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1巻
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視界が揺れている。ゆらゆらと、揺さぶられる動きに合わせて。
小美は逆らわず揺さぶられながら、もう何もわからなくなっていた。
「ぁっ、ぁっ、ぁっ、ぃやぁっ……! あぁんっ! あっ!」
喉からは高い声が迸る。見慣れているはずの天井が涙で滲んだ。
ああ、どうして。わからない。わからない、けれど。
「はっ、はっ、ぅっ、明妃、様、ああ、なんてお可愛らしい……お慕いしています、ええ、愛しているのです。ぅっ、くっ」
荒く息を吐き、うわごとのように愛を囁くのは、三ヶ月前から小美付きとなった宮人、涼。そのはずだった。なのに。
ああ、翔兄。
小美はそうとしか思えない。翔兄と涼が重なっていく。
ここ一ヶ月の間に繰り返し見た夢の中で、翔兄は今と全く同じように小美に触れていた。小美に触れて、愛を囁いて、硬く立ち上がった熱い腰の中心を小美の胎の中へと突き込んでは揺さぶり、愛を注いだ。何度も、何度も。小美の意識が遠くなるまで。否、その後だってきっと、空が白むまで。
けれど、今、小美を揺さぶっているのは翔兄ではなく涼だった。
「ぁっ、ぁっ、ぁん、もぉ、ぁっ! やぁっ……!」
熱がずっと引かず、体の奥が熱くて。もうどれほど揺さぶられているのかもわからない。今、自分に触れているのがいったい誰なのかさえも。否、わかっている、本当はわかっている。ああ、翔兄。
眩むような意識の中で、小美はただ、翔兄だけを求めていた。
第一章
大帝国『華』。あるいは単純に「華国」もしくは「華大国」と称されるこの国は、この世界の大陸の、ほとんど最北部に位置していた。
独自の文化を発展させてきた華国は、帝政を用いており皇帝が国首となっている。
彼の国の特色としてひときわ異彩を放つのが、皇帝の為に存在している後宮だった。
後宮そのものは他国にも数あれど、華国ほど厳格なる制度の下で運営されている所は存在しない、皇帝の寵を競う場所であり、そこでは多種多様な美姫たちが、それぞれの技法でもって、影ながらこの国を支えているのだとか。
一度入宮すると最低でも三年は出ることの叶わない後宮の最奥。
そこでは秘された花が蕾のまま、今も、花開く時を待って微睡んでいる。
◇ ◇ ◇
「では明妃様、この国の外では魔獣が闊歩していることは、すでにご存じですね」
昼下がり。後宮の中心に位置する、皇帝と唯一正式に婚姻を結んでいる正后が管理する棗央宮の一角に、老齢の講師の声が穏やかに響いていた。
明妃と呼ばれたのは、齢五つを少し超えるぐらいの、利発そうな眼差しをした少女。
「ええ、華国は国全体を覆う国防障壁によって魔獣の侵入を防いでいるのでしょう?」
少女は印象のまま、年に似合わぬ明朗な声で答え、しっかりと頷く。
少女の名は白美月。周囲の者たちからは小美と呼ばれている、華国において、皇帝・正后に次ぐ地位にある四家の内、西領を治める白家当主の唯一の嫡出子だった。
それが故に、僅か二歳という幼さで妃妾として入宮し、以降、正后を後見にして育てられてきている。
白家の当主筋に生まれたということを考慮され、幼いながらも賜った官位は正后、四貴妃に次ぐ正二品となる明妃。実情はどうあれ、立場上は皇帝の妃の一人である。
講師はそんな小美の様子に、満足そうに小さく微笑んだ。
「ええ、そうです。障壁により、華国には一定以上の魔素濃度を有した存在は侵入できません。それは魔獣のみならず、他国の人間や商人であっても同じこと。入国には魔力の登録が必要で、国民であっても出生を届け出た際に、魔力の登録も済ませます」
「登録することによって、障壁への魔力の充填が可能になり、充填された魔力によって障壁が維持されているのよね」
「はい、よく覚えておられましたね。その通り、特にここ、後宮は障壁の要。皇帝及びその妃妾様方の居城であり、最も魔力負担の大きい場所となります」
他にも名家とされる各家も、他よりは魔力負担が大きくなるよう術式が組まれている。その為、魔力が低下し髪色が濃くなる者が多いのだと続けられた講師の話に、小美はちらと、長く伸ばされた自分の髪を見た。
褪せたような、白に近い髪色は濃いようには到底見えず、なんとなく後ろめたくなる。
気付いた講師が穏やかに笑んだ。
