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第6話「真緒のクッション作戦」
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五月十二日、月曜日。
廊下の空気は、昼過ぎの陽光でほんのりと暖かい。
昼休み明けの掃除時間、廊下掲示板前では一人、希がモップを持ったまま黙々と床をこすっていた。
小さな紙くずが貼り付いて離れない。何度拭いても落ちない。
希はため息交じりに手を止め、眉間にしわを寄せる。
先週は会議と打ち合わせが詰まりすぎていた。委員会の進行は好調とはいえないが、自分が副委員長として何を担えばいいのかが、まだ曖昧だった。
さらに――ここ数日、遥輝が忙しそうに他のメンバーと打ち合わせをしているのを遠くで見るたび、なぜか胸の奥に微かな苛立ちが滲む。
(……何、これ)
自分でもその理由がつかめない。
それがよけいに気持ちをモヤつかせていた。
そのとき、後ろから柔らかい声がかかる。
「希ちゃん、ちょっと休憩しよ?」
振り返ると、真緒が缶入りのアイスカフェオレを二本、手にして立っていた。
制服の袖を少しめくり、髪をゆるく一つにまとめた姿は、どこか午後の光に溶け込んでいるようだった。
「……今、掃除中」
「知ってる。でもこの時間、先生たちいないし、三分くらいサボっても誰も怒らないよ」
そう言って、真緒は掲示板の前に腰かけ、アイスの缶を一本、希に差し出した。
「無糖と微糖、どっちがいい?」
「……微糖で」
手に取った缶が冷たくて、心なしか手のひらの温度が下がった気がした。
ぱしゅ、とプルタブを引く音が重なった。
真緒はひと口飲んでから、ぽつりと話を切り出す。
「……ちょっとピリピリしてたよね、今日の希ちゃん」
「……別に」
否定したが、その声には棘があった。
「委員会のこと?」
「……違う。……かも」
自分でもわかっていない感情を、うまく言語化できずにいる。
そんな希を見て、真緒は微笑を浮かべた。
「うん、それでいいと思う。わかんない感情って、すぐに言葉にしなくても大丈夫だよ」
その言葉に、希は目を見開いた。
「……え?」
「なんか、ちゃんと答えを出さなきゃって顔してたから。ね、たまには“わからないまま”でもいいと思うな」
真緒の声はやわらかく、じんわりと染み込むようだった。
希はアイスコーヒーを一口飲んで、冷たい液体が喉を落ちていくのを感じる。
「……真緒ってさ、なんでそんなに他人のこと、うまく見えるの?」
「たぶん、自分のことに鈍感だから、他人にばっかり意識が向くんだと思う」
真緒はあっけらかんと笑って言った。
「それに、希ちゃんって、わかりやすいし」
「わかりやすくないよ、あたしは……!」
思わず強めに返した声に、希自身が少し驚いた。
けれど、真緒はにこっと笑って――
「うん、その“強めの否定”が、わかりやすいの」
しばしの沈黙。
遠くで掃除機の唸る音が響くなか、二人の間に流れる空気はやわらかく、でもどこか切実だった。
希は無言のまま、手元の缶を見つめる。
表面に浮かぶ水滴が、じわりと指に染みるように感じた。
「……副委員長って、何すればいいんだろうって思ってた」
ようやく口を開いた希の声は、わずかに掠れていた。
「遥輝は委員長として動いてて、楽しそうで……でも、あたしは気づくと周り見てばかりで。
“動かなきゃ”って思うけど、どう動けばいいのかわかんなくて」
真緒は頷きながら話を聞き、口を挟まず、じっと希の顔を見守っていた。
「それで、今日もイライラして……でも、誰にも当たれないし。……自分にも腹が立つし……」
