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第24話「夕立と二つの心」
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十月四日、文化祭当日の夕刻。
校内の喧騒が少しずつ静まり始め、生徒たちが展示の片づけを始める頃――。
希は、一人中庭にいた。
薄曇りの空。濡れた空気。明らかに、また来る。
「……やっぱり、天気は味方してくれないね」
自嘲気味に呟きながら、ベンチに腰を下ろす。
手元のスマホには、写真フォルダが開かれていた。午前中に撮った集合写真、ランタン点灯時の風景。遥輝の穏やかな笑顔が、画面の中にある。
「なんで、あんたはいつも……そんなふうに、笑っていられるの」
希の唇が震えた。理由は、風のせいではなかった。
遥輝の優しさが、時々苦しい。
どこまで踏み込んでも、あの柔らかい笑顔に包まれてしまう気がして。自分の弱さが、許されてしまうのが怖くて。
「私は、あんたに支えてほしいんじゃない。……並びたいだけなのに」
ぽつ、と。
その時、空から冷たい雫が落ちてきた。
そして、次の瞬間には、風を切る足音が背後から聞こえた。
「希! ここにいたのか!」
振り返ると、遥輝が駆け寄ってくる。制服の袖はまくり上げられ、髪は汗で額に張りついていた。片手には、折り畳み傘。
「……なんで来たのよ。放送室じゃなかったの?」
「さっき交代した。希の姿が見えなかったから、気になって」
傘を開き、彼は無言で希の頭上に差し出した。
「……いらない」
そう言って、希は傘を押しのける。だが、その瞬間、足が滑った。
濡れた芝。踏み外したつま先。
「あっ――」
重力に身を任せるように、希の体が崩れ落ちる。
だが、地面にぶつかる前に――彼の腕が、彼女を包んでいた。
胸に、柔らかな温度が伝わる。
「……痛っ」
「大丈夫?」
遥輝の声は、どこまでも優しかった。
彼の腕の中で、希は数秒だけ動けなかった。
「……なんで……なんであんたは、そんな顔、するの……」
声が震えた。体も、心も、すべてが不安定だった。
彼女は、目を伏せながら唇を噛みしめた。
遥輝は、静かに微笑んだまま、濡れた前髪の奥から希を見つめていた。
雨粒が頬を伝い、彼の制服の肩に広がるしみが濃くなっていく。
「……ごめん。無理に来たわけじゃない。来たくて来たんだ」
その言葉に、希のまぶたが一瞬震えた。
「どうして、そんなふうに……私が勝手に一人になりたいって思ってただけなのに」
「うん。でも、“勝手に”って、寂しいよ」
希は唇を噛み直した。
雨音が強くなってくる。だが、耳に残ったのは遥輝の声だった。
「俺はさ、希の隣にいるの、怖くないよ」
「……は?」
「いつだって怒るし、ぶっきらぼうだし……でも、本当はずっと、自分の中で答えを見つけようとしてる。だから……そういうとこ、ちゃんと見てたいんだ」
希の肩が小さく震える。
それは、雨のせいではなかった。
「……やめてよ、そんなの……泣けって言ってるみたいじゃん」
涙なんか流したくないのに。
強くいたいのに。
それなのに、なぜか彼の言葉は、希の心の芯まで届いてしまう。
「……ずるい。あんた、ほんとずるいよ……」
彼女は思わず、彼の胸元をぎゅっと掴んだ。
遥輝は何も言わず、その手をそっと包んだ。
その温もりが、希の指先から、心の奥までじんわりと沁みていく。
「もう、こんなに濡れて……」
照れ隠しにそんなことを呟いた遥輝の額から、ぽたんと一滴、雨が落ちる。
希はそれを、袖でそっとぬぐった。
「……バカだよね、あんた」
「うん。たぶんね。でも、バカなままでいたい。希のそばでは、特に」
不意に、二人の間に沈黙が訪れる。
それでも、気まずさはなかった。
