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第31話 就活生たちの午後
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春先の午後の光は、冬の名残と新学期の気配をいっぺんに運んでくる。
星見商店街のアーケードにも、淡い日差しがすべり込んでいた。コートを着るべきか迷ったままの人たちが、マフラーを首にかけたり腕にひっかけたりしながら行き来している。
紙月堂のガラス戸の横には、今日も小さな札が下がっていた。
『今日の相談タイム 一緒に書く日』
紗菜が書いた丸い文字の下に、鉛筆で描いた小さなノートの絵が添えてある。
その札を、ひとまとまりの視線が見上げていた。
「……ここだっけ?」
「たぶん。『ノートと珈琲の店』って書いてあったところ」
リクルートスーツ姿の学生が四人、戸の前で小さく輪になっている。黒いスーツに白いシャツ、同じ色の就活バッグ。ネクタイの色だけが少しずつ違う。
「ほんとに入って大丈夫かなあ。『相談タイム』って書いてあるけど」
「怪しい商法とかじゃないよね?」
「商店街にそんな罠、仕掛けませんよ」
ちょうど通りがかった惣菜屋の奥さんが、思わず口を挟んだ。
「ここ、うちの晩ごはん待ちの休憩所みたいなもんだから。安心して入りなさいな」
その一言に押されるようにして、学生たちはガラス戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中で豆を量っていた靖治が顔を上げ、一瞬だけ固まる。
(うわ、黒スーツが四人も……店ごと面接されるやつじゃないよな)
思わず背筋が伸びる。
「席、空いてますので、お好きなところへどうぞ」
なんとか声を整えて言うと、学生たちはおずおずと店内を見回した。窓際のテーブルには、既にノートを広げた常連が一人。真ん中の四人掛けだけが空いている。
「あの、こちら、四人でも大丈夫ですか」
「はい。どうぞ」
椅子を引く音と一緒に、スーツの布ずれの音が小さく重なる。春先の午後に似合うには少し固すぎる服装が、テーブルの周りに並んだ。
注文を取りに行くと、一番端の学生が、おそるおそるメニューをめくった。
「すみません……長居しても大丈夫でしょうか」
「大丈夫ですよ。混んできたら声かけますけど、今の時間は、ゆっくりしていただいて」
その返事に、四人の肩の力が少し抜ける。
「じゃあ、珈琲を……」
「僕はカフェオレで」
「私は、苦くないやつがいいです」
「ミルク多めのブレンド、お作りしますね」
注文をメモしながら、靖治はちらりとテーブルの上を見た。
そこには、薄い青のクリアファイルが一つ。端から履歴書の端が少しだけのぞいている。
(……就活か)
カウンターに戻り、ドリッパーにお湯を注ぎながら、さりげなく小声で悠之介に耳打ちする。
「店長、スーツが四人分、来ました」
「営業じゃなくて?」
「履歴書見えました」
「なるほど」
悠之介は、豆の香りを確かめるように一度深呼吸をした。
「じゃあ今日は、相談タイムの『一緒に書く日』、出番かもな」
◇
珈琲とカフェオレをテーブルに並べると、学生たちは揃って「ありがとうございます」と頭を下げた。その丁寧さが、どこかぎこちない。
しばらくは、カップの縁に視線を落としたまま、誰も口を開かなかった。
その沈黙を破ったのは、真ん中に座っていた女子学生だった。
「……やっぱり、今日の分だけでも、どこかに書いた方がいいと思う」
その一言に、他の三人も小さく頷く。
「『今日の分』?」
椅子の影で聞き耳を立てていた靖治は、思わず耳をそばだてた。
「今日の面接で、何しゃべったかとかさ。ここで一回整理しないと、どんどんごちゃごちゃになりそうで」
「それなあ」
ネクタイの結び目をゆるめながら、隣の男子学生が苦笑する。
「同じこと、何回も言ってる気がするし。『協調性があります』って、自分で言いすぎて、だんだん意味分かんなくなってきた」
「でもさ、『今日の面接どうだった?』って聞かれると、『まあ、普通』としか言えないし」
