昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店

乾為天女

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第24話 靖治、逃げ場のないシフト

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 家賃の返事は、まだ来なかった。


 交渉から数日、紙月堂の朝はいつもより少しだけ静かだった。シャッターを上げる前、悠之介は必ずポストの中をのぞく。そのたびに出てくるのは、新聞とチラシと、宅配の不在票ばかりだ。


 「今日も、茶色い封筒はゼロですね」


 レジ横でポストを確認していた紗菜が、肩越しに言う。


 「ゼロならゼロで、少しは落ち着いていいんだけどな」


 悠之介は、ポットに水を入れながら苦笑した。


 カウンターの上では、昨日の夜に書きかけたノートが、まだ開いたままになっている。家賃が上がった場合と据え置きだった場合、両方の数字を並べたページは、見ているだけで肩がこる。


 「とりあえず今日は、目の前の一日を回しましょう」


 紗菜は、ノートを閉じてカウンターの端に寄せた。


 「返事が来るまでの数日は、『待つ練習』だと思って」


 「待つ練習か」


 「はい。勝手に悪い方だけ想像して、店の空気を重くしない練習」


 そう言って微笑んだところで、ガラス戸の向こうを、見覚えのあるリュックがふらふらと通り過ぎていった。


 「……おい」


 悠之介が思わず声をかける前に、紗菜が先に動いた。


 「靖治くん、通り過ぎてます」


 紗菜がガラス戸を開けると、靖治は、数歩戻ってきてから、ようやく顔を上げた。


 「あ、すみません。今日は紙月堂シフトでした」


 「知ってる」


 悠之介は、時計をちらりと見た。


 いつもなら十分前には来ている時間だが、今朝の靖治は、ほぼきっちりの到着だった。目の下には、うっすらとしたクマが見える。


 「寝た?」


 「寝ました。たぶん」


 「たぶんって、単位としてだいぶ怪しいぞ」


 カウンターにリュックを下ろした靖治は、そのまま椅子に腰を落としそうになり、あわてて姿勢を立て直した。


 「昨日、コンビニの方で急にシフト頼まれて。夜の十時から朝の五時までで」


 「それ、ほぼ一晩じゃないか」


 「でも、人がいないって言われて。『若いからいけるでしょ?』って」


 靖治は、あいまいな笑みを浮かべながら、後頭部をかいた。


 「で、そのあと一限あって、今ここです」


 「掛け算の順番おかしくない?」


 紗菜が、思わずツッコミを入れる。


 「コンビニ、授業、紙月堂。どこにも『寝る』って文字が見えないんだけど」


 「帰りの電車でちょっと……」


 「それを睡眠にカウントするのは、電車に失礼だな」


 悠之介が、小さくため息をつきながらも、ポットのお湯をマグカップに注いだ。


 「とりあえず、甘いの飲め」


 「ありがとうございます」


 靖治は、両手でカップを包み込んだ。湯気が顔にかかって、わずかに目が覚めるような表情になる。


 「で、そのシフト、まだ続くのか?」


 「えっと……」


 靖治が、ポケットからスマホを取り出す。画面には、コンビニ店長からのメッセージが並んでいた。


 『今週末も人足りないから、また入れる日あったら教えて』
