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第33話 咲亜矢の個展の誘い
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その知らせは、ミルクを温めている最中に届いた。
紙月堂の奥の席で、咲亜矢はノートパソコンに向かっていた。画面には、いつものようにレイアウトソフトのウィンドウがいくつも重なっている。商店街の灯りルート用ポスターの案、紙月堂の「今日の相談タイム」札の試作、亜友堂の出張スケジュールのお知らせ――。
「……あ、やば」
カップの縁を、ミルクが静かに乗り越え始めていた。
「店長、ミルク!」
「おっと」
カウンターの中で、悠之介が慌てて火を弱める。
紙月堂の午後は、だいたいこんなふうに、小さな慌ただしさと、ゆるい会話に満ちている。
咲亜矢のスマートフォンが、テーブルの上で小さく震えたのは、その直後だった。
画面に表示された差出人の名前を見て、彼女は思わず姿勢を正す。
「……ギャラリー佐久間?」
星見商店街から少し離れた坂の上に、小さなギャラリーがある。咲亜矢が時々、ポストカードを委託販売している場所だ。
メッセージを開く指先が、ほんの少しだけ震える。
『咲亜矢さん、こんにちは。
春頃に、うちのギャラリーで小さな個展を開きませんか?』
短い文面の中に、「個展」という二文字だけが、やけに大きく見えた。
「こ、こてん……」
思わず声に出してしまう。
「何か、こってりしたもの食べたくなりました?」
隣の席で図面を広げていた臣全が、すかさず反応した。
「いや、『こってり』じゃなくて『こてん』」
「油淋鶏じゃないんですか」
「どんな聞き間違いですか」
思わず突っ込みながらも、心臓の鼓動は早くなる一方だった。
個展。
自分の絵やデザインだけで壁を埋める場。学生の頃から、いつかできたらいいなと、どこか遠くの夢のように思っていたもの。
その「いつか」が、突然、具体的な季節と一緒に提示された。
◇
「咲亜矢ちゃん、顔がいつもより情報量多いで」
カウンター越しに様子を見ていた惣菜屋の奥さんが、笑いながら声をかける。
「うれしいのと、怖いのと、混ざってますね」
「……混ざってます」
咲亜矢は、スマートフォンの画面をそっと伏せた。
「ギャラリー佐久間から、個展のお誘いが来まして」
「個展?」
カウンターの中の悠之介も、軽く眉を上げる。
「それは、すごいじゃないか」
「すごい話なんですけど……」
うれしさが先にこみ上げてくる。そのすぐ後ろから、不安が追いかけてきた。
「あのギャラリー、壁にかかるスペース、そんなに広くはないですよね?」
紗菜が、記憶を頼りに尋ねる。
「はい。小さいところなんですけど、それでも、私一人の作品で埋めるとなると、それなりの枚数が必要で」
「準備、大変そうやなあ」
惣菜屋の奥さんが、揚げ物のトングを持ったまま、想像するように目を細める。
「仕事しながらやったら、夜なべ確定コースちゃう?」
「ですよね……」
頭の中で、カレンダーが勝手にめくられていく。
今抱えている会社の仕事。紙月堂や星見商店街から頼まれているデザイン。そこに、個展の準備が加わる。
描きたいものは、山ほどある。
けれど、自分の時間と体力には、限りがある。
「全部やろうとしなくてもいいんじゃないか」
悠之介が、カウンターの中から静かに言った。
「まだ何も決めてないうちから、『全部』って言葉を先に頭に乗せると、それだけでしんどくなる」
「でも、個展って、一生に何回もできるものじゃない気がして」
咲亜矢は、両手でマグカップを包み込んだ。
「せっかくのお話だし、『受けるなら全力で』って思うじゃないですか」