「それを何とかするための『相談タイム』に来たってこと?」
「半分は、そう。半分は、単純に休憩したかった」
テーブルに、かすかな笑い声が落ちる。
靖治は、カウンターからそっと近づいた。
「失礼します。さっきの札を見て入ってきてくださったんでしょうか」
「はい。『一緒に書く日』って書いてあったので」
女子学生が、少し恥ずかしそうに笑う。
「でも、どこまで相談していいのか分からなくて」
「就活のことなら、ここでいくらでも愚痴って大丈夫ですよ」
思わず本音が出る。
「……あの、店員さんもですか?」
「僕も、です」
靖治はエプロンの裾をつまんで、ぺこりと頭を下げた。
「大学三年で、そろそろエントリーシートを書かなきゃいけないはずの人間です」
「同じ年……?」
「たぶん、学年近いと思います」
その一言で、一気に距離が縮まった。
「じゃあ、こうしませんか」
靖治は、カウンターから小さなカードとペンを持ってきた。名刺より少しだけ大きい、紙月堂オリジナルのメッセージカードだ。
「さっき、『今日の分を書きたい』って言ってましたよね」
「はい」
「一人ずつ、『今日の面接で話せたこと』と『話せなかったこと』を分けて書いてみませんか」
カードを二枚ずつ配りながら言う。
「話せたことは、面接官にちゃんと届いたもの。話せなかったことは、頭の中で詰まったままのもの。それを一回、テーブルの上に出してみる感じで」
「話せなかったことまで、書くんですか」
最初にカードを手に取った男子学生が、戸惑いを隠さない。
「もちろん、全部書く必要はないですよ。『書いてもいいかな』と思えるところだけで」
靖治は、自分用のカードも二枚取り出した。
「僕も、一緒にやります。まだ面接は受けてないですけど、『エントリーシートに書けそうなこと』と『書けなさそうなこと』で」
「店員さんも一緒なら……」
学生たちは顔を見合わせてから、それぞれペンを握った。
◇
しばしの間、紙の上をペン先が走る音だけが、テーブルの周りを満たした。
『研究でがんばったこと』
『アルバイトで後輩に教えたこと』
『サークルの活動』
「話せたこと」のカードには、今日まで何度も言葉にしてきた内容が並ぶ。
『本当は不安だったこと』
『落ちた時の気持ち』
『親に言えないこと』
「話せなかったこと」のカードには、面接の場では喉の手前に引っかかっていたものが、少しずつ文字になっていく。
「……書いてみると、案外ありますね」
女子学生の一人が、ペンを置いて小さくつぶやいた。
「『話せなかったこと』、一個もないと思ってたのに」
「俺、むしろ、『話せなかったこと』の方が多いんだけど」
男子学生が、自分のカードの枚数を見て苦笑する。
「『志望動機がちゃんと書けない』とか、『本当はここじゃないかもしれない』とか」
その言葉に、テーブルの空気が少し重くなりかけたところで、靖治が手を叩いた。
「じゃあ、並べましょうか」
テーブルの上を少し片づけて、真ん中にスペースを作る。
「『話せたこと』のカードを、こっち側に一列に。『話せなかったこと』を、その下に」
全員のカードが並ぶと、白い紙の帯が二段できた。
上の列は、どこか整って見える。履歴書や説明会で聞き慣れた言葉が多いからだ。
下の列は、字の大きさもバラバラで、書き方も揃っていない。けれど、そのぶんだけ、生々しさがあった。
「こうして見ると、『話せなかったこと』の方が、その人の顔が浮かびますね」
いつの間にか近くに来ていた紗菜が、カードをじっと見つめながら言った。
「『落ちた時の気持ち』とか、『親に言えないこと』とか」
「面接でそんなこと言ったら、落ちますよね」
女子学生が、冗談まじりに言う。
「さあ、どうでしょう」
紗菜は、ふんわりと笑う。
「言い方と、言う場所の問題かもしれません」
「場所の問題?」
「例えば、『今日の面接で話せたこと』は、会社に向けた言葉ですよね」
上の列を指さす。
「『話せなかったこと』は、もしかしたら、自分に向けた言葉かもしれない」
下の列に視線を落とす。
「『本当は不安だった』って書いた人は、自分の不安をやっと認めたところだし、『本当はここじゃないかもしれない』って書いた人は、自分の違和感をちゃんと見つけているところ」
