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第29話 家賃交渉の結果
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ポストの中に、その茶色い封筒が差さっているのを見つけたのは、開店準備の途中だった。
シャッターを半分だけ上げたところで、悠之介はいつものようにポストをのぞいた。チラシと請求書の束の中に、見慣れた差出人の印字がある。
「……来たな」
小さくつぶやいた声を、隣で看板を出していた靖治が聞き逃さなかった。
「それって、もしかして」
「多分、例のやつ」
悠之介は、封筒を持った手に余計な力が入るのを感じながら、カウンターの中に戻った。
まだ照明を落としている店内には、コーヒーの香りと、焙煎済みの豆の袋が擦れる音だけが漂っている。奥のテーブルでは、紗菜が開店前のメールを確認していた。
「来ました?」
顔を上げた紗菜の視線が、自然と悠之介の手元に落ちる。
「うん。……今、開ける」
封筒の角が、指先の汗で少し柔らかくなっていた。悠之介は、一度だけ深呼吸をしてから、慎重に封を切る。
中から出てきたのは、きちんとしたフォーマットの書類と、短い手書きのメモだった。
『紙月堂様
先日はお時間をいただきありがとうございました。家賃の件につきまして、当初のご提案から条件を見直しました。』
活字の行を追ううちに、喉が乾いていく。
「どうでした?」
靖治が、カウンター越しに身を乗り出す。
悠之介は、数字が並んだ段落に目を止めた。
「……上がるのは、変わらない」
「ですよね」
「ただし」
そこで、言葉の調子が少し変わる。
「当初の提示の、三分の二くらいになってる」
店内の空気が、わずかに揺れた。
「三分の二?」
靖治が、すぐに頭の中で計算を始める。
「じゃあ、最初に聞いた額より……えっと……」
「月に、ちょうど一袋分くらいだな」
悠之介は、豆の仕入れの金額を基準に、ざっくりと換算する。
「深煎りブレンドを何袋追加で売れば埋まるか、って計算でいくと、ギリギリ現実的なラインになってる」
数字だけを見れば、「なんとかなるかもしれない」と言える範囲だ。
「それから、『今後三年間は、これ以上の値上げは行わない予定です』って書いてある」
「予定、なんですね」
紗菜が、文面をのぞき込む。
「『契約上の確約ではありませんが』って一行添えられてるな。そこは正直に書いてくれてる」
最後に、手書きのメモ。
『商店街のことを考えてくださってありがとうございます。
紙月堂さんの灯りが、私にとっても夕方の目印になっています。』
文字の形から、年配の大家の姿がぼんやり浮かぶ。
「……目印、か」
思わず、ガラス戸の向こうを振り返る。
星見商店街のアーケードには、朝の光がまだ白く差し込んでいる。夕方の風景を想像すると、紙月堂の灯りが、どこか遠くにいる誰かの「帰り道の印」になっている光景が、ほんの少しだけリアルに思えた。
「店長」
沈黙を破ったのは、紗菜だった。
「まずは一回、喜びませんか」
「……そうだな」
じわじわと胸の奥に広がっていた緊張が、少しだけ形を変える。
「交渉前より上がるのは事実だけど、『話した分だけ、ちゃんと揺れてくれた』ってことだし」
「大家さん、『話せば分かる』タイプでしたね」
靖治が、ほっとしたように笑う。
「『分かってもらえた』って決めるのはまだ早いけどな」
悠之介は、少し照れくさそうに頭をかいた。
「でも、『話してよかった』までは、胸張って言える」
「じゃあ、それ、今日のここまでメモの一行目に決定ですね」
紗菜が、「本日のメモ」ノートをパタンと開いた。
『話してよかったところまで、たどり着いた。』