「明妃様も他の方と同じだけ、障壁へと魔力を送填しておられますよ。にもかかわらず御髪の色が淡くていらっしゃるのは、それだけ保有魔力量が多いからでしょう」
気に病む必要はないという講師の言葉に、小美は小さく頷いた。
この世界の人間は皆、魔力を有しており、魔力を用いて術式などを行使する。髪や目の色は魔力の影響を強く受け、魔力が多ければ多いほど色が淡い傾向にあった。
けれど、華国においては違う。今、講師が述べたように障壁の維持に膨大な魔力を必要とする為だ。
小美は少し前に習ったそれらを思い出し、気にせずにはいられなくなっていた。
そんな小美の様子は講師には好ましく映るのか、自然と眼差しが柔らかくなる。しかし気を取り直し、講師はまた口を開いた。
「明妃様はまだ幼くておられますから、閨のことはもう少し大きくなられてからになりますが、それ以外の後宮の制度や掟についてなどをお話しいたしましょう。まずは」
と、話し始めたところで、部屋の外から幼い少年の声が聞こえてくる。
「――……美、小美!」
小美はその声にぴくりと反応した。自分の名が呼ばれているというのがわかったからであり、また、その声が小美の一等好ましく思う相手のものであることを、瞬時に悟ったからでもあった。
「翔兄だわ! 老師!」
小美は期待を込めて講師を振り仰ぐ。ねぇ、いいでしょう、と無言のうちに問いかける小美の様子に、講師は眉尻を下げて苦笑した。
「仕方がありませんね。構いませんよ。今日の予定は終えておられますから。この続きは明日にいたしましょう」
講師の言葉に、小美は途端、ぱぁっと顔を輝かせ、
「ありがとう、老師!」
と、感謝もそこそこに机上に広げられていた教材などを手早く片付けると、飛び跳ねるようにして席を立つ。そのまま、瞬く間に部屋を飛び出していく小美を見送って、講師は改めて溜め息を吐いた。
なにぶん小美はまだ幼い。遊びが優先されるのも仕方がないことだった。
そこへ、同じように小美を見送っていたのだろう人物が、くすくすと笑いながら部屋を訪れる。
「小美には、振られてしまったみたいねぇ」
などと、可笑しそうに話しかけてきたのは、この棗央宮の主、智正后・玄瑛佳、その人だった。
「これはこれは正后陛下。こちらまでおいでになられるとは」
「ふふふ。小美の様子を聞いておこうかと思って。どう? 座学は順調かしら。お茶でも飲みながら聞かせてちょうだい」
おっとりとした柔らかな正后からの誘いかけに、講師は小さく頷いた。
先程まで小美が着いていた卓を、正后に続いて入室してきた、正后付きの宮人が手早く整えていく。正后と講師はそのまま、向かい合わせに腰を下ろした。
なお、宮人とは後宮において、使用人の立場となる、正六品の者たちのことを指す。正后、正一品・四貴妃、正二品・妃、正三品・嬪、正四品・貴人、正五品・才人の、更にその次の地位である。また、妃と嬪はそれぞれ、五人、十人と定員が決まっているのだが、それよりも下位の者にはそのような制限はなかった。もっとも、今の後宮では、正式に皇帝の妃妾となる才人以上の者はそれほど多くはなく、先代から仕えている者も多い宮人は、少しばかり余っているような状況なのだが。
「それでは失礼して……いやはや、非常に優秀でございますよ。噂に違わぬとはこのことですね。このままですと遠からず、玉翔殿下と共にお教えしてもよいかもしれません」
玉翔というのは先程小美を呼ばわった、小美が翔兄と呼んで慕う人物であり、皇帝と正后の間に生まれた、近く立太子する予定の第一皇子のことだった。
「まぁ、小翔と? 三つも年の差があるのに。本当に優秀なのねぇ」
勿論、玉翔の方が上である。自分の実子よりも小美の方が優れていると言われたに等しいにもかかわらず、正后にそれを厭う様子はなく、講師もまたわかっていたからこそ口にしていた。後見といいつつ、正后が小美を我が子同然に可愛がっているのは周知の事実。元より気性の穏やかな正后はそのようなことを気に病む性質ではない。講師もまた、幼い小美に傾倒している者の一人で、それは正后も知っていた。
遠く、子供たちの声が聞こえてくる。耳を傾けながら正后は微かな溜め息を吐いた。
「小美が入宮してきてすでに三年。後宮から早く出してあげることが出来ればよかったのだけれど」
どうにも叶いそうもないと、やるせなく目を伏せる。講師もそっと俯いた。
「一度後宮を出てしまえば、再び入宮することは叶わない。仕方のないことでございましょう」
先程小美に教えようとした、制度や掟の一つだ。正后が頷く。