「……面接で言えないやつほど、大事ってことですか」
「大事じゃないとは、言えないですね」
紗菜は、カードの一枚に指先をそっと乗せた。
「だから、この下の列は、『今すぐ会社に届けなくていいけれど、捨てたくない言葉』として、しばらく持っていてほしいなと思います」
「持っておく……」
学生たちは、自分のカードを見つめ直した。
「じゃあ、どうやって持っておけばいいですか」
男子学生の一人が、真剣な顔で尋ねる。
「ちゃんとノートに書き写すとか?」
「それも一つの方法ですけど」
靖治が、ポケットから小さな封筒を取り出した。
「こういうのに入れておくのも、おすすめです」
紙月堂で売っている、無地の小さな封筒だ。表には、鉛筆で「今日話せなかったこと」とだけ書かれている。
「今日のカードを、そのまま封筒に入れてください」
四人分の封筒を配っていく。
「で、表に日付を書いておく。『この日、自分はこういうことを話せなかった』って」
「開けるのは、いつですか」
「それぞれ決めてもらっていいですけど……」
靖治は、少しだけ考えてから言った。
「次に『落ちた』って連絡が来たときとか、次の面接の前の夜とか。落ち込んだり、焦ったりしたときに、一回だけ開けてみる」
学生たちは、封筒を指先で確かめるようにもてあそんだ。
「開けたときに、『あ、前の自分、こういうこと言えなかったんだ』って思えたら、その中から一枚だけ、次の面接で言ってみる」
「一枚だけ?」
「全部は無理ですし」
靖治は、苦笑しながら自分のカードにも視線を落とした。
「僕も、『エントリーシートに書けないこと』、けっこうありますけど、たぶん一度に全部は抱えられないので」
「一枚なら、なんとか」
「一枚なら、なんとか」
学生たちの声が、少しだけ重なる。
「じゃあ、『話せなかったこと』のカードを封筒に入れる前に、一枚だけ選んでください」
袖口から時計をちらりと見る。
「その一枚には、今日の日付の下に、『次はこれを一行だけ足す』って書いておきましょう」
テーブルに再び沈黙が落ちた。
迷いながら、考えながら、カードを選ぶ手。
『本当は不安だったこと』
『親に言えないこと』
『別の道も考えていること』
一枚ずつが封筒から出されたまま残り、他のカードは中に収められていく。
「選ぶと、ちょっと怖いですね」
女子学生が、封筒の口を閉めながらつぶやく。
「『次で言う』って、自分に約束する感じがするから」
「怖いけど、そのぶんだけ、自分の側に引き寄せられると思います」
紗菜が、そっと言葉を添えた。
「『会社に選ばれる自分』じゃなくて、『自分が選びたい働き方』に近づくための約束、というか」
「……そんなかっこいいこと、面接で言えたらいいんですけどね」
男子学生の一人がぼやくと、テーブルに笑いが戻ってきた。
「そこは、少しずつで」
靖治は、自分の封筒を指でたたいた。
「僕も、ここに書いたこと、全部はいっぺんに紙に出せないと思うので」
「店員さんも、何か書いたんですか」
学生の一人が、興味津々で尋ねる。
「『本当は就活が怖い』ってやつと、『バイトのシフトを減らしたくない』ってやつと、『でもいつか紙月堂みたいな場所を自分でも作れたらいいな』ってやつです」
「最後の、すごい」
「でも、まだ面接で言うには早い気がするので、しばらく封筒で寝かせておきます」
自分で言いながら、少し照れくさそうに笑った。
◇
カップの底が見え始めるころには、学生たちの表情も、店に入ってきたときより柔らかくなっていた。
「何か、ちゃんと疲れた気がする」
イスから立ち上がりながら、女子学生が言う。
「『何となく不安』ってぐるぐる考えていたのが、『今日はこれを話せなかった』ってところまで、やっと降りてきた感じ」
「僕も、『落ちた=全部ダメ』って思ってたけど」
男子学生の一人が、封筒をバッグにしまいながら続ける。
「『この一枚は、まだ出してない』って思えると、次の面接が、少しだけ違って見えそうです」
「よかった」
靖治は、ほっと息を吐いた。
「また、面接帰りに寄ってください」