さらさらと書かれた文字を見て、靖治が拍手をする。
「わー、よかったー!」
開店前の静かな店内に、少し大げさな歓声が響いた。
「ちょっと、まだお客さん入ってないからって」
「今くらいしか大声出せないですし」
そんなやり取りも含めて、店の空気が少し軽くなる。
◇
朝のピークを越えたころ、カウンターの上には、家賃の書類と、一冊のノートが並んでいた。
紗菜が、ペンを手にじっと数字とにらめっこしている。
「三か月分、試算してみましょう」
「三か月?」
「はい。『この条件で続ける』ための、具体的な数字を一回ここに出しておきたいので」
ノートの見開きに、三つの縦の区切り線が引かれていく。上には小さく、「一か月目」「二か月目」「三か月目」と書かれた。
「まず、固定費」
家賃、光熱費、仕入れの最低ライン。以前から使っている数字を写し取りながら、今回の家賃の新しい額を上書きする。
「次に、売上の目標」
「そこが、一番胃に来るところだな」
悠之介が、カウンターの中からそっと覗き込む。
「これまでと同じやり方でいくなら、『ちょっと頑張れば届くライン』を目標にしたい」
「『がんばれば』って、靖治くん禁止ワードになりましたけど」
「店に関しても、危険ワードかもしれない」
それでも、どこかに線を引かなければいけない。
紗菜は、過去三か月分の売上ノートをめくりながら、数字を拾い出していく。
「この三か月の平均から、少しだけ上乗せした値を、『新しい家賃でやっていくための目安』にしましょうか」
「少しだけって、どれくらい?」
「まずは、平日一日あたり、ノートが二冊多く動くくらい」
「具体的だな」
「豆の方は、深煎りブレンドが週に三袋分」
「……やれなくはない気がしてきた」
悠之介の表情が、少しだけ柔らかくなる。
「でも、単純に『数増やせ』って話にすると、店の空気が変わりそうなので」
紗菜は、ペン先でノートを軽く叩いた。
「『一人あたりの滞在時間を伸ばしたいわけじゃない』って、自分たちに言い聞かせておきたいです」
「短くても長くても、その人の『今日のここまで』にちゃんと合ってる時間でいてくれたらいい、ってやつな」
「はい」
ノートの端に、小さな文字が一行増える。
『売上目標は、「長くいさせる」のではなく、「来たいと思ってもらう回数を増やす」方向で考える。』
「つまり、宣伝ですかね」
タイミングよく現れた臣全が、デザインの資料を抱えてカウンターに寄ってきた。
「チラシ増刷とか、商店街の地図の改訂版とか」
「お、ちょうどいいところに」
悠之介が、家賃の書類をちらりと見せる。
「家賃、当初の案よりは下がった。けど、上がるのは上がる。で、三か月分の試算を今やってるところ」
「おお、それは、ポスター燃やして手を温めるわけにはいかない案件ですね」
「ポスターは燃やさない」
「うちの紙、結構燃えやす……いえ、何でもないです」
余計なことを言いかけて、臣全が慌てて口をつぐんだ。
「ポスター、増やす方向で相談していいですよ」
紗菜が、冗談混じりに言う。
「ただし、『紙月堂が息切れしない枚数』で」
「手首の在庫と相談しながら、ですね」
咲亜矢の言葉が、ここでまた引用される。
「『今月は、この枚数なら大丈夫』っていう上限を決めた上で、『どこに貼ると、一番紙月堂らしいか』を考えたいです」
「じゃあ、『星見商店街ミニマップ』の次の改訂で、紙月堂の説明文、ちょっとだけ変えません?」
臣全が、自分のノートを開いた。
「今、『ノートと珈琲の店』って書いてあるんですけど、『今日のここまでを書きに来る店』って一行足すとか」
「長いな」
「でも、伝わりません?」
靖治が、さっそく乗ってくる。
「『勉強カフェ』とか『作業スペース』って書くと、なんか頑張らなきゃいけない感じがするので」
