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第7話「俊介の仮面」
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五月二十日、火曜日の早朝。
まだ登校時刻には少し早く、C組の教室は薄暗い。
開け放たれた窓からは初夏の匂いを含んだ風が入り込み、白いカーテンをゆるく揺らしている。
そんな中、一人、俊介は教室の隅に座っていた。
制服のシャツは第一ボタンまで外され、足を机に投げ出している。
だがその目だけは冷静に、虚ろに黒板を見つめていた。
「……さて。今日も“いい子ちゃん”モード、始めますか」
小さく呟き、俊介は乱れていた髪を指で撫でつけた。
その瞬間、教室のドアが開く。
「おーっす……って、あれ、もう来てたのか」
入ってきたのは亮汰だった。片手にパン、もう片手に紙パックのカフェオレ。
俊介は一拍置いてから、にこっと穏やかな笑顔をつくる。
「おはよう。早いね、亮汰」
「お前こそ。めずらしいじゃん、朝イチ登校なんて」
「ちょっとね、委員会の準備が気になってさ」
さらりと答える俊介の声は、温度も抑揚もよく整っている。
しかしその直後、俊介は視線を落とし、低く――まるで別人のような声音で呟いた。
「……お前が昨日、タスクさぼったからな」
「……ん?」
「いや、こっちの話」
ニコッ、と再び無垢な笑顔を浮かべた俊介に、亮汰は一瞬「?」という顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
そのまま二人は自分の席へ。
俊介はしばらくの間、教室に入ってくる生徒たち一人ひとりに挨拶を返しながら、表情を崩すことはなかった。
ただその内心には、まるで別の人格が潜んでいるかのような、冷えきった声がこだましていた。
(“うまくやってる”と思ってるんだろ、みんな。
でもな、俺が誰よりも気を遣ってる。誰よりも、合わせてやってんだよ)
昼休み。
教室の中では、弁当の香りとともににぎやかな笑い声が飛び交っていた。
俊介は相変わらず、クラスの中心からやや離れた位置で、笑顔を崩さずに座っていた。
「俊介くんって、ほんと優しいよねー」
隣の女子が無邪気に言う。
「なんか、誰にでも平等っていうか。さりげなく気遣ってくれるし」
「ありがと。たぶん、人と話すの好きだからかな」
俊介はやわらかく返し、スプーンを口に運ぶ。
誰から見ても好青年のふるまい。その“外面”に、一切のほころびはなかった。
しかしその裏では、まったく別の声が心の中で響いていた。
(……その“誰にでも”って言葉が、どれだけ疲れるか、知らねえだろ)
(“平等”ってのはさ、どこにも本音を置けないってことだ)
俊介はその仮面を、完璧にかぶり続けることに慣れていた。
誰にも嫌われず、誰とも衝突せず――
だがその分、誰からも深くは踏み込まれない。
(誰にも俺の“本音”は見せない。見せたら壊れる。
だから、誰にも寄らせない。それが一番楽だ)
だが、その“距離のとり方”に気づいた者がいた。
「ねえ、俊介くんって……ほんとは冷めてるよね」
その言葉は、彼の後ろから届いた。
亮汰だった。
冗談とも本気ともつかない口調。
だが、俊介は手を止め、ゆっくりと振り向く。
「……何の話?」
「いや、ふと思っただけ。お前って、優しすぎるじゃん。
なんか、ほんとのこと言わなそうっていうか。
全部、見透かしてるくせにニコニコしてんの、不自然だよなって」
それは、俊介の仮面の奥を覗こうとするような言葉だった。
一瞬、俊介の笑顔がぴくりと揺れた。
だが、すぐに元通りに戻る。
「亮汰、怖いこと言うなぁ」
冗談めかして、そう返す。
亮汰は肩をすくめると、それ以上は何も言わず席を離れた。
俊介はしばらくの間、教室のざわめきの中に身を沈めるようにして座っていた。
(……バレた? いや、まだ。あいつは直感で喋ってるだけ)
(でも、ちょっと警戒しとくか)
いつも通りの笑顔の奥で、俊介の心は静かに冷えていた。
放課後、生徒がまばらになった廊下を歩きながら、俊介は一人、自販機の前に立った。