雨が奏でる静かな音楽が、二人の距離をやわらかく包んでいた。
突然、空気の匂いが変わった。
雨が、止んだのだ。
希は、ゆっくり顔を上げて、灰色の空を見た。雲の隙間から、金色の光が差し始めている。
「……止んだね」
「うん。希が泣いたから、空も安心したのかも」
「……それ、詩人のつもり?」
希は、くすっと笑った。
その笑い声が、まるで初夏の風のように、軽やかだった。
それを聞いた遥輝の顔が、照れたようにゆるむ。
「よかった。笑った顔のほうが、好き」
「……もう。ほんとにずるい」
希は呟いて、視線をそらすと、ふと隣の花壇に目をやった。
朝顔の葉にたまった雨粒が、虹色に輝いている。
「行こっか。着替えないと、風邪ひくよ」
そう言って立ち上がった遥輝が、手を差し出す。
迷うことなく、希はその手を取った。
もう、ためらう理由なんてなかった。
二人は、濡れた靴を踏み鳴らしながら中庭を後にした。
足音は、水たまりを跳ねるリズムになり、不思議と心地よく響いた。
渡り廊下にさしかかる頃、校舎のガラス越しに、百合香と真緒の姿が見えた。
大きなスケッチブックを広げながら、何か熱心に話している。
「あの二人、なんか企んでるよね」
希がそう呟くと、遥輝が微笑みながら答えた。
「うん。たぶん、花火の代わりのプランBかな」
「……私たちの知らないところで、いろいろ進んでるんだね」
「でも、俺たちは俺たちで、ちゃんと進んでるよ」
希は、静かにうなずいた。
ふと、隣を歩く遥輝の手を握る力が、少しだけ強くなる。
「ねぇ……」
「ん?」
「さっきの、全部……忘れないでね」
「うん。絶対に」
遠くで、チャイムが鳴った。
それは、夕立の終わりを告げる音。
そして――文化祭フィナーレへ向けた、新しい鐘の音でもあった。
制服が重く張りつく帰り道。
でも心は、不思議と軽くなっていた。
二つの心は、ようやく、ひとつの方向に向かい始めたのだった。
―――第24話 完―――
校内の喧騒が少しずつ静まり始め、生徒たちが展示の片づけを始める頃――。
希は、一人中庭にいた。
薄曇りの空。濡れた空気。明らかに、また来る。
「……やっぱり、天気は味方してくれないね」
自嘲気味に呟きながら、ベンチに腰を下ろす。
手元のスマホには、写真フォルダが開かれていた。午前中に撮った集合写真、ランタン点灯時の風景。遥輝の穏やかな笑顔が、画面の中にある。
「なんで、あんたはいつも……そんなふうに、笑っていられるの」
希の唇が震えた。理由は、風のせいではなかった。
遥輝の優しさが、時々苦しい。
どこまで踏み込んでも、あの柔らかい笑顔に包まれてしまう気がして。自分の弱さが、許されてしまうのが怖くて。
「私は、あんたに支えてほしいんじゃない。……並びたいだけなのに」
ぽつ、と。
その時、空から冷たい雫が落ちてきた。
そして、次の瞬間には、風を切る足音が背後から聞こえた。
「希! ここにいたのか!」
振り返ると、遥輝が駆け寄ってくる。制服の袖はまくり上げられ、髪は汗で額に張りついていた。片手には、折り畳み傘。
「……なんで来たのよ。放送室じゃなかったの?」
「さっき交代した。希の姿が見えなかったから、気になって」
傘を開き、彼は無言で希の頭上に差し出した。
「……いらない」
そう言って、希は傘を押しのける。だが、その瞬間、足が滑った。
濡れた芝。踏み外したつま先。
「あっ――」
重力に身を任せるように、希の体が崩れ落ちる。
だが、地面にぶつかる前に――彼の腕が、彼女を包んでいた。
胸に、柔らかな温度が伝わる。
「……痛っ」
「大丈夫?」
遥輝の声は、どこまでも優しかった。
彼の腕の中で、希は数秒だけ動けなかった。
「……なんで……なんであんたは、そんな顔、するの……」