「『今日のここまで』なら、サボりに来ても許されそうですね」
亜友が、いつの間にか羊羹とお茶を持って現れている。
「『今日はここまで』って言いに来る場所としての顔も、大事にしたいですし」
「……そうだな」
悠之介は、ノートの数字と、テーブルの上の羊羹を交互に見ながら考えた。
「家賃の数字に合わせて、『もっと頑張れ』って空気ばかり作るのは、店の性格に合わない気がする」
「あくまで、『続けるための条件』を数字で確認するだけ」
紗菜が、改めて言葉をまとめる。
「そのうえで、『どう頑張るか』は、できるだけ店らしく、具体的に」
「具体的に、とは」
「例えば、『試し読み用のノート』をもう一種類増やすとか」
紗菜は、カウンターの端に置いてある、小さなノートを指さした。
「今は、一冊だけ、誰でも一行書けるノートを置いていますけど、『仕事で使う用』『勉強で使う用』『ただぼんやりする用』みたいに、用途別に置いてみるとか」
「用途別のぼんやり?」
「はい」
その瞬間、店内に笑いが広がる。
「『ただぼんやりする用』のノートに、『会社行きたくない』って十行くらい書かれてそうですね」
「『授業行きたくない』も並びますね」
靖治も、すぐに想像を膨らませる。
「でも、そういう一行一行が、『ここに置いていけた』って感覚につながるなら」
紗菜は、ノートの空白に視線を落とした。
「それは、家賃の数字には直接出ないけれど、『続ける意味』にはきっと含まれると思うんです」
沈黙が、ひと呼吸だけ落ちる。
「……じゃあ、決めようか」
悠之介が、家賃の書類をもう一度持ち上げた。
「この条件で、やってみる」
短い言葉だったが、そこには、迷いと一緒に通ってきた時間の重さが乗っていた。
「『三か月試してみる』って言い方は、ちょっと違う気がする」
「ですね」
「『まず三か月分、具体的にどう動くかを決める』ってことにしよう」
その言葉に、紗菜は深く頷いた。
「では、その三か月の『動き方』を、今日のうちにノートに書き出しておきます」
さきほど引いた三つの縦線の下に、さらに細かい箇条書きが増えていく。
『一か月目:試し書きノートを用途別に三冊用意する。』
『二か月目:商店街ミニマップの改訂版を配布開始。』
『三か月目:空き店舗の動きと合わせて、「星見商店街の灯りツアー」案内を試しに作ってみる。』
「ツアー?」
靖治が、目を丸くする。
「ツアーっていうほど大きなものじゃなくて、『夕方、ここからここまで歩くと、心が少し落ち着くルート』の地図ですね」
紗菜が、少しだけ照れくさそうに言う。
「紙月堂から始まって、亜友堂、惣菜屋さん、時計屋さん跡地、っていうふうに」
「チェックポイントに羊羹が入っている時点で、いいツアーです」
亜友が、満足げに頷く。
「そういう小さなアイデアを、三か月に一個ずつ試す。そのうえで、『家賃が上がっても続けたい』って胸を張って言えるかどうか、またノートを見ながら話しましょう」
紗菜の提案に、全員が「はい」と答えた。
◇
閉店間際。
「本日の営業は終了しました」の札を裏返したあと、悠之介は「今日のここまでメモ」のノートを開いた。
昼間に書いた一行の下に、ペンを走らせる。
『話してよかったところまで、たどり着いた。
この条件で、三か月分の動き方を決めてみる。』
「……よし」
小さくうなずいてノートを閉じると、ガラス戸の向こうには、いつものように商店街の街灯が灯っていた。
家賃の数字は、明日から確かに重くなる。けれど、その数字の横には、「続けるための条件」という、自分たちで書いた文字も並んでいる。
紙月堂の灯りは、今日も天井から静かに降りている。