「そのときは、封筒、開けてきてもいいですか」
「もちろん」
ガラス戸の前で、学生たちは一度振り返った。
「ここ、『今日のここまで』だけじゃなくて、『今日話せなかったところまで』も置いていける感じがしました」
誰かがぽつりと言う。
「うれしいこと言ってくれるなあ」
いつの間にかカウンターから出てきていた悠之介が、小さく笑った。
「じゃあ、そのぶんだけ、珈琲の味もちゃんと覚えておいてください」
「はい。また来ます」
ガラス戸が閉まると、リクルートスーツの背中が四つ、アーケードの光の中に溶けていった。
◇
「就活って、大変なんですね」
学生たちの姿が見えなくなったあと、靖治は、さっきまで彼らが座っていた椅子を拭きながらつぶやいた。
「大変だろうな」
悠之介が、レジ横の「今日のここまでメモ」を開く。
「でも、今日みたいに、『話せなかったこと』を一回カードに出せただけでも、だいぶ違うと思う」
「僕も、封筒の中身、ちゃんと覚悟しておかないと」
「無理に開ける必要はないけどな」
悠之介は、ノートの端にペンを走らせた。
『今日の相談タイム
就活生四人。話せたことと話せなかったことのカードを並べた。封筒に入れた言葉は、まだ続きの途中。』
「『まだ続きの途中』?」
肩越しに覗き込んだ靖治が、首をかしげる。
「面接で言えなかったからって、その言葉が終わりってわけじゃないだろ」
悠之介は、ゆっくりと言った。
「今日話せなかったことは、明日話せるかもしれないし、三年後に別の場所で話すのかもしれない」
「三年後……」
「紙月堂が続いていれば、そのときも、どこかで誰かの『話せなかったこと』カードが増えてるかもな」
その想像に、靖治はふっと笑った。
「じゃあ、そのときに恥ずかしくないように、今の封筒はちゃんと取っておきます」
「うん。取っておけ」
窓の外では、春先の光が少し傾き始めている。
テーブルの上には、使い終わったカードが数枚残っていた。
そのうちの一枚に、紗菜は小さく文字を書き足した。
『今日話せなかったことは、まだ終わっていない。』
それを「今日のここまでメモ」のページにそっと貼りつける。
誰かの午後と、誰かのこれからが、静かに重なった一日だった。
星見商店街のアーケードにも、淡い日差しがすべり込んでいた。コートを着るべきか迷ったままの人たちが、マフラーを首にかけたり腕にひっかけたりしながら行き来している。
紙月堂のガラス戸の横には、今日も小さな札が下がっていた。
『今日の相談タイム 一緒に書く日』
紗菜が書いた丸い文字の下に、鉛筆で描いた小さなノートの絵が添えてある。
その札を、ひとまとまりの視線が見上げていた。
「……ここだっけ?」
「たぶん。『ノートと珈琲の店』って書いてあったところ」
リクルートスーツ姿の学生が四人、戸の前で小さく輪になっている。黒いスーツに白いシャツ、同じ色の就活バッグ。ネクタイの色だけが少しずつ違う。
「ほんとに入って大丈夫かなあ。『相談タイム』って書いてあるけど」
「怪しい商法とかじゃないよね?」
「商店街にそんな罠、仕掛けませんよ」
ちょうど通りがかった惣菜屋の奥さんが、思わず口を挟んだ。
「ここ、うちの晩ごはん待ちの休憩所みたいなもんだから。安心して入りなさいな」
その一言に押されるようにして、学生たちはガラス戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中で豆を量っていた靖治が顔を上げ、一瞬だけ固まる。
(うわ、黒スーツが四人も……店ごと面接されるやつじゃないよな)
思わず背筋が伸びる。
「席、空いてますので、お好きなところへどうぞ」
なんとか声を整えて言うと、学生たちはおずおずと店内を見回した。窓際のテーブルには、既にノートを広げた常連が一人。真ん中の四人掛けだけが空いている。
「あの、こちら、四人でも大丈夫ですか」
「はい。どうぞ」
椅子を引く音と一緒に、スーツの布ずれの音が小さく重なる。春先の午後に似合うには少し固すぎる服装が、テーブルの周りに並んだ。
注文を取りに行くと、一番端の学生が、おそるおそるメニューをめくった。
「すみません……長居しても大丈夫でしょうか」
