昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店

乾為天女

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第22話 数字だけでは決まらないこと

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 家賃交渉を控えた夜、紙月堂の奥の四人席には、いつもと少し違う空気が漂っていた。


 閉店後の店内には、コーヒーの香りと、紙のインクの匂いと、電卓のカチカチという音だけが残っている。


 テーブルの真ん中には、一冊のノートと、何枚かのコピー用紙。横には、管理会社から届いた通知文が、裏返しにして置かれていた。


 「じゃあ、始めましょうか」


 紗菜が、湯気の立つマグカップを二つ運んできて、そっとテーブルに置いた。


 悠之介の前には、ミルク少なめのコーヒー。紗菜の前には、黒いままのコーヒー。


 「まずは、『今の数字』の確認からですね」


 「ああ」


 悠之介は、ノートの表紙をめくった。


 そこには、今月の売上と経費が、いつもどおりの字で書かれている。けれど、今夜は、その隣に新しく作った欄があった。


 『家賃改定後(仮)』


 その文字を見ただけで、胃のあたりがきゅっと縮む。


 「一回、全部ばらして書いてみましょう」


 紗菜は、青いボールペンを一本取り出した。


 「売上のざっくりした内訳と、固定費と、変動するところ。それから、『これ以上は削れない』と思うところに線を引きます」


 「線、か」


 「数字だけ眺めてると、全部同じ『支出』に見えるので」


 紗菜は、さらさらとペンを走らせた。


 売上の欄に、「飲み物」「ひと息セット」「店内利用の長め客」「テイクアウト」の項目が並んでいく。


 経費の欄には、「家賃」「水道光熱費」「仕入れ(飲み物)」「仕入れ(ひと息セット)」「人件費」「消耗品」「雑費」。


 「『店主の帳簿タイム』は、どこに入れておきます?」


 さらりと言われて、悠之介は思わず咳き込んだ。


 「それは、経費じゃないだろ」


 「でも、削られたら困るなら、『必要なもの』のどこかに入っていてほしいです」


 紗菜は、ノートの端に小さく『店主の静かな作業時間』と書き添えた。


 「ここ、家賃が上がったときに、真っ先に削られそうな場所なので」


 「……耳が痛いな」


 悠之介は、コーヒーを一口飲みながら、ノートの上を見つめる。


 紗菜は、青いペンでいくつかの項目に線を引いた。


 「ここは、『今の紙月堂を続けるうえで、最優先のもの』です」


 線が引かれているのは、「家賃(現行)」「水道光熱費」「最低限の仕入れ」「人件費(最低ライン)」「店主の静かな作業時間」。


 「他のところは?」


 「『調整がきくところ』ですね」


 例えば、「ひと息セット」の材料費。今は、パン屋と惣菜屋と亜友堂から、少しずつ仕入れているが、内容の組み合わせを変えることで、少しだけ原価を下げる余地がある。


 「でも、あまりいじりたくないです」


 悠之介が、反射的に口を開いた。


 「『ひと息セット』は、あれを目がけて来る人もいるし」


 「はい。だから、ここは『工夫で何とかする枠』にしておきましょう」


 紗菜は、項目の横に小さく星印をつける。


 「値上げをするにしても、『ひと息の長さを守れる範囲』っていう条件を付けたいです」


 「値上げかあ……」


