24 / 40
第24話 靖治、逃げ場のないシフト
しおりを挟む
家賃の返事は、まだ来なかった。
交渉から数日、紙月堂の朝はいつもより少しだけ静かだった。シャッターを上げる前、悠之介は必ずポストの中をのぞく。そのたびに出てくるのは、新聞とチラシと、宅配の不在票ばかりだ。
「今日も、茶色い封筒はゼロですね」
レジ横でポストを確認していた紗菜が、肩越しに言う。
「ゼロならゼロで、少しは落ち着いていいんだけどな」
悠之介は、ポットに水を入れながら苦笑した。
カウンターの上では、昨日の夜に書きかけたノートが、まだ開いたままになっている。家賃が上がった場合と据え置きだった場合、両方の数字を並べたページは、見ているだけで肩がこる。
「とりあえず今日は、目の前の一日を回しましょう」
紗菜は、ノートを閉じてカウンターの端に寄せた。
「返事が来るまでの数日は、『待つ練習』だと思って」
「待つ練習か」
「はい。勝手に悪い方だけ想像して、店の空気を重くしない練習」
そう言って微笑んだところで、ガラス戸の向こうを、見覚えのあるリュックがふらふらと通り過ぎていった。
「……おい」
悠之介が思わず声をかける前に、紗菜が先に動いた。
「靖治くん、通り過ぎてます」
紗菜がガラス戸を開けると、靖治は、数歩戻ってきてから、ようやく顔を上げた。
「あ、すみません。今日は紙月堂シフトでした」
「知ってる」
悠之介は、時計をちらりと見た。
いつもなら十分前には来ている時間だが、今朝の靖治は、ほぼきっちりの到着だった。目の下には、うっすらとしたクマが見える。
「寝た?」
「寝ました。たぶん」
「たぶんって、単位としてだいぶ怪しいぞ」
カウンターにリュックを下ろした靖治は、そのまま椅子に腰を落としそうになり、あわてて姿勢を立て直した。
「昨日、コンビニの方で急にシフト頼まれて。夜の十時から朝の五時までで」
「それ、ほぼ一晩じゃないか」
「でも、人がいないって言われて。『若いからいけるでしょ?』って」
靖治は、あいまいな笑みを浮かべながら、後頭部をかいた。
「で、そのあと一限あって、今ここです」
「掛け算の順番おかしくない?」
紗菜が、思わずツッコミを入れる。
「コンビニ、授業、紙月堂。どこにも『寝る』って文字が見えないんだけど」
「帰りの電車でちょっと……」
「それを睡眠にカウントするのは、電車に失礼だな」
悠之介が、小さくため息をつきながらも、ポットのお湯をマグカップに注いだ。
「とりあえず、甘いの飲め」
「ありがとうございます」
靖治は、両手でカップを包み込んだ。湯気が顔にかかって、わずかに目が覚めるような表情になる。
「で、そのシフト、まだ続くのか?」
「えっと……」
靖治が、ポケットからスマホを取り出す。画面には、コンビニ店長からのメッセージが並んでいた。
『今週末も人足りないから、また入れる日あったら教えて』
『テスト前なら無理しなくていいけど、若い子いないと回らなくてさ』
文字だけ見れば、気遣いの文面だ。けれど、「助けてほしい」という一言が、靖治の中で妙な圧力に変換されているのが、表情を見れば分かった。
「……一応、『見てみます』って返したんですけど」
「その『一応』が危ないんだよな」
悠之介が、レジ横からメモ帳を一枚ちぎった。
「紙月堂のシフトは、先に決まってる。大学の授業もある。そこに、コンビニのシフトをどうはめるか」
「がんばれば、いける気がするんですけど」
「出た、『がんばれば』」
紗菜が、額に手を当てるしぐさをした。
「家賃の話でも聞いた言葉ですね、それ」
「やめろ。耳が痛い」
店の奥から、かすかな笑いが漏れた。仕込みを終えて羊羹を届けに来ていた亜友が、トレーを抱えたままこちらを見ている。
「靖治くん、顔色が、羊羹より白いですよ」
「比べる対象が和菓子って、なかなかですよね」
靖治は、頭をかきながら笑ってみせたが、その笑いはすぐに途切れた。
昼どき。
伝票の整理が一段落したころ、店内は一瞬だけ客足が途切れた。外から差し込む光と、カウンターの奥の静けさが、ほんの少しだけ余白を作る。
「今だな」
紗菜が、すっと立ち上がった。
「今、何がですか」