「大丈夫ですよ。混んできたら声かけますけど、今の時間は、ゆっくりしていただいて」
その返事に、四人の肩の力が少し抜ける。
「じゃあ、珈琲を……」
「僕はカフェオレで」
「私は、苦くないやつがいいです」
「ミルク多めのブレンド、お作りしますね」
注文をメモしながら、靖治はちらりとテーブルの上を見た。
そこには、薄い青のクリアファイルが一つ。端から履歴書の端が少しだけのぞいている。
(……就活か)
カウンターに戻り、ドリッパーにお湯を注ぎながら、さりげなく小声で悠之介に耳打ちする。
「店長、スーツが四人分、来ました」
「営業じゃなくて?」
「履歴書見えました」
「なるほど」
悠之介は、豆の香りを確かめるように一度深呼吸をした。
「じゃあ今日は、相談タイムの『一緒に書く日』、出番かもな」
◇
珈琲とカフェオレをテーブルに並べると、学生たちは揃って「ありがとうございます」と頭を下げた。その丁寧さが、どこかぎこちない。
しばらくは、カップの縁に視線を落としたまま、誰も口を開かなかった。
その沈黙を破ったのは、真ん中に座っていた女子学生だった。
「……やっぱり、今日の分だけでも、どこかに書いた方がいいと思う」
その一言に、他の三人も小さく頷く。
「『今日の分』?」
椅子の影で聞き耳を立てていた靖治は、思わず耳をそばだてた。
「今日の面接で、何しゃべったかとかさ。ここで一回整理しないと、どんどんごちゃごちゃになりそうで」
「それなあ」
ネクタイの結び目をゆるめながら、隣の男子学生が苦笑する。
「同じこと、何回も言ってる気がするし。『協調性があります』って、自分で言いすぎて、だんだん意味分かんなくなってきた」
「でもさ、『今日の面接どうだった?』って聞かれると、『まあ、普通』としか言えないし」
「それを何とかするための『相談タイム』に来たってこと?」
「半分は、そう。半分は、単純に休憩したかった」
テーブルに、かすかな笑い声が落ちる。
靖治は、カウンターからそっと近づいた。
「失礼します。さっきの札を見て入ってきてくださったんでしょうか」
「はい。『一緒に書く日』って書いてあったので」
女子学生が、少し恥ずかしそうに笑う。
「でも、どこまで相談していいのか分からなくて」
「就活のことなら、ここでいくらでも愚痴って大丈夫ですよ」
思わず本音が出る。
「……あの、店員さんもですか?」
「僕も、です」
靖治はエプロンの裾をつまんで、ぺこりと頭を下げた。
「大学三年で、そろそろエントリーシートを書かなきゃいけないはずの人間です」
「同じ年……?」
「たぶん、学年近いと思います」
その一言で、一気に距離が縮まった。
「じゃあ、こうしませんか」
靖治は、カウンターから小さなカードとペンを持ってきた。名刺より少しだけ大きい、紙月堂オリジナルのメッセージカードだ。
「さっき、『今日の分を書きたい』って言ってましたよね」
「はい」
「一人ずつ、『今日の面接で話せたこと』と『話せなかったこと』を分けて書いてみませんか」
カードを二枚ずつ配りながら言う。
「話せたことは、面接官にちゃんと届いたもの。話せなかったことは、頭の中で詰まったままのもの。それを一回、テーブルの上に出してみる感じで」
「話せなかったことまで、書くんですか」
最初にカードを手に取った男子学生が、戸惑いを隠さない。
「もちろん、全部書く必要はないですよ。『書いてもいいかな』と思えるところだけで」
靖治は、自分用のカードも二枚取り出した。
「僕も、一緒にやります。まだ面接は受けてないですけど、『エントリーシートに書けそうなこと』と『書けなさそうなこと』で」
「店員さんも一緒なら……」
学生たちは顔を見合わせてから、それぞれペンを握った。
◇
しばしの間、紙の上をペン先が走る音だけが、テーブルの周りを満たした。
『研究でがんばったこと』
『アルバイトで後輩に教えたこと』
『サークルの活動』
「話せたこと」のカードには、今日まで何度も言葉にしてきた内容が並ぶ。
『本当は不安だったこと』
『落ちた時の気持ち』
『親に言えないこと』
