後宮の秘姫は知らぬ間に、年上の義息子の手で花ひらく

愛早さくら

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1巻

1-3

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 どれだけそうして抱き合っていたことだろうか。しばらくして自然と抱擁ほうよういた二人は、どちらからともなく、今度は寝台へと並んで腰かける。幼い頃と同様に、それでいて、随分と大人に近づいてしまった翔兄と小美の二人で。
 夜が深々と、より深まっていくかのようだった。
 なんだか違ってしまった雰囲気を、どう捉えればよかったのか。小美は戸惑いのにじむ気持ちを押し殺し、翔兄に寄り添ったまま、座ってなお高い位置にある翔兄の顔を覗き込む。

「それで、翔兄。今日は本当にどうしたというの」

 突然訪ねてくるなんて、何か急ぎの用でもあったのだろうか。
 首を傾げる小美を、目を細めて見つめながら、翔兄は小美の小さな手を取り、ぎゅっと握った。

「ああ、特別に用があったというわけではないんだ。ただ、君の顔が見たくなって」

 気が付くと衝動的にここへ向かっていたのだという翔兄に、小美は一瞬、パチと目をしばたたかせる。次いでくすくすと、どこかくすぐったそうに笑みをこぼすと、

「まぁ、翔兄ったら。変な翔兄」

 などと軽口を叩いて、胸に去来した、常と少し違う気持ちを誤魔化した。
 翔兄はそんな小美の手を握ったまま、しばらく小美を眺める。そして何かを確かめるかのように静かに目を伏せたかと思うと、次に顔を上げた時には、また柔らかな笑顔へと戻り、真っ直ぐに小美を見つめて、ゆっくりと口を開いた。

「小美」
「翔兄?」

 怪訝けげんそうな小美からの眼差しにも目を逸らさず、一つ大きく唾を飲む。

「このところ少し忙しくて、なかなか来られなくて、ごめんね。この時間しか都合がつかなくて……」

 近頃は以前よりもずっと忙しくなってしまっているのだと翔兄は言った。だから今後はおそらく、今までのようには後宮に来られないと。
 それを耳にした小美は、ぐっと胸が塞がれたかのような気持ちになった。ただでさえ寂しく感じているのに、それが今後はもっと寂しくなるだなんて。
 小美の自然に下がった視線を、翔兄は名を呼ぶことだけで上げさせる。

「僕だって、君に会えないのなんて耐えられない。だから今後は、きっと来られるとしても、こんな時間になってしまうと思うんだ。それでも」

 君に会いに来るよ。夜ばかりにはなるけれど。とがめられるかもしれないから、ひっそりと。夜にこうして会っていることは二人だけの秘密だ。でなければ、会いに来られなくなってしまう。
 真摯しんしに言い募る翔兄に、小美はこくりと頷いた。

「私も、翔兄に会えなくなるなんて寂しいわ、だから嬉しい」

 たとえ夜の遅い時間だったとしても、もしかしたら、寝ようとしているところを起こされることとなっても構わない、そう思う。
 二人だけの秘密というのも、なんだか胸が躍るような気がした。

「よかった。僕はこれからも出来るだけ小美に会いに来るよ。だから、小美、『ここ』で待っていて」

 小美が近頃、後宮から出たがっていることを知っているからなのだろう、いつか、翔兄が後宮から出る前日の夜に願ったのと同じことを、翔兄は小美へ繰り返した。
 小美ははっとする。ああ、そうだったと思い至った。翔兄は三年前の夜、確かに翔兄に告げられたのだ。『変わらずに』『ここ』で待っていてと。
 いつの間にそれを忘れてしまっていたのだろうか。周囲の噂話が耳に入るようになってきて、それだけではなく、小美一人では寂しくて、退屈で、何より、もっと翔兄と一緒にいたかった。
 けれど、そんなこと、後宮にいる限り叶わない。だから後宮から出たかったのだ。翔兄のいない後宮から。きっと、後宮の外でならもっと翔兄と共にいられる。そう思えてならなかったのかもしれない。なのに。
 翔兄は、『ここ』で待っていてほしいという。
 三年前と同じことを、じっと小美を見つめて願った。
 小美はこくりと首肯する。
 小美の気持ちは変わらない。三年前から、ずっと。
 そうだ、三年前にも思ったのだ。『ここ』で『変わらずに』待っていようと。
 それにどんな意味があるのかなどは、小美には全くわからなかった。けれど翔兄が願うのならば、叶えたい、そう思った。たとえどれだけ寂しくて、退屈でも。どれほど翔兄が恋しくても。翔兄が、『ここ』で待っていてと言うのだから。