「『全力』って言葉、便利やけど危険でもあるよね」
惣菜屋の奥さんが、からりと揚がったコロッケをトレイに移しながら言う。
「どの鍋も全力で火強くしたら、どれか絶対焦げるもん」
「分かりやすい例え、ありがとうございます」
咲亜矢が、思わず笑う。
「でも、ほんと、そんな感じです。どれか焦がしそうで」
◇
「一回、紙に出してみません?」
紗菜が、カウンターからノートを一冊取り出した。
「例の、『やることリスト』と『やらないことリスト』です」
「あ、あれ、使うんですか」
以前、紙月堂の家賃交渉のときに、帳簿の横に作った二つのリストのことだ。
「個展の話も、『全部やる』か『全部やめる』かの二択じゃなくて、『やること』と『やらないこと』を分けてみるところから始めてもいい気がします」
「……個展なのに、『やらないこと』も決めていいんですか」
「むしろ、決めた方がいいと思います」
紗菜は、さらさらとページの真ん中に縦線を引いた。
「左に『やること』、右に『やらないこと』。全部咲亜矢さんの言葉で」
「やらないことって言われると、『寝ない』って書きそう」
臣全が、冗談半分に言う。
「それ、真っ先に右側から追い出したいんですけど」
咲亜矢は、ペンを受け取って、ページの左上に小さく日付を書いた。
しばらくの沈黙のあと、まず左側に一行が生まれる。
『ギャラリー佐久間で個展を開くこと自体は、やる。』
「そこ、迷ってるんじゃないんですか?」
靖治が、おそるおそる尋ねる。
「迷ってるんですけど、それでも、『やりたい』が勝ってるので」
咲亜矢は、照れくさそうに笑った。
「やりたいって気持ち、紙に書くのは怖いけど、書かないと、どんどん遠ざかっていくので」
「いいと思います」
紗菜が、即座にうなずく。
「『やる』って書いたことで、やっと『どうやってやるか』を考え始められますから」
「じゃあ、次は……」
咲亜矢は、右側のスペースに目を移した。
「『やらないこと』一つ目」
ペン先が、ゆっくりと動く。
『個展の準備のために、睡眠時間を削り続けるのは、やらない。』
「続けるのは、ってところがポイントですね」
悠之介が、文字を覗き込みながら言う。
「一晩くらいは、興奮して寝られない日もあるかもしれないけど、『ずっと』はやらない」
「あと、『締切の前日に全部仕上げる』も、やらないに入れていいですか」
「それはぜひ」
臣全と靖治が、声をそろえた。
「デザインあるあるですけど、それやると絶対に手首の在庫が足りなくなるので」
「手首の在庫?」
「長時間マウス握ると、手首の在庫がゼロになるんです」
咲亜矢の変な言い回しに、店内の空気が少しだけ和らいだ。
「じゃあ、『手首の在庫をゼロにしない』も、やらないことリストに追加しましょう」
紗菜が、冗談混じりに提案する。
『手首の在庫をゼロにしない。』
ページの右側に、二つ目の項目が増えた。
◇
「仕事の方は、どうするつもりなん?」
惣菜屋の奥さんが、現実的なところに話を戻す。
「会社の仕事、普通に続けながら準備するのは、かなりの負担やろ」
「ですよね……」
咲亜矢は、ノートの左側に目を落とした。
『会社の残業を増やしてまで個展の準備をするのは、やらない。』
右側にそう書き加えてから、左側に新しい一行を足す。
『個展の会期中は、会社に事情を話して、定時で上がる日を増やしてもらえるか相談する。』
「ちゃんと会社にも頼る、か」
悠之介が、感心したようにうなずく。
「それ、言いにくいやつやろうけど」
「言いにくいですけど、言わないで倒れたら、もっと迷惑かけるので」
咲亜矢は、小さく苦笑した。
「今までも、『がんばればなんとか』って残業してきたところ、けっこうあるので。今回くらいは、『がんばればなんとか』を封印しようかなって」
