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第23話 交渉の席に並ぶノート
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管理会社との話し合いは、翌日の夕方に決まった。
星見商店街のあちこちで、「じゃあ、その時間は店閉めて」「うちは奥さんに店番頼むわ」と、いつもと違う段取りの相談が交わされる。
紙月堂も、少し早めに「CLOSE」の札を裏返した。
「じゃあ、ここからは、交渉準備タイムですね」
シャッターを半分だけ下ろした店内で、紗菜がエプロンの紐を解きながら言う。
「交渉準備タイムって言うと、何か強そうに聞こえるな」
悠之介は、カウンターにノートとコピー用紙を並べた。
昼間に書いた手紙の草稿は、丁寧に折りたたまれてノートの間に挟まれている。その横には、「ひと息メモ」のコピーが数枚ずつ。
「まず、持っていく物の確認からいきましょう」
紗菜は、小さな付箋の束を取り出した。
「一、数字のノート。二、『ひと息メモ』のコピー。三、手紙。四、店のことが分かる写真」
「写真?」
「はい。言葉だけだと想像しづらいと思うので」
紗菜は、スマホの画面を開いた。
そこには、昼の紙月堂の店内が写っていた。カウンター席でノートパソコンを開いているスーツ姿の人、窓際の席で「今日のここまでメモ」を書いている人、奥の棚で文具を選んでいる人。
「これを数枚、プリントしておきました」
カウンターの端から、光沢紙に印刷された写真が数枚出てきた。
写真の中で、紙月堂の机や椅子や、マグカップが静かに並んでいる。
「なんか……自分の店じゃないみたいだな」
悠之介は、少し照れくさそうに笑った。
「写真って、現場をちょっと外から見せてくれるので」
紗菜は、写真をクリアファイルにまとめながら言う。
「大家さんに、『ここで灯りがついている時間に、どんなことが起きているか』を見てもらえたらいいなと思って」
「灯り、か」
悠之介は、天井の照明を見上げた。
「じゃあ、ノートは俺が持つ。メモは?」
「私が持ちます」
紗菜が、ファイルと手紙の草稿をかばんに入れる。
「亜友さんと惣菜屋さんにも、紙一枚ずつ渡しました。『自分の店で大事にしていること』を書いてきてもらうように」
「みんな、書けたかな」
「さっき、亜友堂に顔を出したとき、『間に合いました』って言ってましたよ」
亜友の「間に合いました」は、だいたいぎりぎりまで悩んだあとに出てくる言葉だ、と悠之介は思った。
店を出る時間が近づいたころ、裏口から靖治が顔を出した。
「店長、そろそろです」
「おう。シフトは?」
「今日は閉店までで大丈夫です。あと、シャッター完全に下ろして行ってくださいよ」
「分かってる」
レジの鍵を抜き、ガスの元栓を確かめる。戸締まりの手順を一通り終えると、紙月堂の中は、静かな暗がりに変わった。
シャッターの前には、すでに臣全が待っていた。
「準備、いいですか」
「お前は?」
「もちろん」
臣全は、小さなショルダーバッグを肩にかけている。その中には、商店街全体の簡単な売上推移や、空き店舗の数をまとめたメモが入っていた。
「じゃあ、行きましょう」
四人は並んで歩き出した。
管理会社の事務所は、商店街から少し離れた大通り沿いのビルの三階にある。ガラス張りの入口には、きれいに並んだテナント名の表示板。
「こっちの文字も、ちゃんとデザインされてますねえ」
エレベーターの前で、臣全が小声で感心した。
「今、その視点いる?」
「職業病なんで」
咲亜矢の声が、後ろから飛んでくる。
いつの間にか合流していた咲亜矢は、右手首をさりげなくポケットに入れたまま、少し緊張した表情で立っていた。
「呼んでませんでしたっけ」
「亜友さんの荷物持ちに来ました」
「ありがとう」
エレベーターが開くと、中にはすでに二人、見慣れた顔が乗っていた。
「お待たせしました」
亜友が、エプロンの上からカーディガンを羽織り、両手で書類の入ったファイルを抱えている。その隣には、惣菜屋の奥さんが、小さめのトートバッグを握りしめていた。
「みんな、そろってますね」
臣全が、エレベーターの中で軽く頭を下げた。
「じゃあ、三階へ」