 コーヒーの表面で、ミルクの模様がゆらゆら揺れた。


 値段を上げれば、家賃の穴埋めはしやすくなる。けれど、そのぶん「ここでひと息つこう」と思ってくれる人のハードルも、一緒に上がってしまう。


 「紙月堂を、『がんばったご褒美にたまに来る場所』にするのか、今までどおり『ちょっとしんどいときに寄る場所』のままにするのか」


 紗菜が、ペンをくるくる回しながら言う。


 「どっちがいい、って話ではなくて。家賃の話は、そこも含めて考えないといけないんだと思います」


 「『数字だけ』じゃ決められない、ってことか」


 「そうです」


 紗菜は、はっきりと頷いた。


 「だから、今日のうちに、『数字以外のこと』も言葉にしておきましょう」


 テーブルの片隅に、真っ白なコピー用紙が一枚置かれた。


 「大家さんに渡す文章、まだ考えてますよね」


 「……まあ」


 悠之介は、視線をそらした。


 昼間、ノートの端に書いた「この場所で何をしたいか」のメモが、頭の中でぼんやりと浮かび上がる。あれを、そのまま手紙に書くのは、どこか気恥ずかしかった。


 「とりあえず、書いてみてください。『うまく言わなきゃ』って気持ちは、後で削ればいいので」


 「簡単に言うなあ」


 ぼやきつつも、悠之介はペンを握った。


 コピー用紙の真ん中に、「大家さんへ」と書く。そこから先の言葉が、なかなか続かない。


 数分後、ようやくペンが動き出した。


 『この場所を借りてからの数年間、紙月堂では、文具を売るだけでなく、働いている人たちが仕事のことを整理する時間を持てるように、席と飲み物を用意してきました。』


 ここまで書いたところで、ペン先が止まる。


 「……なんか、固いな」


 「最初の一行なんて、そんなものです」


 紗菜は、ペンを持つ手元をじっと見つめている。


 「続けましょう」


 『ここで過ごす時間が、その人の一日の中で「力を抜ける時間」になるように、静かな空気を維持してきました。』


 さらに書き進めようとして、また止まる。


 「『維持してきました』って、自分で書くと偉そうだな」


 「じゃあ、『維持したいと思ってきました』に変えてみましょうか」


 紗菜が、そっと提案する。


 「事実と気持ちの両方が入っているので」


 「……そうだな」


 言葉を少しだけ書き換える。


 『静かな空気を維持したいと思ってきました。』


 ほんの一文の違いなのに、紙の上の温度が変わった気がした。


 「数字の話も、ちゃんと書いておいた方がいいですよ」


 紗菜は、通知文を指でとん、と軽く叩く。


 「家賃が上がっても、『がんばれば払えなくはない』という数字だけ見れば、そうなのかもしれません。でも、『もしもの月』のことを考えると、不安になる、って」


 「『もしもの月』?」


 「雨が続いたり、誰かが体調を崩したりして、売上が落ちる月です」


 昼間、自分がノートに書き込んだ言葉が、そのまま返ってくる。


 「数字の上では、『平均すれば大丈夫』でも、『その一か月』を生きているのは、私たちなので」


 「……」


 悠之介は、しばらく黙って紙を見つめていたが、やがて頷いた。


 「書いてみる」


 短くそう言って、ペンを走らせる。


 『家賃の改定については、近隣の状況も理解しています。ただ、雨の日が続いたり、商店街の行事が重なったり、体調を崩して店を閉めざるをえない日があったりする「もしもの月」が、年に何度か必ずあります。』


