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第25話 咲亜矢の線引き
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夜の住宅街で、一軒だけ、窓に白い光が浮かんでいた。
マンションの一室。机の上には、ノートパソコンと液晶タブレット、飲みかけのマグカップが三つ。椅子には、ジャージ姿の咲亜矢が、片足を抱え込むように座っている。
「……よし。これで一枚」
画面の中で、商店街のポスター用データが保存の音を立てた。星見商店街のロゴと、紙月堂のイラスト。夕暮れ色のグラデーションの上に、「働く人のひと息時間」の文字が乗っている。
時刻は、すでに深夜一時を回っていた。
そこへ、パソコンの画面の隅に、小さな通知がぽん、と出た。
『件名:商業施設サイン計画のデザイン依頼のご相談』
「ん?」
咲亜矢は、眠気でぼんやりした目をこすりながら、メールを開いた。
都心の大型複合施設の運営会社からの依頼だった。リニューアルオープンに合わせて、館内の案内サインやフロアマップ、入口の大きな看板まで、一式のデザインを任せたいという。
『以前手がけていただいたポスターの色使いと線の印象が社内で好評で、ぜひご相談できればと考えております』
「……あー」
記憶のどこかに、確かにそんな仕事があった。フリーランスになりたての頃、知り合いのつてで受けた案件だ。あのときの担当者が、まだ覚えていてくれたらしい。
『内容:館内サイン40点前後、入口看板2種、フロアマップ3案』
『納期:一か月半後』
『予算:〇〇万円(税別)』
数字の部分だけ、やけにくっきりと目に飛び込んでくる。
「……この金額、手首何本分だろう」
思わず口から出たのは、寝ぼけた独り言だった。
家賃、光熱費、年金、保険。毎月の支出が頭の中を行進する。
これを全部受けたら、しばらくは生活の心配をせずに済むかもしれない。
ただし。
メールの下の方には、「できれば今後も継続的にお願いしたい」と添えられていた。
「今でも、紙月堂のポスターと、商店街の看板と、他の店のロゴで、だいぶ手首パンパンなんだけどなあ」
咲亜矢は、右手首をぐるぐる回した。
骨のきしむような感覚が、わずかに走る。
机の端には、少し前に医者からもらったサポーターが置かれていた。あまり頼りたくなくて、つい放置していたが、目に入るたびに、そこにある理由を思い出させてくる。
「全部受けたら、一か月半、紙月堂の仕事、夜中しか触れないな」
紙の切れ端を一枚引き寄せて、ざっと計算してみる。
サイン一つにかかる時間を、ラフから入稿データまででざっくり三時間だとする。四十点なら百二十時間。フロアマップと看板を入れれば、もっと増える。
「一日八時間として……」
寝不足の頭で掛け算をして、すぐにやめる。
「八時間も、毎日デザインだけに集中できるわけないし」
メールの文面をもう一度読み返す。
いい話なのは分かる。ここで大きな取引先を持てば、仕事の幅も広がるだろう。
でも、その間、紙月堂のポスターは? 商店街の小さな看板は? 「手首の在庫」をこれ以上削って、全部抱えることはできるのか。
机の端に置いてある、紙月堂のラフが目に入った。
来月から始める予定の「朝のひと息セット」の告知デザイン。コーヒーカップとノートのイラストに、まだ文字の配置が決まっていない。
「……紙月堂の分、減らすって選択肢もあるけど」
口に出してみると、その言葉は、自分の耳にだけ少し苦く響いた。
彼らの顔が浮かぶ。悠之介が、シャッターを半分だけ開けて帳簿に向かっている姿。紗菜が、同時に三つの段取りを頭の中で組み立てている横顔。臣全が、デザインの話になると、やたら身を乗り出してくるところ。