エレベーターの扉が閉まり、小さな箱の中に静けさが落ちる。
それぞれが、手に持ったノートやファイルを見つめていた。
「緊張してきました」
靖治が、ぽつりと漏らす。
「俺、今日、話さなくていい役ですよね」
「うん。今日は、横で座っててくれたらいい」
悠之介は、落ち着いた声で答える。
「でも、話したくなったら話していいぞ」
「それ、逆に緊張するやつです」
エレベーターが三階で止まり、「チン」という音とともに扉が開いた。
管理会社の事務所は、白い壁と観葉植物の並ぶ、いかにも「オフィス」という空間だった。
受付の奥には、小さな会議室がいくつか並び、そのうちのひとつのドアの前に、「星見商店街様」と書かれた札が出ている。
「こちらへどうぞ」
スーツ姿の若い社員が、会議室へ案内した。
部屋の中には、長方形のテーブルと椅子が十脚ほど。テーブルの向こう側には、管理会社の担当者らしい男性と、その隣に、落ち着いた雰囲気の女性が座っていた。
「本日はお集まりいただきありがとうございます」
管理会社の男性が立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。
「大家の〇〇様もいらしてますので、まずはご挨拶を」
隣の女性が、静かに会釈した。
「いつもお世話になっております」
短い言葉だったが、声には年季のようなものがあった。
星見商店街の面々も、それぞれに頭を下げて席につく。
テーブルのこちら側には、悠之介、紗菜、臣全、亜友、惣菜屋の奥さん、スマホショップの店長、そして靖治と咲亜矢が並んだ。
「では、こちらからご説明を」
管理会社の男性が、手元の資料をめくった。
賃料改定の理由。近隣の相場。建物の維持費。言葉は丁寧だが、どこか教科書の読み上げのようでもある。
「……という状況でして、次回の更新より、こちらの金額に」
提示された数字は、通知文に書かれていたものと同じだった。
説明が一通り終わったところで、男性が「ご質問などあれば」と言葉を切る。
部屋に、少し重い沈黙が落ちた。
「じゃあ、こちらからも、今の状況をお話ししてもいいでしょうか」
その沈黙を破ったのは、紗菜だった。
穏やかな声だが、はっきりとした調子。
「紙月堂の紗菜と申します。本日は、紙月堂の店主の悠之介と一緒に来ました」
「いつも、ありがとうございます」
大家の女性が、静かに頷く。
「いえ、こちらこそ、お世話になっております」
紗菜はそう前置きしてから、テーブルの上に一冊のノートを置いた。
「こちらは、紙月堂の簡単な売上と経費の記録です。数字の細かいところまでは申し上げませんが、家賃が一割上がったときに、どこがどう変わるかを一緒に見ていただければと思います」
ノートのページには、家賃や水道光熱費、仕入れ、人件費が、ざっくりとしたグラフになっていた。
「……なるほど」
管理会社の男性が、メモを取りながら覗き込む。
「それと、もう一つ」
紗菜は、クリアファイルから写真を取り出した。
「紙月堂で、どんな時間が過ごされているか、少しだけお伝えしたくて」
写真がテーブルの真ん中に並べられる。
スーツ姿の人がノートパソコンに向かっているところ、「今日のここまでメモ」を書く手元、商店街の帳簿が並んだ夜のテーブル。
「この店で過ごす時間を、『ただのコーヒー代』ではなく、『自分の一日を整理する時間』として使ってくださる方が増えています」
紗菜の言葉に、大家の女性が写真をじっと見つめた。
「皆さん、静かにしていらっしゃるのね」
「はい。声の大きい人は、もれなく店長に『少し音量を下げて』とお願いされます」
臣全が、半分冗談めかして補足した。
「それも、『この場所の空気を守るため』だと、皆さん分かってくださっているようです」
亜友が、そっと言葉を添える。
「うちのお客さまも、『紙月堂でひと息ついてから羊羹を買いに来ました』とよくおっしゃいます」
「うちの唐揚げも、『紙月堂で会議の準備してから、帰りに買っていく』って人、多いですよ」
惣菜屋の奥さんが、少し誇らしげに笑う。
「商店街の中で、お互いのお客さんが行き来している感じですね」
スマホショップの店長も、頷きながら口を開いた。
「うちで機種変更したあと、『設定が終わるまで紙月堂で待ってます』って言う方、多いですし」