「よかった、小美。大好きだよ」

 頷いた小美に安心したのか、翔兄はほっと息を吐いて、目を細め、小美に告げる。大好きだよ、なんて、幼い好意を示す言葉を。幼い頃とは少しだけ変わってしまった熱っぽさで。
 小美はそんな翔兄に、なぜかどきっと高鳴った胸を持て余しながら、この夜もやはり、翔兄の願いを受け止めるばかりだった。


 その夜から、翔兄は昼になかなか後宮へと来られない代わりのように、月に数度、小美の元へと訪れるようになる。
 小美一人だけが寝起きする明桃宮の小美の私室、寝台で。二人は会えない時間を補うように、夜のひと時を語り合って過ごした。
 時に寄り添って、共寝する夜まであった。
 そんな逢瀬おうせは誰に知られることもなく、それから何年も続いていくこととなる。
 小美はすっかり陽の下で翔兄と会えないまま、夜の中でだけ翔兄と会っていた。だからだろうか。否、きっと翔兄が『変わらずに』と言ったからだ。いつかの呪いのような何かを思い出してしまったからというのもあるだろう、そこから数年、成人を迎えてもなお、小美の見目は大人には程遠いまま。元より魔力の多さもあり、緩やかだった成長は、輪をかけて緩やかになっていった。うに大人の女性になっていてもおかしくない年齢となっても、精々が十二ほどにしか見えない。そんな小美に変化が訪れたのは、十九で成人して、半年ばかり経った頃の、ある昼下がりのことだった。


     ◇ ◇ ◇


 本来、後宮に入宮した妃妾には、初めに必ず皇帝の渡りがある。しかし、入宮した際に成人していなかった場合、皇帝の渡りを受けるのは成人した日と決まっていた。それをもって、正式に皇帝の妃妾と見なされるのである。けれど、小美が成人した日に皇帝が渡ってくることはなかった。
『偽りの妃』、そう噂する声がより大きくなったのはそこからだったのかもしれない。
 ともあれ、小美が明桃宮をたまわって七年。見目が幼いことも手伝ってか、小美は未だ、朝と夜の食事を棗央宮にて正后ととっていた。
 正后がせめて都合がつく限りはと、毎日顔を出すことをねだり続け、小美には断り切れなかった為だ。元より、明桃宮をたまわった際の条件に期限はなく、そうでないのなら棗央宮に戻るようにとまで言われては、一人で過ごしたい小美に、あらがすべなどあるはずがない。もっとも、それが決して嫌なわけではないのも確かではあったのだけれど。
 十二の時点ですでに日々を持て余していた小美の日常が、七年経ったからといって変わるわけもなく、小美は日毎、さて今日は何をしようかと迷うばかり。自然、資料庫などで知識を詰め込むことに時間をついやしてしまいがちなのは、それが一番現状を忘れられるからなのかもしれない。
 勿論、芸技を修めてみたり、後宮の敷地内に数多く点在する園林を散歩したりすることもある。特に資料庫におもむいた帰りなどは、少し足を延ばして風情ふぜいを楽しむこともしばしばだった。
 だから、この日、そちらへと足を向けたのも、何か理由があってのことではなく、ただなんとなく気が向いて、といったような、いわば気まぐれに過ぎなかったのだ。
 棗央宮の敷地内にある、南側のはずれ。資料庫から明桃宮まで帰る一番近い回廊からもほど近いその園林は、普段ならあまり回らない場所だった。
 何せいつも遠目に見ている場所であり、わざわざ入って行こうとは思わない。けれどたまには、と足を向けたのは、昼食をとって少しした後、常のように資料庫へと向かう途中のこと。いつからか、すっかり供すらつけずに歩き回ることが当然となってしまっていた小美は、この時もまた一人きり、足が向くままに回廊を歩いていた。
 後から思うと、無意識に求め続けていたせいなのかもしれない。それほどまでに、まるで何者かに導かれてでもいるかのように、小美は気が付くと九曲橋きゅうきょくばしに差しかかっていたのだから。否、きっとどこかで感じていたはずだ。慕わしい、翔兄の魔力の気配を。
 ふと、胸が沸き立つようだった。
 忙しいと、七年前には後宮から足が遠のき始めていた翔兄は、ついにはすっかり昼間には姿を見せなくなっていて、小美が翔兄と会えるのは、翔兄が月に数度、夜更けに訪ねてくる時だけ。長く、明るい陽の下で顔を見ることすら出来ていなかったのである。
 だから、気付いた時には、本当に久々に会えるのではないかと小美は思ったのだ。なのに。

