後宮の秘姫は知らぬ間に、年上の義息子の手で花ひらく

愛早さくら

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1巻

1-2

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 上手く寝付けなくなるぐらいには寂しくて、寂しくて、こうして翔兄が柔らかく微笑んでくれていて、こんなにも嬉しく思っている。なのに、どうしてか、ますます寂しく感じてしまう。
 それは、小美が初めて覚える、制御できない感情だった。
 自然に、小美の顔はくもっていく。そんな小美に気付かない翔兄ではない。

「小美」

 静かに、密やかに、改めて呼ばれた小美の名には、どこか、いつもとは全く違う切実さがひそんでいるように感じられた。

「ねぇ、聞いて」

 翔兄が小美の目を真っ直ぐに見て、その幼く小さい両手を取る。
 翔兄の小美と同じ琥珀こはく色の瞳が、壁の高い位置にある明かり取りの小さな窓から射し込んだ、月の光にきらめいていた。
 小美はその瞬間、これまでのことも、今の状況も全てを忘れて、翔兄に見入ってしまう。ああ、翔兄はなんて綺麗なのだろう、と。
 小美は、翔兄よりも綺麗な存在をこれまで見たことがないと、この時、唐突に思い知った。
 後宮には美しいものがたくさんある。
 見目うるわしい妃妾たちは元より、値のつけられないほどの価値を持つ装飾品。あるいはいつか、翔兄と共に見たひときわ色鮮やかな木芙蓉もくふようの花の色など。
 それ以外にだって、時折会いに来てくれる、父である西王せいおうなど、造作の美しさだけを指すなら、誰に劣ることもない美貌と言えるだろう。
 そんな中にあって、だけど小美が一等美しいと思うのは、いつだって翔兄のこと。
 綺麗で、かっこよくて、だからこそ慕わしい。小美は翔兄が大好きなのだ。翔兄以上に好ましく思うものなど他にない。
 知らず見惚みとれる小美の前で、翔兄は少しだけ躊躇ためらった後、意を決したように口を開いた。強く、小美を見つめたまま。

「僕は明日、ここを出る。学院で学ばなければならないから。それが決まり。勿論、僕は皇太子だから、ここへの出入りはこれからも出来るだろう、それでもこれまでのように、君と共にはいられない」

 小美は微かに頷いた。わかっていたことだ。だからこそ、寂しくてたまらなくて、今だって寝付けずにいた。自然と俯いてしまいそうになるのを、翔兄の眼差しが押し留める。
 目を逸らすのは許さない、まるでそう告げるかのように、翔兄は真っ直ぐに、小美を見つめ続けた。

「ここから出られない君に、こんなことを願うのは僕の我儘わがままだ、それでも」

 それでも、と、いったん言葉を切った翔兄を、小美もまた見つめ返す。
 琥珀こはく色の澄んだ瞳が、金色にまたたく、その神秘に、吸い込まれてしまいそうだった。
 翔兄が何を言おうとしているのかなど、小美にはまるでわからない。けれど聞かないという選択肢はなく、翔兄の唇がゆっくりと開いていくのから目が離せなかった。

「待っていてほしいんだ」

 そう告げた翔兄の言葉は、これ以上ないほど真摯しんしな響きを持って小美に届く。
 元より他にどうすればいいのかも知らず、小美はただ、小さく頷いた。

「君に、ここで待っていてほしい。必ず、君を『迎えに来る』から。『変わらずに』ここで待っていて」

 僕を、待っていて。
 翔兄がなぜそんなことを言うのか、小美には全くわからない。けれど、翔兄がそう言うのなら待っていよう、小美は素直にそう思った。
『ここ』で『変わらずに』待っていようと。
 翔兄が後宮を出る、前の日の夜のこと。転機が訪れたのはきっとこの時。それは、翔兄が小美にもたらした、呪いにも似た何かだった。



   第二章


 緑濃い樹々の合間、黄色い羽根の鳥がぴちちと涼やかにさえずった。
 常日頃から、よく見かける小鳥だ。ここ、後宮の庭へとよく飛んでくる、名前さえ知らない小さな鳥。ぴちち、と小さな鳴き声と共に葉末を揺らして飛び立つ姿を、小美がなんとはなしに目で追っていくと、小鳥はまたたく間に見えなくなっていった。

