22 / 40
第22話 数字だけでは決まらないこと
しおりを挟む
家賃交渉を控えた夜、紙月堂の奥の四人席には、いつもと少し違う空気が漂っていた。
閉店後の店内には、コーヒーの香りと、紙のインクの匂いと、電卓のカチカチという音だけが残っている。
テーブルの真ん中には、一冊のノートと、何枚かのコピー用紙。横には、管理会社から届いた通知文が、裏返しにして置かれていた。
「じゃあ、始めましょうか」
紗菜が、湯気の立つマグカップを二つ運んできて、そっとテーブルに置いた。
悠之介の前には、ミルク少なめのコーヒー。紗菜の前には、黒いままのコーヒー。
「まずは、『今の数字』の確認からですね」
「ああ」
悠之介は、ノートの表紙をめくった。
そこには、今月の売上と経費が、いつもどおりの字で書かれている。けれど、今夜は、その隣に新しく作った欄があった。
『家賃改定後(仮)』
その文字を見ただけで、胃のあたりがきゅっと縮む。
「一回、全部ばらして書いてみましょう」
紗菜は、青いボールペンを一本取り出した。
「売上のざっくりした内訳と、固定費と、変動するところ。それから、『これ以上は削れない』と思うところに線を引きます」
「線、か」
「数字だけ眺めてると、全部同じ『支出』に見えるので」
紗菜は、さらさらとペンを走らせた。
売上の欄に、「飲み物」「ひと息セット」「店内利用の長め客」「テイクアウト」の項目が並んでいく。
経費の欄には、「家賃」「水道光熱費」「仕入れ(飲み物)」「仕入れ(ひと息セット)」「人件費」「消耗品」「雑費」。
「『店主の帳簿タイム』は、どこに入れておきます?」
さらりと言われて、悠之介は思わず咳き込んだ。
「それは、経費じゃないだろ」
「でも、削られたら困るなら、『必要なもの』のどこかに入っていてほしいです」
紗菜は、ノートの端に小さく『店主の静かな作業時間』と書き添えた。
「ここ、家賃が上がったときに、真っ先に削られそうな場所なので」
「……耳が痛いな」
悠之介は、コーヒーを一口飲みながら、ノートの上を見つめる。
紗菜は、青いペンでいくつかの項目に線を引いた。
「ここは、『今の紙月堂を続けるうえで、最優先のもの』です」
線が引かれているのは、「家賃(現行)」「水道光熱費」「最低限の仕入れ」「人件費(最低ライン)」「店主の静かな作業時間」。
「他のところは?」
「『調整がきくところ』ですね」
例えば、「ひと息セット」の材料費。今は、パン屋と惣菜屋と亜友堂から、少しずつ仕入れているが、内容の組み合わせを変えることで、少しだけ原価を下げる余地がある。
「でも、あまりいじりたくないです」
悠之介が、反射的に口を開いた。
「『ひと息セット』は、あれを目がけて来る人もいるし」
「はい。だから、ここは『工夫で何とかする枠』にしておきましょう」
紗菜は、項目の横に小さく星印をつける。
「値上げをするにしても、『ひと息の長さを守れる範囲』っていう条件を付けたいです」
「値上げかあ……」
コーヒーの表面で、ミルクの模様がゆらゆら揺れた。
値段を上げれば、家賃の穴埋めはしやすくなる。けれど、そのぶん「ここでひと息つこう」と思ってくれる人のハードルも、一緒に上がってしまう。
「紙月堂を、『がんばったご褒美にたまに来る場所』にするのか、今までどおり『ちょっとしんどいときに寄る場所』のままにするのか」
紗菜が、ペンをくるくる回しながら言う。
「どっちがいい、って話ではなくて。家賃の話は、そこも含めて考えないといけないんだと思います」
「『数字だけ』じゃ決められない、ってことか」
「そうです」
紗菜は、はっきりと頷いた。
「だから、今日のうちに、『数字以外のこと』も言葉にしておきましょう」
テーブルの片隅に、真っ白なコピー用紙が一枚置かれた。
「大家さんに渡す文章、まだ考えてますよね」
「……まあ」
悠之介は、視線をそらした。
昼間、ノートの端に書いた「この場所で何をしたいか」のメモが、頭の中でぼんやりと浮かび上がる。あれを、そのまま手紙に書くのは、どこか気恥ずかしかった。
「とりあえず、書いてみてください。『うまく言わなきゃ』って気持ちは、後で削ればいいので」
「簡単に言うなあ」
ぼやきつつも、悠之介はペンを握った。
コピー用紙の真ん中に、「大家さんへ」と書く。そこから先の言葉が、なかなか続かない。
