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第51章 大学講義室
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講義棟二階の、使い慣れた一室。冬の午前日差しが、古びたブラインド越しに斜めに差し込んでいる。
「よし、全員集合ね。じゃ、始めるよ」
彩希の手元には、びっしりと書き込まれた進行表。全体で三名、持ち時間は一人七分。質疑応答込みで合計三十分以内に収めるのが今日の目標だ。
香澄はというと、既にプロジェクターの前に立ち、なにやら小声で自分のスライドに語りかけている。
「ほら、見て見て。この植物の気根、まるで迷子になった子供の手みたい。導くような構造が――」
「香澄、その話いつの間にスライドに入れたの?」
「あれ? 入ってなかった? でも絶対ここで喋りたくなっちゃうから、今のうちに練習を」
「練習じゃなくて、本番を意識して。七分に収めるのが条件だってば」
彩希が手元のストップウォッチを握り締め、ぴっと音を鳴らした。
「よーい、スタート!」
香澄は少し眉をひそめつつも、スライドの一枚目に戻って話し始める。
「えーと……私の研究テーマは、“植物の自己防衛反応におけるフェロモンの役割”です。たとえば――」
話し始めると香澄は饒舌だった。自分が本当に好きなことについて語っているときの彼女は、滑らかで、熱を帯びていて、少し不思議な比喩で彩られていた。
「たとえばこのトマトは、隣のトマトが青虫に食われると、涙を流すように――」
「香澄! ちょ、ストップ! 今の、完全に五分オーバー」
彩希が手を挙げると、香澄はぽかんと口を開けた。
「え……もうそんなに?」
「面白い話なんだけど、観察日記じゃないんだから。実験結果と考察に絞って、あとはメタファーは一個だけに」
「じゃあ、“涙を流す”のほうを残すね。あれ、気に入ってた」
そのやり取りを、教室後方の席でにこやかに眺めていた良輔が、立ち上がった。
「香澄の発表、今のも面白かったよ。語り口が柔らかいから、植物の世界が近くに感じられた。けど、観客が混乱しないように、話の軸はぶらさないほうがいいかもね」
「ありがとう。じゃあ、次は良輔?」
「ううん、彩希に先行ってもらいたいな。彼女の発表、実は前からちょっと楽しみにしてて」
「そう? なら、遠慮なく行くよ」
彩希が立ち、リモコンを手にスライドを切り替えた。画面には、明快なフォントで「大学生の時間管理傾向と課題提出率の相関性」と表示されている。
「今回の調査では、課題提出を滞らせがちな学生と、きちんと締切を守る学生の生活習慣を比較してみました。データの取得は――」
その語りは端的で、余計な脱線が一切ない。けれど冷たい印象を与えないのは、彼女が時折入れる笑顔と、スライドの端に添えた「みんなの声」コメントのやわらかさだった。
時間はきっかり六分五十秒。
「……以上です。ご清聴ありがとうございました」
「タイム、ばっちり」
「うん、さすが彩希。内容も明快だったし、“朝型と夜型で差が出る”という示唆も面白いと思った」
良輔が穏やかに拍手を送る。
「じゃあ、最後は僕の番だね」
彼が立ち上がると、空気がふっとやわらぐような気配がした。
良輔がスクリーン前に立つと、彼の動作は静かで丁寧だった。MacBookのカーソルをひとつスライドに合わせ、深呼吸する。
「僕のテーマは“大学生活における非言語的コミュニケーションの効果と、その促進要因について”です」
声は大きくないが、教室にきちんと届く音量だった。スクリーンに映るのは、校内で撮影されたスナップ写真の数々。誰かが誰かに肩を貸し、笑い、目を合わせ、沈黙を共有している――言葉がないのに、伝わっているという瞬間が切り取られていた。
「たとえば、こちら」