それが、大家にとっての「帰り道の目印」であり、誰かの「今日のここまで」の行き先でもあることを確かめながら、店の奥で、静かに一日の終わりの珈琲が淹れられた。
シャッターを半分だけ上げたところで、悠之介はいつものようにポストをのぞいた。チラシと請求書の束の中に、見慣れた差出人の印字がある。
「……来たな」
小さくつぶやいた声を、隣で看板を出していた靖治が聞き逃さなかった。
「それって、もしかして」
「多分、例のやつ」
悠之介は、封筒を持った手に余計な力が入るのを感じながら、カウンターの中に戻った。
まだ照明を落としている店内には、コーヒーの香りと、焙煎済みの豆の袋が擦れる音だけが漂っている。奥のテーブルでは、紗菜が開店前のメールを確認していた。
「来ました?」
顔を上げた紗菜の視線が、自然と悠之介の手元に落ちる。
「うん。……今、開ける」
封筒の角が、指先の汗で少し柔らかくなっていた。悠之介は、一度だけ深呼吸をしてから、慎重に封を切る。
中から出てきたのは、きちんとしたフォーマットの書類と、短い手書きのメモだった。
『紙月堂様
先日はお時間をいただきありがとうございました。家賃の件につきまして、当初のご提案から条件を見直しました。』
活字の行を追ううちに、喉が乾いていく。
「どうでした?」
靖治が、カウンター越しに身を乗り出す。
悠之介は、数字が並んだ段落に目を止めた。
「……上がるのは、変わらない」
「ですよね」
「ただし」
そこで、言葉の調子が少し変わる。
「当初の提示の、三分の二くらいになってる」
店内の空気が、わずかに揺れた。
「三分の二?」
靖治が、すぐに頭の中で計算を始める。
「じゃあ、最初に聞いた額より……えっと……」
「月に、ちょうど一袋分くらいだな」
悠之介は、豆の仕入れの金額を基準に、ざっくりと換算する。
「深煎りブレンドを何袋追加で売れば埋まるか、って計算でいくと、ギリギリ現実的なラインになってる」
数字だけを見れば、「なんとかなるかもしれない」と言える範囲だ。
「それから、『今後三年間は、これ以上の値上げは行わない予定です』って書いてある」
「予定、なんですね」
紗菜が、文面をのぞき込む。
「『契約上の確約ではありませんが』って一行添えられてるな。そこは正直に書いてくれてる」
最後に、手書きのメモ。
『商店街のことを考えてくださってありがとうございます。
紙月堂さんの灯りが、私にとっても夕方の目印になっています。』
文字の形から、年配の大家の姿がぼんやり浮かぶ。
「……目印、か」
思わず、ガラス戸の向こうを振り返る。
星見商店街のアーケードには、朝の光がまだ白く差し込んでいる。夕方の風景を想像すると、紙月堂の灯りが、どこか遠くにいる誰かの「帰り道の印」になっている光景が、ほんの少しだけリアルに思えた。
「店長」
沈黙を破ったのは、紗菜だった。
「まずは一回、喜びませんか」
「……そうだな」
じわじわと胸の奥に広がっていた緊張が、少しだけ形を変える。
「交渉前より上がるのは事実だけど、『話した分だけ、ちゃんと揺れてくれた』ってことだし」
「大家さん、『話せば分かる』タイプでしたね」
靖治が、ほっとしたように笑う。
「『分かってもらえた』って決めるのはまだ早いけどな」
悠之介は、少し照れくさそうに頭をかいた。
「でも、『話してよかった』までは、胸張って言える」
「じゃあ、それ、今日のここまでメモの一行目に決定ですね」
紗菜が、「本日のメモ」ノートをパタンと開いた。
『話してよかったところまで、たどり着いた。』
さらさらと書かれた文字を見て、靖治が拍手をする。
「わー、よかったー!」
開店前の静かな店内に、少し大げさな歓声が響いた。
「ちょっと、まだお客さん入ってないからって」
「今くらいしか大声出せないですし」