数分後、ようやくペンが動き出した。
『この場所を借りてからの数年間、紙月堂では、文具を売るだけでなく、働いている人たちが仕事のことを整理する時間を持てるように、席と飲み物を用意してきました。』
ここまで書いたところで、ペン先が止まる。
「……なんか、固いな」
「最初の一行なんて、そんなものです」
紗菜は、ペンを持つ手元をじっと見つめている。
「続けましょう」
『ここで過ごす時間が、その人の一日の中で「力を抜ける時間」になるように、静かな空気を維持してきました。』
さらに書き進めようとして、また止まる。
「『維持してきました』って、自分で書くと偉そうだな」
「じゃあ、『維持したいと思ってきました』に変えてみましょうか」
紗菜が、そっと提案する。
「事実と気持ちの両方が入っているので」
「……そうだな」
言葉を少しだけ書き換える。
『静かな空気を維持したいと思ってきました。』
ほんの一文の違いなのに、紙の上の温度が変わった気がした。
「数字の話も、ちゃんと書いておいた方がいいですよ」
紗菜は、通知文を指でとん、と軽く叩く。
「家賃が上がっても、『がんばれば払えなくはない』という数字だけ見れば、そうなのかもしれません。でも、『もしもの月』のことを考えると、不安になる、って」
「『もしもの月』?」
「雨が続いたり、誰かが体調を崩したりして、売上が落ちる月です」
昼間、自分がノートに書き込んだ言葉が、そのまま返ってくる。
「数字の上では、『平均すれば大丈夫』でも、『その一か月』を生きているのは、私たちなので」
「……」
悠之介は、しばらく黙って紙を見つめていたが、やがて頷いた。
「書いてみる」
短くそう言って、ペンを走らせる。
『家賃の改定については、近隣の状況も理解しています。ただ、雨の日が続いたり、商店街の行事が重なったり、体調を崩して店を閉めざるをえない日があったりする「もしもの月」が、年に何度か必ずあります。』
途中で、「行事」という言葉に自分で引っかかり、書き直す。
『商店街の催しで営業時間を変える日があったり、体調を崩して店を閉めざるをえない日があったりする「もしもの月」が、年に何度か必ずあります。』
書き直した一行を、紗菜がじっと見つめる。
「うん。『必ず』って言葉、重いですけど、事実ですね」
「雨も、体調も、選べないからな」
「だからこそ、『平均』よりも、『一番苦しいときに耐えられるかどうか』を見てほしい、ってことも書いておきましょう」
ペンが再び紙の上を滑る。
書いては止まり、消しては書き直し。
気づけば、紙の上には、何度も鉛筆の跡を消したノートのような薄い凹凸ができていた。
「……『相談の場として残したい』って、どう言えばいいんだろうな」
中ほどまで書き進めたところで、悠之介がぽつりと漏らした。
「『相談』って言葉を出すと、一気に重くなる気がして」
「じゃあ、先に具体的な場面を書いてみましょうか」
紗菜は、自分のマグカップを指先でくるりと回した。
「例えば、『この店で夜に帳簿を開いている人たちのこと』とか、『昼にひと息メモを書いていく人たちのこと』とか」
「そういうのを、書いてもいいのか?」
「大家さんに、『ここで何が起きているか』を知ってもらうのが目的ですから」
紗菜は、目線だけでテーブルの隅に置かれたファイルを示した。
「『今日のここまでメモ』のコピー、少しだけ持っていきませんか。もちろん、名前が分からないようにして」
「あれをか」
「『ここで過ごした人たちが、何を大事にして帰っていったか』が、一目で伝わると思います」
悠之介は、ファイルを手に取った。
中には、小さな紙片が何十枚も挟まっている。
『会議で一回は発言する』
『今日はここまでで帰る』
『メールをゼロにしないで帰る勇気を持つ』
読み返すたびに、小さな笑いと、小さな真剣さが胸の中に蘇る。
「……これ、全部は見せられないな」
「厳選しましょう」
紗菜は、穏やかに微笑む。
「大家さんに、『この店がどんな時間を売っているのか』を伝えるために」
「『時間を売っている』か」
その言い方に、悠之介は少しだけ目を丸くした。
「いい表現だな」
「気に入ったなら、手紙の中に一行入れておきましょう」
コピー用紙の下の方に、新しい文が書き足される。
