私の大好きな彼氏はみんなに優しい

第127話

「心桜、どうかした？」

　その声が耳に届いた瞬間、肩がビクリと跳ねるように反応してしまった。  

　いつもの、優しくて穏やかな柊先輩の声。

　でもなぜか今日は、その響きが胸のどこかを突いたように感じた。  

「ううん。文化祭の準備で疲れちゃったみたい、」

　口をついて出たのは、ごく当たり障りのない言葉。  

　それは嘘じゃない。
　でも、本当の理由でもなかった。  

　胸の内にあるざわめきを誤魔化すように、口元を引き上げて笑顔を作る。  

　柊先輩はそれ以上何も聞かずに頷いた。  

「そっか。じゃあ帰ろっか」

　自分が抱えているものを、先輩は知らない。
　きっと、知ることもない。  

「うん、」

　返事は小さな声で。  

　口から出た音は、まるで自分じゃないような感覚だった。  

　うまく笑えていなかったのもわかってた。

　唇の端を上げようとして、引きつった感覚だけが残った。  

　沙紀先輩と、三人で帰ることになるんだよね。

　その現実が背中にずしりとのしかかる。

　耐えられる自信がなかった。  

　言葉の一つ一つに過剰に反応してしまう自分がいて、そのたびに傷ついてしまいそうな気がして。  

　用事があるって先に帰ろうかな、

　ほんの一瞬、脳裏をよぎった逃げ道。  

　誰にも気づかれずにこの空気から離れられたら…。

「じゃあ、遥希くんまた明日」

　そう言いながら、精一杯いつも通りを装った。

　声のトーンも、表情も、普段と変わらないように。

　でも実際は、喉の奥がぎゅっと詰まっていて、声を絞り出すのにすごく力が要った。  

　本当は言いたくなかった言葉。  

　喉の奥まで「お願い、引き止めて」って想いが迫っていたのに、声にできなかった。  

　そんなことを言える立場じゃないと思ったから。  

「送っていくよ」

　その言葉に、体が反射的に止まった。  

　不意に差し出された救い。  

　でも、その優しさにすがっていいのかもわからなかった。  

「え、でも…」

　戸惑いがそのまま声になった。  
　声に迷いが滲んでしまう。  

　ほんの少しの時間だけ我慢すればいい。  

　沈黙に耐えて、笑顔を貼り付けて、何も感じていないふりをしていれば、それで今日を終えられるはずで。

　遥希くんが、わざわざ反対方向の道を歩く必要はない。  

「沙紀先輩も、あの男も、同じぐらい危ないでしょ？」

　囁くように耳元に届いた声。

　それは私だけに聞こえるように、そっと落とされた言葉。  

　その一言に、遥希くんが私のことをずっと見ていてくれたことが伝わってくる。  

　気づいてくれてた。わかってくれてた。  

　私が、自分じゃどうにもできない状況に足を取られていることに。

　ちゃんと、見抜かれていた。  

　涙が出そうになるのを、必死にこらえた。  

「ありがとう」

　たった一言。それだけしか言えなかった。  

　本当はもっといろいろ伝えたい気持ちでいっぱいだったのに。  

　全部が混じり合って、うまく整頓できないまま言葉を返した。  

「遥希くん、心桜はちゃんと家まで送り届けるから大丈夫だよ。家、反対方向でしょ？」

　柊先輩の声が、私たちの間に滑り込んでくる。  

　でも、その奥には何か別の意図があるように感じた。

「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です。俺が送りたいだけなんで」

　遥希くんの声は穏やかで、それでいて強かった。  

　誰にも支配されず、誰の目も気にせず、ただ自分の意志で動いている。  

　私はそのやり取りを、黙って見ていた。  


　感謝も、不安も、情けなさも、全部混ざって、声が出せなかった。  



　だけどその時、確かに、孤独じゃないと思えた。