「『時間割り直し会』」
そう言って、カウンターの上に真っ白なコピー用紙を一枚置く。
「靖治くん、自分の一週間を書き出してみて」
「一週間、ですか」
「はい。月曜から日曜まで。縦に時間、横に曜日」
紗菜は、さらさらと線を引いていく。紙の上に、簡単なマス目ができあがった。
「この枠に、授業、コンビニ、紙月堂、移動、睡眠。全部埋めてみて」
「睡眠もですか」
「むしろ、睡眠から埋めてほしい」
靖治は、ペンを握ったまま固まった。
「……睡眠、何時間くらいって書けばいいんですか」
「『本当はこれくらい寝たい』って時間」
紗菜は、穏やかに答える。
「それを書いてから、『現実はどれくらい削るつもりなのか』を確認しよう」
言われて、靖治は、紙の上に「7」と小さく数字を書いた。七時間寝たい。健康診断のプリントでも、そんなことが書いてあった気がする。
「じゃあ、一日七時間の帯を、全部の曜日に塗って」
「全部、ですか」
「うん」
ペン先が、マス目の中を行き来する。睡眠の帯だけで、紙の三分の一が埋まった。
「次に、授業の時間と通学時間」
靖治は、大学の時間割をスマホで確認しながら、講義名を書き込んでいく。
「コンビニの固定シフトは?」
「火曜と金曜の夜です」
「じゃあ、そこも」
黒いインクが、またマス目を埋めていく。
「紙月堂は?」
「水曜の夕方と、土曜のお昼です」
「はい」
ひととおり書き終えたところで、紗菜は、紙をくるりと回してみせた。
「さて、ここで問題です」
「問題?」
「この表の中に、『何もしない時間』は、いくつ残っているでしょう」
靖治は、マス目を見つめた。
睡眠、授業、移動、コンビニ、紙月堂。空いているところは、ほんの少しずつしかない。それも、「コンビニから帰ってきてから授業までの二時間」や、「大学から紙月堂に移動する前の四十分」など、細切れの隙間ばかりだ。
「……ゼロ?」
「ゼロではないけど、『まとまった塊』はほぼゼロですね」
紗菜は、指先で紙のあちこちを軽く叩いた。
「この隙間全部に、『テスト勉強』『友だちとご飯』『家族の用事』『風邪ひいたときの予備』を詰めるつもり?」
「詰め……る、かもしれない、です」
自分で言いながら、靖治は、紙を直視できなくなった。
「この状態で、『今週末もコンビニ入れる?』って聞かれて、『いけます』って答えたらどうなると思う?」
「……寝ない週末になりますね」
「そう」
紗菜は、そこでようやく笑みを浮かべた。
「じゃあ今日は、『寝ない週末』を回避する練習をしよう」
「回避の練習?」
「つまり、『断る練習』」
紗菜は、マス目とは別のメモ用紙を一枚取り出した。
「コンビニの店長さんに送るメッセージ、ここで考えてみよう。いきなりスマホで打つと、勢いで『大丈夫です』って押しそうだから」
「……それは否定できません」
靖治は、観念したようにペンを持ち直した。
「じゃあまず、『今週末は紙月堂のシフトとテスト勉強があって、体を壊しそうなので』って書いてみて」
「そんな、正直に言っていいんですか」
「よくないところ、一個もないけど?」
亜友が、いつの間にか隣の席に腰を下ろしていた。羊羹のトレーはカウンターの端に置かれている。
「うちのお客さまでも、『体を壊しそうなので』って理由で買う数を減らす方、たくさんいますよ。それ、ちゃんとした理由です」
「……そうなんですか」
靖治は、紙にゆっくりと文字を書き始めた。
『今週末は紙月堂のシフトとテスト勉強があって、連続で入ると体を壊しそうなので』
「語尾が固いな」
紗菜が、横から覗き込む。
「『すみませんが』って一言入れて、『今回はお手伝いできません』って続けてみよう」
「今回は……お手伝いできません」
書きながら、喉の奥が少し乾く。
「最後に、『また余裕のあるときに声をかけていただけるとうれしいです』って添えてみようか」
「それ、欲張りすぎじゃないですか」
「欲張りじゃなくて、『関係を続けたい』って意思表示」
紗菜は、さらりと言った。
「断ることと、縁を切ることは別だから」
紙の上に、一文が増える。
『また余裕のあるときに声をかけていただけるとうれしいです。』