画面が切り替わり、屋上のベンチで、誰かの隣に静かに腰かけている後ろ姿。見覚えがある。望愛と旭だ。
「これは、相手が話したくなるまで待つ“寄り添い型コミュニケーション”の例です。言葉を使わない安心感が、対話への入口を開く――そんな事例を、今回の研究でたくさん見つけました」
話しながらも、良輔は時折、聞いている彩希と香澄の方を見やった。ちゃんと伝わっているか、届いているかを確かめるように。
その視線が柔らかくて、香澄がそっと呟いた。
「……これ、泣けちゃうかも」
「早いって、まだ途中だよ」
彩希が、やや鼻をすすりながらも笑う。
良輔は締めに入った。
「僕がこのテーマを選んだのは、みんなの会話にいつも“伝わってる気がする”って思ったからです。うまく言えないけど、そう感じる瞬間が、大学生活にはあった。僕はそれを、記録に残しておきたかった」
スライドの最後にはこう記されていた。
「言葉より、行動と間」
ストップウォッチの針が止まり、表示は06:58。
「ジャストじゃん」
香澄が手を叩いた。
「すごい……こんな風に発表ができたら、教授たちもびっくりだね」
「うん。良輔のは、データが優しく語ってくれてた。すごく良かった」
彩希がしっかりと頷く。
その言葉に、良輔はふっと笑った。
「ありがとう。でも、僕はどちらかというと、二人の個性の掛け合いを見てるほうが楽しかったな。彩希の時間管理と、香澄の迷走トマトの話、両方があって今日があるっていうか」
「迷走トマトって、名前ひどくない……」
苦笑する香澄の横で、彩希がもう一度スライドチェックを始めた。
「全員、スライド提出は午後三時まで。印刷ミスとタイトルのフォント抜けに気をつけてね」
「はーい。あと、昼ごはんどうする?」
「私はお弁当あるよ。香澄は?」
「今日はパン。すっごく甘いやつ。トマトの呪いを抜くには糖分が必要だし」
「それ、さっきのメタファーより意味不明だけど……まあ、うん、行こっか」
三人は並んで教室を出る。廊下の窓からは、澄んだ空気の先に、湘南の海がきらりと光って見えた。
今日という日を、三人は――「予定通り」に、だけどそれぞれのやり方で、しっかりと進めていた。
「よし、全員集合ね。じゃ、始めるよ」
彩希の手元には、びっしりと書き込まれた進行表。全体で三名、持ち時間は一人七分。質疑応答込みで合計三十分以内に収めるのが今日の目標だ。
香澄はというと、既にプロジェクターの前に立ち、なにやら小声で自分のスライドに語りかけている。
「ほら、見て見て。この植物の気根、まるで迷子になった子供の手みたい。導くような構造が――」
「香澄、その話いつの間にスライドに入れたの?」
「あれ? 入ってなかった? でも絶対ここで喋りたくなっちゃうから、今のうちに練習を」
「練習じゃなくて、本番を意識して。七分に収めるのが条件だってば」
彩希が手元のストップウォッチを握り締め、ぴっと音を鳴らした。
「よーい、スタート!」
香澄は少し眉をひそめつつも、スライドの一枚目に戻って話し始める。
「えーと……私の研究テーマは、“植物の自己防衛反応におけるフェロモンの役割”です。たとえば――」
話し始めると香澄は饒舌だった。自分が本当に好きなことについて語っているときの彼女は、滑らかで、熱を帯びていて、少し不思議な比喩で彩られていた。
「たとえばこのトマトは、隣のトマトが青虫に食われると、涙を流すように――」
「香澄! ちょ、ストップ! 今の、完全に五分オーバー」
彩希が手を挙げると、香澄はぽかんと口を開けた。
「え……もうそんなに?」
「面白い話なんだけど、観察日記じゃないんだから。実験結果と考察に絞って、あとはメタファーは一個だけに」
「じゃあ、“涙を流す”のほうを残すね。あれ、気に入ってた」
そのやり取りを、教室後方の席でにこやかに眺めていた良輔が、立ち上がった。
「香澄の発表、今のも面白かったよ。語り口が柔らかいから、植物の世界が近くに感じられた。けど、観客が混乱しないように、話の軸はぶらさないほうがいいかもね」
「ありがとう。じゃあ、次は良輔?」
「ううん、彩希に先行ってもらいたいな。彼女の発表、実は前からちょっと楽しみにしてて」
「そう? なら、遠慮なく行くよ」
彩希が立ち、リモコンを手にスライドを切り替えた。画面には、明快なフォントで「大学生の時間管理傾向と課題提出率の相関性」と表示されている。
「今回の調査では、課題提出を滞らせがちな学生と、きちんと締切を守る学生の生活習慣を比較してみました。データの取得は――」
その語りは端的で、余計な脱線が一切ない。けれど冷たい印象を与えないのは、彼女が時折入れる笑顔と、スライドの端に添えた「みんなの声」コメントのやわらかさだった。
時間はきっかり六分五十秒。
「……以上です。ご清聴ありがとうございました」
「タイム、ばっちり」
「うん、さすが彩希。内容も明快だったし、“朝型と夜型で差が出る”という示唆も面白いと思った」
良輔が穏やかに拍手を送る。
「じゃあ、最後は僕の番だね」
彼が立ち上がると、空気がふっとやわらぐような気配がした。
良輔がスクリーン前に立つと、彼の動作は静かで丁寧だった。MacBookのカーソルをひとつスライドに合わせ、深呼吸する。
「僕のテーマは“大学生活における非言語的コミュニケーションの効果と、その促進要因について”です」
声は大きくないが、教室にきちんと届く音量だった。スクリーンに映るのは、校内で撮影されたスナップ写真の数々。誰かが誰かに肩を貸し、笑い、目を合わせ、沈黙を共有している――言葉がないのに、伝わっているという瞬間が切り取られていた。
「たとえば、こちら」
画面が切り替わり、屋上のベンチで、誰かの隣に静かに腰かけている後ろ姿。見覚えがある。望愛と旭だ。
「これは、相手が話したくなるまで待つ“寄り添い型コミュニケーション”の例です。言葉を使わない安心感が、対話への入口を開く――そんな事例を、今回の研究でたくさん見つけました」
話しながらも、良輔は時折、聞いている彩希と香澄の方を見やった。ちゃんと伝わっているか、届いているかを確かめるように。
その視線が柔らかくて、香澄がそっと呟いた。
「……これ、泣けちゃうかも」
「早いって、まだ途中だよ」
彩希が、やや鼻をすすりながらも笑う。
良輔は締めに入った。
「僕がこのテーマを選んだのは、みんなの会話にいつも“伝わってる気がする”って思ったからです。うまく言えないけど、そう感じる瞬間が、大学生活にはあった。僕はそれを、記録に残しておきたかった」
スライドの最後にはこう記されていた。
「言葉より、行動と間」
ストップウォッチの針が止まり、表示は06:58。
「ジャストじゃん」
香澄が手を叩いた。
「すごい……こんな風に発表ができたら、教授たちもびっくりだね」
「うん。良輔のは、データが優しく語ってくれてた。すごく良かった」
彩希がしっかりと頷く。
その言葉に、良輔はふっと笑った。
「ありがとう。でも、僕はどちらかというと、二人の個性の掛け合いを見てるほうが楽しかったな。彩希の時間管理と、香澄の迷走トマトの話、両方があって今日があるっていうか」
「迷走トマトって、名前ひどくない……」
苦笑する香澄の横で、彩希がもう一度スライドチェックを始めた。
「全員、スライド提出は午後三時まで。印刷ミスとタイトルのフォント抜けに気をつけてね」
「はーい。あと、昼ごはんどうする?」
「私はお弁当あるよ。香澄は?」
「今日はパン。すっごく甘いやつ。トマトの呪いを抜くには糖分が必要だし」
「それ、さっきのメタファーより意味不明だけど……まあ、うん、行こっか」
三人は並んで教室を出る。廊下の窓からは、澄んだ空気の先に、湘南の海がきらりと光って見えた。
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