昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店

乾為天女

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第32話 亜友のもう一つの夢

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 まだ空が白く染まりきる前の時間帯は、商店街の音がほとんどしない。


 星見商店街の真ん中あたりにある「亜友堂」のシャッターも、いつもならもう少し遅い時間にゆっくり開く。けれどその朝は、紙月堂より少し早く、金属のこすれる音が静かな通りに響いた。


 「よいしょ……っと」


 亜友が、両手で取っ手を引き上げる。まだ冷たい空気が、店内にすべり込んできた。


 制服の代わりに、薄い色の割烹着。髪はいつもよりきっちりと後ろで結んでいる。顔には、早起きの眠気と、見慣れない緊張が少しだけ混ざっていた。


 シャッターの前には、小さな段ボール箱がひとつ置かれている。


 差出人は、地方の百貨店の名前だった。


 「……本当に、来たんだ」


 昨日の夕方、電話で短く告げられた言葉が、封筒になって目の前にある。


 段ボールを店の奥の作業台まで運ぶと、亜友はお湯を沸かす前に、先に箱のガムテープをはがした。


 中には、丁寧に折りたたまれた書類と、百貨店のロゴが入った薄いパンフレットが入っている。


 『期間限定出店のご案内』


 太い文字が目に飛び込んできた。


 「期間限定、ねえ……」


 口の中で繰り返してみる。


 地方の百貨店からの打診。星見商店街の外、もっと広い街の中で、亜友堂の羊羹や最中を並べないか、という誘いだ。


 電話で概要だけは聞いていた。季節の催事の一角。二週間ほどの出店。売り上げの取り決めや、什器の貸し出し条件。


 それを改めて活字で見せられると、胸の奥のざわめきが、はっきりとした形を持ってくる。


 「うれしい、けど……」


 言葉の続きを、すぐには口に出せなかった。


 作業台の隅には、いつものように仕込みのメモがある。


 今日は、定番の羊羹と、商店街用の小さな詰め合わせ箱。それから、紙月堂に置く予定の「灯りツアー」用の一口羊羹。


 百貨店に出るとなれば、その分の量も増やさなければならない。


 頭の中で、餡の量と時間の配分と、自分一人の体力とを並べてみる。


 「……どうしましょうかねえ」


 亜友は、誰もいない店内に向かってつぶやいた。


 ◇


 その日の午後。


 紙月堂では、「夕方の灯りルート」のミーティングが開かれていた。


 カウンター横の壁には、星見商店街の簡単な地図が貼られている。紙月堂、亜友堂、惣菜屋、空き店舗、時計屋の跡地――手書きの丸印が線でつながれて、「ここからここまで歩くと落ち着きます」と、小さな文字が添えられていた。