「じゃあ、これをスマホに写して、そのまま送ってみて」
「今、ですか」
「今」
靖治は、深呼吸を一つしてから、スマホを取り出した。メモに書いた言葉を見ながら、一文字ずつ打ち込んでいく。
送信ボタンの手前で、親指が止まった。
「……送ったら、嫌われませんかね」
「その不安は、送ってみないと晴れないよ」
悠之介が、カウンターの中から静かに言った。
「もし本当に『そんなやついらない』って返してくるなら、それはそれで、付き合い方を考え直した方がいい相手だってことだ」
「……」
靖治は、ほんの少しだけ目を閉じた。
「えい」
小さく呟いて、送信ボタンを押す。
メッセージは、画面の右側に淡い吹き出しとなって現れた。数秒間、誰もしゃべらない。
思ったより早く、画面の下に「入力中」の小さな表示が浮かんだ。
『了解! 無理させるのもよくないし、テストがんばって。空いてる日出てきたら、また教えてくれるとうれしい』
「……え」
自分のスマホの画面を見つめながら、靖治は間の抜けた声を出した。
「優しいじゃないですか、店長さん」
亜友が、ほっとしたように笑う。
「それとも、優しいの知ってて、勝手に怖がってただけ?」
紗菜の指摘に、靖治は黙り込んだ。
たしかに、これまで「断ったら困らせる」と決めつけていたのは、自分だったのかもしれない。
「……断っても、店、燃えませんでしたね」
「燃えないよ」
悠之介が、肩の力を抜いたように笑った。
「地球もちゃんと回ってる」
「ちょっとは止まってくれてもよかったんですけどね」
靖治は、冗談めかして言いながら、コピー用紙を見下ろした。
睡眠の帯、授業、バイト。さっきまでぎちぎちだったマス目の中に、ほんの少しだけ、余白のスペースが見えてくる。
「この『空いてるところ』に、『何もしない』って書いていいですか」
「ぜひ」
紗菜は、即答した。
「『何もしない』は、立派な予定だから」
靖治は、空白のマスに「何もしない」と書き込んだ。
その文字を見ているうちに、胸のあたりにあった重しが、少しずつ軽くなる気がした。
閉店前。
今日の「ここまでメモ」を書く時間になると、靖治は、ペンを握ってしばらく考え込んだ末に、短く一行だけ書いた。
『断っても、居場所は減らなかった』
紙を見た悠之介は、ふっと笑う。
「いい筋トレだったな」
「静かな筋トレですね」
靖治も、笑いながら答えた。
家賃の返事は、やはりまだ届いていない。けれど、紙月堂の中では一つだけ、「逃げ場のないシフト」が、「守りたい時間を決める表」に変わっていた。
交渉から数日、紙月堂の朝はいつもより少しだけ静かだった。シャッターを上げる前、悠之介は必ずポストの中をのぞく。そのたびに出てくるのは、新聞とチラシと、宅配の不在票ばかりだ。
「今日も、茶色い封筒はゼロですね」
レジ横でポストを確認していた紗菜が、肩越しに言う。
「ゼロならゼロで、少しは落ち着いていいんだけどな」
悠之介は、ポットに水を入れながら苦笑した。
カウンターの上では、昨日の夜に書きかけたノートが、まだ開いたままになっている。家賃が上がった場合と据え置きだった場合、両方の数字を並べたページは、見ているだけで肩がこる。
「とりあえず今日は、目の前の一日を回しましょう」
紗菜は、ノートを閉じてカウンターの端に寄せた。
「返事が来るまでの数日は、『待つ練習』だと思って」
「待つ練習か」
「はい。勝手に悪い方だけ想像して、店の空気を重くしない練習」
そう言って微笑んだところで、ガラス戸の向こうを、見覚えのあるリュックがふらふらと通り過ぎていった。
「……おい」
悠之介が思わず声をかける前に、紗菜が先に動いた。
「靖治くん、通り過ぎてます」
紗菜がガラス戸を開けると、靖治は、数歩戻ってきてから、ようやく顔を上げた。
「あ、すみません。今日は紙月堂シフトでした」
「知ってる」
悠之介は、時計をちらりと見た。
いつもなら十分前には来ている時間だが、今朝の靖治は、ほぼきっちりの到着だった。目の下には、うっすらとしたクマが見える。
「寝た?」
「寝ました。たぶん」
「たぶんって、単位としてだいぶ怪しいぞ」
カウンターにリュックを下ろした靖治は、そのまま椅子に腰を落としそうになり、あわてて姿勢を立て直した。