『紙月堂では、飲み物や文具だけでなく、「自分の一日を整理する時間」を提供してきました。』
書き終えた瞬間、胸の中で何かがかちりとはまる感覚があった。
「……これなら、言えるかもしれない」
「大丈夫です。明日は、私も一緒に行きますから」
紗菜は、当たり前のようにそう言った。
「え?」
「交渉の席に、です」
当然の顔で返されて、悠之介は言葉を失う。
「いや、臣全が前に出るだろ。俺は、その後ろでノートを持ってる役で」
「その後ろでノートを持っている人が、『言葉の届き先』を知っているなら、なおさら心強いです」
紗菜の言葉は、静かだったが、揺るぎがなかった。
「私も、店のことを説明できます。でも、『この場所で過ごしてきた時間』については、店長が語った方が、伝わり方が違うと思うので」
「……そのための、この紙か」
「はい」
紗菜は、書き終えたばかりの手紙の草稿を指先でとん、と軽く叩いた。
「明日はこれを持っていって、必要なら読み上げればいい。全部読まなくてもいいです。最悪、『ここだけは伝えたい』ってところに付箋をしておきましょう」
コピー用紙の右端に、小さな付箋が一枚貼られる。
そこには、『この場所を、相談の前に一回深呼吸できる場所として、残したいです』という一文が書かれていた。
「ここだけ読めれば、きっと十分です」
紗菜が言う。
「それ以外は、数字と、みんなの顔が補ってくれますから」
「みんなの顔?」
「商店街の人たちも、一緒に行きますよね」
昼間の回覧板を思い出しながら、紗菜は微笑んだ。
「亜友さんも、惣菜屋さんも、スマホショップの店長さんも。それぞれの店の『ここまで』を持ち寄って行くはずです」
「……そうだな」
夜が更けていく。
コピー用紙の上には、何度も書き直した跡が残り、その上にようやく落ち着いた言葉が並んでいた。
ノートの数字は、何も変わっていない。家賃の欄の金額も、そのままだ。
それでも、さっきまでとは違う感覚があった。
数字の隣に、小さな字で書かれた「時間」と「顔」が並んでいる。
「明日、ちゃんと起きられるかな」
ペンを置きながら、悠之介がぽつりと言う。
「起きてもらわないと困りますね」
紗菜が、あっさり返した。
「じゃあ、あと五分だけ、ここでコーヒーを飲んでから帰りましょう。それで『今日のここまで』」
「五分って、ずいぶん具体的だな」
「数字だけで決められない夜なので、せめて一つくらいは数字で区切っておこうかなと思って」
カップの中のコーヒーは、少し冷めかけていたが、その五分のあいだだけは、妙に温かく感じられた。
紙月堂の奥の席で、数字と文字と、それを見つめる二人の静かな時間が、いつもより少しだけ長く伸びていった。
閉店後の店内には、コーヒーの香りと、紙のインクの匂いと、電卓のカチカチという音だけが残っている。
テーブルの真ん中には、一冊のノートと、何枚かのコピー用紙。横には、管理会社から届いた通知文が、裏返しにして置かれていた。
「じゃあ、始めましょうか」
紗菜が、湯気の立つマグカップを二つ運んできて、そっとテーブルに置いた。
悠之介の前には、ミルク少なめのコーヒー。紗菜の前には、黒いままのコーヒー。
「まずは、『今の数字』の確認からですね」
「ああ」
悠之介は、ノートの表紙をめくった。
そこには、今月の売上と経費が、いつもどおりの字で書かれている。けれど、今夜は、その隣に新しく作った欄があった。
『家賃改定後(仮)』
その文字を見ただけで、胃のあたりがきゅっと縮む。
「一回、全部ばらして書いてみましょう」
紗菜は、青いボールペンを一本取り出した。
「売上のざっくりした内訳と、固定費と、変動するところ。それから、『これ以上は削れない』と思うところに線を引きます」
「線、か」
「数字だけ眺めてると、全部同じ『支出』に見えるので」
紗菜は、さらさらとペンを走らせた。
売上の欄に、「飲み物」「ひと息セット」「店内利用の長め客」「テイクアウト」の項目が並んでいく。
経費の欄には、「家賃」「水道光熱費」「仕入れ(飲み物)」「仕入れ(ひと息セット)」「人件費」「消耗品」「雑費」。
「『店主の帳簿タイム』は、どこに入れておきます?」
さらりと言われて、悠之介は思わず咳き込んだ。
「それは、経費じゃないだろ」
