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第50章 横須賀線車内
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車内は静まり返っていた。
ドアの外には、深く積もった雪と吹きつける風の音。照明は非常灯に切り替わり、薄暗いオレンジ色の光だけが、乗客の影をゆらゆらと伸ばしていた。
「……ほんとに、止まったんだね」
望愛が、座席に小さくうずくまりながら呟いた。
車内アナウンスは「復旧の目処が立たず」とだけ繰り返し、乗務員の姿も見えない。時刻はすでに23時を回っていた。
「うん。でも、外出るのは危ない。線路沿いに降りて、滑ったら一巻の終わりだよ」
そう答えた恭平は、非常灯の下でじっとスマホを見ていた。通信は断続的で、ルート検索もGPSも役に立たない。
望愛は上着のフードを深くかぶり、腕を抱えて震えていた。
「……今日、厚着してって言われてたのに、面倒で聞かなかった」
「うん、俺も手袋忘れた。おそろいだね」
そんなときでも、恭平はやわらかく笑った。
だがその笑顔に、今の望愛はうまく応えられなかった。動かない車両、雪の夜、先の見えない時間。まるで閉じ込められた世界にいるみたいで、胸の奥にじんわりと冷たいものが広がっていく。
「……帰れなかったら、どうしよう」
その声は、ほとんど囁きだった。けれど恭平はすぐに聞き取った。
彼は自分のマフラーを静かに外し、望愛の首元にそっと巻いた。
「じゃあ、俺が送ってく。歩いてでも」
「でも、地図も見れないし……」
「見れないなら、空見よ」
望愛が顔を上げると、恭平は自分のスマホを持ち上げて、微弱な光で窓の外を照らした。そこには雪が吹きつける中、ぼんやりと浮かび上がる案内標識。駅名が、かろうじて読めた。
「……あと1.8kmだ。駅の外に出れば、通りもある。タクシーは無理でも、歩ける距離だよ」
「……ほんとに?」
「ほんと。望愛が寒さに負けなければ、だけど」
その挑発に、思わず唇が釣り上がる。
「じゃあ、負けない」
望愛は立ち上がった。足は少し震えていたが、心は前よりも少しだけ、あたたかかった。
恭平が先に非常ドアへ歩き、備え付けの非常ボタンを押す。開いた扉の先には、ひざ下まで積もった雪と、まだ止まぬ風が吹いていた。
「手、握ってていい?」
その言葉に、恭平は振り返って小さくうなずく。
「もちろん」
二人は、手をしっかりと握り合った。
そして、踏み出す。雪の上に、ふたつの足跡が並んで刻まれていく。
この足跡が、未来のどこへ続くのかはまだわからない。けれど今は、それでよかった。凍える夜の中で、たしかにあたたかいものが、ふたりを包んでいた。
「……ねえ、恭平」
「ん?」
「マフラー、ありがと。でも……もう片方も、ちゃんと巻いてよ。風、入ってくるから」
「そっか、じゃあ……」
彼は望愛の後ろにまわり、そっと両端を引き寄せて結んだ。
不意に近づいた距離、吐息の温度。望愛の頬が少しだけ紅く染まった。
「……あったかい」
その声は、ささやくようで、それでも雪を溶かすほど強かった。
――夜道の中、ふたりの影が、ぴたりと重なって歩いていく。
(第50章/完)
ドアの外には、深く積もった雪と吹きつける風の音。照明は非常灯に切り替わり、薄暗いオレンジ色の光だけが、乗客の影をゆらゆらと伸ばしていた。
「……ほんとに、止まったんだね」
望愛が、座席に小さくうずくまりながら呟いた。
車内アナウンスは「復旧の目処が立たず」とだけ繰り返し、乗務員の姿も見えない。時刻はすでに23時を回っていた。
「うん。でも、外出るのは危ない。線路沿いに降りて、滑ったら一巻の終わりだよ」
そう答えた恭平は、非常灯の下でじっとスマホを見ていた。通信は断続的で、ルート検索もGPSも役に立たない。
望愛は上着のフードを深くかぶり、腕を抱えて震えていた。
「……今日、厚着してって言われてたのに、面倒で聞かなかった」
「うん、俺も手袋忘れた。おそろいだね」
そんなときでも、恭平はやわらかく笑った。
だがその笑顔に、今の望愛はうまく応えられなかった。動かない車両、雪の夜、先の見えない時間。まるで閉じ込められた世界にいるみたいで、胸の奥にじんわりと冷たいものが広がっていく。
「……帰れなかったら、どうしよう」
その声は、ほとんど囁きだった。けれど恭平はすぐに聞き取った。
彼は自分のマフラーを静かに外し、望愛の首元にそっと巻いた。
「じゃあ、俺が送ってく。歩いてでも」
「でも、地図も見れないし……」
「見れないなら、空見よ」
望愛が顔を上げると、恭平は自分のスマホを持ち上げて、微弱な光で窓の外を照らした。そこには雪が吹きつける中、ぼんやりと浮かび上がる案内標識。駅名が、かろうじて読めた。
「……あと1.8kmだ。駅の外に出れば、通りもある。タクシーは無理でも、歩ける距離だよ」
「……ほんとに?」
「ほんと。望愛が寒さに負けなければ、だけど」
その挑発に、思わず唇が釣り上がる。
「じゃあ、負けない」
望愛は立ち上がった。足は少し震えていたが、心は前よりも少しだけ、あたたかかった。
恭平が先に非常ドアへ歩き、備え付けの非常ボタンを押す。開いた扉の先には、ひざ下まで積もった雪と、まだ止まぬ風が吹いていた。
「手、握ってていい?」
その言葉に、恭平は振り返って小さくうなずく。
「もちろん」
二人は、手をしっかりと握り合った。
そして、踏み出す。雪の上に、ふたつの足跡が並んで刻まれていく。
この足跡が、未来のどこへ続くのかはまだわからない。けれど今は、それでよかった。凍える夜の中で、たしかにあたたかいものが、ふたりを包んでいた。
「……ねえ、恭平」
「ん?」
「マフラー、ありがと。でも……もう片方も、ちゃんと巻いてよ。風、入ってくるから」
「そっか、じゃあ……」
彼は望愛の後ろにまわり、そっと両端を引き寄せて結んだ。
不意に近づいた距離、吐息の温度。望愛の頬が少しだけ紅く染まった。
「……あったかい」
その声は、ささやくようで、それでも雪を溶かすほど強かった。
――夜道の中、ふたりの影が、ぴたりと重なって歩いていく。
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