「昨日、コンビニの方で急にシフト頼まれて。夜の十時から朝の五時までで」
「それ、ほぼ一晩じゃないか」
「でも、人がいないって言われて。『若いからいけるでしょ?』って」
靖治は、あいまいな笑みを浮かべながら、後頭部をかいた。
「で、そのあと一限あって、今ここです」
「掛け算の順番おかしくない?」
紗菜が、思わずツッコミを入れる。
「コンビニ、授業、紙月堂。どこにも『寝る』って文字が見えないんだけど」
「帰りの電車でちょっと……」
「それを睡眠にカウントするのは、電車に失礼だな」
悠之介が、小さくため息をつきながらも、ポットのお湯をマグカップに注いだ。
「とりあえず、甘いの飲め」
「ありがとうございます」
靖治は、両手でカップを包み込んだ。湯気が顔にかかって、わずかに目が覚めるような表情になる。
「で、そのシフト、まだ続くのか?」
「えっと……」
靖治が、ポケットからスマホを取り出す。画面には、コンビニ店長からのメッセージが並んでいた。
『今週末も人足りないから、また入れる日あったら教えて』
『テスト前なら無理しなくていいけど、若い子いないと回らなくてさ』
文字だけ見れば、気遣いの文面だ。けれど、「助けてほしい」という一言が、靖治の中で妙な圧力に変換されているのが、表情を見れば分かった。
「……一応、『見てみます』って返したんですけど」
「その『一応』が危ないんだよな」
悠之介が、レジ横からメモ帳を一枚ちぎった。
「紙月堂のシフトは、先に決まってる。大学の授業もある。そこに、コンビニのシフトをどうはめるか」
「がんばれば、いける気がするんですけど」
「出た、『がんばれば』」
紗菜が、額に手を当てるしぐさをした。
「家賃の話でも聞いた言葉ですね、それ」
「やめろ。耳が痛い」
店の奥から、かすかな笑いが漏れた。仕込みを終えて羊羹を届けに来ていた亜友が、トレーを抱えたままこちらを見ている。
「靖治くん、顔色が、羊羹より白いですよ」
「比べる対象が和菓子って、なかなかですよね」
靖治は、頭をかきながら笑ってみせたが、その笑いはすぐに途切れた。
昼どき。
伝票の整理が一段落したころ、店内は一瞬だけ客足が途切れた。外から差し込む光と、カウンターの奥の静けさが、ほんの少しだけ余白を作る。
「今だな」
紗菜が、すっと立ち上がった。
「今、何がですか」
「『時間割り直し会』」
そう言って、カウンターの上に真っ白なコピー用紙を一枚置く。
「靖治くん、自分の一週間を書き出してみて」
「一週間、ですか」
「はい。月曜から日曜まで。縦に時間、横に曜日」
紗菜は、さらさらと線を引いていく。紙の上に、簡単なマス目ができあがった。
「この枠に、授業、コンビニ、紙月堂、移動、睡眠。全部埋めてみて」
「睡眠もですか」
「むしろ、睡眠から埋めてほしい」
靖治は、ペンを握ったまま固まった。
「……睡眠、何時間くらいって書けばいいんですか」
「『本当はこれくらい寝たい』って時間」
紗菜は、穏やかに答える。
「それを書いてから、『現実はどれくらい削るつもりなのか』を確認しよう」
言われて、靖治は、紙の上に「7」と小さく数字を書いた。七時間寝たい。健康診断のプリントでも、そんなことが書いてあった気がする。
「じゃあ、一日七時間の帯を、全部の曜日に塗って」
「全部、ですか」
「うん」
ペン先が、マス目の中を行き来する。睡眠の帯だけで、紙の三分の一が埋まった。
「次に、授業の時間と通学時間」
靖治は、大学の時間割をスマホで確認しながら、講義名を書き込んでいく。
「コンビニの固定シフトは?」
「火曜と金曜の夜です」
「じゃあ、そこも」
黒いインクが、またマス目を埋めていく。
「紙月堂は?」
「水曜の夕方と、土曜のお昼です」
「はい」
ひととおり書き終えたところで、紗菜は、紙をくるりと回してみせた。
「さて、ここで問題です」
「問題?」
「この表の中に、『何もしない時間』は、いくつ残っているでしょう」
靖治は、マス目を見つめた。