そう言ったとき、希の目元がわずかに潤んでいた。
けれど涙にはならない。そうさせない強さを、希は持っている。
真緒はそっと缶を置き、希の肩に手を添えた。
「ねえ、希ちゃん。
副委員長って、何かしら仕事をこなす人じゃなくて、“支える人”でいいと思う」
「支えるって……」
「無理に全体を見なくていい。
たとえば、“ひとりだけをちゃんと見る”ってことでも、すごく意味あるんだよ。
遥輝くんがやりやすいように動くとか、他の子が落ち込んでたら声かけるとか。
そういう小さなバランスの取り方ができるのって――たぶん、希ちゃんなんだと思う」
「……でも、そんな自信ないよ」
「そりゃあ、自信なんてあとから付いてくるもんだし」
真緒は笑って続けた。
「私だって、調整役っぽく見られてるけど、めちゃくちゃ自分に甘いし。
いつも“今日も無理かも”って思ってる。でも、どうにかなることのほうが多いんだよね」
希はふっと笑った。
鼻で笑ったのか、感情をほぐされたのか、自分でもわからない。
「真緒って、絶妙にズルいよね」
「それ、褒めてる?」
「ちょっとだけ」
二人はふと顔を見合わせ、微笑みあった。
その瞬間、廊下に張られていた空気がふわりと軽くなる。
「さ、もうちょっと掃除するか」
希が立ち上がり、再びモップを握る。
真緒も立ち上がり、今度は掲示板に貼られた文化祭の仮ポスターを見上げた。
“あなたの手で創る、たった一度の三日間。”
その文字を見て、真緒はぽつりと呟いた。
「ねえ希ちゃん、もしかしてさ――“一度しかない”っていう言葉、ちょっと怖い?」
「……当たり」
「でも、“一度きり”だからこそ、失敗しても全部自分の色になるんじゃない?」
希は言葉を返さなかった。けれど、その背中からわずかに力が抜けていくのを、真緒は確かに感じた。
掃除が終わるころには、廊下の窓から入る風が少し冷たくなっていた。
生徒たちの足音が遠ざかり、校舎の空気が夕方の静けさに包まれていく。
バケツを片づけ、掃除道具を返却棚に戻したあと、希と真緒は一緒に昇降口へと歩いた。
並んで歩くのは、今日が初めてだった。
「……さっき言ってた“ひとりを見る”って話さ」
希がぽつりと口を開く。
「それって……真緒も誰かを支えてるってこと?」
真緒は少しだけ驚いたような表情を浮かべ、すぐに笑って答える。
「うん、まあ。志歩のことかな。あの子、けっこう一人で全部抱えちゃうから」
「……わかる気がする」
「だから私が“クッション”になる。誰かの衝突を和らげるだけでも、役に立てるならそれでいいなって」
「“クッション”か……」
希はその言葉を反芻するように呟いた。
自分にとって、そんな役割が務まるかはまだわからない。
でも、誰かの心を少しだけ軽くすることなら、自分にもできるかもしれない。
「……ありがとね、真緒」
「なに急に改まってんの?」
「感謝ってのは、ちゃんと言葉で伝えたほうがいいって、誰かが言ってたから」
「それ、遥輝くん?」
「……かも」
二人は顔を見合わせ、笑い合った。
昇降口で靴を履き替えると、ちょうどそのとき、遠くから遥輝の声が聞こえてきた。
「おーい、希ー! 今日打ち合わせするって言ってたやつ、明日にしてもいい?」
階段の上から手を振る遥輝の姿。
希は一瞬きょとんとして、すぐに声を返す。
「別にいいけど。明日、早く来てよ」
「了解~!」
そんな何気ないやり取りを見ながら、真緒は口元を押さえてにやりとする。
「……ふふ、青春だね」
「変なこと言わないでよ」
照れくさそうに言いながらも、希の頬がほんのり赤く染まっていた。
夕陽が昇降口を染める。
その光の中、二人の影が長く伸びていた。
誰かを“支える”こと。