「ああ、翔……兄……?」

 翔兄の鮮やかな、それでいて落ち着いた色の青髪を目にして呼びかけようとした小美は、結局それ以上、声を上げることが出来なかった。
 小美のいる場所から少し離れた、池を挟んで向こう側。広いすいしゃ榭の一角、木々の陰に隠れるようにして見えたのは、間違いなく翔兄だ。けれど一人ではなかった。翔兄に、まるで寄り添うようにして赤い髪が見えたのである。やはり暗い、けれど確かに魔力の多さを感じさせるつややかな赤髪がいったい誰のものなのかを、小美は流石に知っていた。
 朱貴妃しゅきひ朱緒豊ヂュシュフォン。四貴妃の中で、一番年若い貴妃である。
 紗豊シァーフォンという名の幼い公主を一人持つ、苛烈な性質の美しい貴妃だった。
 その朱貴妃が、翔兄と共にいる。仲睦まじく、やけに親密そうな雰囲気で。
 魔力の多い良家の常として、朱貴妃もまた、年齢よりも若々しい見目をしている。実際に年齢も三十を覚えておらず、二十代。いつの間にかすっかり大人の男性となった翔兄と並ぶと、どうにも似合いに思えてならなかった。
 髪色も見た目も、まるであつらえたようにしっくりくる。未だ子供でしかない見目の小美とは違う、翔兄に見合った成熟した美しさを持つ朱貴妃。そして朱貴妃に勝る雄々おおしさの翔兄。
 そんな二人を目にした瞬間、小美はそれ以上動くことが出来なくなった。ひどい衝撃を受けているのに、それでいて自分がいったい今、どうして衝撃を受けているのかさえわからない。
 わかるのはただ、翔兄と朱貴妃はとても似合っていて、そして妙に親密そうだということだけ。
 小美はもう長く昼間に翔兄と会えていないのに、朱貴妃は、ああして寄り添っている。
 どうして、と思わずにはいられなかった。
 どうして、翔兄の隣にいるのが朱貴妃なのだろう、と。どうして、自分ではないのだろうか、と。
 ふと、自分の手足を見下ろした。幼く、子供にしか見えないそれ。正后や皇帝は可愛い可愛いと褒めそやすけれど、他の妃妾たちからはあざけられるその容姿。
 翔兄に寄り添ったとして、決して朱貴妃のように釣り合いはしないだろう幼さの自分。
『変わらずに』『ここ』にいて。
 他でもない翔兄にそう言われて、だから『変わらずに』在り続けたのだ。なのに。
 わけのわからない感情が、激しさを持って胸の中に渦巻く。燃えたぎるような衝動は、怒りにも似て、けれど決してそれだけではない。

「どうして……」

 呟いて、唇を噛みしめた。
 これまで、翔兄の一番近くにいたのは間違いなく小美だ。ここ数年は夜にしか会えなくなっていたけれど、小美は全く疑っていない。翔兄に最も近しいのは自分なのだと。なのに、今、この瞬間、小美は翔兄が自分以外の誰かと仲睦まじく寄り添っているのを初めて見た。
 嫌だと、思った。
 翔兄の隣にいるのは、自分がいい、隣にいたい、見合う自分になりたいと。
 小美がそんな風に強く、大人になりたいと願ったのは、この時が初めて。そして、翔兄へと向かう自分の感情が執着を伴うものなのだと、自覚したのもこの時。『今』を変えたいと思ったのも、また。
 小美が変わるきっかけとなった、成人して半年ほどが過ぎた、ある昼下がりの出来事だった。