「小美。それで、近頃はどうかな」

 前方に座った男性が訊ねてきた声は穏やかで、それ故に耳馴染みがいい。けれど決して、耳慣れた声というわけではなかった。
 小美はそんな声に導かれるように、知らず逸れてしまっていた視線を戻した。
 後宮に入宮した妃妾は、退宮するまでは、後宮の外へと出ることが叶わない。それは親族に不幸があった場合などでさえ例外ではなく、また、一度退宮してしまうと、たとえ代変わりしたとしても、再度入宮出来ない決まりとなっている。
 退宮とはつまり、妃妾ではなくなるということ。
 一度入宮すると、最低でも三年は退宮出来ない。しかし、三年経過した後は、本人の希望と皇帝の許可があれば、退宮することが可能だった。加えて、妃妾ではなくなっても、退宮した後の身分は保証される。だからこそ、場合によっては後ろ盾の弱い良家の子女などが、保証される身分の為、入宮を目指すことさえあった。
 元々、妃妾として入宮するにはいくつかの基準があり、その中でも一番重要視されるのは魔力の多さ。ひるがえって、魔力こそ多くとも、その魔力の多さに立場の見合わない者たちを救済する側面を持っているのだ。より具体的な例を挙げるならば、良家に生まれた魔力の多い庶子が、妃妾として入宮し、三年以上を後宮で過ごし、退宮した後には嫡出子と認められる、などである。
 こういった者たちは、年若いうちに入宮し、大抵は成人を前に退宮した。それは成人前であるなら、妃妾とはいえ、『内実』が伴わないのがやはり慣例であった為だ。つまり、後宮にいる妃妾が『本当の意味』で妃妾となるのは、成人する時と決まっているということだった。
 そして、そんな風に容易に出ることの叶わない後宮において、外部の者との接触は、外部の者の方が後宮の面会所までおもむく場合に限られている。
 面会所は、後宮と前宮の間に位置する、園林の中にあるいくつかのすいしゃ榭がその役割を担っていて、また、面会には面会人と妃妾、それぞれに一人ずつ以上の護衛と宮人を伴わなければならない。勿論、行商などが面会所ではなく、宮に直接おもむくことも時折あるのだが、その場合はたとえ一時的に後宮に足を踏み入れる者であっても呪を施す必要があり、その点、面会所までなら、呪は必要ではなかった。
 必然、呪を施すことが推奨されない、妃妾の親族や立場のある面会人などは、面会所を利用する以外になく、それは今、小美の前に座っている男性も同じこと。その男性とは白家当主・西王、白澄月チォンユエ。他でもない小美の父である。
 なお、西王とはそのままずばり、白家当主のことを指した。ここ華大国を東西南北で四等分し、その内の西領を管理している白家の当主。西領の王と言える存在であるが故に西王と称されていて、他の四家も同じように、各家の当主は東王や、南王、北王と称されていた。
 いわば皇帝に次ぐ立場にある人物。だというのに、西王は何度こうして相対しても、とてもそんな風には見えず、穏やかな、いっそたおやかと言ってしまってもいい風情ふぜいまとう、非常に美しい青年だった。
 顔立ちは小美との血縁を疑うべくもないほどそっくり同じ。勿論、性差や年齢差、何より身にまとう色は全く違うのだが、他は誰が見ても見間違うことがないほどだ。おそらくは小美が生まれる際にこの男性と同じ見目であることを余程、願われたのだろう。
 年の頃はとても小美のような子供がいるようには思えず、成人を少し超えたぐらいにしか見えなかったが、実年齢は三十の中頃になるはずだ。年よりも随分と若々しいのは後宮にいる年嵩としかさの貴妃たちと同じ、その身に保有する魔力が多い故のこと。その証拠に、白家特有の翠玉すいぎょくのような瞳は輝かんばかりに鮮やかで、同様に緑色の髪だって、落ち着いた色味でこそあれ、暗すぎはせず、当主としての貫禄は、身にまとう色からだけでも充分に感じられた。
 顔の造作そのものは、それこそ鏡を見ているかと思うぐらいに、小美とほとんど同じはずなのに、改めてこうして対峙していると、小美にはちっともそんな風には思えない。
 きっと身にまとう雰囲気が違いすぎるからなのだろう。
 落ち着きがないとたしなめられることがしばしばで、どちらかといわずとも闊達かったつな小美と、どうにも物静かな風情ふぜいただよわせる西王。彼は声にさえ、ともすれば聞き惚れてしまいそうな穏やかさをにじませている。