「話せなかったこと」のカードには、面接の場では喉の手前に引っかかっていたものが、少しずつ文字になっていく。
「……書いてみると、案外ありますね」
女子学生の一人が、ペンを置いて小さくつぶやいた。
「『話せなかったこと』、一個もないと思ってたのに」
「俺、むしろ、『話せなかったこと』の方が多いんだけど」
男子学生が、自分のカードの枚数を見て苦笑する。
「『志望動機がちゃんと書けない』とか、『本当はここじゃないかもしれない』とか」
その言葉に、テーブルの空気が少し重くなりかけたところで、靖治が手を叩いた。
「じゃあ、並べましょうか」
テーブルの上を少し片づけて、真ん中にスペースを作る。
「『話せたこと』のカードを、こっち側に一列に。『話せなかったこと』を、その下に」
全員のカードが並ぶと、白い紙の帯が二段できた。
上の列は、どこか整って見える。履歴書や説明会で聞き慣れた言葉が多いからだ。
下の列は、字の大きさもバラバラで、書き方も揃っていない。けれど、そのぶんだけ、生々しさがあった。
「こうして見ると、『話せなかったこと』の方が、その人の顔が浮かびますね」
いつの間にか近くに来ていた紗菜が、カードをじっと見つめながら言った。
「『落ちた時の気持ち』とか、『親に言えないこと』とか」
「面接でそんなこと言ったら、落ちますよね」
女子学生が、冗談まじりに言う。
「さあ、どうでしょう」
紗菜は、ふんわりと笑う。
「言い方と、言う場所の問題かもしれません」
「場所の問題?」
「例えば、『今日の面接で話せたこと』は、会社に向けた言葉ですよね」
上の列を指さす。
「『話せなかったこと』は、もしかしたら、自分に向けた言葉かもしれない」
下の列に視線を落とす。
「『本当は不安だった』って書いた人は、自分の不安をやっと認めたところだし、『本当はここじゃないかもしれない』って書いた人は、自分の違和感をちゃんと見つけているところ」
「……面接で言えないやつほど、大事ってことですか」
「大事じゃないとは、言えないですね」
紗菜は、カードの一枚に指先をそっと乗せた。
「だから、この下の列は、『今すぐ会社に届けなくていいけれど、捨てたくない言葉』として、しばらく持っていてほしいなと思います」
「持っておく……」
学生たちは、自分のカードを見つめ直した。
「じゃあ、どうやって持っておけばいいですか」
男子学生の一人が、真剣な顔で尋ねる。
「ちゃんとノートに書き写すとか?」
「それも一つの方法ですけど」
靖治が、ポケットから小さな封筒を取り出した。
「こういうのに入れておくのも、おすすめです」
紙月堂で売っている、無地の小さな封筒だ。表には、鉛筆で「今日話せなかったこと」とだけ書かれている。
「今日のカードを、そのまま封筒に入れてください」
四人分の封筒を配っていく。
「で、表に日付を書いておく。『この日、自分はこういうことを話せなかった』って」
「開けるのは、いつですか」
「それぞれ決めてもらっていいですけど……」
靖治は、少しだけ考えてから言った。
「次に『落ちた』って連絡が来たときとか、次の面接の前の夜とか。落ち込んだり、焦ったりしたときに、一回だけ開けてみる」
学生たちは、封筒を指先で確かめるようにもてあそんだ。
「開けたときに、『あ、前の自分、こういうこと言えなかったんだ』って思えたら、その中から一枚だけ、次の面接で言ってみる」
「一枚だけ?」
「全部は無理ですし」
靖治は、苦笑しながら自分のカードにも視線を落とした。
「僕も、『エントリーシートに書けないこと』、けっこうありますけど、たぶん一度に全部は抱えられないので」
「一枚なら、なんとか」
「一枚なら、なんとか」
学生たちの声が、少しだけ重なる。
「じゃあ、『話せなかったこと』のカードを封筒に入れる前に、一枚だけ選んでください」
袖口から時計をちらりと見る。
「その一枚には、今日の日付の下に、『次はこれを一行だけ足す』って書いておきましょう」
テーブルに再び沈黙が落ちた。
迷いながら、考えながら、カードを選ぶ手。
『本当は不安だったこと』
『親に言えないこと』
『別の道も考えていること』
一枚ずつが封筒から出されたまま残り、他のカードは中に収められていく。