   第三章


 落ち切った夜のとばりの中で、微かに虫の音が耳に届いている。
 明桃宮の、自分一人きりしかいない、灯りもない暗い寝室で、寝台に腰かけた小美は、聞くともなしにそんな小さな声に、じっと静かにひたっていた。
 小美は虫の音などが、特に好きなわけでも嫌いなわけでもない。普段は意識することすらしない。それなのになぜ今、そのようなものが気になるのか。

「夜とは……こんなにも静かだったのね」

 一人の夜など、これまで何年も過ごしてきている。それが今更、これほどまでに気になるのは、今宵こよいもまた、待っていた相手が訪れなかったせいだった。

「翔兄。どうして」

 どうして、訪ねてきてくれないのか。
 二ヶ月前のあの日の昼下がり。棗央宮の南端にある園林の九曲橋で、遠くすいしゃ榭にいる翔兄と朱貴妃を見かけてから、どうしてか翔兄が夜に、小美の元へと姿を見せなくなっていた。
 元より昼間にはもう何年も会えておらず、けれど夜になら月に数度、通い続けてきていた翔兄が、この二ヶ月はぱったりと来なくなってしまったのだ。理由も何も連絡がないまま、ただ訪れなくなってしまった翔兄を、小美はひたすらに待っている。もっともこれまでも、翔兄が訪ねてくる時に連絡があったことは一度もないのだが。
 初めはそこまで気にしてはいなかった。きっと忙しいのだろう、そういうこともある、と。けれど、一ヶ月が過ぎて、二ヶ月も近くなってくると、どうしても気にせずにはいられなくて。
 じっと耳を澄ませて、意識を集中させて、翔兄の気配を探る。けれどそれでわかるのは遠く、見回りをしているのだろう衛兵の動きだけ。翔兄が来る前触れは、いつまで経っても見つけられない。

「ああ、今日も」

 今日も、来ないのね。ぽつり、と溜め息を吐く。
 待っていてもどうにもならないことは、小美にも理解できていた。
 翔兄は後宮の外にいて、小美は後宮から出られない。連絡を取るすべもない。精々が手紙をことづけられる程度。けれど、翔兄が夜、小美の元を訪れているのは秘密なのだ。どうして来ないのかと尋ねられるわけもない。何より翔兄は忙しいのだとも聞いていた。勉学に、公務に、皇太子としての政務もある。しばらくは来られないようだと寂しそうに教えてくれたのは、翔兄の足が後宮から遠のいてほどなくの頃の、正后だっただろうか。
 小美はあの子を待っていてあげてちょうだいね、そう言い聞かせられて頷いた。その時にはすでに幾度か、翔兄は夜に小美の元へと通っていたのだけれど、それは秘密だからと口にせずに。
 正后でさえ、もう何年も、公務を後宮の外でこなす際にしか顔すら見ていないという翔兄に、小美がことづけられることなど何もない。勿論、手紙を送ったことはあるし、返事ももらえる。けれどそれは年に数度という頻度でしかなく、しかも忙しいのだという翔兄をわずらわせたくないが故のことだった。それで夜に来られなくなっても困ると、小美はそう考えたのである。
 小美は二ヶ月前のあの日のことを、翔兄どころか誰にも告げたりしなかった。当然、手紙で問い合わせたりもしていない。だから、小美が二人を見たこと自体が理由であるとは思えず、なら、どうして翔兄は来ないのか。
 小美はこの二ヶ月ほどで、驚くほどに成長していた。
 年相応というにはまだ少しばかり幼いけれども、決して十二には見えなくなっていることだろう。背も伸びて、体つきもぐっと女性らしくなったようだった。
 ふくらんできた胸と、丸みを帯び始めた体つきには、小美自身が戸惑うほど。
 これなら、と思う部分があった。
 あの日に見た翔兄と朱貴妃のように、そっくり似合いというわけではないだろうけれど、ほんの二ヶ月前までの見目よりは、少しぐらい、翔兄に見合うようになっているはずだ。
 そして、そんな風に変わっていく自分を、翔兄に見てほしいとも思っている。何より成長した小美自身を、翔兄に受け入れてほしいと。きっと喜んでくれるに違いない、小美はそう信じていた。
 大きくなったね、綺麗になったね、とまで言ってくれるかもしれない。想像するとどきどきして、早く翔兄に変わっていく自分を見てほしいと思わずにはいられなくて、なのに。
 どうして翔兄は姿を見せてくれないのだろう。小美には全くわからなかった。だから、今もこうして一人、じっと翔兄を待つことしか出来ずにいる。夜が静かに深まって、やがて遠く白んでくるまで。小美はこの夜もまた、翔兄の気配を待ち続けるばかりだった。