睡眠、授業、移動、コンビニ、紙月堂。空いているところは、ほんの少しずつしかない。それも、「コンビニから帰ってきてから授業までの二時間」や、「大学から紙月堂に移動する前の四十分」など、細切れの隙間ばかりだ。
「……ゼロ?」
「ゼロではないけど、『まとまった塊』はほぼゼロですね」
紗菜は、指先で紙のあちこちを軽く叩いた。
「この隙間全部に、『テスト勉強』『友だちとご飯』『家族の用事』『風邪ひいたときの予備』を詰めるつもり?」
「詰め……る、かもしれない、です」
自分で言いながら、靖治は、紙を直視できなくなった。
「この状態で、『今週末もコンビニ入れる?』って聞かれて、『いけます』って答えたらどうなると思う?」
「……寝ない週末になりますね」
「そう」
紗菜は、そこでようやく笑みを浮かべた。
「じゃあ今日は、『寝ない週末』を回避する練習をしよう」
「回避の練習?」
「つまり、『断る練習』」
紗菜は、マス目とは別のメモ用紙を一枚取り出した。
「コンビニの店長さんに送るメッセージ、ここで考えてみよう。いきなりスマホで打つと、勢いで『大丈夫です』って押しそうだから」
「……それは否定できません」
靖治は、観念したようにペンを持ち直した。
「じゃあまず、『今週末は紙月堂のシフトとテスト勉強があって、体を壊しそうなので』って書いてみて」
「そんな、正直に言っていいんですか」
「よくないところ、一個もないけど?」
亜友が、いつの間にか隣の席に腰を下ろしていた。羊羹のトレーはカウンターの端に置かれている。
「うちのお客さまでも、『体を壊しそうなので』って理由で買う数を減らす方、たくさんいますよ。それ、ちゃんとした理由です」
「……そうなんですか」
靖治は、紙にゆっくりと文字を書き始めた。
『今週末は紙月堂のシフトとテスト勉強があって、連続で入ると体を壊しそうなので』
「語尾が固いな」
紗菜が、横から覗き込む。
「『すみませんが』って一言入れて、『今回はお手伝いできません』って続けてみよう」
「今回は……お手伝いできません」
書きながら、喉の奥が少し乾く。
「最後に、『また余裕のあるときに声をかけていただけるとうれしいです』って添えてみようか」
「それ、欲張りすぎじゃないですか」
「欲張りじゃなくて、『関係を続けたい』って意思表示」
紗菜は、さらりと言った。
「断ることと、縁を切ることは別だから」
紙の上に、一文が増える。
『また余裕のあるときに声をかけていただけるとうれしいです。』
「じゃあ、これをスマホに写して、そのまま送ってみて」
「今、ですか」
「今」
靖治は、深呼吸を一つしてから、スマホを取り出した。メモに書いた言葉を見ながら、一文字ずつ打ち込んでいく。
送信ボタンの手前で、親指が止まった。
「……送ったら、嫌われませんかね」
「その不安は、送ってみないと晴れないよ」
悠之介が、カウンターの中から静かに言った。
「もし本当に『そんなやついらない』って返してくるなら、それはそれで、付き合い方を考え直した方がいい相手だってことだ」
「……」
靖治は、ほんの少しだけ目を閉じた。
「えい」
小さく呟いて、送信ボタンを押す。
メッセージは、画面の右側に淡い吹き出しとなって現れた。数秒間、誰もしゃべらない。
思ったより早く、画面の下に「入力中」の小さな表示が浮かんだ。
『了解! 無理させるのもよくないし、テストがんばって。空いてる日出てきたら、また教えてくれるとうれしい』
「……え」
自分のスマホの画面を見つめながら、靖治は間の抜けた声を出した。
「優しいじゃないですか、店長さん」
亜友が、ほっとしたように笑う。
「それとも、優しいの知ってて、勝手に怖がってただけ?」
紗菜の指摘に、靖治は黙り込んだ。
たしかに、これまで「断ったら困らせる」と決めつけていたのは、自分だったのかもしれない。
「……断っても、店、燃えませんでしたね」
「燃えないよ」
悠之介が、肩の力を抜いたように笑った。
「地球もちゃんと回ってる」
「ちょっとは止まってくれてもよかったんですけどね」
靖治は、冗談めかして言いながら、コピー用紙を見下ろした。
睡眠の帯、授業、バイト。さっきまでぎちぎちだったマス目の中に、ほんの少しだけ、余白のスペースが見えてくる。