「選ぶと、ちょっと怖いですね」
女子学生が、封筒の口を閉めながらつぶやく。
「『次で言う』って、自分に約束する感じがするから」
「怖いけど、そのぶんだけ、自分の側に引き寄せられると思います」
紗菜が、そっと言葉を添えた。
「『会社に選ばれる自分』じゃなくて、『自分が選びたい働き方』に近づくための約束、というか」
「……そんなかっこいいこと、面接で言えたらいいんですけどね」
男子学生の一人がぼやくと、テーブルに笑いが戻ってきた。
「そこは、少しずつで」
靖治は、自分の封筒を指でたたいた。
「僕も、ここに書いたこと、全部はいっぺんに紙に出せないと思うので」
「店員さんも、何か書いたんですか」
学生の一人が、興味津々で尋ねる。
「『本当は就活が怖い』ってやつと、『バイトのシフトを減らしたくない』ってやつと、『でもいつか紙月堂みたいな場所を自分でも作れたらいいな』ってやつです」
「最後の、すごい」
「でも、まだ面接で言うには早い気がするので、しばらく封筒で寝かせておきます」
自分で言いながら、少し照れくさそうに笑った。
◇
カップの底が見え始めるころには、学生たちの表情も、店に入ってきたときより柔らかくなっていた。
「何か、ちゃんと疲れた気がする」
イスから立ち上がりながら、女子学生が言う。
「『何となく不安』ってぐるぐる考えていたのが、『今日はこれを話せなかった』ってところまで、やっと降りてきた感じ」
「僕も、『落ちた=全部ダメ』って思ってたけど」
男子学生の一人が、封筒をバッグにしまいながら続ける。
「『この一枚は、まだ出してない』って思えると、次の面接が、少しだけ違って見えそうです」
「よかった」
靖治は、ほっと息を吐いた。
「また、面接帰りに寄ってください」
「そのときは、封筒、開けてきてもいいですか」
「もちろん」
ガラス戸の前で、学生たちは一度振り返った。
「ここ、『今日のここまで』だけじゃなくて、『今日話せなかったところまで』も置いていける感じがしました」
誰かがぽつりと言う。
「うれしいこと言ってくれるなあ」
いつの間にかカウンターから出てきていた悠之介が、小さく笑った。
「じゃあ、そのぶんだけ、珈琲の味もちゃんと覚えておいてください」
「はい。また来ます」
ガラス戸が閉まると、リクルートスーツの背中が四つ、アーケードの光の中に溶けていった。
◇
「就活って、大変なんですね」
学生たちの姿が見えなくなったあと、靖治は、さっきまで彼らが座っていた椅子を拭きながらつぶやいた。
「大変だろうな」
悠之介が、レジ横の「今日のここまでメモ」を開く。
「でも、今日みたいに、『話せなかったこと』を一回カードに出せただけでも、だいぶ違うと思う」
「僕も、封筒の中身、ちゃんと覚悟しておかないと」
「無理に開ける必要はないけどな」
悠之介は、ノートの端にペンを走らせた。
『今日の相談タイム
就活生四人。話せたことと話せなかったことのカードを並べた。封筒に入れた言葉は、まだ続きの途中。』
「『まだ続きの途中』?」
肩越しに覗き込んだ靖治が、首をかしげる。
「面接で言えなかったからって、その言葉が終わりってわけじゃないだろ」
悠之介は、ゆっくりと言った。
「今日話せなかったことは、明日話せるかもしれないし、三年後に別の場所で話すのかもしれない」
「三年後……」
「紙月堂が続いていれば、そのときも、どこかで誰かの『話せなかったこと』カードが増えてるかもな」
その想像に、靖治はふっと笑った。
「じゃあ、そのときに恥ずかしくないように、今の封筒はちゃんと取っておきます」
「うん。取っておけ」
窓の外では、春先の光が少し傾き始めている。
テーブルの上には、使い終わったカードが数枚残っていた。
そのうちの一枚に、紗菜は小さく文字を書き足した。
『今日話せなかったことは、まだ終わっていない。』
それを「今日のここまでメモ」のページにそっと貼りつける。
誰かの午後と、誰かのこれからが、静かに重なった一日だった。
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