そして、家賃交渉の場で、「ポスターの枚数を減らしてでも、この店の看板は続けたい」と笑っていた自分の声も。
「……体は二つに増えないしなあ」
咲亜矢は、椅子の背もたれに体を預けた。
天井の蛍光灯を見上げる。目を閉じると、昼間の紙月堂の光景が浮かぶ。ガラス戸越しの商店街の人の流れ。カウンターの向こうで、コーヒーの香りがふわりと広がる瞬間。
「とりあえず、今日は寝よう」
決断だけが先送りされたまま、パソコンを閉じた。
机の上のマグカップは、一つだけ中身が半分残っていた。寝る前に飲むには、少し冷えすぎている。
◇
翌日。
昼過ぎの紙月堂の店内は、午前中の忙しさが一段落し、ゆるやかな時間が流れていた。
窓際の席では、スーツ姿の会社員が、「今日のここまでメモ」に何かを書き込んでいる。カウンター席には、ノートパソコンを開いている人が一人。全体的に、紙とキーボードの音が控えめに響いている。
そんな静けさの中、ガラス戸が勢いよく開いた。
「お邪魔します」
咲亜矢が片手で扉を押さえ、もう片方の手で、大きめの封筒を抱えている。いつもより少し動きがぎこちない。
「いらっしゃいませ。右手首、今日の在庫は?」
紗菜が、カウンター越しに冗談めかして声をかけた。
「三割減です」
咲亜矢は、苦笑しながら手首をさすった。
「今日は、相談に来ました」
「珍しいな。データ入稿の愚痴じゃなくて、相談?」
悠之介が、コーヒーマシンの前から顔を上げる。
「愚痴半分、相談半分です」
咲亜矢は、窓際の席に封筒を置き、イスに腰を下ろした。
「何かあった?」
臣全が、いつの間にか隣の席に陣取っている。手には、自分の店の新しいロゴ案が描かれたノート。
「昨日の夜、こんなメールが来まして」
咲亜矢は、スマホを取り出し、画面を三人の前に差し出した。
大型商業施設からのサイン計画の依頼。予算と納期。メールの文面を見た瞬間、臣全の目が露骨に輝く。
「うお……これ、全部やったら、ビル一棟に咲亜矢さんの線が溢れますよ」
「そんなホラー表現やめて」
「いや、いい意味で!」
臣全は、手をばたばたさせながら言い直した。
「でも、これ受けたら、かなり安心じゃないですか? 今後の仕事的にも」
「そう。安心、『だけ』なら」
咲亜矢は、スマホを伏せた。
「ただ、全部受けたら、たぶん紙月堂と商店街の仕事を減らさないと、手首どころか背中までダメになるんですよね」
「今でも、結構ギリギリなんですか?」
靖治が、お盆を持ったまま会話に加わる。運んでいたカップをテーブルにそっと置き、控えめにイスの端に座った。
「ギリギリ、でした。昨日の夜、タイムスケジュールを書いたら、寝る時間が、謎の自動削除に遭いまして」
「またタイムスケジュール……」
靖治の顔に、前回の「逃げ場のないシフト」の記憶がよぎる。
「紙に書くと、現実が寄ってくるんですよね。『ここ、埋まってませんけど?』って」
「で、どうするつもりなんだ?」
悠之介が、カウンターからコーヒーを一杯持ってきて、咲亜矢の前に置いた。
「全部受けるか、全部断るか。その二択じゃないはずだろ」
「二択にしちゃうと、分かりやすいんですけどね」
咲亜矢は、スプーンでコーヒーを一度だけかき混ぜた。
「『こっちを取るなら、あっちは捨てる』って」
「でも本当は、そんなきれいに切れる話じゃない」
紗菜が、隣の席に座り直す。
「このメンバー、だいたい皆そうじゃないですか。会社を辞めたけど、前の仕事のやり方を全部捨てたわけでもないし」
「それはそうだけど」
「で、本音は?」
悠之介が、ストレートに尋ねる。
「この商業施設の仕事、どうしたい?」
「……やってみたいです」
少しの沈黙のあとで、咲亜矢は素直に答えた。
