昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店

乾為天女

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第26話 「辞める」と「続ける」の間

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 昼休みを少し過ぎた紙月堂は、静かなキーボードの音と、ページをめくる音だけが聞こえていた。


 ガラス戸が、控えめに「コトン」と鳴る。


 「いらっしゃいませ」


 悠之介が振り向くと、スクラブの上から薄いカーディガンを羽織った女性が立っていた。


 「こんにちは。……お久しぶりです」


 「佐倉さん」


 前に、夜勤明けの雨の日にここへ来た看護師だった。目の下のクマは少し薄くなったが、名札の位置も、少し俯きがちな視線も、あのときのままだ。


 「今日は、夜勤明け?」


 「いえ、日勤終わりです。夜は休みで」


 「じゃあ、カフェイン解禁ですね」


 その一言に、佐倉の表情がわずかに緩む。


 「……はい。お願いします」


 「長めに息がつけるやつ、淹れます」


 悠之介がカウンターに戻ると、紗菜がそっと席を示した。


 「前と同じ窓際、空いてます」


 「すみません、お邪魔します」


 バッグを置いて腰を下ろすと、アーケード越しの光が、テーブルの上に四角く落ちていた。


 ほどなくして、湯気の立つカップと、小さなメモ用紙とペンが置かれる。


 「今日は、『今日のここまでメモ』じゃなくて、『これからどうするかメモ』も一枚どうぞ」


 紗菜が言うと、佐倉は一瞬だけ目を瞬かせた。


 「……相談だって、分かります?」


 「ここに来る人の歩き方で、だいたい」


 冗談めかした声に、佐倉は苦笑する。


 「部署異動の話が出ていて」


 ようやく、その言葉がテーブルの上に置かれた。


 「異動?」


 「はい。今の病棟じゃなくて、外来と救急の間みたいな部署に行かないかって。患者さんの案内や調整が多いところで、『人の話を聞くのが得意だから』って言われました」


 一見、褒め言葉に聞こえる。


 けれど、佐倉の指先は、カップの取っ手をぎゅっとつかんだまま離れなかった。


 「同時に、『病棟には向いてないってことかな』って思ってしまって。前みたいに、話し込んじゃって記録が遅れたこともあったので」


 「期待」と「厄介払い」が、一緒に届いたんですね」


 紗菜の言葉に、佐倉は小さく頷く。


 「だったら、いっそ辞めた方がいいのかもしれない、とか。でも、辞めるのも怖いし、異動するのも怖いし、今のまま続けるのも怖くて」


 「怖いを三つ抱えてここまで来たの、十分がんばってますよ」


 紗菜は、そう言ってからカウンターの方をちらりと見た。


 「店長、例のファイル、出番です」


 「了解」


 悠之介は、レジ下の棚からクリアファイルを取り出した。


 「前にここで書いていった紙、覚えてます?」


 「……『遊んでる』って言われた日の、ですか」


 「それ」


 ファイルから一枚の紙がそっと引き出される。


 三本の縦線と、「遊んでる」「邪魔」「役に立ててない」の文字。その横には、小さな文字でぎっしりと書き込みが並んでいた。


 佐倉は、息を飲んだ。


 「残しておいてって言ったの、自分でしたね」


 「ここの一行、読んでみてもらえます?」


 悠之介が指差したところには、こう書いてあった。


 『患者さんと話していた時間は、「遊んでいた時間」ではなく、「不安を聞く時間」だった。記録が遅れたのは事実だが、それだけで自分の価値が決まるわけではない。』


 声に出して読むうちに、あの日の湿った空気が少しだけよみがえる。


 「……こんなこと、書いてたんですね、私」


 「書いてたんですよ」


 悠之介は、穏やかに言う。


 「全部自分のせいにしそうになりながら、ちゃんと分けてる」


 紙を見下ろしながら、佐倉は小さく息を吐いた。


 「異動の話を聞いたとき、これを思い出せてたらよかったのに」


 「じゃあ、今思い出せたので、ぎりぎりセーフです」


 紗菜が、メモ用紙を一枚、佐倉の前に滑らせた。


 「ここからは、『辞めるか続けるか』の前に、『一日どうなるか』を書いてみませんか」


 「一日……ですか?」


 「はい。左に『今の一日』、右に『異動後の想像上の一日』」


 縦に一本線が引かれ、左右に小さく文字が書き込まれる。


 「今の一日。起きる時間から寝る時間まで、ざっくりでいいので」


 「えっと、六時半に起きて、七時半に病院着で……」


 出勤、朝のケア、回診、検査の送迎、記録、申し送り。


 書いていくうちに、紙の左側はあっという間に埋まっていった。そこには、「立ち止まって話す時間」がほとんどない。


 「じゃあ、右側。聞いた範囲で、異動後の一日を想像してみてください」


 「患者さんの案内と、検査室とのやり取りと、救急から病棟への受け入れ連絡と……」


 電話と説明が増えそうな時間帯に、いくつも丸がついていく。


 「この中で、『息ができそうなところ』に印をつけてみてください」


 「息ができそうなところ……」


 佐倉は、ペン先で紙をたどる。


 「検査の合間に待っている人と話す時間とか、ご家族に流れを説明する時間とか」


 「つまり、どこに行っても、人の話を聞いているところに自分がいそうだと」


 「……そうなりそうです」


 「それは、悪い予感じゃないですよ」


 紗菜は、笑いを含ませながら言う。


 「紙月堂で言えば、『帳簿をつけながら話も聞ける人』みたいなもので」


 「店長のことですね、それ」


 「やめろ」


 悠之介が小さく咳払いする。


 「で、本題はここからです」


 紗菜は、紙の下の余白に、「辞める」「今のまま」「異動する」と小さく書いた。


 「今、頭の中でこの三つを、同じ天秤に一度に乗せてませんか」


 「……乗せてます」


 「その天秤、いったん机の上に置きましょう」


 「置く……」


 「『今すぐ辞めるかどうか』と、『異動の話をもう少し具体的に聞くかどうか』は、別の話です」


 そう言って、横に小さな矢印を三本描く。


 「ここに、『間』を作ります。『試してみる』『条件を確認する』『期限を決める』みたいな、小さい選択肢の箱」


 「小さい選択肢の箱……」


 「例えば、『異動した場合、夜勤はどうなるのか』『評価はどれくらいの期間でされるのか』『元の部署に戻る道はあるのか』」


 具体的な質問が、箇条書きで並んでいく。


 「この質問を持ったまま、もう一回話を聞きに行く。そこで出てきた答えを書き足してから、『辞める』か『異動する』かを考える。順番を、少し細かくするイメージです」


 佐倉は、紙を見つめながら、ゆっくり息を吐いた。


 「……一回で全部決めなくていいって言われると、それだけで少し楽になりますね」


 「一回で全部決める方が、ある意味楽なんですけどね」


 悠之介が、ぽつりと言う。


 「『もう全部やめた』って言ったら、しばらく考えなくて済むから。でも、そのあとで『あのときどうして』ってなるときの方が、きつい」


 「店長も、経験談ですか」


 「まあ、似たようなことは」


 それ以上は言葉を足さず、代わりにカウンターの上のノートを軽く叩いた。


 「じゃあ、この『間』の時間をどう使うか、今日のメモに書いてみましょうか」


 紗菜が、空いているスペースを指差す。


 佐倉は、ペンを握り直した。


 『異動の話をもう一度聞く。その前に質問を三つ紙に書いて持っていく。』


 短い一文だが、線はまっすぐだった。


 「この紙、どうします?」


 「質問を書いた方は、持って帰ります。『辞める』と『続ける』の間に矢印描いた方は……ここに置いておいてもいいですか」


 「店保管ですね」


 悠之介が、クリアファイルを開ける。


 「また振り出しに戻りそうになったら、見に来られるように」


 「もちろん」


 紙は、「相談ノート」の後ろの方に、そっと差し込まれた。


 「じゃあ、これも持って行ってください」


 いつの間にか亜友が現れ、小さな包みを差し出した。


 「今日は、『話してから決める日』用の飴です」


 「そんな日、あります?」


 「今日がそうです」


 包み紙には、小さな字で「話してから決める」と印刷されている。


 その文字を見て、佐倉は思わず笑った。


 「……ちゃんと話してから決めます」


 店を出るとき、ガラス戸の向こうで、悠之介と紗菜がクリアファイルを棚に戻しているのが見えた。


 星見商店街のアーケードには、夕方の灯りがつき始めている。


 「辞める」と「続ける」のちょうど間に、小さな寄り道の道が一本できたような気がして、佐倉は胸の中でそっと地図を折りたたんだ。
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