 「このルート、もう少し回り道してもいいかもしれませんね」


 臣全がペンを持ちながら、地図の一部を指でなぞる。


 「例えば、駅からいきなり紙月堂じゃなくて、商店街の端っこで一回深呼吸してから入るとか」


 「深呼吸スポット?」


 靖治が、地図をのぞき込んで笑う。


 「そう。『ここで立ち止まってアーケードを一回見上げる場所』とか」


 「いいですねえ」


 惣菜屋の奥さんが、エプロン姿のまま地図を見ている。


 「うちの前も、『唐揚げの匂いでお腹を鳴らすポイント』として入れてもらえると」


 「それはルートの危険ポイント扱いかもしれません」


 紗菜が、さらりと返して笑いを誘った。


 そんな中、亜友は、自分のカップを手で温めながら、地図の亜友堂の印を見つめていた。


 「亜友さん?」


 様子に気づいた悠之介が、小さく声をかける。


 「……あ、すみません。ちょっと考えごとしてました」


 「どんな?」


 「ええと、その……」


 言いよどんでから、カウンターの上の封筒にそっと手を伸ばした。


 百貨店からの案内状だ。


 「今朝、これが届きまして」


 封筒から、印刷された資料を取り出す。テーブルの真ん中に置かれた紙に、全員の視線が集まった。


 「百貨店の、期間限定出店?」


 臣全が、声を上げる。


 「すごいじゃないですか!」


 「ありがとうございます」


 亜友は、照れくさそうに笑った。


 「ありがたいお話だな、とは思うんですけど……」


 「でも?」


 紗菜が、続きをやさしく促す。


 「怖いんです」


 その一言は、思っていたよりするりと口から出た。


 「ここよりずっと大きな場所で、知らない人たちの前に羊羹を出すのが。ちゃんと冷蔵庫に入ってくれるのかとか、売れ残ったらどうなるのかとか、そういうことも怖いですし」


 「条件、どんな感じなんですか」


 悠之介が、資料を手に取る。


 日程、出店料、売り上げの取り分。朝から夕方までの営業時間。搬入と撤収のスケジュール。


 「二週間か」


 「はい」


 亜友が、小さく頷く。


 「朝から夕方まで百貨店にいるとしたら、商店街の店は、そのあいだ誰かに任せないといけなくて。でも、今のうちの規模だと、人を新しく雇うほどではない気もして」


 「そりゃそうだな」


 惣菜屋の奥さんが、現実的な顔になる。


 「仕込みの量も一気に増やすことになりますしねえ」


 「それに……」


 亜友は、言葉を探しながら、地図の上の亜友堂の丸印を指先でそっと押さえた。


 「星見商店街のお客さまが、今のままの距離感で来てくださっていることも、すごく大事で」


 「距離感?」


 「はい」


 亜友は、少しだけ笑う。


 「『今日、ちょっと甘いものがほしくて』って、ふらっと寄ってくださる感じとか、『この前の羊羹がおいしかったから、またあれください』って、名前じゃなくて味で覚えてくださる感じとか」