「自分の線が、いろんな人の目に触れる場所に並ぶっていうのは、やっぱり、心が揺れます。それに、生活も、もう少し楽にしたいですし」
「うん」
「ただ、紙月堂の仕事も、商店街の看板も、本当に減らしたいわけじゃないんです。夜中に、『あの店の看板は、ここが好き』って思い出すくらいには」
自分で言って照れたのか、咲亜矢はカップの縁を指先でなぞった。
「じゃあ、『ここからここまで』って線を引くしかないですね」
紗菜が、テーブルの上に「今日のここまでメモ」の小さな紙を一枚置いた。
「何に対して?」
「時間と枚数と、『自分の元気』に対して」
ペンを取り出し、紙の中央に一本の線を引く。
「まず、『夜の作業は何時まで』って決めませんか?」
「え、門限?」
「はい。自分の手首と背中に対する門限」
不思議な言い方だったが、咲亜矢は思わず笑った。
「……じゃあ、二十三時で」
「一時間早くしてみませんか」
悠之介が、横から口を挟む。
「今まで二十四時まで握ってたんだろ。ちょっと減らすなら、まず一時間」
「二十三時で、机からペンとペンタブのペンを全部離す」
紗菜が、メモにさらさらと書き込む。
「次に、『一週間に引く線の枚数の上限』」
「線の枚数?」
「看板やポスターの本数じゃなくて、『ラフから入稿まで仕上げる案件の数』ですね」
咲亜矢は、少し考えてから指を折り始めた。
「紙月堂と商店街の分で、だいたい週に三件。そこに商業施設のサインを加えるなら……」
「週に、何件なら『終わったあとに人間に戻れる』?」
「表現!」
突っ込みながらも、咲亜矢は、真剣に天井を見上げた。
「四件まで、ですかね。それ以上は、頭の中の線がごちゃごちゃになって、全部同じ顔になる気がします」
「じゃあ、『週四件まで』」
紗菜がメモに書き足す。
「そのうち一件は、紙月堂か商店街のどこかの看板で固定」
「固定?」
「ここを先に枠として押さえておけば、『大口が入ったから、小さな店の看板を後回し』っていう発想になりにくいです」
言われて、咲亜矢は、少し目を見開いた。
「……先に夜ご飯の時間を入れておく、みたいな」
「そうそう」
靖治が、うんうんと頷く。
「僕もタイムテーブル書いたとき、『睡眠先に塗れ』って言われました」
「睡眠と紙月堂が同じ扱いなの、ちょっと照れますね」
咲亜矢は、笑いながらも、どこかうれしそうだ。
「最後に、『一年後も続けていたいかどうか』の問い」
紗菜が、メモの下の方に一行足す。
「このサインの仕事を全力でやったあと、同じ働き方を一年続けたいかどうか」
「一年……」
咲亜矢は、スマホのカレンダーを思い浮かべた。そこにぎっしり書き込まれた納期の文字列を、想像上で倍速で流してみる。
途中で、手首がじんじんと熱を持つ感覚が蘇ってきた。
「無理です」
きっぱりと言い切った。
「半年もたないと思います。だから、『全部受けて、この働き方を一年続ける』は、ナシですね」
「じゃあ、『受け方を変える』か、『部分的にお断りする』か」
悠之介が、淡々とまとめる。
「例えば?」
「サインの種類を絞るとか。『館内の全部』じゃなくて、『入口の看板と、フロアマップだけ』とか」
「そんな都合のいいこと、言っていいんですかね」
「言うだけならタダです」
臣全が、真顔で言った。
「うちも、商店街の企画で、『ここまではできるけど、ここから先は別の人に頼む』って、よくやりますよ」
「そのとき、『できない』って言うより、『ここまでなら得意です』って言った方が、案外すんなり通るんですよね」
亜友が、トレーを抱えたまま話に加わった。
「羊羹も、『何本切ってください』って頼まれたとき、『一人で丁寧に切れる本数はここまでです』って先に言うと、皆さん納得してくれます」
「……そうか」
咲亜矢は、自分の膝の上で手を握りしめた。
「『全部できます』って顔をするのが、仕事だと思ってましたけど」