「どう、と言われても」

 取り立てて変わったことなどない。
 翔兄が後宮を出て三年。小美は十二になっていた。ちょうど翔兄が後宮を出たのと同じ年。
 この三年で、小美の周囲は随分と変わってしまった。ただ、翔兄が隣にいないというだけではなく、何もかもが違ってしまったとしか思えないほどに。
 翔兄は月に数度、後宮を訪れてはくれども、それだって短い時間ばかりで、満足に共に過ごすことなど、とても出来なくなっていた。
 近頃は以前よりずっと多く、公務なども任されるようになったのだという。他にも学ぶべきことがいくらでもあり、きっと後宮の外で、忙しく時を過ごしているのだろう。
 一方の小美は、まさか何かを手伝えるはずもなく、寂しさを紛らわすかのように、勉学に実技にと邁進まいしんしても、そろそろ教えることがなくなるとまで言われる始末。ならばと、他の妃妾たちのように社交を試みようとしたところで、成人を迎えている者の多い彼女らとは、あまりにも年齢も立場も違いすぎた。いっそ、皇帝の子女である皇子や公主たちの方が近しいぐらいではあるのだが、それでも、彼ら彼女らとも同じであるはずがない。少なくとも翔兄とそうしていたようには過ごせなかった。
 おまけに近頃は、そこ彼処かしこささやかれる口さがない噂話さえ耳にするようになっている。いわく、「棗央宮のお荷物」「後宮の厄介者」「形ばかりの妃」と。
 それは決して昨日、今日の話ではなく、最後の噂話のことについてまでは伝えてはいなかったが、それ以外はこれまでにも西王に伝えていた。前回の面会から今回までで、何が変わっているわけもない。

「そう……」

 西王はどこか気づかわしげに、相槌あいづちともいえない呟きを落とす。同時に心配そうに、注意深く小美を窺っているようだった。けれど小美には、そんな西王に返す言葉が何もない。
 後宮にいることを、息苦しく感じるようになったのはいつからだったろうか。少なくとも、翔兄が後宮を出てしまってからだろう。公務で忙しくしているのだと聞くたびに、何か手伝えたらと思わずにはいられなかった。けれど、妃妾の立場では出来ることなど何もない。
 翔兄よりも勝ると言われた勉学の知識も、実技の腕も、後宮にいる限り、発揮するすべがなかった。
 後宮の厄介者だとか、そう称されたところで、そもそも小美は自ら望んで後宮にいるわけではない。物心ついた時にはすでに後宮にいたのだから。
 後ろ盾を得る為だけであるのなら、すでに充分な年数が経っているはず。にもかかわらず皆、そのことを訊ねると、顔をくもらせるばかりだった。
 それは今、目の前にいる西王も同じ。

「ねぇ、西王様。私はいつまで後宮にいなければならないのです?」

 たまりかねた小美は、これまで幾度も口にしてきた問いかけを繰り返す。
 形ばかりの妃と言われて、それを否定することすら小美は出来ない。ならばいっそと願うのは、決しておかしなことではないはずだ。なのに、西王は、今もまた、