 「分かる気がする」


 悠之介も、うなずいた。


 「百貨店に行くのはうれしい。でも、ここから離れることになるんじゃないか、って怖さもあるわけか」


 「そうなんです」


 言葉にしてみると、自分でもその矛盾が少しおかしくて、亜友は苦笑した。


 「商店街だけで終わりたくないな、って気持ちも、本当にあるんです。もう少し広いところで、自分の和菓子がどう見えるのか、知りたい気持ちもあって」


 「だから、『うれしい』と『怖い』が同居していると」


 紗菜が、いつものように、亜友の言葉を整理する。


 「それを、どちらかだけに決めなくてもいい方法があるかどうか、考えたいところですね」


 ◇


 「期間限定っていうのが、ポイントだと思うんですよね」


 臣全が、資料の「二週間」という文字に丸をつけた。


 「ずっとそこに行くわけじゃなくて、『二週間だけ、亜友堂を別の場所に出張させてみる』って考えると」


 「出張、ですか」


 「はい。メインの拠点は、あくまで商店街のまま」


 紙月堂の壁の地図に目をやる。


 「灯りルートの亜友堂の灯りは、そのまま残しておいて、その灯りを少しだけ別の街にも持っていくイメージ」


 「でも、二週間、店を閉めっぱなしにはできませんし」


 亜友が、現実に引き戻される。


 「いつものお客さまを置いてきぼりにしたくなくて」


 「そこは、曜日で切るのはどうですか」


 紗菜が、紙とペンを手に取った。


 「百貨店の人と『毎日は出られない』って前提で話をして、『この曜日とこの曜日とこの曜日だけ出る』みたいに」


 「そんなわがまま、通るでしょうか」


 「わがまま、というより、『続けられる範囲の条件』です」


 紗菜は、さらさらと簡単な表を書いていく。


 「例えば、月水金は百貨店。火木土は商店街の日。日曜日は、どちらも休むか、どちらかだけ少し顔を出すか」


 「……仕込みは、どうします?」


 惣菜屋の奥さんが、すぐに実務のことを聞く。


 「百貨店の分と、商店街の分と」


 「そこは、うちも手伝いますよ」


 悠之介が、迷いなく言った。


 「紙月堂の定休日と、仕込みのピークを見ながら、手伝える日程を出します。僕にできるのは、重い荷物を持ったり、箱を折ったりするくらいですけど」


 「それ、かなり助かります」


 亜友の声に、少しだけ安心の色が混ざる。


 「それに、灯りルートの地図にも『百貨店出張中』の印を付けられますしね」


 臣全が、嬉しそうに笑う。


 「『今日の亜友堂は、百貨店の何階に出てます』って矢印入れておけば、商店街のお客さんも、『今ここにいるんだな』って分かりますよ」


 「逆に、百貨店の催事の案内にも、『普段は星見商店街にいます』って書けますし」


 紗菜が、紙にもう一つ丸を描く。


 「二つの場所を、行き止まりじゃなくて行き来できる道にするイメージです」


 「道……」


 亜友は、その言葉をゆっくり口の中で転がした。


 「ここから百貨店に行く道と、百貨店からここに戻ってくる道」


 「はい」


 紗菜が、静かに頷く。


 「『ここでしか買えません』っていう特別さも確かにあるけれど、『ここで作って、あっちにも持って行きます』っていう動きも、きっと誰かの背中を押すと思います」


 「誰かの背中?」


 「例えば、『いつか自分の店を持ちたい』って思っている人とか」


 紗菜は、ちらりと靖治の方を見る。


 「あるいは、『ずっと同じ場所で仕事を続けている人』にも、『たまには違う場所に灯りを置いてもいいんだ』って知らせになるかもしれません」


 「……そんな大それたこと、できるかどうか」


 亜友は、照れたように笑った。


 「できるかどうかは、やってみないと分かりませんよ」


 惣菜屋の奥さんが、力強くうなずく。


 「うちだって、最初は商店街のはじっこで小さな揚げ物から始めたんですから。それが、今は『灯りルートの匂い担当』になってるじゃないですか」


 「匂い担当って新しい役職ですね」


 靖治が、しみじみと言う。


 ◇


 夕方。


 紙月堂のカウンターの奥で、悠之介は、一枚の紙に日付を書き込んでいた。


 百貨店から送られてきた条件の紙のコピー。その横に、自分の手帳から書き写した予定表。


 「月曜は、仕込み手伝い可。火曜は店。水曜は搬入手伝い……」


 紙の上に、小さな矢印が増えていく。


 「そんなに無理しなくていいですよ」


 亜友が、申し訳なさそうに言う。


 「悠之介さんの店もあるんですから」


 「無理はしないよ」


 悠之介は、ペンを止めて顔を上げた。


 「うちの店も、ちゃんと続けたいからな。そのうえで、『手伝える範囲』を先に紙にしておきたいだけ」


 「……紙にしておきたい、ですか」


 「頭の中だけで『手伝えるかも』って思ってると、どんどん自分を追い詰めるんだよ」


 少し前の自分を思い出しながら、苦笑する。


