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第38章 図書館の静寂、ふたりの灯
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十一月の夜。図書館の自習席に灯るのは、白く小さなデスクライトだけだった。
大学構内はすっかり冷え込んでいた。窓ガラスの向こうで木々が風にざわつくたび、空調の効いた室内がやけに温かく感じられる。
恭平は、望愛の隣に静かに腰掛けていた。ノートパソコンの画面に浮かぶ再試験の要点を目で追いながら、鉛筆を手にメモを取っている。隣では望愛が、ペンを握り締めたまま、じっとページを見つめていた。
──一文字も動かない。
それに気づいた恭平が、ごくわずかにペンを止めた。だが、声はかけなかった。
いつもなら、「どうした?」とか、「疲れたなら一回休もうよ」とか、笑顔混じりで言ってしまうところだ。でも今夜の望愛には、その“優しさ”すらも、きっと重い。
パタン。
望愛のペンが机に置かれた。けれど、ノートは閉じられなかった。彼女の指先はまだ、ページの端を震えながら押さえている。
「……終わらせる」
その声は、とても小さくて、それでも芯のある響きがあった。
「意地でも、終わらせるから」
望愛が、口を引き結んで言った。瞳は赤く、乾いていた。涙ではなく、眠気と緊張と、自分自身との戦いで乾ききった目だった。
恭平はそれに応えるように、何も言わず、ペンを走らせ始める。
ふたりの間に、また静寂が降りた。
それは冷たい沈黙ではなかった。緊張でもなかった。ただひたすらに、支え合うための静けさだった。
ページをめくる音、シャープペンの芯が紙をこする音、誰かの咳払い――そんな断片的な音だけが、図書館の深夜をかすかに満たしている。
望愛は数秒ごとに肩を揺らす。緊張と疲労が交差し、うまく集中できないのが傍目にもわかった。けれど彼女は、ノートに視線を落とし続ける。
その姿を、恭平は肩越しにそっと見つめた。黙っているけれど、心の中では拍手を送っているような穏やかな目だった。
(すごいな、望愛。ちゃんと、向き合ってる)
いつもの望愛なら、途中で放り出しても不思議じゃない状況だった。けれど今夜は違った。何度もペンを止め、頭を抱え、それでも立ち上がっては再び座り直し、ページに向かい続けている。
深夜の図書館という場所も、不思議とその努力に似合っていた。薄明かりと静けさが、誰にも知られない“戦い”をそっと包んでいる。
恭平は、ページの右上に走り書きで「復習◎」と丸をつけ、静かに呟いた。
「あと二十問。……一緒に、最後までいこう」
望愛はゆっくり顔を上げた。眠たそうな目の奥に、かすかな光が宿っている。頷きこそしなかったが、それだけで十分だった。
──二人は、何も交わさずとも通じ合っていた。
時間が過ぎるにつれて、望愛のペンの動きが少しずつリズムを持ち始める。最初の文字は歪んでいたが、数分後には線に迷いがなくなっていた。まるで、自分の不安や迷いを、ひとつずつ文字に変えて塗りつぶしているようだった。
そして二時間後。
パタン、と静かな音を立てて、望愛がノートを閉じた。
深呼吸がひとつ、夜の空気に溶けた。
「終わった……全部、やった……」
望愛は机に伏せるようにしてつぶやいた。けれどその顔には、諦めの影はなかった。むしろ、口元がわずかに緩んでいた。
「おつかれさま」
恭平が、静かに声をかける。照明が彼の横顔を柔らかく照らし出し、その笑みには、いつもの“おちゃらけ”とは違う、心からの敬意が滲んでいた。
望愛はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げて言った。
「ねぇ、私……ちょっとだけ、変われたかな」
「うん。変わったよ」
恭平の答えは即答だった。言葉には迷いがなかった。
「今日の望愛、途中で逃げなかった。最後までやりきった。それだけで、すごくすごく、かっこよかった」
望愛の頬が赤くなる。けれどそれを隠すことなく、彼女は天井を見上げて、天井の電球の光をぼんやりと受け止めた。
「でも……こわいのは、まだあるよ。明日、またサボりたくなったらどうしようって、思ってる」
「いいじゃん、それでも。こわがりながらでも、また今日みたいに戻ってこれたら、それで充分だよ」
そう言って、恭平はノートをバッグにしまいながら立ち上がる。
望愛もつられるように立ち上がり、バッグを肩にかけた。
「……今夜だけは、自分にご褒美あげてもいいかな」
「うん。じゃあ、コンビニでアイス買って帰ろう。甘いのと、しょっぱいのと、どっちがいい?」
望愛は少し悩んで、言った。
「……両方」
二人は小さく笑い合って、図書館の出口へと歩き出す。自動ドアが静かに開き、夜の空気がふたりの間を通り抜けた。