そんなやり取りも含めて、店の空気が少し軽くなる。
◇
朝のピークを越えたころ、カウンターの上には、家賃の書類と、一冊のノートが並んでいた。
紗菜が、ペンを手にじっと数字とにらめっこしている。
「三か月分、試算してみましょう」
「三か月?」
「はい。『この条件で続ける』ための、具体的な数字を一回ここに出しておきたいので」
ノートの見開きに、三つの縦の区切り線が引かれていく。上には小さく、「一か月目」「二か月目」「三か月目」と書かれた。
「まず、固定費」
家賃、光熱費、仕入れの最低ライン。以前から使っている数字を写し取りながら、今回の家賃の新しい額を上書きする。
「次に、売上の目標」
「そこが、一番胃に来るところだな」
悠之介が、カウンターの中からそっと覗き込む。
「これまでと同じやり方でいくなら、『ちょっと頑張れば届くライン』を目標にしたい」
「『がんばれば』って、靖治くん禁止ワードになりましたけど」
「店に関しても、危険ワードかもしれない」
それでも、どこかに線を引かなければいけない。
紗菜は、過去三か月分の売上ノートをめくりながら、数字を拾い出していく。
「この三か月の平均から、少しだけ上乗せした値を、『新しい家賃でやっていくための目安』にしましょうか」
「少しだけって、どれくらい?」
「まずは、平日一日あたり、ノートが二冊多く動くくらい」
「具体的だな」
「豆の方は、深煎りブレンドが週に三袋分」
「……やれなくはない気がしてきた」
悠之介の表情が、少しだけ柔らかくなる。
「でも、単純に『数増やせ』って話にすると、店の空気が変わりそうなので」
紗菜は、ペン先でノートを軽く叩いた。
「『一人あたりの滞在時間を伸ばしたいわけじゃない』って、自分たちに言い聞かせておきたいです」
「短くても長くても、その人の『今日のここまで』にちゃんと合ってる時間でいてくれたらいい、ってやつな」
「はい」
ノートの端に、小さな文字が一行増える。
『売上目標は、「長くいさせる」のではなく、「来たいと思ってもらう回数を増やす」方向で考える。』
「つまり、宣伝ですかね」
タイミングよく現れた臣全が、デザインの資料を抱えてカウンターに寄ってきた。
「チラシ増刷とか、商店街の地図の改訂版とか」
「お、ちょうどいいところに」
悠之介が、家賃の書類をちらりと見せる。
「家賃、当初の案よりは下がった。けど、上がるのは上がる。で、三か月分の試算を今やってるところ」
「おお、それは、ポスター燃やして手を温めるわけにはいかない案件ですね」
「ポスターは燃やさない」
「うちの紙、結構燃えやす……いえ、何でもないです」
余計なことを言いかけて、臣全が慌てて口をつぐんだ。
「ポスター、増やす方向で相談していいですよ」
紗菜が、冗談混じりに言う。
「ただし、『紙月堂が息切れしない枚数』で」
「手首の在庫と相談しながら、ですね」
咲亜矢の言葉が、ここでまた引用される。
「『今月は、この枚数なら大丈夫』っていう上限を決めた上で、『どこに貼ると、一番紙月堂らしいか』を考えたいです」
「じゃあ、『星見商店街ミニマップ』の次の改訂で、紙月堂の説明文、ちょっとだけ変えません?」
臣全が、自分のノートを開いた。
「今、『ノートと珈琲の店』って書いてあるんですけど、『今日のここまでを書きに来る店』って一行足すとか」
「長いな」
「でも、伝わりません?」
靖治が、さっそく乗ってくる。
「『勉強カフェ』とか『作業スペース』って書くと、なんか頑張らなきゃいけない感じがするので」
「『今日のここまで』なら、サボりに来ても許されそうですね」
亜友が、いつの間にか羊羹とお茶を持って現れている。
「『今日はここまで』って言いに来る場所としての顔も、大事にしたいですし」