それぞれの店の話が、ぽつぽつとテーブルの上に並んでいく。
管理会社の男性は、最初は少し戸惑いながらも、やがて真剣な表情で聞き始めた。
「……失礼ですが」
大家の女性が、写真から顔を上げて口を開いた。
「こちらの店は、もともと文房具屋さんだったところですよね」
「はい」
悠之介が、背筋を伸ばして答える。
「もともと、父が文具店をやっていました。そのあと、形を変えて、今のような店になりました」
「形を変えても、灯りはつき続けている、ということかしら」
大家の女性は、そう言って小さく笑った。
「この建物を建てたころは、文具店と靴屋と電器店が並んでいてね。夜になると、三軒とも遅くまで明かりがついていたものよ」
遠くを見るような目になって、少しだけ懐かしそうに続ける。
「今は、店の形は変わっても、灯りの意味は似ているのかもしれないわね」
「そうであれば、うれしいです」
悠之介は、ゆっくりと頭を下げた。
「家賃のことについては、もちろん、建物の維持のために必要なことだというのも分かっています。ただ、『今の一割増し』が、個人の店にとっては、『続けるかどうか』の境目になることもある、ということをお伝えしたくて」
言いながら、昼に書いた手紙の一節が頭に浮かぶ。
「特に、雨の日が続いたり、体調を崩して休んだりした月に、どこにしわ寄せが来るか」
紗菜が、静かに言葉を継いだ。
「店を続けるために、一番に削られそうになるのが、『自分の休む時間』や、『誰かの話をゆっくり聞く時間』です。紙月堂の場合は、まさにそれが店の役割と重なっているので」
「……」
管理会社の男性は、ペンを止めて考え込んだ。
「もちろん、『家賃を上げないでください』と一方的にお願いするつもりはありません」
悠之介は、慎重に言葉を選ぶ。
「ただ、近隣の相場だけでなく、『この建物の一階でどんな時間が積み重なっているか』も、判断材料のひとつにしていただけないでしょうか」
部屋に、再び静かな間が落ちる。
その間を破ったのは、意外なところからだった。
「あ、あの」
靖治が、おそるおそる手を挙げた。
「高校生のアルバイトの靖治です」
全員の視線が、一瞬そちらに向く。
「ここで働く前は、商店街って、正直、通り道って感じだったんですけど」
言いながら、自分で自分の言葉に苦笑する。
「でも、ここで働くようになってから、店の灯りがついてるかどうかを気にするようになって。バイトがない日でも、シャッターが半分閉まってると、『あ、今日は反省会の日だな』とか」
「反省会?」
管理会社の男性が、思わず聞き返す。
「月末に、売上と、『やってよかったこと』を話す日があるんです」
靖治は、少し照れながら説明する。
「そのときに、数字の話もするけど、『誰が何をがんばってたか』とか、『どんなお客さんがいたか』とかも話して。それ聞いて、『この店、続いてほしいな』って、バイトのくせに思ってしまって」
最後の一言に、商店街側のテーブルから、くすりと笑いが漏れる。
「だから、その……家賃の話で、ここがなくなるかもしれないって考えると、怖いです」
率直すぎる一言だったが、その分だけ、部屋の空気が少し柔らかくなった。
「……ありがとうございます」
大家の女性が、静かに頭を下げた。
「こうやって、店を続けたいと思ってくれている人たちがいることを、あらためて知ることができました」
管理会社の男性も、深く頷く。
「本日のご説明と皆さまのお話は、一度、社内と大家様とで持ち帰って検討させていただければと思います」
きれいな言葉だったが、その口ぶりは、さきほどの説明よりも少し柔らかかった。
「一律の改定ではなく、段階的なものや、別の形でのご提案ができないかどうか、前向きに考えます」
その「前向き」という言葉が、本当かどうかは、まだ分からない。
それでも、ここまで出した言葉と数字と写真が、無駄ではなかったことだけは分かった。
「本日はありがとうございました」
会議室を出るとき、大家の女性がもう一度頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
商店街側の面々も、それぞれに頭を下げて部屋を後にする。
廊下に出た途端、靖治は、ふうっと大きく息を吐いた。
「生きて帰ってきました……」
「誰も殺し合いには行ってないよ」