 『テスト前なら無理しなくていいけど、若い子いないと回らなくてさ』


 文字だけ見れば、気遣いの文面だ。けれど、「助けてほしい」という一言が、靖治の中で妙な圧力に変換されているのが、表情を見れば分かった。


 「……一応、『見てみます』って返したんですけど」


 「その『一応』が危ないんだよな」


 悠之介が、レジ横からメモ帳を一枚ちぎった。


 「紙月堂のシフトは、先に決まってる。大学の授業もある。そこに、コンビニのシフトをどうはめるか」


 「がんばれば、いける気がするんですけど」


 「出た、『がんばれば』」


 紗菜が、額に手を当てるしぐさをした。


 「家賃の話でも聞いた言葉ですね、それ」


 「やめろ。耳が痛い」


 店の奥から、かすかな笑いが漏れた。仕込みを終えて羊羹を届けに来ていた亜友が、トレーを抱えたままこちらを見ている。


 「靖治くん、顔色が、羊羹より白いですよ」


 「比べる対象が和菓子って、なかなかですよね」


 靖治は、頭をかきながら笑ってみせたが、その笑いはすぐに途切れた。


 昼どき。


 伝票の整理が一段落したころ、店内は一瞬だけ客足が途切れた。外から差し込む光と、カウンターの奥の静けさが、ほんの少しだけ余白を作る。


 「今だな」


 紗菜が、すっと立ち上がった。


 「今、何がですか」


 「『時間割り直し会』」


 そう言って、カウンターの上に真っ白なコピー用紙を一枚置く。


 「靖治くん、自分の一週間を書き出してみて」


 「一週間、ですか」


 「はい。月曜から日曜まで。縦に時間、横に曜日」


 紗菜は、さらさらと線を引いていく。紙の上に、簡単なマス目ができあがった。


 「この枠に、授業、コンビニ、紙月堂、移動、睡眠。全部埋めてみて」


 「睡眠もですか」


 「むしろ、睡眠から埋めてほしい」


 靖治は、ペンを握ったまま固まった。


 「……睡眠、何時間くらいって書けばいいんですか」


 「『本当はこれくらい寝たい』って時間」


 紗菜は、穏やかに答える。


 「それを書いてから、『現実はどれくらい削るつもりなのか』を確認しよう」


 言われて、靖治は、紙の上に「7」と小さく数字を書いた。七時間寝たい。健康診断のプリントでも、そんなことが書いてあった気がする。


 「じゃあ、一日七時間の帯を、全部の曜日に塗って」


 「全部、ですか」


 「うん」


 ペン先が、マス目の中を行き来する。睡眠の帯だけで、紙の三分の一が埋まった。


 「次に、授業の時間と通学時間」


 靖治は、大学の時間割をスマホで確認しながら、講義名を書き込んでいく。


 「コンビニの固定シフトは?」


 「火曜と金曜の夜です」


 「じゃあ、そこも」


 黒いインクが、またマス目を埋めていく。


 「紙月堂は?」


 「水曜の夕方と、土曜のお昼です」


 「はい」


 ひととおり書き終えたところで、紗菜は、紙をくるりと回してみせた。


 「さて、ここで問題です」


 「問題?」


 「この表の中に、『何もしない時間』は、いくつ残っているでしょう」


 靖治は、マス目を見つめた。


 睡眠、授業、移動、コンビニ、紙月堂。空いているところは、ほんの少しずつしかない。それも、「コンビニから帰ってきてから授業までの二時間」や、「大学から紙月堂に移動する前の四十分」など、細切れの隙間ばかりだ。