それは、誰かと“つながる”こと。
自分ひとりじゃできないことも、誰かと一緒なら――
そんな“予感”のようなものを、希は胸に灯していた。
(第6話 完)
廊下の空気は、昼過ぎの陽光でほんのりと暖かい。
昼休み明けの掃除時間、廊下掲示板前では一人、希がモップを持ったまま黙々と床をこすっていた。
小さな紙くずが貼り付いて離れない。何度拭いても落ちない。
希はため息交じりに手を止め、眉間にしわを寄せる。
先週は会議と打ち合わせが詰まりすぎていた。委員会の進行は好調とはいえないが、自分が副委員長として何を担えばいいのかが、まだ曖昧だった。
さらに――ここ数日、遥輝が忙しそうに他のメンバーと打ち合わせをしているのを遠くで見るたび、なぜか胸の奥に微かな苛立ちが滲む。
(……何、これ)
自分でもその理由がつかめない。
それがよけいに気持ちをモヤつかせていた。
そのとき、後ろから柔らかい声がかかる。
「希ちゃん、ちょっと休憩しよ?」
振り返ると、真緒が缶入りのアイスカフェオレを二本、手にして立っていた。
制服の袖を少しめくり、髪をゆるく一つにまとめた姿は、どこか午後の光に溶け込んでいるようだった。
「……今、掃除中」
「知ってる。でもこの時間、先生たちいないし、三分くらいサボっても誰も怒らないよ」
そう言って、真緒は掲示板の前に腰かけ、アイスの缶を一本、希に差し出した。
「無糖と微糖、どっちがいい?」
「……微糖で」
手に取った缶が冷たくて、心なしか手のひらの温度が下がった気がした。
ぱしゅ、とプルタブを引く音が重なった。
真緒はひと口飲んでから、ぽつりと話を切り出す。
「……ちょっとピリピリしてたよね、今日の希ちゃん」
「……別に」
否定したが、その声には棘があった。
「委員会のこと?」
「……違う。……かも」
自分でもわかっていない感情を、うまく言語化できずにいる。
そんな希を見て、真緒は微笑を浮かべた。
「うん、それでいいと思う。わかんない感情って、すぐに言葉にしなくても大丈夫だよ」
その言葉に、希は目を見開いた。
「……え?」
「なんか、ちゃんと答えを出さなきゃって顔してたから。ね、たまには“わからないまま”でもいいと思うな」
真緒の声はやわらかく、じんわりと染み込むようだった。
希はアイスコーヒーを一口飲んで、冷たい液体が喉を落ちていくのを感じる。
「……真緒ってさ、なんでそんなに他人のこと、うまく見えるの?」
「たぶん、自分のことに鈍感だから、他人にばっかり意識が向くんだと思う」
真緒はあっけらかんと笑って言った。
「それに、希ちゃんって、わかりやすいし」
「わかりやすくないよ、あたしは……!」
思わず強めに返した声に、希自身が少し驚いた。
けれど、真緒はにこっと笑って――
「うん、その“強めの否定”が、わかりやすいの」
しばしの沈黙。
遠くで掃除機の唸る音が響くなか、二人の間に流れる空気はやわらかく、でもどこか切実だった。
希は無言のまま、手元の缶を見つめる。
表面に浮かぶ水滴が、じわりと指に染みるように感じた。
「……副委員長って、何すればいいんだろうって思ってた」
ようやく口を開いた希の声は、わずかに掠れていた。
「遥輝は委員長として動いてて、楽しそうで……でも、あたしは気づくと周り見てばかりで。
“動かなきゃ”って思うけど、どう動けばいいのかわかんなくて」
真緒は頷きながら話を聞き、口を挟まず、じっと希の顔を見守っていた。
「それで、今日もイライラして……でも、誰にも当たれないし。……自分にも腹が立つし……」
そう言ったとき、希の目元がわずかに潤んでいた。
けれど涙にはならない。そうさせない強さを、希は持っている。