「それは……」

 と、言葉を詰まらせるばかり。
 小美はぐっと、一度、まぶたを閉じた。

「まだ、私は後宮からは出られませんのね。ならばやはり、私がお話しできることなど何もありませんわ」

 西王が小美を気にかけてくれていることはわかっている。一度も面会に訪れたことのない『母親』と違い、これまで数ヶ月に一度ではあれ、欠かさずに訪ねてきてくれているのだ。幼い頃から、ずっと、何年も。
 西王は時折、小美の弟妹なのだという幼い子供たちを伴うことがあった。しかし、そんな小美の弟妹たちが後宮に入宮してくることはない。
 初めの子供なのだという小美だけが、なぜかこうして後宮にいて、一向に後宮から出られない。
 弟妹たちと小美と、いったい何が違うのかなどと、他でもない、小美を後宮へと入宮させた本人であるはずの西王に対してでさえ感情的になじれるほど、小美は幼くもなければ物知らずでもなかった。
 過剰なほど知識を得てしまっているが故にだろう、様々なことを理解して、小美を後宮に留まらせることが西王の本意ではないこともわかってしまう。
 ならばどのような理由があって、小美は後宮から出られないのか。誰に訊ねても、それこそ、西王よりも明確に上の立場であるはずの皇帝でさえ、同様の顔をする。今では小美も、そんなことを周囲に聞くのをすっかりやめてしまっていた。今のように、訊ねられたら答えるけれど、それだけ。
 小美は実のところ、室内でおとなしく書物に向かうなどより、外を駆け回ることの方が好きだ。だが、十二にもなると、衝動のまま動くばかりというわけにもいかず、一人ではどうしても周囲の目が厳しくなってしまって、近頃は書庫にこもることも多くなっている。他に、時間をかけられそうなことが何もないのだ。
 それほどまでに後宮の中は、小美にとって息苦しいばかりとなっていた。
 しかし、そんな苛立ちを、西王にこれ以上ぶつけることも出来ず、この後の面会は結局、気まずい時間を過ごすだけで終わってしまった。


     ◇ ◇ ◇


 西王との面会から数日後の夜、小美は棗央宮の一室で、皇帝、正后を始め、二人の娘である、未だ幼い小奏シャオヅォ、そして後宮を訪れていた翔兄と食卓を囲んでいた。
 皇帝の寵愛ちょうあいの対象はあまりにも明白だ。立場上の問題もあるのか、玄貴妃、蒼貴妃と一人ずつ子を成してはいるものの、他の妃妾たちへの渡りなどほとんどなく、時間が許す限りこうして棗央宮にて正后や小美、子供たちと夕食を共にするほどだった。
 小美にも勿論、まるで我が子のように可愛がってもらっている自覚がある。
 だから小美は、近頃のうれいなど忘れて、いつも通りの夕食を楽しんでいた。特に今夜は翔兄もいるから余計に。

美姐メイジェったら、今日も小奏よりいっぱい転んでいたのよ」

 などと、最近ようやく器用に話すことが出来るようになってきたばかりの、小美より六つも幼い小奏の聞き捨てならない言葉に、小美は少しばかりわざとらしく口を尖らせてみせる。

「あら、いっぱいなんて転んでいないわ。ただ、今日は少しつまずいてしまっただけよ」

 それがよりによって小奏の前であったというだけの話。実際には小奏の見えない所で、見慣れない宮人の一人に足を引っかけられたのだが、そんなことはおくびにも出さずに笑み交じりに言い返した。
 けれどそのようなこと小奏がわかるはずがなく、小美も小奏に理解を求めたりなどしていない。ただ、小奏がそんな風に感じるぐらい、小奏の前ですら小美が転んでしまうことが度々たびたびあるのは確かだった。
 そんな諸々の事情など何も含んでいないかのように口を尖らせる小美の様子に、その場にいた皆が声を立てて笑う。

「もう! 大哥も翔兄もひどいわ! 大姐まで!」

 大げさになじったら、

「ははは。わかっているよ、小美、いつもじゃないと。でも時折、足元がお留守になるんだよね?」
「何か考え事をしている時とかにね」

 などと言葉を返され、いったい彼らの中で、自分はいくつに見えているのだろうかと思いながらも小美はぷっくりと頬を膨らませた。
 きっと今よりもずっと幼いままに思っていて、小美もそれでいいと考えていたからだ。転んでいる本当の理由など、彼らに察せられたくなどない。だから、幼い頃のままに口にした。

