鎌倉青春シンフォニー:笑顔の鎧を脱ぎ捨てて、私たちは波を乗りこなす

乾為天女

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第52章 湘南の風、紙コップの勇者たち

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 風が冷たい。
  早朝五時。まだ陽の昇りきらぬ湘南の海岸通りに、かすかな潮の匂いと共に紙コップのカサカサという音が漂っていた。
「おーい、こっちのテーブル、あと二メートル下げられる?」
 アマリが身を乗り出して叫ぶ。ニット帽からはみ出た金髪が、潮風にふわりと揺れた。
  望愛は眠そうな目で水の入った紙コップを片手に「うん」と返事しながら、慎重にテーブルを引きずった。
 真冬の湘南国際マラソン。海沿い給水ポイント。
  スタートまであと一時間。
「ねぇ、アマリ。あたしたち、これテーブル短いの気づいたの、運良かったよね?」
 望愛が手袋を外して指先の感覚を確かめるように息を吹きかけながら言った。
  アマリは自分の持ってきた手描きのスケッチを見て、軽くうなずいた。
「うん、海外大会ではね、最低でも40メートル。こっちは30メートルくらいしかなかったから、伸ばした方がランナーがバラけて取りやすいんだ」
 彼の声は穏やかだが、目は真剣そのものだった。
  指先の冷えなんて気にする様子もなく、彼は紙コップの列を美しく整えている。
「細かいとこまで、気づくんだなぁ……」
  望愛が思わずつぶやくと、後ろから「だね」と優しい声が重なった。
 振り返ると、恭平が片手に段ボール箱、もう片方で給水所の横断幕を支えていた。
  いつもの笑顔が、その場の空気を少しだけ温かくした。
「お疲れ。二人とも、完璧だよ。すでにプロ給水チームって感じ」
「それは盛りすぎ」
 望愛が笑い、アマリが「でも、ありがとう」と照れたように言った。
「ところで、紙コップ……あと何箱分、並べる?」
 恭平が地面に段ボールを置きながら訊ねる。望愛は一瞬首をひねり、手元のチェックリストを見る。
「あと……3箱? でも回収用の袋が全然足りないかも。あたし途中でやめていい?」
「それ、もうフラグだから」と恭平が冗談まじりに返す。
「やらないとは言ってない!」
  望愛は胸を張ったが、その直後、ビニール袋の山に突っかかって、軽くつまづいた。
 アマリがすかさず手を差し伸べ、支える。
「Careful. この冷えた朝は、転ぶとすごく痛いよ」
 彼の真剣な目を見て、望愛は「ありがと」と照れくさそうに呟いた。
 と、その時。
  風に舞うように、紙コップの山のひとつが煽られて飛んだ。
「あ、待って待って、ダメダメダメーー!」
 望愛が叫ぶより早く、恭平が駆け出した。
「取ってくる!」
 海風を切って走る姿。
  何気ないボランティアの朝なのに、そこにはなぜか、青春映画みたいな瞬間があった。