臣全が、肩を軽く叩く。
「でも、よくしゃべったな」
「なんか、口が勝手に」
「口が勝手に、いいことを言ってくれてました」
紗菜が、静かに笑う。
「お疲れさま」
エレベーターの中で、亜友が、小さく拍手を送った。
「うちも、自分の店のこと、ちゃんと言葉にできてよかったです。普段は羊羹切るので精一杯で」
「惣菜屋さんも、唐揚げの話、すごく伝わってましたよ」
咲亜矢が、惣菜屋の奥さんに声をかける。
「『紙月堂で会議の準備してから唐揚げ買いに来る』って、いい流れですよね」
「ねえ」
惣菜屋の奥さんは、照れくさそうに笑った。
「結果がどうなるかは、まだ分かりませんけど」
エレベーターの扉が一階で開いたとき、悠之介が口を開いた。
「少なくとも、『何も言わずに受け取る』という選び方はしなかった」
「はい」
紗菜が、はっきりと頷く。
「今日の『ここまで』は、そこだと思います」
「じゃあ、帰ったら、ノートの端に書いておきましょう」
臣全が、エレベーターの外でくるりと振り返る。
「『家賃の話、数字と一緒に持っていった』って」
「長いな」
「じゃあ、『言うことは言った』にしましょうか」
その一言に、みんなが笑う。
ビルの外に出ると、空はすっかり暗くなっていた。
星見商店街の方角には、オレンジ色のアーケードの灯りが、遠くにぽつりと見える。
「帰ったら、シャッター開けます?」
靖治が、ふと尋ねた。
「もう夜も遅いですけど」
「今日は、このままでいい」
悠之介は、商店街の灯りを見ながら答えた。
「店は閉めたけど、話はちゃんと外に出したから」
「じゃあ、明日の開店前に、ノートだけ開けておきましょう」
紗菜が、静かに言う。
「今日の『ここまで』を書き足すために」
商店街へ向かう帰り道は、行きよりも少しだけ足取りが軽かった。
家賃の数字はまだ変わっていない。それでも、「数字だけでは決まらないこと」が、どこかに届いたかもしれないという手ごたえが、四人の胸の中に、静かに残っていた。
星見商店街のあちこちで、「じゃあ、その時間は店閉めて」「うちは奥さんに店番頼むわ」と、いつもと違う段取りの相談が交わされる。
紙月堂も、少し早めに「CLOSE」の札を裏返した。
「じゃあ、ここからは、交渉準備タイムですね」
シャッターを半分だけ下ろした店内で、紗菜がエプロンの紐を解きながら言う。
「交渉準備タイムって言うと、何か強そうに聞こえるな」
悠之介は、カウンターにノートとコピー用紙を並べた。
昼間に書いた手紙の草稿は、丁寧に折りたたまれてノートの間に挟まれている。その横には、「ひと息メモ」のコピーが数枚ずつ。
「まず、持っていく物の確認からいきましょう」
紗菜は、小さな付箋の束を取り出した。
「一、数字のノート。二、『ひと息メモ』のコピー。三、手紙。四、店のことが分かる写真」
「写真?」
「はい。言葉だけだと想像しづらいと思うので」
紗菜は、スマホの画面を開いた。
そこには、昼の紙月堂の店内が写っていた。カウンター席でノートパソコンを開いているスーツ姿の人、窓際の席で「今日のここまでメモ」を書いている人、奥の棚で文具を選んでいる人。
「これを数枚、プリントしておきました」
カウンターの端から、光沢紙に印刷された写真が数枚出てきた。
写真の中で、紙月堂の机や椅子や、マグカップが静かに並んでいる。
「なんか……自分の店じゃないみたいだな」
悠之介は、少し照れくさそうに笑った。
「写真って、現場をちょっと外から見せてくれるので」
紗菜は、写真をクリアファイルにまとめながら言う。
「大家さんに、『ここで灯りがついている時間に、どんなことが起きているか』を見てもらえたらいいなと思って」
「灯り、か」
悠之介は、天井の照明を見上げた。
「じゃあ、ノートは俺が持つ。メモは?」
「私が持ちます」
紗菜が、ファイルと手紙の草稿をかばんに入れる。
「亜友さんと惣菜屋さんにも、紙一枚ずつ渡しました。『自分の店で大事にしていること』を書いてきてもらうように」
「みんな、書けたかな」
「さっき、亜友堂に顔を出したとき、『間に合いました』って言ってましたよ」
亜友の「間に合いました」は、だいたいぎりぎりまで悩んだあとに出てくる言葉だ、と悠之介は思った。
店を出る時間が近づいたころ、裏口から靖治が顔を出した。