「でも、削られたら困るなら、『必要なもの』のどこかに入っていてほしいです」
紗菜は、ノートの端に小さく『店主の静かな作業時間』と書き添えた。
「ここ、家賃が上がったときに、真っ先に削られそうな場所なので」
「……耳が痛いな」
悠之介は、コーヒーを一口飲みながら、ノートの上を見つめる。
紗菜は、青いペンでいくつかの項目に線を引いた。
「ここは、『今の紙月堂を続けるうえで、最優先のもの』です」
線が引かれているのは、「家賃(現行)」「水道光熱費」「最低限の仕入れ」「人件費(最低ライン)」「店主の静かな作業時間」。
「他のところは?」
「『調整がきくところ』ですね」
例えば、「ひと息セット」の材料費。今は、パン屋と惣菜屋と亜友堂から、少しずつ仕入れているが、内容の組み合わせを変えることで、少しだけ原価を下げる余地がある。
「でも、あまりいじりたくないです」
悠之介が、反射的に口を開いた。
「『ひと息セット』は、あれを目がけて来る人もいるし」
「はい。だから、ここは『工夫で何とかする枠』にしておきましょう」
紗菜は、項目の横に小さく星印をつける。
「値上げをするにしても、『ひと息の長さを守れる範囲』っていう条件を付けたいです」
「値上げかあ……」
コーヒーの表面で、ミルクの模様がゆらゆら揺れた。
値段を上げれば、家賃の穴埋めはしやすくなる。けれど、そのぶん「ここでひと息つこう」と思ってくれる人のハードルも、一緒に上がってしまう。
「紙月堂を、『がんばったご褒美にたまに来る場所』にするのか、今までどおり『ちょっとしんどいときに寄る場所』のままにするのか」
紗菜が、ペンをくるくる回しながら言う。
「どっちがいい、って話ではなくて。家賃の話は、そこも含めて考えないといけないんだと思います」
「『数字だけ』じゃ決められない、ってことか」
「そうです」
紗菜は、はっきりと頷いた。
「だから、今日のうちに、『数字以外のこと』も言葉にしておきましょう」
テーブルの片隅に、真っ白なコピー用紙が一枚置かれた。
「大家さんに渡す文章、まだ考えてますよね」
「……まあ」
悠之介は、視線をそらした。
昼間、ノートの端に書いた「この場所で何をしたいか」のメモが、頭の中でぼんやりと浮かび上がる。あれを、そのまま手紙に書くのは、どこか気恥ずかしかった。
「とりあえず、書いてみてください。『うまく言わなきゃ』って気持ちは、後で削ればいいので」
「簡単に言うなあ」
ぼやきつつも、悠之介はペンを握った。
コピー用紙の真ん中に、「大家さんへ」と書く。そこから先の言葉が、なかなか続かない。
数分後、ようやくペンが動き出した。
『この場所を借りてからの数年間、紙月堂では、文具を売るだけでなく、働いている人たちが仕事のことを整理する時間を持てるように、席と飲み物を用意してきました。』
ここまで書いたところで、ペン先が止まる。
「……なんか、固いな」
「最初の一行なんて、そんなものです」
紗菜は、ペンを持つ手元をじっと見つめている。
「続けましょう」
『ここで過ごす時間が、その人の一日の中で「力を抜ける時間」になるように、静かな空気を維持してきました。』
さらに書き進めようとして、また止まる。
「『維持してきました』って、自分で書くと偉そうだな」
「じゃあ、『維持したいと思ってきました』に変えてみましょうか」
紗菜が、そっと提案する。
「事実と気持ちの両方が入っているので」
「……そうだな」
言葉を少しだけ書き換える。
『静かな空気を維持したいと思ってきました。』
ほんの一文の違いなのに、紙の上の温度が変わった気がした。
「数字の話も、ちゃんと書いておいた方がいいですよ」
紗菜は、通知文を指でとん、と軽く叩く。
「家賃が上がっても、『がんばれば払えなくはない』という数字だけ見れば、そうなのかもしれません。でも、『もしもの月』のことを考えると、不安になる、って」
「『もしもの月』?」
「雨が続いたり、誰かが体調を崩したりして、売上が落ちる月です」
昼間、自分がノートに書き込んだ言葉が、そのまま返ってくる。
「数字の上では、『平均すれば大丈夫』でも、『その一か月』を生きているのは、私たちなので」
「……」
悠之介は、しばらく黙って紙を見つめていたが、やがて頷いた。
「書いてみる」
短くそう言って、ペンを走らせる。
『家賃の改定については、近隣の状況も理解しています。ただ、雨の日が続いたり、商店街の行事が重なったり、体調を崩して店を閉めざるをえない日があったりする「もしもの月」が、年に何度か必ずあります。』
途中で、「行事」という言葉に自分で引っかかり、書き直す。
『商店街の催しで営業時間を変える日があったり、体調を崩して店を閉めざるをえない日があったりする「もしもの月」が、年に何度か必ずあります。』
書き直した一行を、紗菜がじっと見つめる。
「うん。『必ず』って言葉、重いですけど、事実ですね」
「雨も、体調も、選べないからな」
「だからこそ、『平均』よりも、『一番苦しいときに耐えられるかどうか』を見てほしい、ってことも書いておきましょう」
ペンが再び紙の上を滑る。
書いては止まり、消しては書き直し。
気づけば、紙の上には、何度も鉛筆の跡を消したノートのような薄い凹凸ができていた。
「……『相談の場として残したい』って、どう言えばいいんだろうな」
中ほどまで書き進めたところで、悠之介がぽつりと漏らした。
「『相談』って言葉を出すと、一気に重くなる気がして」
「じゃあ、先に具体的な場面を書いてみましょうか」
紗菜は、自分のマグカップを指先でくるりと回した。
「例えば、『この店で夜に帳簿を開いている人たちのこと』とか、『昼にひと息メモを書いていく人たちのこと』とか」
「そういうのを、書いてもいいのか?」
「大家さんに、『ここで何が起きているか』を知ってもらうのが目的ですから」
紗菜は、目線だけでテーブルの隅に置かれたファイルを示した。
「『今日のここまでメモ』のコピー、少しだけ持っていきませんか。もちろん、名前が分からないようにして」
「あれをか」
「『ここで過ごした人たちが、何を大事にして帰っていったか』が、一目で伝わると思います」
悠之介は、ファイルを手に取った。
中には、小さな紙片が何十枚も挟まっている。
『会議で一回は発言する』
『今日はここまでで帰る』
『メールをゼロにしないで帰る勇気を持つ』
読み返すたびに、小さな笑いと、小さな真剣さが胸の中に蘇る。
「……これ、全部は見せられないな」
「厳選しましょう」
紗菜は、穏やかに微笑む。
「大家さんに、『この店がどんな時間を売っているのか』を伝えるために」
「『時間を売っている』か」
その言い方に、悠之介は少しだけ目を丸くした。
「いい表現だな」
「気に入ったなら、手紙の中に一行入れておきましょう」
コピー用紙の下の方に、新しい文が書き足される。
『紙月堂では、飲み物や文具だけでなく、「自分の一日を整理する時間」を提供してきました。』
書き終えた瞬間、胸の中で何かがかちりとはまる感覚があった。
「……これなら、言えるかもしれない」
「大丈夫です。明日は、私も一緒に行きますから」
紗菜は、当たり前のようにそう言った。
「え?」
「交渉の席に、です」
当然の顔で返されて、悠之介は言葉を失う。
「いや、臣全が前に出るだろ。俺は、その後ろでノートを持ってる役で」
「その後ろでノートを持っている人が、『言葉の届き先』を知っているなら、なおさら心強いです」
紗菜の言葉は、静かだったが、揺るぎがなかった。
「私も、店のことを説明できます。でも、『この場所で過ごしてきた時間』については、店長が語った方が、伝わり方が違うと思うので」
「……そのための、この紙か」
「はい」
紗菜は、書き終えたばかりの手紙の草稿を指先でとん、と軽く叩いた。
「明日はこれを持っていって、必要なら読み上げればいい。全部読まなくてもいいです。最悪、『ここだけは伝えたい』ってところに付箋をしておきましょう」
コピー用紙の右端に、小さな付箋が一枚貼られる。
そこには、『この場所を、相談の前に一回深呼吸できる場所として、残したいです』という一文が書かれていた。
「ここだけ読めれば、きっと十分です」
紗菜が言う。
「それ以外は、数字と、みんなの顔が補ってくれますから」
「みんなの顔?」
「商店街の人たちも、一緒に行きますよね」
昼間の回覧板を思い出しながら、紗菜は微笑んだ。
「亜友さんも、惣菜屋さんも、スマホショップの店長さんも。それぞれの店の『ここまで』を持ち寄って行くはずです」
「……そうだな」
夜が更けていく。
コピー用紙の上には、何度も書き直した跡が残り、その上にようやく落ち着いた言葉が並んでいた。