「いいと思います」
紗菜が、穏やかな笑みを浮かべる。
「紙月堂の方の仕事も、『個展の準備があるので、会期中はポスターの本数を減らします』って宣言しておきましょう」
「あ、それはさすがに悪いですよ」
「悪くないよ」
悠之介が、きっぱりと言う。
「今までだって、かなり頼りっぱなしだったし。『今回は個展優先で』って言ってもらえた方が、こっちも、どこまで頼んでいいか分かりやすい」
「ですよねえ」
臣全も、すぐに乗ってくる。
「僕も個展用ポスターのお手伝いしますから、その代わり、商店街関係のデザインは一時的に僕が多めに引き取りますよ」
「そんな、悪いですよ」
「さっきから『悪いです』言いすぎ問題ですよ」
靖治が、ツッコミを入れる。
「『悪いです』って思う人ほど、仕事抱え込みがちなので」
「……それは、否定できないかもしれません」
咲亜矢は、自分で書いた「やらないことリスト」の右側を見つめた。
『抱え込んでから「助けて」と言うのは、やらない。』
新しい一行が、そっと増える。
◇
「ところで、個展って、どんな絵を出すつもりなん?」
惣菜屋の奥さんが、目を輝かせる。
「やっぱり、珈琲とかノートとか、商店街モチーフが多いんかな」
「それも描きたいですけど……」
咲亜矢は、少し考えてから、言葉を選んだ。
「『今日のここまで』シリーズを、ちゃんと形にしたいなって思ってます」
「シリーズ?」
靖治が、首をかしげる。
「はい。紙月堂の『今日のここまでメモ』、あるじゃないですか」
カウンター横のノートをちらりと見る。
「ここに書かれた言葉からインスピレーションをもらって、『今日のここまで』の瞬間を切り取った絵を描きたいなって」
「それ、いいな」
悠之介が、ぽつりとつぶやいた。
「『授業の愚痴書いて帰った日』とか、『家賃交渉終わってほっとした日』とか」
「『唐揚げ揚がるまでの十分快適化計画』の日も」
惣菜屋の奥さんが、すぐに乗ってくる。
「個展のタイトル、『今日のここまで展』とかどうです?」
臣全が、すかさずダジャレを仕込む。
「……悪くないですね」
咲亜矢が、意外と真面目な顔でうなずいた。
「タイトル案の『やることリスト』にも入れておきます」
左側のページに、『タイトル候補:「今日のここまで展」』と書き込む。
「個展の準備の仕方自体が、紙月堂っぽいですね」
紗菜が、静かに笑った。
「『全部自分で背負わない』『やらないことも先に決める』『人に頼る』」
「……紙月堂で勉強したこと、ちゃんと試されてますね、私」
咲亜矢は、半分あきれたように、半分うれしそうに肩をすくめた。
「ここまで来たら、『やることリスト』の一番下に、こう書いてもいいですか」
ペン先が、左側の余白に滑る。
『個展の会期中は、紙月堂のポスター制作を減らすことを、ちゃんと言う。』
「それ、大事」
悠之介が、即座に反応する。
「『なんとなく分かってもらえるだろう』は禁止だぞ」
「はい。ちゃんと口に出して言います」
ページを見つめながら、咲亜矢は小さく息を吐いた。
紙の上に並んだ「やること」と「やらないこと」。
それは、個展そのものよりも、むしろ自分の生き方をあらためて見直す作業に近かった。
◇
その日の夜。
帰り際に、咲亜矢は「今日のここまでメモ」のノートにペンを走らせた。
『個展の話、全部抱え込まずに話せた。』
その一行だけ残して、ペンを置く。
「……ここから先は、また明日考えるか」
昼間、悠之介が書いた言葉を真似して、小さくつぶやいた。
ガラス戸の向こうでは、星見商店街の街灯が、いつものように通りを照らしている。
個展のことも、仕事のことも、商店街のことも。
一度に全部は抱えきれない。
だからこそ、「今日のここまで」を決める場所が、自分には必要だ。