 途中で、「行事」という言葉に自分で引っかかり、書き直す。


 『商店街の催しで営業時間を変える日があったり、体調を崩して店を閉めざるをえない日があったりする「もしもの月」が、年に何度か必ずあります。』


 書き直した一行を、紗菜がじっと見つめる。


 「うん。『必ず』って言葉、重いですけど、事実ですね」


 「雨も、体調も、選べないからな」


 「だからこそ、『平均』よりも、『一番苦しいときに耐えられるかどうか』を見てほしい、ってことも書いておきましょう」


 ペンが再び紙の上を滑る。


 書いては止まり、消しては書き直し。


 気づけば、紙の上には、何度も鉛筆の跡を消したノートのような薄い凹凸ができていた。


 「……『相談の場として残したい』って、どう言えばいいんだろうな」


 中ほどまで書き進めたところで、悠之介がぽつりと漏らした。


 「『相談』って言葉を出すと、一気に重くなる気がして」


 「じゃあ、先に具体的な場面を書いてみましょうか」


 紗菜は、自分のマグカップを指先でくるりと回した。


 「例えば、『この店で夜に帳簿を開いている人たちのこと』とか、『昼にひと息メモを書いていく人たちのこと』とか」


 「そういうのを、書いてもいいのか?」


 「大家さんに、『ここで何が起きているか』を知ってもらうのが目的ですから」


 紗菜は、目線だけでテーブルの隅に置かれたファイルを示した。


 「『今日のここまでメモ』のコピー、少しだけ持っていきませんか。もちろん、名前が分からないようにして」


 「あれをか」


 「『ここで過ごした人たちが、何を大事にして帰っていったか』が、一目で伝わると思います」


 悠之介は、ファイルを手に取った。


 中には、小さな紙片が何十枚も挟まっている。


 『会議で一回は発言する』
 『今日はここまでで帰る』
 『メールをゼロにしないで帰る勇気を持つ』


 読み返すたびに、小さな笑いと、小さな真剣さが胸の中に蘇る。


 「……これ、全部は見せられないな」


 「厳選しましょう」


 紗菜は、穏やかに微笑む。


 「大家さんに、『この店がどんな時間を売っているのか』を伝えるために」


 「『時間を売っている』か」


 その言い方に、悠之介は少しだけ目を丸くした。


 「いい表現だな」


 「気に入ったなら、手紙の中に一行入れておきましょう」


 コピー用紙の下の方に、新しい文が書き足される。


 『紙月堂では、飲み物や文具だけでなく、「自分の一日を整理する時間」を提供してきました。』


 書き終えた瞬間、胸の中で何かがかちりとはまる感覚があった。


 「……これなら、言えるかもしれない」


 「大丈夫です。明日は、私も一緒に行きますから」


 紗菜は、当たり前のようにそう言った。


 「え?」


 「交渉の席に、です」


 当然の顔で返されて、悠之介は言葉を失う。


 「いや、臣全が前に出るだろ。俺は、その後ろでノートを持ってる役で」


 「その後ろでノートを持っている人が、『言葉の届き先』を知っているなら、なおさら心強いです」


 紗菜の言葉は、静かだったが、揺るぎがなかった。


 「私も、店のことを説明できます。でも、『この場所で過ごしてきた時間』については、店長が語った方が、伝わり方が違うと思うので」


 「……そのための、この紙か」


 「はい」


 紗菜は、書き終えたばかりの手紙の草稿を指先でとん、と軽く叩いた。


 「明日はこれを持っていって、必要なら読み上げればいい。全部読まなくてもいいです。最悪、『ここだけは伝えたい』ってところに付箋をしておきましょう」


 コピー用紙の右端に、小さな付箋が一枚貼られる。


 そこには、『この場所を、相談の前に一回深呼吸できる場所として、残したいです』という一文が書かれていた。


 「ここだけ読めれば、きっと十分です」


 紗菜が言う。


 「それ以外は、数字と、みんなの顔が補ってくれますから」


 「みんなの顔?」


 「商店街の人たちも、一緒に行きますよね」


 昼間の回覧板を思い出しながら、紗菜は微笑んだ。


 「亜友さんも、惣菜屋さんも、スマホショップの店長さんも。それぞれの店の『ここまで』を持ち寄って行くはずです」


 「……そうだな」


 夜が更けていく。


 コピー用紙の上には、何度も書き直した跡が残り、その上にようやく落ち着いた言葉が並んでいた。


 ノートの数字は、何も変わっていない。家賃の欄の金額も、そのままだ。


 それでも、さっきまでとは違う感覚があった。


 数字の隣に、小さな字で書かれた「時間」と「顔」が並んでいる。


 「明日、ちゃんと起きられるかな」


 ペンを置きながら、悠之介がぽつりと言う。


 「起きてもらわないと困りますね」


 紗菜が、あっさり返した。


 「じゃあ、あと五分だけ、ここでコーヒーを飲んでから帰りましょう。それで『今日のここまで』」


 「五分って、ずいぶん具体的だな」


 「数字だけで決められない夜なので、せめて一つくらいは数字で区切っておこうかなと思って」


 カップの中のコーヒーは、少し冷めかけていたが、その五分のあいだだけは、妙に温かく感じられた。


 紙月堂の奥の席で、数字と文字と、それを見つめる二人の静かな時間が、いつもより少しだけ長く伸びていった。
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