コインを投入口に入れるときも、選んだ炭酸飲料を取り出すときも、その表情は淡々としていた。
だが、足取りはどこか重く、目元にかすかな疲労がにじんでいる。
俊介は階段を降り、人気のない校舎裏手にある小さなベンチに腰を下ろした。
ようやく、誰の視線も気にせずいられる“自分だけの時間”。
缶を開けて、炭酸のしゅわっという音に、ようやく小さく息をつく。
「……誰にも見せないって決めたんだよ、もう」
呟いたその声は、朝の教室での“いい子”の声とは違い、低くかすれていた。
しかしそのとき――
「……ここ、空いてる?」
不意に聞こえたその声に、俊介はわずかに身を強ばらせた。
振り向けば、そこには真緒が立っていた。
「べ、別に……どうぞ」
思わず口ごもるような返しに、真緒は微笑んで隣に腰を下ろす。
二人の間に流れる、気まずくも静かな空気。
やがて、真緒がゆっくりと口を開いた。
「俊介くんって……ずっと無理してるんだね」
「……何のこと?」
「全部。人当たりのいい言葉、完璧な反応、誰にも不快を与えない態度。
私、見ててちょっと苦しくなった」
俊介は目を伏せ、缶を見つめた。
その中の炭酸が、しゅわしゅわと弾けて消える。
「そうしなきゃ、うまくやっていけないだけだよ」
ぽつりと漏れたその一言に、真緒は小さくうなずいた。
「うん、わかる。でもね――無理して全部コントロールしようとすると、たぶん、いつか自分が壊れるよ」
「……壊れるぐらいなら、最初から割れてるほうがマシだよ」
「そういうとこが、すごく優しいって思う」
真緒はそう言って、俊介の缶に視線を落とす。
「でも、優しすぎるのは、時々、誰かにとって“偽物”に見えちゃうこともあるんだよ」
その言葉に、俊介はゆっくりと目を閉じた。
そして、わずかに笑う。
「……バレてたか」
「うん、ちょっとね」
二人の間に流れたその沈黙は、不思議と居心地が悪くなかった。
誰かに“仮面”を見抜かれたのは、たぶん初めてだった。
それなのに――俊介の胸には、なぜかほんのわずかな安堵が残っていた。
「……ありがとな、真緒」
「どういたしまして、仮面くん」
夕暮れの光が差し込む校舎裏。
俊介の影は、以前より少しだけ軽くなっていた。
(第7話 完)
まだ登校時刻には少し早く、C組の教室は薄暗い。
開け放たれた窓からは初夏の匂いを含んだ風が入り込み、白いカーテンをゆるく揺らしている。
そんな中、一人、俊介は教室の隅に座っていた。
制服のシャツは第一ボタンまで外され、足を机に投げ出している。
だがその目だけは冷静に、虚ろに黒板を見つめていた。
「……さて。今日も“いい子ちゃん”モード、始めますか」
小さく呟き、俊介は乱れていた髪を指で撫でつけた。
その瞬間、教室のドアが開く。
「おーっす……って、あれ、もう来てたのか」
入ってきたのは亮汰だった。片手にパン、もう片手に紙パックのカフェオレ。
俊介は一拍置いてから、にこっと穏やかな笑顔をつくる。
「おはよう。早いね、亮汰」
「お前こそ。めずらしいじゃん、朝イチ登校なんて」
「ちょっとね、委員会の準備が気になってさ」
さらりと答える俊介の声は、温度も抑揚もよく整っている。
しかしその直後、俊介は視線を落とし、低く――まるで別人のような声音で呟いた。
「……お前が昨日、タスクさぼったからな」
「……ん?」
「いや、こっちの話」
ニコッ、と再び無垢な笑顔を浮かべた俊介に、亮汰は一瞬「?」という顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
そのまま二人は自分の席へ。
俊介はしばらくの間、教室に入ってくる生徒たち一人ひとりに挨拶を返しながら、表情を崩すことはなかった。
ただその内心には、まるで別の人格が潜んでいるかのような、冷えきった声がこだましていた。
(“うまくやってる”と思ってるんだろ、みんな。
でもな、俺が誰よりも気を遣ってる。誰よりも、合わせてやってんだよ)
昼休み。
教室の中では、弁当の香りとともににぎやかな笑い声が飛び交っていた。
俊介は相変わらず、クラスの中心からやや離れた位置で、笑顔を崩さずに座っていた。
「俊介くんって、ほんと優しいよねー」
隣の女子が無邪気に言う。
「なんか、誰にでも平等っていうか。さりげなく気遣ってくれるし」