紙月堂の灯りを背中に感じながら、咲亜矢は、ギャラリー佐久間への返信に書く言葉を心の中でゆっくり選び始めた。
紙月堂の奥の席で、咲亜矢はノートパソコンに向かっていた。画面には、いつものようにレイアウトソフトのウィンドウがいくつも重なっている。商店街の灯りルート用ポスターの案、紙月堂の「今日の相談タイム」札の試作、亜友堂の出張スケジュールのお知らせ――。
「……あ、やば」
カップの縁を、ミルクが静かに乗り越え始めていた。
「店長、ミルク!」
「おっと」
カウンターの中で、悠之介が慌てて火を弱める。
紙月堂の午後は、だいたいこんなふうに、小さな慌ただしさと、ゆるい会話に満ちている。
咲亜矢のスマートフォンが、テーブルの上で小さく震えたのは、その直後だった。
画面に表示された差出人の名前を見て、彼女は思わず姿勢を正す。
「……ギャラリー佐久間?」
星見商店街から少し離れた坂の上に、小さなギャラリーがある。咲亜矢が時々、ポストカードを委託販売している場所だ。
メッセージを開く指先が、ほんの少しだけ震える。
『咲亜矢さん、こんにちは。
春頃に、うちのギャラリーで小さな個展を開きませんか?』
短い文面の中に、「個展」という二文字だけが、やけに大きく見えた。
「こ、こてん……」
思わず声に出してしまう。
「何か、こってりしたもの食べたくなりました?」
隣の席で図面を広げていた臣全が、すかさず反応した。
「いや、『こってり』じゃなくて『こてん』」
「油淋鶏じゃないんですか」
「どんな聞き間違いですか」
思わず突っ込みながらも、心臓の鼓動は早くなる一方だった。
個展。
自分の絵やデザインだけで壁を埋める場。学生の頃から、いつかできたらいいなと、どこか遠くの夢のように思っていたもの。
その「いつか」が、突然、具体的な季節と一緒に提示された。
◇
「咲亜矢ちゃん、顔がいつもより情報量多いで」
カウンター越しに様子を見ていた惣菜屋の奥さんが、笑いながら声をかける。
「うれしいのと、怖いのと、混ざってますね」
「……混ざってます」
咲亜矢は、スマートフォンの画面をそっと伏せた。
「ギャラリー佐久間から、個展のお誘いが来まして」
「個展?」
カウンターの中の悠之介も、軽く眉を上げる。
「それは、すごいじゃないか」
「すごい話なんですけど……」
うれしさが先にこみ上げてくる。そのすぐ後ろから、不安が追いかけてきた。
「あのギャラリー、壁にかかるスペース、そんなに広くはないですよね?」
紗菜が、記憶を頼りに尋ねる。
「はい。小さいところなんですけど、それでも、私一人の作品で埋めるとなると、それなりの枚数が必要で」
「準備、大変そうやなあ」
惣菜屋の奥さんが、揚げ物のトングを持ったまま、想像するように目を細める。
「仕事しながらやったら、夜なべ確定コースちゃう?」
「ですよね……」
頭の中で、カレンダーが勝手にめくられていく。
今抱えている会社の仕事。紙月堂や星見商店街から頼まれているデザイン。そこに、個展の準備が加わる。
描きたいものは、山ほどある。
けれど、自分の時間と体力には、限りがある。
「全部やろうとしなくてもいいんじゃないか」
悠之介が、カウンターの中から静かに言った。
「まだ何も決めてないうちから、『全部』って言葉を先に頭に乗せると、それだけでしんどくなる」
「でも、個展って、一生に何回もできるものじゃない気がして」
咲亜矢は、両手でマグカップを包み込んだ。
「せっかくのお話だし、『受けるなら全力で』って思うじゃないですか」
「『全力』って言葉、便利やけど危険でもあるよね」
惣菜屋の奥さんが、からりと揚がったコロッケをトレイに移しながら言う。
「どの鍋も全力で火強くしたら、どれか絶対焦げるもん」
「分かりやすい例え、ありがとうございます」