夜はまだ冷たかったが、望愛の足取りはどこか軽やかだった。
(End)【第38章完】
大学構内はすっかり冷え込んでいた。窓ガラスの向こうで木々が風にざわつくたび、空調の効いた室内がやけに温かく感じられる。
恭平は、望愛の隣に静かに腰掛けていた。ノートパソコンの画面に浮かぶ再試験の要点を目で追いながら、鉛筆を手にメモを取っている。隣では望愛が、ペンを握り締めたまま、じっとページを見つめていた。
──一文字も動かない。
それに気づいた恭平が、ごくわずかにペンを止めた。だが、声はかけなかった。
いつもなら、「どうした?」とか、「疲れたなら一回休もうよ」とか、笑顔混じりで言ってしまうところだ。でも今夜の望愛には、その“優しさ”すらも、きっと重い。
パタン。
望愛のペンが机に置かれた。けれど、ノートは閉じられなかった。彼女の指先はまだ、ページの端を震えながら押さえている。
「……終わらせる」
その声は、とても小さくて、それでも芯のある響きがあった。
「意地でも、終わらせるから」
望愛が、口を引き結んで言った。瞳は赤く、乾いていた。涙ではなく、眠気と緊張と、自分自身との戦いで乾ききった目だった。
恭平はそれに応えるように、何も言わず、ペンを走らせ始める。
ふたりの間に、また静寂が降りた。
それは冷たい沈黙ではなかった。緊張でもなかった。ただひたすらに、支え合うための静けさだった。
ページをめくる音、シャープペンの芯が紙をこする音、誰かの咳払い――そんな断片的な音だけが、図書館の深夜をかすかに満たしている。
望愛は数秒ごとに肩を揺らす。緊張と疲労が交差し、うまく集中できないのが傍目にもわかった。けれど彼女は、ノートに視線を落とし続ける。
その姿を、恭平は肩越しにそっと見つめた。黙っているけれど、心の中では拍手を送っているような穏やかな目だった。
(すごいな、望愛。ちゃんと、向き合ってる)
いつもの望愛なら、途中で放り出しても不思議じゃない状況だった。けれど今夜は違った。何度もペンを止め、頭を抱え、それでも立ち上がっては再び座り直し、ページに向かい続けている。
深夜の図書館という場所も、不思議とその努力に似合っていた。薄明かりと静けさが、誰にも知られない“戦い”をそっと包んでいる。
恭平は、ページの右上に走り書きで「復習◎」と丸をつけ、静かに呟いた。
「あと二十問。……一緒に、最後までいこう」
望愛はゆっくり顔を上げた。眠たそうな目の奥に、かすかな光が宿っている。頷きこそしなかったが、それだけで十分だった。
──二人は、何も交わさずとも通じ合っていた。
時間が過ぎるにつれて、望愛のペンの動きが少しずつリズムを持ち始める。最初の文字は歪んでいたが、数分後には線に迷いがなくなっていた。まるで、自分の不安や迷いを、ひとつずつ文字に変えて塗りつぶしているようだった。
そして二時間後。
パタン、と静かな音を立てて、望愛がノートを閉じた。
深呼吸がひとつ、夜の空気に溶けた。
「終わった……全部、やった……」
望愛は机に伏せるようにしてつぶやいた。けれどその顔には、諦めの影はなかった。むしろ、口元がわずかに緩んでいた。
「おつかれさま」
恭平が、静かに声をかける。照明が彼の横顔を柔らかく照らし出し、その笑みには、いつもの“おちゃらけ”とは違う、心からの敬意が滲んでいた。
望愛はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げて言った。
「ねぇ、私……ちょっとだけ、変われたかな」
「うん。変わったよ」
恭平の答えは即答だった。言葉には迷いがなかった。
「今日の望愛、途中で逃げなかった。最後までやりきった。それだけで、すごくすごく、かっこよかった」
望愛の頬が赤くなる。けれどそれを隠すことなく、彼女は天井を見上げて、天井の電球の光をぼんやりと受け止めた。
「でも……こわいのは、まだあるよ。明日、またサボりたくなったらどうしようって、思ってる」
「いいじゃん、それでも。こわがりながらでも、また今日みたいに戻ってこれたら、それで充分だよ」
そう言って、恭平はノートをバッグにしまいながら立ち上がる。
望愛もつられるように立ち上がり、バッグを肩にかけた。
「……今夜だけは、自分にご褒美あげてもいいかな」
「うん。じゃあ、コンビニでアイス買って帰ろう。甘いのと、しょっぱいのと、どっちがいい?」
望愛は少し悩んで、言った。
「……両方」
二人は小さく笑い合って、図書館の出口へと歩き出す。自動ドアが静かに開き、夜の空気がふたりの間を通り抜けた。
夜はまだ冷たかったが、望愛の足取りはどこか軽やかだった。
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