「『ここから先は、別の人の方がちゃんとできる』って線を引くのも、仕事じゃないですかね」
紗菜が、穏やかに言う。
「その線のおかげで、紙月堂も、楽になっているところがあると思います」
「例えば?」
「ポスターの枚数を『手首一本で運べる数』にしてくれたの、あれ」
悠之介が、即答した。
「こっちが頼む前に、『この枚数以上は別の印刷所にお願いした方がいいです』って言ってくれただろ」
「ああ、あれ」
あのときの自分の決断が、少し違う角度で返ってきた。
「じゃあ、今回も、『手首一本で持てる範囲』を決める、ってことですかね」
「そういうこと」
紗菜が笑う。
「このメモ、写メをとって、相手の担当者に相談してみたらどうでしょう。『全部は難しいけど、ここまでなら責任を持ってできます』って」
咲亜矢は、目の前の小さな紙を見下ろした。
そこには、「二十二時でペンを置く」「週四件まで」「うち一件は紙月堂・商店街用」「一年後も続けられる受け方にする」という、自分で書いた線が並んでいる。
「……これ、ただのメモなのに、急に怖くなってきました」
「怖いのは、『線を引く前』ですよ」
悠之介が、淡々と言った。
「一回引いたら、あとは『守るかどうか』だけだ」
「守れなかったら?」
「そのときは、またここで書き直せばいい」
カウンターの端には、いつもの「今日のここまでメモ」の束が積まれている。
「線って、二度引いたらいけないなんて決まり、どこにもないからな」
「……そうですね」
咲亜矢は、小さく笑った。
「じゃあ、宣言しておきます」
姿勢を正し、背筋を伸ばす。
「紙月堂と商店街の看板は、『週に一件は必ずやる枠』として先に押さえます。その代わり、商業施設の仕事は、『入口の看板とフロアマップだけ』に絞って相談してみます」
「よし」
臣全が、小さくガッツポーズをした。
「ビル一棟全部じゃなくても、入口と地図が咲亜矢さんの線なら、十分強いですよ」
「そうかな」
「入口で迷ってる人、みんな見ますからね、看板と地図」
靖治が、控えめに補足する。
「そこに名前は出ないかもしれないけど、『あの線、好きだな』って思う人、絶対います」
「……それ、うれしいですね」
咲亜矢の表情が、少しだけ柔らかくなった。
「じゃあ、これが私の線引きです」
テーブルの上のメモを、指先でとん、と軽く叩く。
「数は減らすけど、この店と商店街の仕事は続けます。たとえ大きな話が来ても、『ここまで』は手放さないって」
「その宣言、ノートに書いておきましょうか」
紗菜が、カウンターの奥から「ひと息メモ」のノートを持ってきた。
空いているページの端に、咲亜矢は短く書き込む。
『大きな看板が増えても、紙月堂のポスターは残す』
「うん。いいですね」
悠之介が、それをちらりと見て頷いた。
「これで、どれだけ忙しくなっても、『あのときそう言ったぞ』って、誰かがここで思い出せる」
「怖いような、心強いような」
咲亜矢は、苦笑しながらノートを閉じた。
「じゃあ、とりあえず今日は、ここまで」
窓の外を見ると、商店街のアーケードに、夕方の明かりが灯り始めていた。
「夜の作業は二十二時まで。……あ、宣言したからには、帰りにカフェイン少なめの飲み物買って帰らなきゃ」
「うちで、カフェイン少なめのまかない出しましょうか」
紗菜が、いたずらっぽく笑う。
「『線引き宣言した人限定ブレンド』とか」
「それ、名前だけでおなかいっぱいになりますね」
笑い声が、紙月堂の静かな空気を少しだけ揺らした。
家賃の返事は、やはりまだ届いていない。
それでも、今日一つだけはっきりしたのは、この店のポスターと看板を描く手が、「どこまでなら無理をしないか」という自分の線を決めた、ということだった。