「あら、私が考えていることなんて、いつだってみんなのことだけよ!」

 これは紛れもない本心。小美が想うのなど、今この場にいる、小美が好む者たちのことばかりなのだから。

「まぁ、小美、嬉しいわ」

 今度は正后が顔をほころばせて、そんな風に他愛のないおしゃべりが続いていく。話の中心は、小美が多かった。これは特に意図したわけではなく、いつものことで、皆の関心が小美に集まっている為だ。それもあり、小美は今この時ばかりは近頃感じている憂鬱ゆううつが吹き飛んでいくように感じていた。だから、食事の終わり頃に、

「それで、大哥、大姐も、私だけの宮をたまわる話はどうなっているの?」

 と、ごくごく明るい口調で、少し前より打診していた話を持ち出してみせる。
 棗央宮のお荷物。そう言われるのなら、棗央宮を出てしまえばいいというのは、小美が見つけた答えの一つだった。
 とはいえ、元々は噂話に従おうと思ったわけではない。きっかけの一つではあったが、そうではなく、本当は棗央宮が小美にとって、翔兄との思い出が多すぎたが故のこと。翔兄が今は共にいない、それを強く思い知ってしまって、耐えきれなくなりそうだったのだ。

「でも、貴女はまだ幼いのに……」

 正后がしんなりと眉尻を下げてたしなめるのに、小美はことさら子供っぽく、すねた顔を作って言い返す。

「私だってもう十二になるわ。翔兄が後宮を出たのと同じ年よ。私は後宮から出られないのでしょう? だったら」

 せめて、自分一人の宮が欲しいと、ねだる口調でそう続けた。子供の我儘わがままの振りをして、寂しさなんかは伝えずに。
 小美が後宮から出たいと思っていることは二人ともが知っていて、ならばこう言えば頷くだろうと考えて口にしたのに、皇帝でさえ難色を示す。

「いいじゃないか」

 そんな中、後押ししてくれたのは、意外にも翔兄ただ一人。
 小美は内心どきっとしながら翔兄を窺った。視線に気付いた翔兄は、小美に、にこと笑いかけて、

「小美が言う通り、小美ももう十二になる。小美だけの宮をたまわってもいい頃だ。いつまでも棗央宮に居続けるわけにもいかないだろう。これからも後宮にいるのだから余計に、ね」

 そう、小美が後宮から出られないことを前提として二人へと進言した。
 翔兄の発言は、小美の願いをまるっと叶えるものであったはずだ。なのに、どうしてだろう、小美の胸がつきと痛んだ。

「確かに、そう言われると……」

 ねぇ? なんて顔を見合わせ、翔兄の言葉を受けた二人が、不承不承ふしょうぶしょうながら頷く。

「うむ。そうだなぁ……いくつか条件はあるけれど――……」

 最終的に、条件を呑み、許可を得て、小美が自分一人だけの宮をたまわったのは、それからしばらく経ってからのことになった。


     ◇ ◇ ◇


 小美に与えられた宮は、明桃宮めいとうきゅうと言い、白貴妃の住まう桃西宮とうせいきゅうからほど近い、棗央宮よりの場所にあった。
 しかし、ほど近いとはいっても、桃西宮そのものとは壁にさえぎられていて、回廊をぐるっと回り込まなければ辿り着けない場所となっている。
 いっそ棗央宮の方が、行きやすくさえある、明妃の位に相応ふさわしい広さを誇る宮だった。
 そこに、小美が一人。桃西宮と棗央宮から数人、他からも幾人かの宮人を付けられてはいるのだが、彼女らの多くは通いとなっていた。それというのも、小美が宮をたまわる条件の一つに、食事は棗央宮にて正后と共にとること、というものがあった為だ。
 そうなると明桃宮で行うのは夜を過ごすことと身支度ぐらいのもの。そう多くの手が必要とならなかったのである。
 まだ子供でしかない小美を心配した正后が食事は共に、と主張して譲らず、小美も頷かずにはいられなかったが故の状態だった。
 何より実は、全く一人きりになってしまうのが寂しいという理由もあった。
 桃西宮の主である白貴妃は、ほんの四年ほど前に、先帝の頃から白貴妃であった、皇帝よりも年上の女性から代変わりしたばかり。
 新しい白貴妃は、小美とも親戚に当たる白家傍流ぼうりゅうの出であるらしいのだが、これまで交流はほとんどない。精々が、後宮の妃妾である皆が集まる午餐ごさんの折に言葉を交わしたことがある程度。小美はあくまでも正后の庇護のもと過ごしていて、蒼貴妃や玄貴妃のような、小美が入宮する前からいた者たちはまだしも、新しい妃妾たちとは全く親しくしていなかったのだ。
 そこはかとなく、相手からの拒絶が感じられたというのもある。どうやら小美の存在は妃妾たちにとって、あまりいい印象を与えるものではないらしかった。
 そんな中において白貴妃は、出自もあってか、小美に対して好意的ではあったのだけれど、親しくまではなれておらず、加えて、桃西宮より遣わされた宮人たちも見慣れない者しかいなかった。そして彼らは主人と違い、小美をあなどっているような部分があったのである。
 小美が自分の宮から宮人を遠ざけ始めたのは、自分一人の宮を与えられてすぐの頃。
 当然ながら心配する正后には、背伸びをしたい子供をよそおうことで誤魔化した。そうして段々と小美は、宮で、一人で過ごすことが多くなっていった。