咲亜矢が、思わず笑う。
「でも、ほんと、そんな感じです。どれか焦がしそうで」
◇
「一回、紙に出してみません?」
紗菜が、カウンターからノートを一冊取り出した。
「例の、『やることリスト』と『やらないことリスト』です」
「あ、あれ、使うんですか」
以前、紙月堂の家賃交渉のときに、帳簿の横に作った二つのリストのことだ。
「個展の話も、『全部やる』か『全部やめる』かの二択じゃなくて、『やること』と『やらないこと』を分けてみるところから始めてもいい気がします」
「……個展なのに、『やらないこと』も決めていいんですか」
「むしろ、決めた方がいいと思います」
紗菜は、さらさらとページの真ん中に縦線を引いた。
「左に『やること』、右に『やらないこと』。全部咲亜矢さんの言葉で」
「やらないことって言われると、『寝ない』って書きそう」
臣全が、冗談半分に言う。
「それ、真っ先に右側から追い出したいんですけど」
咲亜矢は、ペンを受け取って、ページの左上に小さく日付を書いた。
しばらくの沈黙のあと、まず左側に一行が生まれる。
『ギャラリー佐久間で個展を開くこと自体は、やる。』
「そこ、迷ってるんじゃないんですか?」
靖治が、おそるおそる尋ねる。
「迷ってるんですけど、それでも、『やりたい』が勝ってるので」
咲亜矢は、照れくさそうに笑った。
「やりたいって気持ち、紙に書くのは怖いけど、書かないと、どんどん遠ざかっていくので」
「いいと思います」
紗菜が、即座にうなずく。
「『やる』って書いたことで、やっと『どうやってやるか』を考え始められますから」
「じゃあ、次は……」
咲亜矢は、右側のスペースに目を移した。
「『やらないこと』一つ目」
ペン先が、ゆっくりと動く。
『個展の準備のために、睡眠時間を削り続けるのは、やらない。』
「続けるのは、ってところがポイントですね」
悠之介が、文字を覗き込みながら言う。
「一晩くらいは、興奮して寝られない日もあるかもしれないけど、『ずっと』はやらない」
「あと、『締切の前日に全部仕上げる』も、やらないに入れていいですか」
「それはぜひ」
臣全と靖治が、声をそろえた。
「デザインあるあるですけど、それやると絶対に手首の在庫が足りなくなるので」
「手首の在庫?」
「長時間マウス握ると、手首の在庫がゼロになるんです」
咲亜矢の変な言い回しに、店内の空気が少しだけ和らいだ。
「じゃあ、『手首の在庫をゼロにしない』も、やらないことリストに追加しましょう」
紗菜が、冗談混じりに提案する。
『手首の在庫をゼロにしない。』
ページの右側に、二つ目の項目が増えた。
◇
「仕事の方は、どうするつもりなん?」
惣菜屋の奥さんが、現実的なところに話を戻す。
「会社の仕事、普通に続けながら準備するのは、かなりの負担やろ」
「ですよね……」
咲亜矢は、ノートの左側に目を落とした。
『会社の残業を増やしてまで個展の準備をするのは、やらない。』
右側にそう書き加えてから、左側に新しい一行を足す。
『個展の会期中は、会社に事情を話して、定時で上がる日を増やしてもらえるか相談する。』
「ちゃんと会社にも頼る、か」
悠之介が、感心したようにうなずく。
「それ、言いにくいやつやろうけど」
「言いにくいですけど、言わないで倒れたら、もっと迷惑かけるので」
咲亜矢は、小さく苦笑した。
「今までも、『がんばればなんとか』って残業してきたところ、けっこうあるので。今回くらいは、『がんばればなんとか』を封印しようかなって」
「いいと思います」
紗菜が、穏やかな笑みを浮かべる。
「紙月堂の方の仕事も、『個展の準備があるので、会期中はポスターの本数を減らします』って宣言しておきましょう」
「あ、それはさすがに悪いですよ」