マンションの一室。机の上には、ノートパソコンと液晶タブレット、飲みかけのマグカップが三つ。椅子には、ジャージ姿の咲亜矢が、片足を抱え込むように座っている。
「……よし。これで一枚」
画面の中で、商店街のポスター用データが保存の音を立てた。星見商店街のロゴと、紙月堂のイラスト。夕暮れ色のグラデーションの上に、「働く人のひと息時間」の文字が乗っている。
時刻は、すでに深夜一時を回っていた。
そこへ、パソコンの画面の隅に、小さな通知がぽん、と出た。
『件名:商業施設サイン計画のデザイン依頼のご相談』
「ん?」
咲亜矢は、眠気でぼんやりした目をこすりながら、メールを開いた。
都心の大型複合施設の運営会社からの依頼だった。リニューアルオープンに合わせて、館内の案内サインやフロアマップ、入口の大きな看板まで、一式のデザインを任せたいという。
『以前手がけていただいたポスターの色使いと線の印象が社内で好評で、ぜひご相談できればと考えております』
「……あー」
記憶のどこかに、確かにそんな仕事があった。フリーランスになりたての頃、知り合いのつてで受けた案件だ。あのときの担当者が、まだ覚えていてくれたらしい。
『内容:館内サイン40点前後、入口看板2種、フロアマップ3案』
『納期:一か月半後』
『予算:〇〇万円(税別)』
数字の部分だけ、やけにくっきりと目に飛び込んでくる。
「……この金額、手首何本分だろう」
思わず口から出たのは、寝ぼけた独り言だった。
家賃、光熱費、年金、保険。毎月の支出が頭の中を行進する。
これを全部受けたら、しばらくは生活の心配をせずに済むかもしれない。
ただし。
メールの下の方には、「できれば今後も継続的にお願いしたい」と添えられていた。
「今でも、紙月堂のポスターと、商店街の看板と、他の店のロゴで、だいぶ手首パンパンなんだけどなあ」
咲亜矢は、右手首をぐるぐる回した。
骨のきしむような感覚が、わずかに走る。
机の端には、少し前に医者からもらったサポーターが置かれていた。あまり頼りたくなくて、つい放置していたが、目に入るたびに、そこにある理由を思い出させてくる。
「全部受けたら、一か月半、紙月堂の仕事、夜中しか触れないな」
紙の切れ端を一枚引き寄せて、ざっと計算してみる。
サイン一つにかかる時間を、ラフから入稿データまででざっくり三時間だとする。四十点なら百二十時間。フロアマップと看板を入れれば、もっと増える。
「一日八時間として……」
寝不足の頭で掛け算をして、すぐにやめる。
「八時間も、毎日デザインだけに集中できるわけないし」
メールの文面をもう一度読み返す。
いい話なのは分かる。ここで大きな取引先を持てば、仕事の幅も広がるだろう。
でも、その間、紙月堂のポスターは? 商店街の小さな看板は? 「手首の在庫」をこれ以上削って、全部抱えることはできるのか。
机の端に置いてある、紙月堂のラフが目に入った。
来月から始める予定の「朝のひと息セット」の告知デザイン。コーヒーカップとノートのイラストに、まだ文字の配置が決まっていない。
「……紙月堂の分、減らすって選択肢もあるけど」
口に出してみると、その言葉は、自分の耳にだけ少し苦く響いた。
彼らの顔が浮かぶ。悠之介が、シャッターを半分だけ開けて帳簿に向かっている姿。紗菜が、同時に三つの段取りを頭の中で組み立てている横顔。臣全が、デザインの話になると、やたら身を乗り出してくるところ。
そして、家賃交渉の場で、「ポスターの枚数を減らしてでも、この店の看板は続けたい」と笑っていた自分の声も。
「……体は二つに増えないしなあ」
咲亜矢は、椅子の背もたれに体を預けた。
天井の蛍光灯を見上げる。目を閉じると、昼間の紙月堂の光景が浮かぶ。ガラス戸越しの商店街の人の流れ。カウンターの向こうで、コーヒーの香りがふわりと広がる瞬間。
「とりあえず、今日は寝よう」
決断だけが先送りされたまま、パソコンを閉じた。
机の上のマグカップは、一つだけ中身が半分残っていた。寝る前に飲むには、少し冷えすぎている。
◇
翌日。
昼過ぎの紙月堂の店内は、午前中の忙しさが一段落し、ゆるやかな時間が流れていた。
窓際の席では、スーツ姿の会社員が、「今日のここまでメモ」に何かを書き込んでいる。カウンター席には、ノートパソコンを開いている人が一人。全体的に、紙とキーボードの音が控えめに響いている。
そんな静けさの中、ガラス戸が勢いよく開いた。
「お邪魔します」
咲亜矢が片手で扉を押さえ、もう片方の手で、大きめの封筒を抱えている。いつもより少し動きがぎこちない。
「いらっしゃいませ。右手首、今日の在庫は?」
紗菜が、カウンター越しに冗談めかして声をかけた。
「三割減です」
咲亜矢は、苦笑しながら手首をさすった。
「今日は、相談に来ました」
「珍しいな。データ入稿の愚痴じゃなくて、相談?」
悠之介が、コーヒーマシンの前から顔を上げる。
「愚痴半分、相談半分です」
咲亜矢は、窓際の席に封筒を置き、イスに腰を下ろした。
「何かあった?」
臣全が、いつの間にか隣の席に陣取っている。手には、自分の店の新しいロゴ案が描かれたノート。
「昨日の夜、こんなメールが来まして」
咲亜矢は、スマホを取り出し、画面を三人の前に差し出した。
大型商業施設からのサイン計画の依頼。予算と納期。メールの文面を見た瞬間、臣全の目が露骨に輝く。
「うお……これ、全部やったら、ビル一棟に咲亜矢さんの線が溢れますよ」
「そんなホラー表現やめて」
「いや、いい意味で!」
臣全は、手をばたばたさせながら言い直した。
「でも、これ受けたら、かなり安心じゃないですか? 今後の仕事的にも」
「そう。安心、『だけ』なら」
咲亜矢は、スマホを伏せた。
「ただ、全部受けたら、たぶん紙月堂と商店街の仕事を減らさないと、手首どころか背中までダメになるんですよね」
「今でも、結構ギリギリなんですか?」
靖治が、お盆を持ったまま会話に加わる。運んでいたカップをテーブルにそっと置き、控えめにイスの端に座った。
「ギリギリ、でした。昨日の夜、タイムスケジュールを書いたら、寝る時間が、謎の自動削除に遭いまして」
「またタイムスケジュール……」
靖治の顔に、前回の「逃げ場のないシフト」の記憶がよぎる。
「紙に書くと、現実が寄ってくるんですよね。『ここ、埋まってませんけど?』って」
「で、どうするつもりなんだ?」
悠之介が、カウンターからコーヒーを一杯持ってきて、咲亜矢の前に置いた。
「全部受けるか、全部断るか。その二択じゃないはずだろ」
「二択にしちゃうと、分かりやすいんですけどね」
咲亜矢は、スプーンでコーヒーを一度だけかき混ぜた。
「『こっちを取るなら、あっちは捨てる』って」
「でも本当は、そんなきれいに切れる話じゃない」
紗菜が、隣の席に座り直す。
「このメンバー、だいたい皆そうじゃないですか。会社を辞めたけど、前の仕事のやり方を全部捨てたわけでもないし」
「それはそうだけど」
「で、本音は?」
悠之介が、ストレートに尋ねる。
「この商業施設の仕事、どうしたい?」
「……やってみたいです」
少しの沈黙のあとで、咲亜矢は素直に答えた。
「自分の線が、いろんな人の目に触れる場所に並ぶっていうのは、やっぱり、心が揺れます。それに、生活も、もう少し楽にしたいですし」
「うん」
「ただ、紙月堂の仕事も、商店街の看板も、本当に減らしたいわけじゃないんです。夜中に、『あの店の看板は、ここが好き』って思い出すくらいには」
自分で言って照れたのか、咲亜矢はカップの縁を指先でなぞった。
「じゃあ、『ここからここまで』って線を引くしかないですね」
紗菜が、テーブルの上に「今日のここまでメモ」の小さな紙を一枚置いた。
「何に対して?」
「時間と枚数と、『自分の元気』に対して」
ペンを取り出し、紙の中央に一本の線を引く。
「まず、『夜の作業は何時まで』って決めませんか?」
「え、門限?」
「はい。自分の手首と背中に対する門限」
不思議な言い方だったが、咲亜矢は思わず笑った。
「……じゃあ、二十三時で」
「一時間早くしてみませんか」
悠之介が、横から口を挟む。
「今まで二十四時まで握ってたんだろ。ちょっと減らすなら、まず一時間」
「二十三時で、机からペンとペンタブのペンを全部離す」
紗菜が、メモにさらさらと書き込む。
「次に、『一週間に引く線の枚数の上限』」
「線の枚数?」
「看板やポスターの本数じゃなくて、『ラフから入稿まで仕上げる案件の数』ですね」
咲亜矢は、少し考えてから指を折り始めた。
「紙月堂と商店街の分で、だいたい週に三件。そこに商業施設のサインを加えるなら……」
「週に、何件なら『終わったあとに人間に戻れる』?」
「表現!」
突っ込みながらも、咲亜矢は、真剣に天井を見上げた。
「四件まで、ですかね。それ以上は、頭の中の線がごちゃごちゃになって、全部同じ顔になる気がします」
「じゃあ、『週四件まで』」
紗菜がメモに書き足す。
「そのうち一件は、紙月堂か商店街のどこかの看板で固定」
「固定?」
「ここを先に枠として押さえておけば、『大口が入ったから、小さな店の看板を後回し』っていう発想になりにくいです」
言われて、咲亜矢は、少し目を見開いた。
「……先に夜ご飯の時間を入れておく、みたいな」
「そうそう」
靖治が、うんうんと頷く。
「僕もタイムテーブル書いたとき、『睡眠先に塗れ』って言われました」
「睡眠と紙月堂が同じ扱いなの、ちょっと照れますね」
咲亜矢は、笑いながらも、どこかうれしそうだ。
「最後に、『一年後も続けていたいかどうか』の問い」
紗菜が、メモの下の方に一行足す。
「このサインの仕事を全力でやったあと、同じ働き方を一年続けたいかどうか」
「一年……」
咲亜矢は、スマホのカレンダーを思い浮かべた。そこにぎっしり書き込まれた納期の文字列を、想像上で倍速で流してみる。
途中で、手首がじんじんと熱を持つ感覚が蘇ってきた。
「無理です」
きっぱりと言い切った。
「半年もたないと思います。だから、『全部受けて、この働き方を一年続ける』は、ナシですね」
「じゃあ、『受け方を変える』か、『部分的にお断りする』か」
悠之介が、淡々とまとめる。
「例えば?」
「サインの種類を絞るとか。『館内の全部』じゃなくて、『入口の看板と、フロアマップだけ』とか」
「そんな都合のいいこと、言っていいんですかね」
「言うだけならタダです」
臣全が、真顔で言った。
「うちも、商店街の企画で、『ここまではできるけど、ここから先は別の人に頼む』って、よくやりますよ」
「そのとき、『できない』って言うより、『ここまでなら得意です』って言った方が、案外すんなり通るんですよね」
亜友が、トレーを抱えたまま話に加わった。
「羊羹も、『何本切ってください』って頼まれたとき、『一人で丁寧に切れる本数はここまでです』って先に言うと、皆さん納得してくれます」
「……そうか」
咲亜矢は、自分の膝の上で手を握りしめた。
「『全部できます』って顔をするのが、仕事だと思ってましたけど」
「『ここから先は、別の人の方がちゃんとできる』って線を引くのも、仕事じゃないですかね」
紗菜が、穏やかに言う。
「その線のおかげで、紙月堂も、楽になっているところがあると思います」
「例えば?」
「ポスターの枚数を『手首一本で運べる数』にしてくれたの、あれ」
悠之介が、即答した。
「こっちが頼む前に、『この枚数以上は別の印刷所にお願いした方がいいです』って言ってくれただろ」
「ああ、あれ」
あのときの自分の決断が、少し違う角度で返ってきた。
「じゃあ、今回も、『手首一本で持てる範囲』を決める、ってことですかね」
「そういうこと」
紗菜が笑う。
「このメモ、写メをとって、相手の担当者に相談してみたらどうでしょう。『全部は難しいけど、ここまでなら責任を持ってできます』って」
咲亜矢は、目の前の小さな紙を見下ろした。
そこには、「二十二時でペンを置く」「週四件まで」「うち一件は紙月堂・商店街用」「一年後も続けられる受け方にする」という、自分で書いた線が並んでいる。
「……これ、ただのメモなのに、急に怖くなってきました」
「怖いのは、『線を引く前』ですよ」
悠之介が、淡々と言った。
「一回引いたら、あとは『守るかどうか』だけだ」
「守れなかったら?」
「そのときは、またここで書き直せばいい」
カウンターの端には、いつもの「今日のここまでメモ」の束が積まれている。
「線って、二度引いたらいけないなんて決まり、どこにもないからな」
「……そうですね」
咲亜矢は、小さく笑った。
「じゃあ、宣言しておきます」
姿勢を正し、背筋を伸ばす。
「紙月堂と商店街の看板は、『週に一件は必ずやる枠』として先に押さえます。その代わり、商業施設の仕事は、『入口の看板とフロアマップだけ』に絞って相談してみます」
「よし」
臣全が、小さくガッツポーズをした。
「ビル一棟全部じゃなくても、入口と地図が咲亜矢さんの線なら、十分強いですよ」
「そうかな」
「入口で迷ってる人、みんな見ますからね、看板と地図」
靖治が、控えめに補足する。
「そこに名前は出ないかもしれないけど、『あの線、好きだな』って思う人、絶対います」
「……それ、うれしいですね」
咲亜矢の表情が、少しだけ柔らかくなった。
「じゃあ、これが私の線引きです」
テーブルの上のメモを、指先でとん、と軽く叩く。
「数は減らすけど、この店と商店街の仕事は続けます。たとえ大きな話が来ても、『ここまで』は手放さないって」
「その宣言、ノートに書いておきましょうか」
紗菜が、カウンターの奥から「ひと息メモ」のノートを持ってきた。
空いているページの端に、咲亜矢は短く書き込む。
『大きな看板が増えても、紙月堂のポスターは残す』
「うん。いいですね」
悠之介が、それをちらりと見て頷いた。
「これで、どれだけ忙しくなっても、『あのときそう言ったぞ』って、誰かがここで思い出せる」
「怖いような、心強いような」
咲亜矢は、苦笑しながらノートを閉じた。
「じゃあ、とりあえず今日は、ここまで」
窓の外を見ると、商店街のアーケードに、夕方の明かりが灯り始めていた。
「夜の作業は二十二時まで。……あ、宣言したからには、帰りにカフェイン少なめの飲み物買って帰らなきゃ」
「うちで、カフェイン少なめのまかない出しましょうか」
紗菜が、いたずらっぽく笑う。
「『線引き宣言した人限定ブレンド』とか」
「それ、名前だけでおなかいっぱいになりますね」
笑い声が、紙月堂の静かな空気を少しだけ揺らした。
家賃の返事は、やはりまだ届いていない。
それでも、今日一つだけはっきりしたのは、この店のポスターと看板を描く手が、「どこまでなら無理をしないか」という自分の線を決めた、ということだった。
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彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。
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