 「……ゼロ?」


 「ゼロではないけど、『まとまった塊』はほぼゼロですね」


 紗菜は、指先で紙のあちこちを軽く叩いた。


 「この隙間全部に、『テスト勉強』『友だちとご飯』『家族の用事』『風邪ひいたときの予備』を詰めるつもり?」


 「詰め……る、かもしれない、です」


 自分で言いながら、靖治は、紙を直視できなくなった。


 「この状態で、『今週末もコンビニ入れる?』って聞かれて、『いけます』って答えたらどうなると思う?」


 「……寝ない週末になりますね」


 「そう」


 紗菜は、そこでようやく笑みを浮かべた。


 「じゃあ今日は、『寝ない週末』を回避する練習をしよう」


 「回避の練習?」


 「つまり、『断る練習』」


 紗菜は、マス目とは別のメモ用紙を一枚取り出した。


 「コンビニの店長さんに送るメッセージ、ここで考えてみよう。いきなりスマホで打つと、勢いで『大丈夫です』って押しそうだから」


 「……それは否定できません」


 靖治は、観念したようにペンを持ち直した。


 「じゃあまず、『今週末は紙月堂のシフトとテスト勉強があって、体を壊しそうなので』って書いてみて」


 「そんな、正直に言っていいんですか」


 「よくないところ、一個もないけど?」


 亜友が、いつの間にか隣の席に腰を下ろしていた。羊羹のトレーはカウンターの端に置かれている。


 「うちのお客さまでも、『体を壊しそうなので』って理由で買う数を減らす方、たくさんいますよ。それ、ちゃんとした理由です」


 「……そうなんですか」


 靖治は、紙にゆっくりと文字を書き始めた。


 『今週末は紙月堂のシフトとテスト勉強があって、連続で入ると体を壊しそうなので』


 「語尾が固いな」


 紗菜が、横から覗き込む。


 「『すみませんが』って一言入れて、『今回はお手伝いできません』って続けてみよう」


 「今回は……お手伝いできません」


 書きながら、喉の奥が少し乾く。


 「最後に、『また余裕のあるときに声をかけていただけるとうれしいです』って添えてみようか」


 「それ、欲張りすぎじゃないですか」


 「欲張りじゃなくて、『関係を続けたい』って意思表示」


 紗菜は、さらりと言った。


 「断ることと、縁を切ることは別だから」


 紙の上に、一文が増える。


 『また余裕のあるときに声をかけていただけるとうれしいです。』


 「じゃあ、これをスマホに写して、そのまま送ってみて」


 「今、ですか」


 「今」


 靖治は、深呼吸を一つしてから、スマホを取り出した。メモに書いた言葉を見ながら、一文字ずつ打ち込んでいく。


 送信ボタンの手前で、親指が止まった。


 「……送ったら、嫌われませんかね」


 「その不安は、送ってみないと晴れないよ」


 悠之介が、カウンターの中から静かに言った。


 「もし本当に『そんなやついらない』って返してくるなら、それはそれで、付き合い方を考え直した方がいい相手だってことだ」


 「……」


 靖治は、ほんの少しだけ目を閉じた。


 「えい」


 小さく呟いて、送信ボタンを押す。


 メッセージは、画面の右側に淡い吹き出しとなって現れた。数秒間、誰もしゃべらない。


 思ったより早く、画面の下に「入力中」の小さな表示が浮かんだ。


 『了解! 無理させるのもよくないし、テストがんばって。空いてる日出てきたら、また教えてくれるとうれしい』


 「……え」


 自分のスマホの画面を見つめながら、靖治は間の抜けた声を出した。


 「優しいじゃないですか、店長さん」


 亜友が、ほっとしたように笑う。


 「それとも、優しいの知ってて、勝手に怖がってただけ?」


 紗菜の指摘に、靖治は黙り込んだ。


 たしかに、これまで「断ったら困らせる」と決めつけていたのは、自分だったのかもしれない。


 「……断っても、店、燃えませんでしたね」


 「燃えないよ」


 悠之介が、肩の力を抜いたように笑った。


 「地球もちゃんと回ってる」


 「ちょっとは止まってくれてもよかったんですけどね」


 靖治は、冗談めかして言いながら、コピー用紙を見下ろした。


 睡眠の帯、授業、バイト。さっきまでぎちぎちだったマス目の中に、ほんの少しだけ、余白のスペースが見えてくる。


 「この『空いてるところ』に、『何もしない』って書いていいですか」


 「ぜひ」


 紗菜は、即答した。


 「『何もしない』は、立派な予定だから」


 靖治は、空白のマスに「何もしない」と書き込んだ。


 その文字を見ているうちに、胸のあたりにあった重しが、少しずつ軽くなる気がした。


 閉店前。


 今日の「ここまでメモ」を書く時間になると、靖治は、ペンを握ってしばらく考え込んだ末に、短く一行だけ書いた。


 『断っても、居場所は減らなかった』


 紙を見た悠之介は、ふっと笑う。


 「いい筋トレだったな」


 「静かな筋トレですね」


 靖治も、笑いながら答えた。


 家賃の返事は、やはりまだ届いていない。けれど、紙月堂の中では一つだけ、「逃げ場のないシフト」が、「守りたい時間を決める表」に変わっていた。
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