「……そうだな」
悠之介は、ノートの数字と、テーブルの上の羊羹を交互に見ながら考えた。
「家賃の数字に合わせて、『もっと頑張れ』って空気ばかり作るのは、店の性格に合わない気がする」
「あくまで、『続けるための条件』を数字で確認するだけ」
紗菜が、改めて言葉をまとめる。
「そのうえで、『どう頑張るか』は、できるだけ店らしく、具体的に」
「具体的に、とは」
「例えば、『試し読み用のノート』をもう一種類増やすとか」
紗菜は、カウンターの端に置いてある、小さなノートを指さした。
「今は、一冊だけ、誰でも一行書けるノートを置いていますけど、『仕事で使う用』『勉強で使う用』『ただぼんやりする用』みたいに、用途別に置いてみるとか」
「用途別のぼんやり?」
「はい」
その瞬間、店内に笑いが広がる。
「『ただぼんやりする用』のノートに、『会社行きたくない』って十行くらい書かれてそうですね」
「『授業行きたくない』も並びますね」
靖治も、すぐに想像を膨らませる。
「でも、そういう一行一行が、『ここに置いていけた』って感覚につながるなら」
紗菜は、ノートの空白に視線を落とした。
「それは、家賃の数字には直接出ないけれど、『続ける意味』にはきっと含まれると思うんです」
沈黙が、ひと呼吸だけ落ちる。
「……じゃあ、決めようか」
悠之介が、家賃の書類をもう一度持ち上げた。
「この条件で、やってみる」
短い言葉だったが、そこには、迷いと一緒に通ってきた時間の重さが乗っていた。
「『三か月試してみる』って言い方は、ちょっと違う気がする」
「ですね」
「『まず三か月分、具体的にどう動くかを決める』ってことにしよう」
その言葉に、紗菜は深く頷いた。
「では、その三か月の『動き方』を、今日のうちにノートに書き出しておきます」
さきほど引いた三つの縦線の下に、さらに細かい箇条書きが増えていく。
『一か月目:試し書きノートを用途別に三冊用意する。』
『二か月目:商店街ミニマップの改訂版を配布開始。』
『三か月目:空き店舗の動きと合わせて、「星見商店街の灯りツアー」案内を試しに作ってみる。』
「ツアー?」
靖治が、目を丸くする。
「ツアーっていうほど大きなものじゃなくて、『夕方、ここからここまで歩くと、心が少し落ち着くルート』の地図ですね」
紗菜が、少しだけ照れくさそうに言う。
「紙月堂から始まって、亜友堂、惣菜屋さん、時計屋さん跡地、っていうふうに」
「チェックポイントに羊羹が入っている時点で、いいツアーです」
亜友が、満足げに頷く。
「そういう小さなアイデアを、三か月に一個ずつ試す。そのうえで、『家賃が上がっても続けたい』って胸を張って言えるかどうか、またノートを見ながら話しましょう」
紗菜の提案に、全員が「はい」と答えた。
◇
閉店間際。
「本日の営業は終了しました」の札を裏返したあと、悠之介は「今日のここまでメモ」のノートを開いた。
昼間に書いた一行の下に、ペンを走らせる。
『話してよかったところまで、たどり着いた。
この条件で、三か月分の動き方を決めてみる。』
「……よし」
小さくうなずいてノートを閉じると、ガラス戸の向こうには、いつものように商店街の街灯が灯っていた。
家賃の数字は、明日から確かに重くなる。けれど、その数字の横には、「続けるための条件」という、自分たちで書いた文字も並んでいる。
紙月堂の灯りは、今日も天井から静かに降りている。
それが、大家にとっての「帰り道の目印」であり、誰かの「今日のここまで」の行き先でもあることを確かめながら、店の奥で、静かに一日の終わりの珈琲が淹れられた。
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