鎌倉青春シンフォニー:笑顔の鎧を脱ぎ捨てて、私たちは波を乗りこなす

乾為天女

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第8章「優しさの訳し方」(01/End)

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 古書店《紙魚堂》の扉をくぐった瞬間、サラは目を丸くした。
「わあ……まるで、時間が止まったみたい」
 店内には、時の堆積のように本が並んでいた。黄ばんだ文庫、分厚い全集、紙魚の這った跡のある児童書。どれも使い込まれた紙のにおいがして、今どきの本屋とは明らかに空気が違っていた。
「ここって、こんなに落ち着く場所だったんだ……スマホで見るとただの点なのに」
「うん。人間って、検索で出ない“ぬくもり”を、忘れてるときあるよね」
 香澄はそう言って、棚の奥から一冊の絵本を取り出した。表紙は少し剥がれかけていて、手描きの動物たちが並んでいる。
「これ、今は絶版だけど、すごく人気だった。日本の小学生の半分は読んでた時代があるって言われてる」
「……ほんと? でも、絵が優しい」
 サラはページをめくり、ぱらぱらと目を通した。言葉はわからなくても、イラストの表情だけで物語の流れが見えてくる。
 その目が、ふと止まる。
 描かれていたのは、森の奥でひとりぼっちのウサギが、空を見上げている絵だった。
「……これ、“I'm okay”って言いたそうに見える」
 サラはぽつりとつぶやいた。
 香澄は、その言葉に小さく反応する。
「“I'm okay”って、ほんとは“I'm not”の裏返し、ってこと?」
「うん……たまに、ね。とくに、ホームじゃない場所にいるときは」
 サラの視線が、本ではなく空間を見ていた。天井の蛍光灯、静かな店内、誰の目にも映らない“距離”のことを見ていた。
「……寂しい?」
 香澄が、唐突に尋ねた。
 それは誰にも言われたことのない質問の投げ方だった。言葉の上手さではなく、“観察した末の直感”が放つ、まっすぐな問い。
 サラは、目をそらしそうになった。
 けれど——そらさなかった。
「少し、ね。言葉って、わたしには“音”だから。意味が届く前に、“ひとりぼっち”が聞こえるときがあるの」
「……そっか。だからさっき、笑ったあとに視線が沈んだんだ」
「えっ?」
「さっきの角。あなた、迷ってたときは人を探してたけど、笑ったあとは少し“終わって”た」
 サラは、ぽかんとした表情で香澄を見た。
 そして、急に笑った。
「あなた、ちょっと怖いけど、すごく……なんて言うのかな、あったかい」
「“観察魔”って呼ばれてる。自称だけど」
「ふふっ、それ、悪くないね」
 ふたりは絵本を棚に戻し、古書店をあとにした。
 そのまま、通りを抜けて、路地裏の喫茶店へ。
 香澄のおすすめの店。「和訳不要の時間」とでも呼べそうな、静かで香ばしい空間だった。
 角砂糖を二つ入れたコーヒーをサラがすすりながら、ぽつりと言った。
「たぶん、言葉で訳すより、こうやって並んで飲むほうが……寂しくなくなるんだね」
 香澄は頷く。
「うん。“言葉の訳”より、“気持ちの間”の方が伝わることってあると思う」
 そのテーブルに、会話はもう必要なかった。
 ふたりは、ただ静かに時間を分け合っていた。
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