「店長、そろそろです」
「おう。シフトは?」
「今日は閉店までで大丈夫です。あと、シャッター完全に下ろして行ってくださいよ」
「分かってる」
レジの鍵を抜き、ガスの元栓を確かめる。戸締まりの手順を一通り終えると、紙月堂の中は、静かな暗がりに変わった。
シャッターの前には、すでに臣全が待っていた。
「準備、いいですか」
「お前は?」
「もちろん」
臣全は、小さなショルダーバッグを肩にかけている。その中には、商店街全体の簡単な売上推移や、空き店舗の数をまとめたメモが入っていた。
「じゃあ、行きましょう」
四人は並んで歩き出した。
管理会社の事務所は、商店街から少し離れた大通り沿いのビルの三階にある。ガラス張りの入口には、きれいに並んだテナント名の表示板。
「こっちの文字も、ちゃんとデザインされてますねえ」
エレベーターの前で、臣全が小声で感心した。
「今、その視点いる?」
「職業病なんで」
咲亜矢の声が、後ろから飛んでくる。
いつの間にか合流していた咲亜矢は、右手首をさりげなくポケットに入れたまま、少し緊張した表情で立っていた。
「呼んでませんでしたっけ」
「亜友さんの荷物持ちに来ました」
「ありがとう」
エレベーターが開くと、中にはすでに二人、見慣れた顔が乗っていた。
「お待たせしました」
亜友が、エプロンの上からカーディガンを羽織り、両手で書類の入ったファイルを抱えている。その隣には、惣菜屋の奥さんが、小さめのトートバッグを握りしめていた。
「みんな、そろってますね」
臣全が、エレベーターの中で軽く頭を下げた。
「じゃあ、三階へ」
エレベーターの扉が閉まり、小さな箱の中に静けさが落ちる。
それぞれが、手に持ったノートやファイルを見つめていた。
「緊張してきました」
靖治が、ぽつりと漏らす。
「俺、今日、話さなくていい役ですよね」
「うん。今日は、横で座っててくれたらいい」
悠之介は、落ち着いた声で答える。
「でも、話したくなったら話していいぞ」
「それ、逆に緊張するやつです」
エレベーターが三階で止まり、「チン」という音とともに扉が開いた。
管理会社の事務所は、白い壁と観葉植物の並ぶ、いかにも「オフィス」という空間だった。
受付の奥には、小さな会議室がいくつか並び、そのうちのひとつのドアの前に、「星見商店街様」と書かれた札が出ている。
「こちらへどうぞ」
スーツ姿の若い社員が、会議室へ案内した。
部屋の中には、長方形のテーブルと椅子が十脚ほど。テーブルの向こう側には、管理会社の担当者らしい男性と、その隣に、落ち着いた雰囲気の女性が座っていた。
「本日はお集まりいただきありがとうございます」
管理会社の男性が立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。
「大家の〇〇様もいらしてますので、まずはご挨拶を」
隣の女性が、静かに会釈した。
「いつもお世話になっております」
短い言葉だったが、声には年季のようなものがあった。
星見商店街の面々も、それぞれに頭を下げて席につく。
テーブルのこちら側には、悠之介、紗菜、臣全、亜友、惣菜屋の奥さん、スマホショップの店長、そして靖治と咲亜矢が並んだ。
「では、こちらからご説明を」
管理会社の男性が、手元の資料をめくった。
賃料改定の理由。近隣の相場。建物の維持費。言葉は丁寧だが、どこか教科書の読み上げのようでもある。
「……という状況でして、次回の更新より、こちらの金額に」
提示された数字は、通知文に書かれていたものと同じだった。
説明が一通り終わったところで、男性が「ご質問などあれば」と言葉を切る。
部屋に、少し重い沈黙が落ちた。
「じゃあ、こちらからも、今の状況をお話ししてもいいでしょうか」
その沈黙を破ったのは、紗菜だった。
穏やかな声だが、はっきりとした調子。
「紙月堂の紗菜と申します。本日は、紙月堂の店主の悠之介と一緒に来ました」
「いつも、ありがとうございます」
大家の女性が、静かに頷く。
「いえ、こちらこそ、お世話になっております」
紗菜はそう前置きしてから、テーブルの上に一冊のノートを置いた。
「こちらは、紙月堂の簡単な売上と経費の記録です。数字の細かいところまでは申し上げませんが、家賃が一割上がったときに、どこがどう変わるかを一緒に見ていただければと思います」
