから、『ひと息セット』用の特別分」
「あと、紙とインクと……」
「店長の『静かに作業する時間』も、いちおう枠を作りますか」
「それは、金額にできないだろう」
「でも、削られたら一番困るところですよ」
紗菜は、「店主の一人作業タイム」と書かれた欄をノートの端に作った。
「家賃が上がるぶん、ここが削られるなら、それは『数字だけでは決められないこと』です」
「……なるほどな」
悠之介は、しばらくペン先を見つめてから、ゆっくりと書き始めた。
ノートの片隅に、小さく「この場所で何をしたいか」と書く。
その下に、箇条書きで言葉を並べた。
『静かに仕事を整理したい人が、座っていられる席を守ること』
『商店街の人たちが、閉店後に帳簿を持って集まれる場所であること』
『働き方の相談を、誰かに笑われずに話せる空気』
書きながら、何度もペンが止まる。
「言葉にするの、苦手なんだよな」
「苦手だからこそ、今のうちに書いておきましょう」
紗菜は、穏やかな声で促した。
「交渉の場で、いきなり出てくる言葉って、たいてい『納得いかないです』の一言ですから」
「それは、そうかもしれない」
夕方。
商店街のアーケードに、オレンジ色の照明が灯り始める。
紙月堂の前を通りかかった亜友が、中の様子を覗き込んだ。
「家賃の話、聞きました」
「ああ」
悠之介が頷くと、亜友は胸の前でエプロンの端をぎゅっと握った。
「うちも、同じ額だけ上がるみたいです。朝の仕込みの時間を増やせば、なんとか……と思わなくもないんですけど」
「でも、『仕込みを増やす』って、体が一本しかないのに、どうやって、って話になるよな」
「そうなんです」
亜友の笑顔は、いつもより少しだけ硬かった。
「だから、ちゃんと話を聞いてもらえる場所があるなら、ありがたいです」
「臣全が、場を作ってくれてる」
悠之介は、昼間の回覧板を思い出す。
「たぶん、うるさいくらい前に出てくれるだろうから、その分、こっちは静かにノートを持って行こう」
「静かなノート、頼もしいですね」
亜友は、ほっとしたように笑った。
閉店後。
レジを締め、カウンターの上を片づけ終えると、店の中には、昼間書き込んだノートだけがぽつんと残った。
悠之介は、そのノートを手に取り、ページをゆっくりめくる。
数字が並んだページの先に、小さな文字で書かれた自分の言葉がある。
この場所で何をしたいか。
家賃の数字の向こう側にあるものが、ほんの少しだけ見えた気がした。
「……まあ、まずは話を聞いてみるか」
誰にともなくつぶやいて、ガラス戸の鍵をかける。
商店街の夜風が、ポストの口をかすかに揺らした。
そこには、朝と同じ茶色い封筒がもう一つ、入っているわけではなかった。代わりにあるのは、明日の分の新聞と、近所のスーパーの安売りチラシだけだ。
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