 「だから、『ここまでは手伝える』『ここから先は無理』って線を、先に紙に引いておく」


 「それ、私が百貨店と話すときにも必要ですね」


 亜友が、自分の資料を見つめ直した。


 「『全部はできません』って、ちゃんと言葉にして伝えること」


 「うん」


 悠之介は、百貨店からの案内の一行を指でなぞる。


 「ここにある時間全部に、亜友さんが一人で立ち続ける必要はないんだと思う。例えば、午前中だけとか、週の前半だけとか」


 「そんな都合のいいこと、言ってもいいんでしょうか」


 「言っていいかどうかは、向こうが決める」


 悠之介の声は、静かだった。


 「言わなかったら、『全部できます』ってことになってしまう。それは、多分、誰も得しない」


 亜友は、少しのあいだ黙ってから、ゆっくり頷いた。


 「……そうですね」


 資料の端に、「午前のみ」「週三日」などの小さなメモを書き込んでいく。


 「こうやって自分の言葉で条件を丸くしておけば、百貨店の人と話すときに、紙を見ながら話せますし」


 「丸くするって言い方、いいですね」


 紗菜が、カウンター越しに笑う。


 「角の立った条件の紙を、そのまま飲み込もうとすると、喉を傷つけますから」


 「和菓子も、角を丸くすると口当たりがよくなりますしね」


 亜友も、冗談めかして返した。


 「条件も、ちゃんと丸めてからかじることにします」


 ◇


 数日後。


 百貨店のバイヤーとの打ち合わせの日、亜友は、少し緊張した背筋でテーブルに向かっていた。


 目の前には、先日送られてきた条件の紙。その横には、自分で書き込んだメモが並んでいる。


 「午前中のみ出店希望」「週三日」「商店街の店は閉めないこと」。


 その文字を、一つずつ指でなぞってから、顔を上げた。


 「……以上が、こちらの希望です」


 言い終えると、ほんの少し肩の力が抜ける。


 バイヤーは黙って資料を見直し、やがて口を開いた。


 「全部とはいきませんが、この範囲であれば、調整できると思います。週三日、午前から夕方の早い時間まで。残りの日は、商店街の店を優先してください」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で固まっていた何かが、少しだけ溶けていく。


 「ありがとうございます」


 亜友は、深く頭を下げた。


 「全部やらなくていい」という許可を、外側からもらったような感覚が、ゆっくりと広がっていった。


 ◇


 同じころ、紙月堂では。


 カウンターの上に一枚の紙が広げられていた。


 『亜友堂 出張中スケジュール』


 臣全がデザインした見出しの下に、曜日ごとの小さなマークが並んでいる。百貨店に出る日は、羊羹のイラスト。商店街にいる日は、小さな店の絵。


 「これ、いいですね」


 靖治が、完成したばかりのポスターを眺める。


 「どこにいても、『今日はここに灯りがあるんだ』って分かる感じ」


 「紙月堂の入口と、灯りルートの地図の横と、亜友堂の店先に貼りましょう」


 紗菜が、掲示する場所を指折り数える。


 「百貨店の催事場にも、一枚お願いしたいですね」


 悠之介は、はさみで余白を切りながら言う。


 「『普段はここにいます』って地図を、小さく入れてあるし」


 「戻る道、ちゃんと描いておきましたから!」


 臣全が、胸を張る。


 「百貨店でこのポスターを見た人が、『今度は星見商店街に行ってみようかな』って思ってくれたら、うれしいですし」


 「亜友さんにも、ちゃんと戻ってきてもらわないとな」


 悠之介が、半分冗談のように言う。


 「百貨店が楽しすぎて、そのままそっちに住みつかれたら困る」


 「そんなことしませんよ」


 いつの間にか店に戻ってきていた亜友が、笑いながら返した。


 「ちゃんと、『戻る場所』を決めたうえで行ってきますから」


 そう言って、カウンターの上の「今日のここまでメモ」を一枚開く。


 『百貨店に行っても、戻る場所はここにある。』


 亜友は、ゆっくりとその一文を書き入れた。


 「これ、誰に向けて書いたんですか?」


 靖治が、興味津々で尋ねる。


 「半分は、自分に向けて」


 亜友は、ペン先を軽く振った。


 「もう半分は、いつか、同じように『商店街の外に出てみたいな』と思う誰かに」


 窓の外では、夕方の光が、商店街のアーケードの屋根を柔らかく照らしている。


 紙月堂の中で、湯気の立つカップがいくつも並んでいた。


 そのうちの一つを静かに手に取りながら、悠之介は、亜友の書いた一行に目をやった。


 「……いいな、それ」


 ぽつりとこぼれた言葉は、すぐに湯気に紛れてしまったけれど、「戻る場所はここにある」という約束だけは、紙の上にしっかりと残った。
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