大人になる約束

三木

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 良の決断に水を差す理由はなく、ともかくは牧の返事を待とうと裕司は言ったが、良は裕司と話ができたことを牧に報告したいと言った。それもまた止める理由はなかったから肯ったのだが、良は今度は何と言って伝えるべきかと悩み始めた。
「俺からも連絡しとくから」
 そう言って裕司は良の背中を叩いてやったが、良はスマホを握って難しい顔をしていた。それを見て、根っから真面目なやつなのだと裕司は思う。
 適当に愛想のいいふりをしたり、大人の機嫌を取るようなことは苦手で、きっとこれまでもたくさん損をしてきたのだろう。不器用な誠実さは、こんな世の中では見返りが少ないものだ。
 特に彼は、その気質がこれまであまりにも報われなかった。それでも曲がらずにいた分だけ、これからは報われるべきだと思わずにはいられない。
 ──調理師か。
 まだ第一志望が見つかったにすぎないとわかっていたが、それが裕司には何の助言もできない分野であることが口惜しかった。学生時代にはそれなりにアルバイトもしたものだが、飲食店で働いても厨房に携わることはほとんどなかった。
 ただ調理は肉体労働だということは確かで、常に快適な屋内で座り仕事をしてきた裕司には、ある種つらい仕事であるように思えた。
 それでも良がやってみたいと言う気持ちは、何となくわかる。
 美味しいものを食べて驚くこと、興味や関心を持つこと、そしてそれを作ることに彼は熱心だった。失敗したときの不服そうな顔と、うまく出来たものを裕司と一緒に食べるときの笑顔、その落差たるや、思い出すと笑ってしまう。
 好きなこと、楽しいことを選ぶという行為に戸惑いながら、それでも彼は自分に嘘をつく様子はなかった。

 良のスマホが鳴ったのはその日の夜、ちょうど裕司が風呂から出てすぐのことだった。めったに聞かない着信音に、良は飛び上がりそうなほど驚いて、ひゃい、と冗談のような声を上げた。
 良はスマホに取りつくと、ひどくぎこちない手つきで画面を操作して耳に当てた。
「はっはい、長谷です!」
 あまりにも聞き馴染みがなくて、裕司は一瞬それが良の苗字だと認識できなかった。思えば、良の口から彼自身の苗字を聞いたことなど数えるほどしかない。
「お疲れ様です……! あっ、えっ……はっ、はい」
 良は膝立ちで慌ただしく応答してから、スマホを顔から離して裕司を見た。
「牧さんだけど、先に話す?」
「俺と? いや、俺は別に……」
 曖昧な返答には対処しかねる、という顔をされて、後でいいよ、と裕司は答えた。牧とはすでにメールでやりとりをしていたから、裕司としては特段急いで話さなければならないこともない。
 良は通話口に二言三言発した後、ばたばたと寝室に駆け込んでいった。その戸がぴったり閉められたのを見て、あいつの『聞かれたくない話』を見たのは初めてだな、と思う。
 けれど、あの年頃ならそれが当たり前だ。本当なら、勝手に立ち入られることのない一人部屋があっていいくらいだと裕司は思う。この家でも諸々片付ければそれに近い場所を融通することはできるのだが、本人がいらないと言うので、彼が来てからも模様替えすらしていなかった。
 裕司は普段寝るときと着替えるときぐらいしか寝室に用はないから、良が掃除も洗濯もしてくれるとなると、日中はまず立ち入らなかった。なら良がそこを私室代わりにしているかというと、彼はほとんどいつも居間にいた。
 もっと一人になれる空間がなくてもいいのかと訊いても、裕司が仕事部屋にいる間は実質一人だと不思議そうな顔で返答された。そうではなく誰も入ってこない空間がなくていいのか、と念を押すと、良はいっそうわからないという顔をして、裕司がいても何も嫌なことはされないし言われないのだから、何を困ることがあるのかと訊き返された。
 そこまでやりとりをしてようやく、これが育った環境の違いというものなのかもしれないと気が付いた。
 田舎で姉弟のいた裕司は、もっとプライベートな空間がほしいと思っていたけれど、一人っ子で家族と距離を置いて暮らしていた良には、物理的に一人であるかどうかは主眼にならないらしかった。むしろ家のどこにいても一人でいることが当たり前で、問題になるのはそこに不快な干渉があるかどうかなのだ。それがなければ、わざわざしつらえてまで居室を持つ必要は感じないのだろう。
 寝室からわずかに良の話し声が漏れてくる。何を言っているのかまでは聞こえなかったが、聞き耳を立てているような気になって居心地が悪かった。
 特に観たいものもないが、と思いながら、裕司はテレビを点けた。どこか外国のデモの映像が映って、耳慣れない言葉で早口にまくしたてる声が扉の向こうの肉声をかき消した。
 テーブルの上を見ると、良が開いたままにしていったテキストが目に入った。電話がかかってきたときに驚いて放り投げたものか、シャーペンはテーブルの向こう端に転がっていた。
 テキストの余白に、良が書き込んだ細かい文字が見えた。少しくせのある字で、ビザンティウムと読めた。
「歴史なんか忘れたなぁ……」
 裕司にはもうそれが何だったか思い出せない。それでもそこに載っている円蓋の建築物の写真は、少し懐かしいような気がした。

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