     ◇ ◇ ◇


 あの日から二ヶ月が経って、小美が目に見えて成長したにもかかわらず、朝晩の食事は棗央宮におもむくことに変更はなかった。
 小美が明桃宮をたまわって七年。正后が公務などで後宮にいない時を除いて続けられてきた習慣で、小美が近頃、夜に翔兄を待つせいで上手く眠れなくなっているからといって、なくなるようなものでもない。勿論、すぐに正后に見とがめられたのだが、寝付けないことだけ告げ、理由までは伝えていなかった。
 ただ、それを正后なりに気にしていたのかもしれない。連日の寝不足で動きの鈍い頭を抱えながら向かった棗央宮の食堂で、小美は驚いて目を見開いた。否、近付きつつ期待していた。だって小美がこの気配を、間違うわけがないのだから。なのに。

「小美。紹介するわね。彼は涼。今日から貴女につく宮人よ」

 そう言ってにこやかに正后が指し示した先にいたのは、黒に近い濃い紫の髪をした、深いはしばみ色の瞳の、二十を少し過ぎたぐらいに見える青年。その青年は小美には、髪と目の色の違う翔兄にしか思えなかった。
 魔力も、なんらかの道具で抑えてでもいるのか、少しばかり少ないようだが、やはり翔兄と同じもの。小美が間違えるはずがない。
 それなのに正后は今、明らかに彼を指して涼と呼んだ。宮人なのだと。
 小美は混乱する。
 元々、皇帝の妃妾となる才人以上ならばともかく、宮人に男女の別はない。ただ、後宮の敷地に足を踏み入れる者全員に施される呪の関係もあり、どうしても男性は少なく、護衛役などの一部の者に限られていた。
 だから、小美付きといっても、護衛だと考えれば何もおかしなことはない。否、翔兄が宮人だなんて、おかしくないわけがないだろう。
 小美は首を傾げる。翔兄の髪と目の色が違っていたから、まずは驚いてしまったのだが、きっと何か理由があるのだろう。それよりも。

「何を、おっしゃっているのです、正后陛下。涼? そのお方は翔兄、いえ、皇太子殿下ではございませんか」

 髪と目の色まで染めて、いったいどうなさったというのです。
 この七年で、可能な限り改めるよう気を付けるようになった口調で問うと、正后は困ったように眉尻を下げた。
 ちらと、青年を見る。しかし青年はすました顔でそこに立つばかり。
 周りにいた、正后付きの宮人たちがくすくすと笑った。

「ほほ、まぁ、明妃様こそ、何をおっしゃっているのかしら」
「ご冗談がお好きですのね」
「きっとそれほどまでに殿下が恋しくていらっしゃるのだわ」
「なんて痛ましい……」
「確かに、遠目から見た印象は似ていますけれども」
「明妃様、なんでもこの者は、殿下の影武者を務めておられたのですって。だからきっと、似たところがおありなのですわ」

 だけどそれだけ。全くの別人ではないかと宮人たちが、ある者はおかしそうに、またある者は気づかわしげに、口々に小美へと伝えてくる。
 小美はわけがわからなかった。
 さっと正后を窺うと、正后も宮人たちの言葉を否定せず、やはり困ったように微笑むばかり。その上、さっと一歩前へと進み出た青年が、