「この『空いてるところ』に、『何もしない』って書いていいですか」
「ぜひ」
紗菜は、即答した。
「『何もしない』は、立派な予定だから」
靖治は、空白のマスに「何もしない」と書き込んだ。
その文字を見ているうちに、胸のあたりにあった重しが、少しずつ軽くなる気がした。
閉店前。
今日の「ここまでメモ」を書く時間になると、靖治は、ペンを握ってしばらく考え込んだ末に、短く一行だけ書いた。
『断っても、居場所は減らなかった』
紙を見た悠之介は、ふっと笑う。
「いい筋トレだったな」
「静かな筋トレですね」
靖治も、笑いながら答えた。
家賃の返事は、やはりまだ届いていない。けれど、紙月堂の中では一つだけ、「逃げ場のないシフト」が、「守りたい時間を決める表」に変わっていた。
0
あなたにおすすめの小説
妾の子だからといって、公爵家の令嬢を侮辱してただで済むと思っていたんですか?
木山楽斗
恋愛
公爵家の妾の子であるクラリアは、とある舞踏会にて二人の令嬢に詰められていた。
彼女達は、公爵家の汚点ともいえるクラリアのことを蔑み馬鹿にしていたのである。
公爵家の一員を侮辱するなど、本来であれば許されることではない。
しかし彼女達は、妾の子のことでムキになることはないと高を括っていた。
だが公爵家は彼女達に対して厳正なる抗議をしてきた。
二人が公爵家を侮辱したとして、糾弾したのである。
彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。
※HOTランキング1位、小説、恋愛24hポイントランキング1位(2024/10/04) 皆さまの応援のおかげです。誠にありがとうございます。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
さようなら、お別れしましょう
椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。
妻に新しいも古いもありますか?
愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?
私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。
――つまり、別居。
夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。
――あなたにお礼を言いますわ。
【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる!
※他サイトにも掲載しております。
※表紙はお借りしたものです。
英雄の番が名乗るまで
長野 雪
恋愛
突然発生した魔物の大侵攻。西の果てから始まったそれは、いくつもの集落どころか国すら飲みこみ、世界中の国々が人種・宗教を越えて協力し、とうとう終息を迎えた。魔物の駆逐・殲滅に目覚ましい活躍を見せた5人は吟遊詩人によって「五英傑」と謳われ、これから彼らの活躍は英雄譚として広く知られていくのであろう。
大侵攻の終息を祝う宴の最中、己の番《つがい》の気配を感じた五英傑の一人、竜人フィルは見つけ出した途端、気を失ってしまった彼女に対し、番の誓約を行おうとするが失敗に終わる。番と己の寿命を等しくするため、何より番を手元に置き続けるためにフィルにとっては重要な誓約がどうして失敗したのか分からないものの、とにかく庇護したいフィルと、ぐいぐい溺愛モードに入ろうとする彼に一歩距離を置いてしまう番の女性との一進一退のおはなし。
※小説家になろうにも投稿
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。
いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。
ただし、後のことはどうなっても知りませんよ?
* 他サイトでも投稿
* ショートショートです。あっさり終わります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる