昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店

乾為天女

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第23話 交渉の席に並ぶノート

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 管理会社との話し合いは、翌日の夕方に決まった。


 星見商店街のあちこちで、「じゃあ、その時間は店閉めて」「うちは奥さんに店番頼むわ」と、いつもと違う段取りの相談が交わされる。


 紙月堂も、少し早めに「CLOSE」の札を裏返した。


 「じゃあ、ここからは、交渉準備タイムですね」


 シャッターを半分だけ下ろした店内で、紗菜がエプロンの紐を解きながら言う。


 「交渉準備タイムって言うと、何か強そうに聞こえるな」


 悠之介は、カウンターにノートとコピー用紙を並べた。


 昼間に書いた手紙の草稿は、丁寧に折りたたまれてノートの間に挟まれている。その横には、「ひと息メモ」のコピーが数枚ずつ。


 「まず、持っていく物の確認からいきましょう」


 紗菜は、小さな付箋の束を取り出した。


 「一、数字のノート。二、『ひと息メモ』のコピー。三、手紙。四、店のことが分かる写真」


 「写真?」


 「はい。言葉だけだと想像しづらいと思うので」


 紗菜は、スマホの画面を開いた。


 そこには、昼の紙月堂の店内が写っていた。カウンター席でノートパソコンを開いているスーツ姿の人、窓際の席で「今日のここまでメモ」を書いている人、奥の棚で文具を選んでいる人。


 「これを数枚、プリントしておきました」


 カウンターの端から、光沢紙に印刷された写真が数枚出てきた。


 写真の中で、紙月堂の机や椅子や、マグカップが静かに並んでいる。


 「なんか……自分の店じゃないみたいだな」


 悠之介は、少し照れくさそうに笑った。


 「写真って、現場をちょっと外から見せてくれるので」


 紗菜は、写真をクリアファイルにまとめながら言う。


 「大家さんに、『ここで灯りがついている時間に、どんなことが起きているか』を見てもらえたらいいなと思って」


 「灯り、か」


 悠之介は、天井の照明を見上げた。


 「じゃあ、ノートは俺が持つ。メモは?」


 「私が持ちます」


 紗菜が、ファイルと手紙の草稿をかばんに入れる。


 「亜友さんと惣菜屋さんにも、紙一枚ずつ渡しました。『自分の店で大事にしていること』を書いてきてもらうように」


 「みんな、書けたかな」


 「さっき、亜友堂に顔を出したとき、『間に合いました』って言ってましたよ」


 亜友の「間に合いました」は、だいたいぎりぎりまで悩んだあとに出てくる言葉だ、と悠之介は思った。


 店を出る時間が近づいたころ、裏口から靖治が顔を出した。


 「店長、そろそろです」


 「おう。シフトは?」


 「今日は閉店までで大丈夫です。あと、シャッター完全に下ろして行ってくださいよ」


 「分かってる」


 レジの鍵を抜き、ガスの元栓を確かめる。戸締まりの手順を一通り終えると、紙月堂の中は、静かな暗がりに変わった。


 シャッターの前には、すでに臣全が待っていた。


 「準備、いいですか」


 「お前は?」


 「もちろん」


 臣全は、小さなショルダーバッグを肩にかけている。その中には、商店街全体の簡単な売上推移や、空き店舗の数をまとめたメモが入っていた。


 「じゃあ、行きましょう」


 四人は並んで歩き出した。


 管理会社の事務所は、商店街から少し離れた大通り沿いのビルの三階にある。ガラス張りの入口には、きれいに並んだテナント名の表示板。


 「こっちの文字も、ちゃんとデザインされてますねえ」


 エレベーターの前で、臣全が小声で感心した。


 「今、その視点いる?」


 「職業病なんで」


 咲亜矢の声が、後ろから飛んでくる。


 いつの間にか合流していた咲亜矢は、右手首をさりげなくポケットに入れたまま、少し緊張した表情で立っていた。


 「呼んでませんでしたっけ」


 「亜友さんの荷物持ちに来ました」


 「ありがとう」


 エレベーターが開くと、中にはすでに二人、見慣れた顔が乗っていた。


 「お待たせしました」


 亜友が、エプロンの上からカーディガンを羽織り、両手で書類の入ったファイルを抱えている。その隣には、惣菜屋の奥さんが、小さめのトートバッグを握りしめていた。


 「みんな、そろってますね」


 臣全が、エレベーターの中で軽く頭を下げた。


 「じゃあ、三階へ」


 エレベーターの扉が閉まり、小さな箱の中に静けさが落ちる。


 それぞれが、手に持ったノートやファイルを見つめていた。


 「緊張してきました」


 靖治が、ぽつりと漏らす。


 「俺、今日、話さなくていい役ですよね」


 「うん。今日は、横で座っててくれたらいい」


 悠之介は、落ち着いた声で答える。


 「でも、話したくなったら話していいぞ」


 「それ、逆に緊張するやつです」


 エレベーターが三階で止まり、「チン」という音とともに扉が開いた。


 管理会社の事務所は、白い壁と観葉植物の並ぶ、いかにも「オフィス」という空間だった。


 受付の奥には、小さな会議室がいくつか並び、そのうちのひとつのドアの前に、「星見商店街様」と書かれた札が出ている。


 「こちらへどうぞ」


 スーツ姿の若い社員が、会議室へ案内した。


 部屋の中には、長方形のテーブルと椅子が十脚ほど。テーブルの向こう側には、管理会社の担当者らしい男性と、その隣に、落ち着いた雰囲気の女性が座っていた。


 「本日はお集まりいただきありがとうございます」


 管理会社の男性が立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。


 「大家の〇〇様もいらしてますので、まずはご挨拶を」


 隣の女性が、静かに会釈した。


 「いつもお世話になっております」


 短い言葉だったが、声には年季のようなものがあった。


 星見商店街の面々も、それぞれに頭を下げて席につく。


 テーブルのこちら側には、悠之介、紗菜、臣全、亜友、惣菜屋の奥さん、スマホショップの店長、そして靖治と咲亜矢が並んだ。


 「では、こちらからご説明を」


 管理会社の男性が、手元の資料をめくった。


 賃料改定の理由。近隣の相場。建物の維持費。言葉は丁寧だが、どこか教科書の読み上げのようでもある。


 「……という状況でして、次回の更新より、こちらの金額に」


 提示された数字は、通知文に書かれていたものと同じだった。


 説明が一通り終わったところで、男性が「ご質問などあれば」と言葉を切る。


 部屋に、少し重い沈黙が落ちた。


 「じゃあ、こちらからも、今の状況をお話ししてもいいでしょうか」


 その沈黙を破ったのは、紗菜だった。


 穏やかな声だが、はっきりとした調子。


 「紙月堂の紗菜と申します。本日は、紙月堂の店主の悠之介と一緒に来ました」


 「いつも、ありがとうございます」


 大家の女性が、静かに頷く。


 「いえ、こちらこそ、お世話になっております」


 紗菜はそう前置きしてから、テーブルの上に一冊のノートを置いた。


 「こちらは、紙月堂の簡単な売上と経費の記録です。数字の細かいところまでは申し上げませんが、家賃が一割上がったときに、どこがどう変わるかを一緒に見ていただければと思います」


 ノートのページには、家賃や水道光熱費、仕入れ、人件費が、ざっくりとしたグラフになっていた。


 「……なるほど」


 管理会社の男性が、メモを取りながら覗き込む。


 「それと、もう一つ」


 紗菜は、クリアファイルから写真を取り出した。


 「紙月堂で、どんな時間が過ごされているか、少しだけお伝えしたくて」


 写真がテーブルの真ん中に並べられる。


 スーツ姿の人がノートパソコンに向かっているところ、「今日のここまでメモ」を書く手元、商店街の帳簿が並んだ夜のテーブル。


 「この店で過ごす時間を、『ただのコーヒー代』ではなく、『自分の一日を整理する時間』として使ってくださる方が増えています」


 紗菜の言葉に、大家の女性が写真をじっと見つめた。


 「皆さん、静かにしていらっしゃるのね」


 「はい。声の大きい人は、もれなく店長に『少し音量を下げて』とお願いされます」


 臣全が、半分冗談めかして補足した。


 「それも、『この場所の空気を守るため』だと、皆さん分かってくださっているようです」


 亜友が、そっと言葉を添える。


 「うちのお客さまも、『紙月堂でひと息ついてから羊羹を買いに来ました』とよくおっしゃいます」


 「うちの唐揚げも、『紙月堂で会議の準備してから、帰りに買っていく』って人、多いですよ」


 惣菜屋の奥さんが、少し誇らしげに笑う。


 「商店街の中で、お互いのお客さんが行き来している感じですね」


 スマホショップの店長も、頷きながら口を開いた。


 「うちで機種変更したあと、『設定が終わるまで紙月堂で待ってます』って言う方、多いですし」


 それぞれの店の話が、ぽつぽつとテーブルの上に並んでいく。


 管理会社の男性は、最初は少し戸惑いながらも、やがて真剣な表情で聞き始めた。


 「……失礼ですが」


 大家の女性が、写真から顔を上げて口を開いた。


 「こちらの店は、もともと文房具屋さんだったところですよね」


 「はい」


 悠之介が、背筋を伸ばして答える。


 「もともと、父が文具店をやっていました。そのあと、形を変えて、今のような店になりました」


 「形を変えても、灯りはつき続けている、ということかしら」


 大家の女性は、そう言って小さく笑った。


 「この建物を建てたころは、文具店と靴屋と電器店が並んでいてね。夜になると、三軒とも遅くまで明かりがついていたものよ」


 遠くを見るような目になって、少しだけ懐かしそうに続ける。


 「今は、店の形は変わっても、灯りの意味は似ているのかもしれないわね」


 「そうであれば、うれしいです」


 悠之介は、ゆっくりと頭を下げた。


 「家賃のことについては、もちろん、建物の維持のために必要なことだというのも分かっています。ただ、『今の一割増し』が、個人の店にとっては、『続けるかどうか』の境目になることもある、ということをお伝えしたくて」


 言いながら、昼に書いた手紙の一節が頭に浮かぶ。


 「特に、雨の日が続いたり、体調を崩して休んだりした月に、どこにしわ寄せが来るか」


 紗菜が、静かに言葉を継いだ。


 「店を続けるために、一番に削られそうになるのが、『自分の休む時間』や、『誰かの話をゆっくり聞く時間』です。紙月堂の場合は、まさにそれが店の役割と重なっているので」


 「……」


 管理会社の男性は、ペンを止めて考え込んだ。


 「もちろん、『家賃を上げないでください』と一方的にお願いするつもりはありません」


 悠之介は、慎重に言葉を選ぶ。


 「ただ、近隣の相場だけでなく、『この建物の一階でどんな時間が積み重なっているか』も、判断材料のひとつにしていただけないでしょうか」


 部屋に、再び静かな間が落ちる。


 その間を破ったのは、意外なところからだった。


 「あ、あの」


 靖治が、おそるおそる手を挙げた。


 「高校生のアルバイトの靖治です」


 全員の視線が、一瞬そちらに向く。


 「ここで働く前は、商店街って、正直、通り道って感じだったんですけど」


 言いながら、自分で自分の言葉に苦笑する。


 「でも、ここで働くようになってから、店の灯りがついてるかどうかを気にするようになって。バイトがない日でも、シャッターが半分閉まってると、『あ、今日は反省会の日だな』とか」


 「反省会?」


 管理会社の男性が、思わず聞き返す。


 「月末に、売上と、『やってよかったこと』を話す日があるんです」


 靖治は、少し照れながら説明する。


 「そのときに、数字の話もするけど、『誰が何をがんばってたか』とか、『どんなお客さんがいたか』とかも話して。それ聞いて、『この店、続いてほしいな』って、バイトのくせに思ってしまって」


 最後の一言に、商店街側のテーブルから、くすりと笑いが漏れる。


 「だから、その……家賃の話で、ここがなくなるかもしれないって考えると、怖いです」


 率直すぎる一言だったが、その分だけ、部屋の空気が少し柔らかくなった。


 「……ありがとうございます」


 大家の女性が、静かに頭を下げた。


 「こうやって、店を続けたいと思ってくれている人たちがいることを、あらためて知ることができました」


 管理会社の男性も、深く頷く。


 「本日のご説明と皆さまのお話は、一度、社内と大家様とで持ち帰って検討させていただければと思います」


 きれいな言葉だったが、その口ぶりは、さきほどの説明よりも少し柔らかかった。


 「一律の改定ではなく、段階的なものや、別の形でのご提案ができないかどうか、前向きに考えます」


 その「前向き」という言葉が、本当かどうかは、まだ分からない。


 それでも、ここまで出した言葉と数字と写真が、無駄ではなかったことだけは分かった。


 「本日はありがとうございました」


 会議室を出るとき、大家の女性がもう一度頭を下げた。


 「こちらこそ、ありがとうございました」


 商店街側の面々も、それぞれに頭を下げて部屋を後にする。


 廊下に出た途端、靖治は、ふうっと大きく息を吐いた。


 「生きて帰ってきました……」


 「誰も殺し合いには行ってないよ」


 臣全が、肩を軽く叩く。


 「でも、よくしゃべったな」


 「なんか、口が勝手に」


 「口が勝手に、いいことを言ってくれてました」


 紗菜が、静かに笑う。


 「お疲れさま」


 エレベーターの中で、亜友が、小さく拍手を送った。


 「うちも、自分の店のこと、ちゃんと言葉にできてよかったです。普段は羊羹切るので精一杯で」


 「惣菜屋さんも、唐揚げの話、すごく伝わってましたよ」


 咲亜矢が、惣菜屋の奥さんに声をかける。


 「『紙月堂で会議の準備してから唐揚げ買いに来る』って、いい流れですよね」


 「ねえ」


 惣菜屋の奥さんは、照れくさそうに笑った。


 「結果がどうなるかは、まだ分かりませんけど」


 エレベーターの扉が一階で開いたとき、悠之介が口を開いた。


 「少なくとも、『何も言わずに受け取る』という選び方はしなかった」


 「はい」


 紗菜が、はっきりと頷く。


 「今日の『ここまで』は、そこだと思います」


 「じゃあ、帰ったら、ノートの端に書いておきましょう」


 臣全が、エレベーターの外でくるりと振り返る。


 「『家賃の話、数字と一緒に持っていった』って」


 「長いな」


 「じゃあ、『言うことは言った』にしましょうか」


 その一言に、みんなが笑う。


 ビルの外に出ると、空はすっかり暗くなっていた。


 星見商店街の方角には、オレンジ色のアーケードの灯りが、遠くにぽつりと見える。


 「帰ったら、シャッター開けます?」


 靖治が、ふと尋ねた。


 「もう夜も遅いですけど」


 「今日は、このままでいい」


 悠之介は、商店街の灯りを見ながら答えた。


 「店は閉めたけど、話はちゃんと外に出したから」


 「じゃあ、明日の開店前に、ノートだけ開けておきましょう」


 紗菜が、静かに言う。


 「今日の『ここまで』を書き足すために」


 商店街へ向かう帰り道は、行きよりも少しだけ足取りが軽かった。


 家賃の数字はまだ変わっていない。それでも、「数字だけでは決まらないこと」が、どこかに届いたかもしれないという手ごたえが、四人の胸の中に、静かに残っていた。
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