真緒はそっと缶を置き、希の肩に手を添えた。
「ねえ、希ちゃん。
副委員長って、何かしら仕事をこなす人じゃなくて、“支える人”でいいと思う」
「支えるって……」
「無理に全体を見なくていい。
たとえば、“ひとりだけをちゃんと見る”ってことでも、すごく意味あるんだよ。
遥輝くんがやりやすいように動くとか、他の子が落ち込んでたら声かけるとか。
そういう小さなバランスの取り方ができるのって――たぶん、希ちゃんなんだと思う」
「……でも、そんな自信ないよ」
「そりゃあ、自信なんてあとから付いてくるもんだし」
真緒は笑って続けた。
「私だって、調整役っぽく見られてるけど、めちゃくちゃ自分に甘いし。
いつも“今日も無理かも”って思ってる。でも、どうにかなることのほうが多いんだよね」
希はふっと笑った。
鼻で笑ったのか、感情をほぐされたのか、自分でもわからない。
「真緒って、絶妙にズルいよね」
「それ、褒めてる?」
「ちょっとだけ」
二人はふと顔を見合わせ、微笑みあった。
その瞬間、廊下に張られていた空気がふわりと軽くなる。
「さ、もうちょっと掃除するか」
希が立ち上がり、再びモップを握る。
真緒も立ち上がり、今度は掲示板に貼られた文化祭の仮ポスターを見上げた。
“あなたの手で創る、たった一度の三日間。”
その文字を見て、真緒はぽつりと呟いた。
「ねえ希ちゃん、もしかしてさ――“一度しかない”っていう言葉、ちょっと怖い?」
「……当たり」
「でも、“一度きり”だからこそ、失敗しても全部自分の色になるんじゃない?」
希は言葉を返さなかった。けれど、その背中からわずかに力が抜けていくのを、真緒は確かに感じた。
掃除が終わるころには、廊下の窓から入る風が少し冷たくなっていた。
生徒たちの足音が遠ざかり、校舎の空気が夕方の静けさに包まれていく。
バケツを片づけ、掃除道具を返却棚に戻したあと、希と真緒は一緒に昇降口へと歩いた。
並んで歩くのは、今日が初めてだった。
「……さっき言ってた“ひとりを見る”って話さ」
希がぽつりと口を開く。
「それって……真緒も誰かを支えてるってこと?」
真緒は少しだけ驚いたような表情を浮かべ、すぐに笑って答える。
「うん、まあ。志歩のことかな。あの子、けっこう一人で全部抱えちゃうから」
「……わかる気がする」
「だから私が“クッション”になる。誰かの衝突を和らげるだけでも、役に立てるならそれでいいなって」
「“クッション”か……」
希はその言葉を反芻するように呟いた。
自分にとって、そんな役割が務まるかはまだわからない。
でも、誰かの心を少しだけ軽くすることなら、自分にもできるかもしれない。
「……ありがとね、真緒」
「なに急に改まってんの?」
「感謝ってのは、ちゃんと言葉で伝えたほうがいいって、誰かが言ってたから」
「それ、遥輝くん?」
「……かも」
二人は顔を見合わせ、笑い合った。
昇降口で靴を履き替えると、ちょうどそのとき、遠くから遥輝の声が聞こえてきた。
「おーい、希ー! 今日打ち合わせするって言ってたやつ、明日にしてもいい?」
階段の上から手を振る遥輝の姿。
希は一瞬きょとんとして、すぐに声を返す。
「別にいいけど。明日、早く来てよ」
「了解~!」
そんな何気ないやり取りを見ながら、真緒は口元を押さえてにやりとする。
「……ふふ、青春だね」
「変なこと言わないでよ」
照れくさそうに言いながらも、希の頬がほんのり赤く染まっていた。
夕陽が昇降口を染める。
その光の中、二人の影が長く伸びていた。
誰かを“支える”こと。
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