ノートの数字は、何も変わっていない。家賃の欄の金額も、そのままだ。
それでも、さっきまでとは違う感覚があった。
数字の隣に、小さな字で書かれた「時間」と「顔」が並んでいる。
「明日、ちゃんと起きられるかな」
ペンを置きながら、悠之介がぽつりと言う。
「起きてもらわないと困りますね」
紗菜が、あっさり返した。
「じゃあ、あと五分だけ、ここでコーヒーを飲んでから帰りましょう。それで『今日のここまで』」
「五分って、ずいぶん具体的だな」
「数字だけで決められない夜なので、せめて一つくらいは数字で区切っておこうかなと思って」
カップの中のコーヒーは、少し冷めかけていたが、その五分のあいだだけは、妙に温かく感じられた。
紙月堂の奥の席で、数字と文字と、それを見つめる二人の静かな時間が、いつもより少しだけ長く伸びていった。
0
あなたにおすすめの小説
妾の子だからといって、公爵家の令嬢を侮辱してただで済むと思っていたんですか?
木山楽斗
恋愛
公爵家の妾の子であるクラリアは、とある舞踏会にて二人の令嬢に詰められていた。
彼女達は、公爵家の汚点ともいえるクラリアのことを蔑み馬鹿にしていたのである。
公爵家の一員を侮辱するなど、本来であれば許されることではない。
しかし彼女達は、妾の子のことでムキになることはないと高を括っていた。
だが公爵家は彼女達に対して厳正なる抗議をしてきた。
二人が公爵家を侮辱したとして、糾弾したのである。
彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。
※HOTランキング1位、小説、恋愛24hポイントランキング1位(2024/10/04) 皆さまの応援のおかげです。誠にありがとうございます。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
さようなら、お別れしましょう
椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。
妻に新しいも古いもありますか?
愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?
私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。
――つまり、別居。
夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。
――あなたにお礼を言いますわ。
【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる!
※他サイトにも掲載しております。
※表紙はお借りしたものです。
英雄の番が名乗るまで
長野 雪
恋愛
突然発生した魔物の大侵攻。西の果てから始まったそれは、いくつもの集落どころか国すら飲みこみ、世界中の国々が人種・宗教を越えて協力し、とうとう終息を迎えた。魔物の駆逐・殲滅に目覚ましい活躍を見せた5人は吟遊詩人によって「五英傑」と謳われ、これから彼らの活躍は英雄譚として広く知られていくのであろう。
大侵攻の終息を祝う宴の最中、己の番《つがい》の気配を感じた五英傑の一人、竜人フィルは見つけ出した途端、気を失ってしまった彼女に対し、番の誓約を行おうとするが失敗に終わる。番と己の寿命を等しくするため、何より番を手元に置き続けるためにフィルにとっては重要な誓約がどうして失敗したのか分からないものの、とにかく庇護したいフィルと、ぐいぐい溺愛モードに入ろうとする彼に一歩距離を置いてしまう番の女性との一進一退のおはなし。
※小説家になろうにも投稿
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。
いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。
ただし、後のことはどうなっても知りませんよ?
* 他サイトでも投稿
* ショートショートです。あっさり終わります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる