昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店

乾為天女

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第28話 夜の棚卸しと小さな決意

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 月末の紙月堂は、いつもより少しだけ閉店作業が長い。


 「本日の営業は終了しました」の札をガラス戸にさげて、照明を一段明るくする。レジの横には、在庫表を挟んだバインダーが二冊。カウンターの下には、空になった段ボールと、まだ閉じていない箱がいくつも積み上がっていた。


 「じゃあ、今月も始めますか。夜の『数える会』」


 悠之介が、ため息半分、覚悟半分の声で言う。


 「はい!」


 エプロンの紐を結び直した靖治が、小さく気合を入れた。


 「今月こそ、ゼロ個見落とし目標で」


 「その目標、毎月聞いてる気がするんだよな」


 そう言いつつも、悠之介は苦笑を浮かべる。


 棚卸しの夜は、たいてい二人きりだ。


 紗菜は明日の仕入れのメール対応で奥の席。亜友は、羊羹の片付けを終えてすでに帰宅した。商店街のアーケードには、ぽつぽつと残業帰りの足音が響くだけだ。


 「じゃ、まずは豆からいこう。焙煎済みの分、棚に出てるのとストックで」


 「了解です」


 靖治は、棚の前にしゃがみ込み、小さな袋のラベルを一つずつ指でなぞりながら数えていく。


 「深煎りブレンド、表が……一、二、三、四。中煎りが……」


 「声に出すと混乱しないか?」


 「出さないと、逆に不安になるタイプなんですよね」


 「分かる気はする」


 レジ横では、悠之介がバインダーの表をめくり、手書きの数字と見比べる。


 カチカチというペンの音と、ビニールの擦れる音が、閉店後の静けさに小さく重なっていった。


 しばらくして、カウンターの奥から紗菜の声が飛ぶ。


 「お二人とも、水分補給は忘れずに」


 「はーい」


 「了解です」


 返事だけは元気よく響く。


 十分ほど経ったころ、靖治が、小さな豆袋を抱えたまま首をかしげた。


 「店長、この『限定ブレンド』、在庫表の名前とちょっと違います」


 「どれどれ」


 悠之介が近づいて袋を受け取る。


 「『夜ふかし読書ブレンド』……ああ、それ、前に『夜更かし』って書いてたやつだ。途中で漢字に違和感があってひらがなに直した」


 「細かいところにこだわりますよね」


 「眠くても読める店名にしたかったんだよ」


 「あ、それは分かります」


 そんな細かいやり取りも、棚卸しの夜の一部だ。


 豆の袋がひと段落すると、今度はノートと文具の棚に移る。


 「ノート、増えましたね」


 靖治が、棚の端から端まで視線を滑らせる。


 「無地、方眼、ドット方眼、日付入り、日付なし……」


 「最近、日付入りの需要はあるんだよな」


 「予定を埋めるのが楽しくなる系ですね」


 「その割に、店の予定表は誰も埋めたがらない」


 悠之介が、カウンターの奥のホワイトボードをちらりと見る。


 仕入れの日とゴミ出しの日と、家賃の振り込み日だけが、きっちりと書かれている。その横には、誰かのいたずら書きで「シャッター修理の神、降臨希望」という文字もあった。


 「家賃って、来月分もう振り込みました?」


 「聞きたくないことをさらっと聞いてくるな」


 「いや、単純にカレンダー見てて」


 靖治が、気まずそうに笑う。


 「交渉の返事、まだなんですよね」


 「まだだな」


 悠之介は、豆の個数を書き込んだ表の端に、小さく印をつけた。


 「『今月の棚卸しまでに来たらラッキー』くらいには思ってたけど、まあ、そんなに都合よくはいかない」


 「……怖くないですか」


 ノートの数を数えながら、靖治がふいに口を開いた。


 「もし、家賃がめちゃくちゃ上がったら」


 「怖いよ」


 即答だった。


 「帳簿見るたびに、胃のあたりが変な形になる」


 冗談めかした言い方だったが、笑いは混じっていなかった。


 「でも、怖いからって、棚卸しサボったら、余計に何も分からなくなるだろ」


 「それは、たしかに」


 「数字くらいは、自分の手で見ておきたいんだよ」


 悠之介は、ノートの棚に目をやる。


 「この棚のノート、どれがどれだけ売れて、どれが全然動いてないか。そういうの、家賃の数字と同じくらい、ちゃんと見ておきたい」


 「僕、この『一ページだけ方眼ノート』、好きです」


 靖治が、一冊をそっと取り出した。


 「最初のページだけマス目があって、あとは全部自由っていうやつ」


 「それ、学生に人気なんだよな。最初のページにやること書いて、残りを日記にしたり」


 「僕は、最初のページに『今月のお金の使い方』書いて、残りに授業の愚痴書いてます」


 「用途の差」


 悠之介が、思わず吹き出した。


 「愚痴を書くために、わざわざここでノート買ってくれてるのか」


 「ここ以外で授業の愚痴書いたら、なんか負けた気がして」


 「何に対しての勝負なんだ」


 「分かんないです。でも、授業でへこんだ日も、ここに寄ってノート見てると、『もう一回だけ頑張るか』って気になるので」


 靖治は、ノートをそっと棚に戻した。


 「だから、その……」


 言いかけて、言葉を飲み込む。


 豆の袋を数えるときよりも、少しだけ深く息を吸ってから、もう一度口を開いた。


 「もし、この店がなくなったら、授業の愚痴言う場所、なくなっちゃうなって」


 棚と棚の間の空気が、少しだけ重くなる。


 「家で言えばいいのかもしれないですけど、家にはあんまり持ち込みたくなくて」


 ノートの背表紙を、指先でとんとんと軽く叩いた。


 「コンビニの休憩室で言うのも違うし、大学の友達には言いすぎるとただの『文句ばっかりのやつ』になるし」


 「だから、紙月堂に持ってきてると」


 「はい。ここなら、『今日のここまでメモ』に書いて、帰るときにはカウンターに置いていけるので」


 靖治は、しまった、という顔をした。


 「……すみません。プレッシャーになること、言いました」


 「プレッシャーにはなるな」


 悠之介は、正直に答えた。


 「でも、店をやるって、大なり小なりそういうことだろ」


 靖治が、顔を上げる。


 「『ここがなくなったら困る』って言う人がいるからこそ、家賃の数字も気になって、棚卸しもサボれない」


 「……」


 「だから、ありがとう」


 その一言に、靖治は目を瞬かせた。


 「え?」


 「授業の愚痴でも、バイトの愚痴でも、『ここに置いてく』って決めてくれてること自体が、この店の役割の一つなんだって、思えるから」


 悠之介は、ノートの棚の端を軽く叩いた。


 「簡単には閉めないよ」


 それは、ぼそっとした独り言ではなく、相手に向けた、短い宣言だった。


 「『絶対に』って言い切れるほど、世の中甘くないのは知ってる。でも、少なくとも、『あ、ちょっとしんどいからもうやめるわ』って扉を静かに閉める、みたいな終わり方はしない」


 その言葉は、棚の間の空気にすとんと落ちて、静かに広がった。


 「……ずるいですね」


 靖治が、小さく笑う。


 「そんなふうに言われたら、『じゃあ棚卸し手伝います』って、毎月勝手に来たくなるじゃないですか」


 「来てくれれば助かる」


 悠之介も、ようやく口元を緩めた。


 「家賃の話だって、交渉がこじれたら、また商店街全体で考えるだろうし。『ここを残したい』って言ってくれる人がいる限り、こっちも簡単には諦めない」


 「……じゃあ、僕も、『簡単には投げ出さない側』に入っていいですか」


 「何を?」


 「授業と、この店の掃除と、棚卸しと、あと、店長が一人で抱え込んじゃいそうなことの一部」


 自分で言って、少し照れたように頭をかいた。


 「全部は無理かもしれないですけど、『今日のここまでメモ』の裏側で、『今日の手伝えることメモ』も書こうかなって」


 「それ、いいな」


 悠之介が、心底うれしそうに笑った。


 「じゃあ今夜は、まず『段ボールを畳む係』を任命しよう」


 「任命、いただきました」


 靖治は、敬礼の真似をしてみせると、カウンターの下からカッターとガムテープを引っ張り出した。


 「来月も、棚卸しの日は空けておきます。もし予定が合わなかったら、そのときはちゃんと『行けません』って言うので」


 「『がんばれば行けるかも』は禁止な」


 「はい。靖治、断る練習済みなので」


 二人の会話に、奥から小さな笑い声が飛んできた。


 「いいですねえ、『簡単には閉めない』と『簡単には投げ出さない』」


 いつの間にか、紗菜が奥の席から近づいてきていた。


 「じゃあ、私は『簡単には帳簿をさぼらない』を宣言しておきます」


 「それ、一番大事なやつ」


 悠之介が、思わず即答する。


 「あとで、『今日のここまでメモ』に書いておきましょうか」


 「書いといてくれ」


 「じゃあ、一行で」


 紗菜は、レジ横のノートを開くと、さらさらとペンを走らせた。


 『簡単には閉めない。簡単には投げ出さない。簡単に一人で抱え込まない。』


 「三つ目、勝手に足しました」


 「耳が痛いけど、合ってる」


 ページを見て、悠之介は、少しだけ肩の力を抜いた。


 時計を見ると、そろそろ終電が気になる時間だ。


 「よし、今夜の『数える会』は、ここまでにしよう」


 「あと段ボール三つ分なら、僕、畳んで帰ります」


 「助かる」


 シャッターの向こう側では、商店街の街灯が、変わらない明るさで道を照らしている。


 家賃の返事はまだ来ない。


 それでも、棚の上のノートと豆の袋と、カウンターの奥の小さなメモには、「この店を残したい」と思っている人たちの気配が、確かに積み重なっていた。
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