「ありがと。たぶん、人と話すの好きだからかな」
俊介はやわらかく返し、スプーンを口に運ぶ。
誰から見ても好青年のふるまい。その“外面”に、一切のほころびはなかった。
しかしその裏では、まったく別の声が心の中で響いていた。
(……その“誰にでも”って言葉が、どれだけ疲れるか、知らねえだろ)
(“平等”ってのはさ、どこにも本音を置けないってことだ)
俊介はその仮面を、完璧にかぶり続けることに慣れていた。
誰にも嫌われず、誰とも衝突せず――
だがその分、誰からも深くは踏み込まれない。
(誰にも俺の“本音”は見せない。見せたら壊れる。
だから、誰にも寄らせない。それが一番楽だ)
だが、その“距離のとり方”に気づいた者がいた。
「ねえ、俊介くんって……ほんとは冷めてるよね」
その言葉は、彼の後ろから届いた。
亮汰だった。
冗談とも本気ともつかない口調。
だが、俊介は手を止め、ゆっくりと振り向く。
「……何の話?」
「いや、ふと思っただけ。お前って、優しすぎるじゃん。
なんか、ほんとのこと言わなそうっていうか。
全部、見透かしてるくせにニコニコしてんの、不自然だよなって」
それは、俊介の仮面の奥を覗こうとするような言葉だった。
一瞬、俊介の笑顔がぴくりと揺れた。
だが、すぐに元通りに戻る。
「亮汰、怖いこと言うなぁ」
冗談めかして、そう返す。
亮汰は肩をすくめると、それ以上は何も言わず席を離れた。
俊介はしばらくの間、教室のざわめきの中に身を沈めるようにして座っていた。
(……バレた? いや、まだ。あいつは直感で喋ってるだけ)
(でも、ちょっと警戒しとくか)
いつも通りの笑顔の奥で、俊介の心は静かに冷えていた。
放課後、生徒がまばらになった廊下を歩きながら、俊介は一人、自販機の前に立った。
コインを投入口に入れるときも、選んだ炭酸飲料を取り出すときも、その表情は淡々としていた。
だが、足取りはどこか重く、目元にかすかな疲労がにじんでいる。
俊介は階段を降り、人気のない校舎裏手にある小さなベンチに腰を下ろした。
ようやく、誰の視線も気にせずいられる“自分だけの時間”。
缶を開けて、炭酸のしゅわっという音に、ようやく小さく息をつく。
「……誰にも見せないって決めたんだよ、もう」
呟いたその声は、朝の教室での“いい子”の声とは違い、低くかすれていた。
しかしそのとき――
「……ここ、空いてる?」
不意に聞こえたその声に、俊介はわずかに身を強ばらせた。
振り向けば、そこには真緒が立っていた。
「べ、別に……どうぞ」
思わず口ごもるような返しに、真緒は微笑んで隣に腰を下ろす。
二人の間に流れる、気まずくも静かな空気。
やがて、真緒がゆっくりと口を開いた。
「俊介くんって……ずっと無理してるんだね」
「……何のこと?」
「全部。人当たりのいい言葉、完璧な反応、誰にも不快を与えない態度。
私、見ててちょっと苦しくなった」
俊介は目を伏せ、缶を見つめた。
その中の炭酸が、しゅわしゅわと弾けて消える。
「そうしなきゃ、うまくやっていけないだけだよ」
ぽつりと漏れたその一言に、真緒は小さくうなずいた。
「うん、わかる。でもね――無理して全部コントロールしようとすると、たぶん、いつか自分が壊れるよ」
「……壊れるぐらいなら、最初から割れてるほうがマシだよ」
「そういうとこが、すごく優しいって思う」
真緒はそう言って、俊介の缶に視線を落とす。
「でも、優しすぎるのは、時々、誰かにとって“偽物”に見えちゃうこともあるんだよ」
その言葉に、俊介はゆっくりと目を閉じた。
そして、わずかに笑う。
「……バレてたか」
「うん、ちょっとね」
二人の間に流れたその沈黙は、不思議と居心地が悪くなかった。
誰かに“仮面”を見抜かれたのは、たぶん初めてだった。
それなのに――俊介の胸には、なぜかほんのわずかな安堵が残っていた。
「……ありがとな、真緒」
「どういたしまして、仮面くん」
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(第7話 完)
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