「お初にお目にかかります、明妃様。ご紹介にあずかりました、私、涼と申します。今後、明妃様付きの宮人として、誠心誠意尽くす所存です」

 と、うやうやしく膝をつき、拱手きょうしゅしてみせたのである。
 それは間違いなく、翔兄が小美に取るような態度ではなかった。正しく、新たに入宮した宮人が、妃へと向ける礼だ。
 混乱する。だって翔兄だ。翔兄にしか思えない。なのに、違うのだという。
 小美はこの場にいる自分以外の全員、特に正后までもが青年を涼と呼ぶことに、段々と、もしかしたら本当に自分こそおかしくなってしまったのかもしれないと思い始めていた。
 元より睡眠が足りておらず、少しばかり頭が重いのは確かなのだ。そのせいで間違えているとでもいうのだろうか。先程の宮人が告げた通り、翔兄を恋しく思うが故に?
 わからなかった。ただ、小美には翔兄が別人をよそおっているようにしか見えない。
 そして小美は、ここで言い募っても、きっと自分の主張が認められることがないのだろうと理解して、結局、それ以上は口をつぐんだ。
 頭にもやがかかったように、全く気分は晴れないまま、小美は大人しくいつもの通りに朝食を済ませた。


     ◇ ◇ ◇


 小美付き、と言っていた通り、涼は食後、棗央宮を後にする小美に、当然のような顔をして付き従った。
 他の宮人たちが、それぞれ自分の仕える妃妾たちにそうしているのと同じ様子で、だ。
 仕草も、様子も、勿論服装も。他の宮人たちと何も変わらない。けれど顔立ちも魔力も翔兄と同じもの。
 小美は自分の少し後ろを歩く涼を、ちらと窺った。もうじき明桃宮に着く。この先は明桃宮しかないから、他の誰かが通りがかる心配などほとんどない。精々が見廻りの護衛役ぐらいのものだろう。念の為、注意深く周囲の気配を探って、誰かがいないことを確認し、一つ唾を飲んでから口を開く。

「ねぇ、貴方」

 はからずも少しぞんざいな声音になってしまったのは、きっと不審が隠せなかったからだ。先程会ったばかりの、初対面と言っていい相手によくない態度だったかもしれないと思い至ったが、すぐに構わないと思い直した。仮に涼が本当に翔兄とは別人で、ただの宮人なのだとしたら、小美が多少ぞんざいな対応をしたぐらいでとがめる者などいない。勿論、目に余るようならたしなめられるだろうけれど。逆に本当は翔兄で、別人をよそおっているのだとしたら、小美が怒ったり不機嫌になったりするのも、少しもおかしくはないのだろう。
 だから小美はそのまま、不機嫌もあらわに問いかける。

「貴方、本当に翔兄ではないの?」

 涼だとかいう存在のふりをしているのではなくて?
 小美の飾らない言葉遣いに、涼がくすと笑みをこぼした。その上、

「明妃様は随分と、お可愛らしい方でいらっしゃるのですね」

 そんな風に言われてしまって、小美は一瞬、かっと、頭に血がのぼりそうになった。

「なっ、貴方っ……!」

 失礼にも程がある。なじろうとした切っ先は、しかしすぐに寄越された謝罪にかき消される。

「お気を悪くさせてしまったのでしたら申し訳ございません。ですが、もし私が涼という宮人でなかったとして、それが何になるというのでしょう」

 そのまま続けられた言葉に目をしばたたいた。いったい何を言い出したのか。

「この後宮の主は正后陛下であり、皇帝陛下です。そのお二人ともが私を『涼という宮人』だとおっしゃっている。それが全てなのではないでしょうか」

 もしそこに他の事実がひそんでいたとして、少なくとも後宮の中においては、その二人の認識に勝るものなどない。
 涼の発言に小美は唇を噛んだ。彼の言う通りであるということは認めざるを得ず、また、これ以上の追及を封じられたに等しかったからだった。
 けれど、と思う。彼が小美の疑っている通りに翔兄だとしたら、翔兄は他でもない小美に、別人をよそおっているのだということになる。翔兄は嘘や酔狂、ましてや小美を騙す為だけにそのようなことをする人物ではない。ならばそこにはきっと、やむにやまれぬ事情があるのだろう。しかしわかっていてもなお、小美はどうしても納得し切れず、じくじくとうずく胸の痛みを、平然とした顔で受け止めることが出来なかった。

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