 追い風の中を、恭平が笑いながら紙コップを追いかけていく。
  砂にまみれる寸前でそれをキャッチすると、そのままブレーキもかけずにUターンして戻ってきた。
「無事回収!」
  彼は得意げに掲げた紙コップをひらひらと振ってみせた。
「もう、それ捨てるやつなのに……」
  望愛が呆れたように言いながら、でも笑っている。
「でも、飛んだままだと誰かが滑るかもしれないしね」
  そう言って、恭平はその紙コップをきちんとゴミ袋に入れた。
 望愛は、そんな彼の背中を見つめながら、小さく息を吐いた。
  この冬の朝の空気は、冷たいのにどこか優しい。
「なんか、恭平って……いつも“こういうとき”ちゃんとしてるよね」
 ぼそりとこぼした言葉に、彼はくるりと振り返って、いつものあの笑顔を見せた。
「“こういうとき”って?」
「なんだろ、地味なんだけど、誰かのために動くとき、ちゃんと動いてるって感じ……」
 自分でもうまく言えずに視線を逸らした望愛に、恭平は少しだけ照れたように頭をかいた。
「それ、褒められてる? なんか妙に刺さるなぁ」
「うん。褒めてる。ていうか、うらやましいのかも」
「え?」
 そのとき、横からアマリがふっと笑った。
「たしかに、望愛は途中で手を止めるクセがある。けど、今日の望愛は、ずっといるよ。僕、見てた」
「……!」
 望愛の目がまるくなり、ぽかんとアマリを見る。
  アマリは真顔だ。
「いつもだったら、途中で抜けたり、どこかに行ったり。でも今日は、紙コップのことも、ランナーのことも、ずっと考えてる。すごくいい」
 それは誉め言葉だとわかっていても、望愛は居心地が悪そうにマフラーを引き上げる。
「……なんか、責任感出てきたのかも。自分でも怖いんだよね、そういうの」
「怖くても、それで人が笑ってくれたら、ちょっと報われるんじゃない?」
 恭平の言葉が風に乗って届く。
  望愛はうなずく代わりに、テーブルに並んだ紙コップをもう一度まっすぐに整えた。
 そこへ、スタッフジャンパーを着た主催側の大人が駆け寄ってきた。
「君たち! ごめん、テーブルの距離、直してくれたんだって? 本当に助かった!」
 恭平たちは顔を見合わせ、アマリがひょいと手を挙げる。
「ルールと違ってたので、ちょっとだけ工夫を。大丈夫でしたか?」
「十分すぎるよ。朝からありがとう。君たちがいなかったら、最悪クレームになってたよ」
 主催の人は深々と頭を下げた。
  望愛はその様子に少し驚いたような顔をして、ポケットに手を入れた。
 その手が触れたのは、折りたたんだレシート。昨日、買い出しに行ったとき、自分が勝手に多めに買ってしまった紙コップ代の一部だ。
(お金、また気にしてなかったな……)
 でも不思議と、それがイヤじゃなかった。
  朝の風の中で、何かを“ちゃんとやりきった”感覚が、少しだけ心に残っていた。

 ラストランナーが通過したのは、給水所設置から約二時間後のことだった。
 スタートの号砲から遅れて走る人たちは、ペースも年齢もさまざまだ。
  子どもと並走する親子、介助付きのランナー、仮装をして沿道の声援に応える人もいる。
  それぞれが、それぞれの理由で走っている。
  その姿を、望愛はずっと見ていた。
「……あの人、ちょっと泣きそうだったね」
 最後のランナーを見送ったあと、望愛がふっと呟いた。
  頬に冷たい風が吹きつけるが、彼女の表情はどこか晴れやかだった。
「きっと完走できるか不安だったんじゃない?」
  恭平が答える。
「でも、ここで水を飲んで、“あとちょっと”って思えたら、がんばれる気がする」
 望愛は、テーブルの上に残った紙コップを一つずつ重ねながら、口の端をわずかに上げた。
「……あたしも、“あとちょっと”って思ってたかも。途中で帰りたい気持ちとさ」
「けど、帰らなかった」
  アマリが補足するように言い、白い息を吐いた。
「望愛、ずっといた。最後の紙コップまで配ったし、終わった後の掃除も。僕、すごいと思う」
 それは誰が見ても事実だった。
  この“途中放棄癖”のある少女が、始まりから終わりまで一つの作業をまっとうした。
  それも、義務感からではない。誰かに強制されたわけでもない。
  ただ、今この場で自分が「やりきる」ことを選んだ、それだけだ。
「……なんかもう、逆に途中で抜けるタイミングなくしたっていうかさ」
 照れくさそうに笑う望愛の目が、どこか潤んでいた。
  恭平が、そんな彼女に目を細める。
「“途中まで”だったら、今日の朝も寒さを理由に逃げてたでしょ」
「うん。寝坊しかけたし。でもアマリのLINEがさ、変な絵文字いっぱいでうるさくて」
「“今日の風は誠実な風!”って送ったやつ?」
「そうそれ。なにそのポエム、って思ったけど……うん、ちょっと刺さった」
 その言葉にアマリは嬉しそうに両手を広げ、「風は言葉持たないからね、僕らが拾うんだよ」と得意げに言った。
「……やっぱ変なポエムじゃん……」
 笑い合う3人のそばで、次の給水ポイントのスタッフたちが荷物を運び始める。
  空がうっすらと白み、湘南の海沿いの朝は、ようやく完全に目を覚ました。
 そのとき、先ほどの主催スタッフが再びやってきた。
「ねえ、君たち。最後まで残ってくれてありがとう。本部で全員に感謝状を渡すことになったんだ。良かったら、受け取りに来てくれる?」
「感謝状……?」
 望愛が目をぱちくりさせる。
  そんなの、もらったことがない。そもそも“最後まで残った”ことが、これまでの人生でどれだけあっただろう。
「うん……行く」
 短くそう答えて、彼女はマフラーを巻き直した。
  その手は少しだけ震えていたけれど、顔はまっすぐ前を向いていた。