声が震えた。体も、心も、すべてが不安定だった。
彼女は、目を伏せながら唇を噛みしめた。
遥輝は、静かに微笑んだまま、濡れた前髪の奥から希を見つめていた。
雨粒が頬を伝い、彼の制服の肩に広がるしみが濃くなっていく。
「……ごめん。無理に来たわけじゃない。来たくて来たんだ」
その言葉に、希のまぶたが一瞬震えた。
「どうして、そんなふうに……私が勝手に一人になりたいって思ってただけなのに」
「うん。でも、“勝手に”って、寂しいよ」
希は唇を噛み直した。
雨音が強くなってくる。だが、耳に残ったのは遥輝の声だった。
「俺はさ、希の隣にいるの、怖くないよ」
「……は?」
「いつだって怒るし、ぶっきらぼうだし……でも、本当はずっと、自分の中で答えを見つけようとしてる。だから……そういうとこ、ちゃんと見てたいんだ」
希の肩が小さく震える。
それは、雨のせいではなかった。
「……やめてよ、そんなの……泣けって言ってるみたいじゃん」
涙なんか流したくないのに。
強くいたいのに。
それなのに、なぜか彼の言葉は、希の心の芯まで届いてしまう。
「……ずるい。あんた、ほんとずるいよ……」
彼女は思わず、彼の胸元をぎゅっと掴んだ。
遥輝は何も言わず、その手をそっと包んだ。
その温もりが、希の指先から、心の奥までじんわりと沁みていく。
「もう、こんなに濡れて……」
照れ隠しにそんなことを呟いた遥輝の額から、ぽたんと一滴、雨が落ちる。
希はそれを、袖でそっとぬぐった。
「……バカだよね、あんた」
「うん。たぶんね。でも、バカなままでいたい。希のそばでは、特に」
不意に、二人の間に沈黙が訪れる。
それでも、気まずさはなかった。
雨が奏でる静かな音楽が、二人の距離をやわらかく包んでいた。
突然、空気の匂いが変わった。
雨が、止んだのだ。
希は、ゆっくり顔を上げて、灰色の空を見た。雲の隙間から、金色の光が差し始めている。
「……止んだね」
「うん。希が泣いたから、空も安心したのかも」
「……それ、詩人のつもり?」
希は、くすっと笑った。
その笑い声が、まるで初夏の風のように、軽やかだった。
それを聞いた遥輝の顔が、照れたようにゆるむ。
「よかった。笑った顔のほうが、好き」
「……もう。ほんとにずるい」
希は呟いて、視線をそらすと、ふと隣の花壇に目をやった。
朝顔の葉にたまった雨粒が、虹色に輝いている。
「行こっか。着替えないと、風邪ひくよ」
そう言って立ち上がった遥輝が、手を差し出す。
迷うことなく、希はその手を取った。
もう、ためらう理由なんてなかった。
二人は、濡れた靴を踏み鳴らしながら中庭を後にした。
足音は、水たまりを跳ねるリズムになり、不思議と心地よく響いた。
渡り廊下にさしかかる頃、校舎のガラス越しに、百合香と真緒の姿が見えた。
大きなスケッチブックを広げながら、何か熱心に話している。
「あの二人、なんか企んでるよね」
希がそう呟くと、遥輝が微笑みながら答えた。
「うん。たぶん、花火の代わりのプランBかな」
「……私たちの知らないところで、いろいろ進んでるんだね」
「でも、俺たちは俺たちで、ちゃんと進んでるよ」
希は、静かにうなずいた。
ふと、隣を歩く遥輝の手を握る力が、少しだけ強くなる。
「ねぇ……」
「ん?」
「さっきの、全部……忘れないでね」
「うん。絶対に」
遠くで、チャイムが鳴った。
それは、夕立の終わりを告げる音。
そして――文化祭フィナーレへ向けた、新しい鐘の音でもあった。
制服が重く張りつく帰り道。
でも心は、不思議と軽くなっていた。
二つの心は、ようやく、ひとつの方向に向かい始めたのだった。
―――第24話 完―――
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