ノートのページには、家賃や水道光熱費、仕入れ、人件費が、ざっくりとしたグラフになっていた。
「……なるほど」
管理会社の男性が、メモを取りながら覗き込む。
「それと、もう一つ」
紗菜は、クリアファイルから写真を取り出した。
「紙月堂で、どんな時間が過ごされているか、少しだけお伝えしたくて」
写真がテーブルの真ん中に並べられる。
スーツ姿の人がノートパソコンに向かっているところ、「今日のここまでメモ」を書く手元、商店街の帳簿が並んだ夜のテーブル。
「この店で過ごす時間を、『ただのコーヒー代』ではなく、『自分の一日を整理する時間』として使ってくださる方が増えています」
紗菜の言葉に、大家の女性が写真をじっと見つめた。
「皆さん、静かにしていらっしゃるのね」
「はい。声の大きい人は、もれなく店長に『少し音量を下げて』とお願いされます」
臣全が、半分冗談めかして補足した。
「それも、『この場所の空気を守るため』だと、皆さん分かってくださっているようです」
亜友が、そっと言葉を添える。
「うちのお客さまも、『紙月堂でひと息ついてから羊羹を買いに来ました』とよくおっしゃいます」
「うちの唐揚げも、『紙月堂で会議の準備してから、帰りに買っていく』って人、多いですよ」
惣菜屋の奥さんが、少し誇らしげに笑う。
「商店街の中で、お互いのお客さんが行き来している感じですね」
スマホショップの店長も、頷きながら口を開いた。
「うちで機種変更したあと、『設定が終わるまで紙月堂で待ってます』って言う方、多いですし」
それぞれの店の話が、ぽつぽつとテーブルの上に並んでいく。
管理会社の男性は、最初は少し戸惑いながらも、やがて真剣な表情で聞き始めた。
「……失礼ですが」
大家の女性が、写真から顔を上げて口を開いた。
「こちらの店は、もともと文房具屋さんだったところですよね」
「はい」
悠之介が、背筋を伸ばして答える。
「もともと、父が文具店をやっていました。そのあと、形を変えて、今のような店になりました」
「形を変えても、灯りはつき続けている、ということかしら」
大家の女性は、そう言って小さく笑った。
「この建物を建てたころは、文具店と靴屋と電器店が並んでいてね。夜になると、三軒とも遅くまで明かりがついていたものよ」
遠くを見るような目になって、少しだけ懐かしそうに続ける。
「今は、店の形は変わっても、灯りの意味は似ているのかもしれないわね」
「そうであれば、うれしいです」
悠之介は、ゆっくりと頭を下げた。
「家賃のことについては、もちろん、建物の維持のために必要なことだというのも分かっています。ただ、『今の一割増し』が、個人の店にとっては、『続けるかどうか』の境目になることもある、ということをお伝えしたくて」
言いながら、昼に書いた手紙の一節が頭に浮かぶ。
「特に、雨の日が続いたり、体調を崩して休んだりした月に、どこにしわ寄せが来るか」
紗菜が、静かに言葉を継いだ。
「店を続けるために、一番に削られそうになるのが、『自分の休む時間』や、『誰かの話をゆっくり聞く時間』です。紙月堂の場合は、まさにそれが店の役割と重なっているので」
「……」
管理会社の男性は、ペンを止めて考え込んだ。
「もちろん、『家賃を上げないでください』と一方的にお願いするつもりはありません」
悠之介は、慎重に言葉を選ぶ。
「ただ、近隣の相場だけでなく、『この建物の一階でどんな時間が積み重なっているか』も、判断材料のひとつにしていただけないでしょうか」
部屋に、再び静かな間が落ちる。
その間を破ったのは、意外なところからだった。
「あ、あの」
靖治が、おそるおそる手を挙げた。
「高校生のアルバイトの靖治です」
全員の視線が、一瞬そちらに向く。
「ここで働く前は、商店街って、正直、通り道って感じだったんですけど」
言いながら、自分で自分の言葉に苦笑する。
「でも、ここで働くようになってから、店の灯りがついてるかどうかを気にするようになって。バイトがない日でも、シャッターが半分閉まってると、『あ、今日は反省会の日だな』とか」
「反省会?」
管理会社の男性が、思わず聞き返す。
「月末に、売上と、『やってよかったこと』を話す日があるんです」