「悪くないよ」
悠之介が、きっぱりと言う。
「今までだって、かなり頼りっぱなしだったし。『今回は個展優先で』って言ってもらえた方が、こっちも、どこまで頼んでいいか分かりやすい」
「ですよねえ」
臣全も、すぐに乗ってくる。
「僕も個展用ポスターのお手伝いしますから、その代わり、商店街関係のデザインは一時的に僕が多めに引き取りますよ」
「そんな、悪いですよ」
「さっきから『悪いです』言いすぎ問題ですよ」
靖治が、ツッコミを入れる。
「『悪いです』って思う人ほど、仕事抱え込みがちなので」
「……それは、否定できないかもしれません」
咲亜矢は、自分で書いた「やらないことリスト」の右側を見つめた。
『抱え込んでから「助けて」と言うのは、やらない。』
新しい一行が、そっと増える。
◇
「ところで、個展って、どんな絵を出すつもりなん?」
惣菜屋の奥さんが、目を輝かせる。
「やっぱり、珈琲とかノートとか、商店街モチーフが多いんかな」
「それも描きたいですけど……」
咲亜矢は、少し考えてから、言葉を選んだ。
「『今日のここまで』シリーズを、ちゃんと形にしたいなって思ってます」
「シリーズ?」
靖治が、首をかしげる。
「はい。紙月堂の『今日のここまでメモ』、あるじゃないですか」
カウンター横のノートをちらりと見る。
「ここに書かれた言葉からインスピレーションをもらって、『今日のここまで』の瞬間を切り取った絵を描きたいなって」
「それ、いいな」
悠之介が、ぽつりとつぶやいた。
「『授業の愚痴書いて帰った日』とか、『家賃交渉終わってほっとした日』とか」
「『唐揚げ揚がるまでの十分快適化計画』の日も」
惣菜屋の奥さんが、すぐに乗ってくる。
「個展のタイトル、『今日のここまで展』とかどうです?」
臣全が、すかさずダジャレを仕込む。
「……悪くないですね」
咲亜矢が、意外と真面目な顔でうなずいた。
「タイトル案の『やることリスト』にも入れておきます」
左側のページに、『タイトル候補:「今日のここまで展」』と書き込む。
「個展の準備の仕方自体が、紙月堂っぽいですね」
紗菜が、静かに笑った。
「『全部自分で背負わない』『やらないことも先に決める』『人に頼る』」
「……紙月堂で勉強したこと、ちゃんと試されてますね、私」
咲亜矢は、半分あきれたように、半分うれしそうに肩をすくめた。
「ここまで来たら、『やることリスト』の一番下に、こう書いてもいいですか」
ペン先が、左側の余白に滑る。
『個展の会期中は、紙月堂のポスター制作を減らすことを、ちゃんと言う。』
「それ、大事」
悠之介が、即座に反応する。
「『なんとなく分かってもらえるだろう』は禁止だぞ」
「はい。ちゃんと口に出して言います」
ページを見つめながら、咲亜矢は小さく息を吐いた。
紙の上に並んだ「やること」と「やらないこと」。
それは、個展そのものよりも、むしろ自分の生き方をあらためて見直す作業に近かった。
◇
その日の夜。
帰り際に、咲亜矢は「今日のここまでメモ」のノートにペンを走らせた。
『個展の話、全部抱え込まずに話せた。』
その一行だけ残して、ペンを置く。
「……ここから先は、また明日考えるか」
昼間、悠之介が書いた言葉を真似して、小さくつぶやいた。
ガラス戸の向こうでは、星見商店街の街灯が、いつものように通りを照らしている。
個展のことも、仕事のことも、商店街のことも。
一度に全部は抱えきれない。
だからこそ、「今日のここまで」を決める場所が、自分には必要だ。
紙月堂の灯りを背中に感じながら、咲亜矢は、ギャラリー佐久間への返信に書く言葉を心の中でゆっくり選び始めた。
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