 小美の元へ突然、翔兄が訪ねてきたのは、小美が明桃宮で過ごす日々にもようやく慣れてきた頃。とある夜も更け切った時間のことだった。
 小美の宮に泊まるような者がすっかりいなくなってしまっていることを、翔兄が知っていたのかどうかはわからない。ただ、翔兄の訪問が予想外のものであったのは間違いなかったことだろう。
 小美は寝台へと横になって、それでいてどうにも寝付けずに、ぼんやりと眠気を待っていた。

「小美」

 そこへ、先触れもなく、翔兄が訪れたのである。小美は目を丸くして驚いた。勿論、翔兄が近づいてきていることは少し前から感じ取れてはいた。けれど、まさかそのまま自分の元へと来るだなんて。思えばここしばらく、翔兄の訪れは途絶えていて、昼はおろか夕食でさえ、共にすることがなくなっていたことを思い出す。そうはいっても、ほんの数ヶ月ほどの話ではあったのだが。
 いずれにせよ、嬉しさは隠し切れず、むく、と起き上がった小美は寝台から出て顔をほころばせ、歓待した。すっかりと寝支度も整え終わった、はしたない姿であることなどうに意識の外である。

「翔兄! どうなさったの? 今日はこちらに来られるなんて、連絡も何もくださっていらっしゃらなかったじゃない」

 抱き着くかのように翔兄の胸へと飛び込んだ小美を、翔兄は危なげもなく受け止めた。少年らしい、厚くなりかけの胸板は、少し会わなかっただけなのに、またたくましくなったように感じられる。大人に近づいた翔兄と、年よりも幼い体躯をした小美では、いつの間にか随分と差が開いてしまっている。けれど小美はそんなことちっとも気にせずに、翔兄にぎゅっとしがみついた。
 無邪気で、どこか幼いままの小美の姿に、一瞬たじろいだ様子を見せた翔兄は、しかし次の瞬間には、そんなことなどまるでなかったかのように、いつも通りの顔をして、小美に優しく微笑みかける。

「ひどいなぁ、小美。連絡をしないと来てはいけないのかい?」

 少しおどけるようにそう言ったのは、本来なら先触れもなく妃妾の宮に訪れるなど、大変な無礼に当たることを理解していた為なのだろう。なにせ、皇帝がねやへと訪れる時でさえ、事前に伝令が届くのだ。にもかかわらず、今宵こよいの翔兄は何もかもをすっ飛ばして、小美のいる明桃宮へと、本当に突然、姿を現したのである。今の、あえて少し軽くしたのだろう口調も、ここにもし小美以外の誰かがいたならば、とがめられてしかるべき態度だった。
 だが実際には今、この場には小美しかおらず、翔兄の無礼な対応など気にするはずがない。勿論、不快にも思わない。小美は翔兄にしがみついたまま、

「まぁ、翔兄ったら! そんなこと、あるわけないわ。私は翔兄のお顔が見られるだけで、これ以上ないほど嬉しいんですもの」

 にこにこと幼く笑う。そんな小美に、翔兄もまた包み込むようにして柔らかい笑みを返した。

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