靖治は、少し照れながら説明する。
「そのときに、数字の話もするけど、『誰が何をがんばってたか』とか、『どんなお客さんがいたか』とかも話して。それ聞いて、『この店、続いてほしいな』って、バイトのくせに思ってしまって」
最後の一言に、商店街側のテーブルから、くすりと笑いが漏れる。
「だから、その……家賃の話で、ここがなくなるかもしれないって考えると、怖いです」
率直すぎる一言だったが、その分だけ、部屋の空気が少し柔らかくなった。
「……ありがとうございます」
大家の女性が、静かに頭を下げた。
「こうやって、店を続けたいと思ってくれている人たちがいることを、あらためて知ることができました」
管理会社の男性も、深く頷く。
「本日のご説明と皆さまのお話は、一度、社内と大家様とで持ち帰って検討させていただければと思います」
きれいな言葉だったが、その口ぶりは、さきほどの説明よりも少し柔らかかった。
「一律の改定ではなく、段階的なものや、別の形でのご提案ができないかどうか、前向きに考えます」
その「前向き」という言葉が、本当かどうかは、まだ分からない。
それでも、ここまで出した言葉と数字と写真が、無駄ではなかったことだけは分かった。
「本日はありがとうございました」
会議室を出るとき、大家の女性がもう一度頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
商店街側の面々も、それぞれに頭を下げて部屋を後にする。
廊下に出た途端、靖治は、ふうっと大きく息を吐いた。
「生きて帰ってきました……」
「誰も殺し合いには行ってないよ」
臣全が、肩を軽く叩く。
「でも、よくしゃべったな」
「なんか、口が勝手に」
「口が勝手に、いいことを言ってくれてました」
紗菜が、静かに笑う。
「お疲れさま」
エレベーターの中で、亜友が、小さく拍手を送った。
「うちも、自分の店のこと、ちゃんと言葉にできてよかったです。普段は羊羹切るので精一杯で」
「惣菜屋さんも、唐揚げの話、すごく伝わってましたよ」
咲亜矢が、惣菜屋の奥さんに声をかける。
「『紙月堂で会議の準備してから唐揚げ買いに来る』って、いい流れですよね」
「ねえ」
惣菜屋の奥さんは、照れくさそうに笑った。
「結果がどうなるかは、まだ分かりませんけど」
エレベーターの扉が一階で開いたとき、悠之介が口を開いた。
「少なくとも、『何も言わずに受け取る』という選び方はしなかった」
「はい」
紗菜が、はっきりと頷く。
「今日の『ここまで』は、そこだと思います」
「じゃあ、帰ったら、ノートの端に書いておきましょう」
臣全が、エレベーターの外でくるりと振り返る。
「『家賃の話、数字と一緒に持っていった』って」
「長いな」
「じゃあ、『言うことは言った』にしましょうか」
その一言に、みんなが笑う。
ビルの外に出ると、空はすっかり暗くなっていた。
星見商店街の方角には、オレンジ色のアーケードの灯りが、遠くにぽつりと見える。
「帰ったら、シャッター開けます?」
靖治が、ふと尋ねた。
「もう夜も遅いですけど」
「今日は、このままでいい」
悠之介は、商店街の灯りを見ながら答えた。
「店は閉めたけど、話はちゃんと外に出したから」
「じゃあ、明日の開店前に、ノートだけ開けておきましょう」
紗菜が、静かに言う。
「今日の『ここまで』を書き足すために」
商店街へ向かう帰り道は、行きよりも少しだけ足取りが軽かった。
家賃の数字はまだ変わっていない。それでも、「数字だけでは決まらないこと」が、どこかに届いたかもしれないという手ごたえが、四人の胸の中に、静かに残っていた。
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夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。
――あなたにお礼を言いますわ。
【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる!
※他サイトにも掲載しております。
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