 マラソン本部のテントでは、ひときわ明るい拍手が響いていた。
「ありがとうございましたー! こちら、完走証と記念品、そして——」
 受付スタッフが手渡してきたのは、青い封筒に入った一枚の紙だった。
  白地に黒の明朝体でこう書かれていた。
『湘南国際マラソン給水ボランティア 感謝状』
 ——あなたは、寒さと時間に耐え、
 最後の一人まで“走る人”を支え続けました。
 その心の温かさに、心からの敬意を込めて。
 望愛は、封筒からそれを取り出すと、ゆっくりと目を通して、ふと息をのんだ。
  その瞬間、彼女の胸の奥に積もっていた“何か”が、じんわりと解けていく。
「……これ、重たいな。紙なのにさ」
 その言葉に、恭平がにこっと笑った。
「軽く見えるもののほうが、実は一番重いって、あるよね」
「……今さらなこと言うなー。あたし、泣いちゃいそうじゃん」
 言葉とは裏腹に、望愛の目の端に、にじむものが見えていた。
  恭平はそれを何も言わず、紙コップの残骸が入ったゴミ袋を両肩に担ぐと、アマリと目を合わせた。
「じゃ、片づけ、最後までやる?」
「もちろん。まだ“途中まで”じゃないからね!」
 アマリは両手を高く掲げ、まるでゴールテープを切るかのようなポーズで声を上げた。
 望愛はそんなふたりを見ながら、深く息を吸った。
  潮の香りが胸いっぱいに広がる。
 彼女の中で、何かが変わり始めているのがわかる。
  この朝、この風、この冷たさ、そしてこの“ありがとう”の言葉たちが、自分のどこかにちゃんと刻まれていく感覚。
 それは、過去を否定するものではない。
  「途中まで」で終わってきた日々も、確かに彼女の一部だった。
  だけど今——たった今、この湘南の海辺で、“やり遂げた”という確かな感触を持った。
「……よし」
 そう呟いて、望愛は足元のバケツを手に取った。
  中には、まだ濡れた紙コップが数個、底に残っていた。
「あとちょっと」
 彼女はそれを一つずつ拾い上げ、丁寧に袋へと移した。
  誰が見ていようといまいと、関係ない。ただ、やるべきことを最後までやる。
 海から吹く風が、静かに彼女の髪を揺らす。
「終わったら、なんか温かいもん食べよ。豚汁とか……いや、ラーメンとか」
「うん、ラーメンいいね!」
  アマリが元気に返す。
「それ、恭平のおごり?」
「えっ、えっ、僕!?」
「紙コップ一万個分の労働賃だと思えば、安い安い!」
 恭平があたふたとポケットをまさぐる様子に、望愛は思わず吹き出した。
  その笑いには、もう迷いはなかった。
 冬の湘南。風は冷たいままだったけれど、胸の奥は、ゆっくりと温まり続けていた。
 そしてその日。
  望愛は、自分の中で静かに、でも確かにこうつぶやいた。
——“途中まで”じゃなく、“ちゃんと最後まで”。
 ——それって、案外気持ちいいかもね。
 
【第52章 完】
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