「そうねぇ。……今は、まだいいの。私の目も届いているし、周囲は小美の事情を知る者ばかり。でも、これからも後宮には新しい妃妾が入宮してくるわ。その者たちはどうなるかしら。情けない話だけど、全てを私が管理することなんて出来ないわ。そうなった時に、小美が辛い思いをしなければいいけど」
自分の威光をどこまで轟かせることが出来るのか。
ぽつり、と正后が落とした不安は、外でにぎやかな声を響かせる子供たちには届かないまま。正后と講師、二人の間を揺蕩っていった。
◇ ◇ ◇
先程までいた棗央宮の一室を後にした小美は、廊下を回って、建物の中心にある中庭へと出る。向かうのは先程、翔兄の声が聞こえた方。
「翔兄!」
勢いよく走り寄り、飛ぶように抱き着いてきた小美を、翔兄は危なげもなく受け止めた。
「小美! そんなに走ったら危ないよ」
口では咎めながら、しかし小美に向ける翔兄の眼差しは柔らかい。
「あら、翔兄は私を受け止められないっていうの?」
まさかそんなはずはないだろうと訊ねる小美に、翔兄は笑って答えた。
「勿論、僕が君を支えられないはずなんてないけどね」
ただ危ないことには違いがない。翔兄は小美の言葉を否定はせずに、けれど重ねて注意した。次いで、まるで抱擁のようになっていた体勢を解いて、代わりとばかりに手を差し出す。
「それより、行こう、小美。この先の東の園林で、木芙蓉が綺麗に咲いたんだ。早く君に見せたくて」
「あら。このところ翔兄が気にかけていた木芙蓉が?」
「そうさ。きっと朝には咲いていたんだろうけれど、僕も確認できたのがついさっきで……夕方にしぼむ前にって。去年よりも大きな花だよ」
明日にもまた、次の蕾が開花するだろうけれど。一番に咲いた花を見せたかったのだと輝くような笑みを浮かべる翔兄に、小美こそがまるで花のように笑う。
「素敵ね。早く見たいわ」
そう言うと、待ち切れないとばかり、翔兄の手を振り解いて走り出してしまったので、翔兄は慌てて追いかけ始めた。
「あ、ちょっと、小美! 待って!」
ついさっき、窘めたばかりだというのに。座学にしても、実技にしても、小美はともすれば翔兄よりも優秀なこともあると講師たちが言っていた。けれど、小美にはこういう所がある。爛漫で闊達で、そして少しばかり落ち着きがないのだ。
今のように、何か楽しみなことがあるとすぐに走っていってしまう。そして。
「きゃっ」
「おっと……」
翔兄が危惧した通りに、前をよく見ていなかったのだろう小美は、どしんと、誰かの足にぶつかった。そのまま弾かれるように飛ばされ、尻もちをついた小美が見上げると、見慣れた男性が柔和な顔をして小美を見下ろしている。
「大丈夫かい? 私の小さなお嫁さん」
お嫁さんと称した通り、男性は形式上の小美の夫であり、ここ、華大国の皇帝でもある、光玉深だ。
皇帝は屈んで、小美を優しく支え起こす。
「父上!」
走り寄ってきた翔兄が呼びかけてくるのへも、皇帝は柔らかく微笑んだ。
「小翔。小美も、そんなに走ってはいけないよ。危ないだろう?」
やはりどこまでも穏やかにそう窘める。
「陛下」
皇帝の後ろに付き従っていた女性が、呼びかけることで立ち上がるようにと促すと、声に含まれた、戸惑うような響きに皇帝は小さく苦笑する。
「大事ないよ、硬いことを言わないように」
「そうは仰られても、陛下が膝をつかれるなんて……」
「これぐらいどうってことないさ。なぁ、小美」
言いながら、皇帝は小美を抱えて立ち上がった。幼い小美ぐらいならば、まだまだ抱き上げるのに支障などない。
そんな皇帝を目で追い、そのまま恨めしげな顔で見上げてくる翔兄に皇帝は笑う。
「うん? 小翔。お前も抱き上げてほしいのかい?」
違うとわかっていてのからかうような問いかけに、翔兄はふるりと首を横に振った。
「父上にそうされるのは恐れ多いです。ほら、小美も降りて」
そう、小美へと降りるように促す。
とてもではないが言葉の通りに恐れ多いと思っている態度ではない翔兄に、皇帝は笑みを崩さない。
小美は、そんな翔兄と皇帝を交互に見たかと思うと、皇帝へと訴えかける。
「大哥おろして」
「うん? 私の小さなお嫁さんはどうやら、小翔の方がいいらしい」
はっはっはと声を上げて笑った皇帝は、小美の望む通りに地面へとそっと降ろした。
すぐさま、小美の手をさっと取った翔兄が、
「父上、僕たちはこれで。蒼貴妃様も。ご挨拶もせず申し訳ございません、御前失礼いたします。――ほら、小美、行こう」
と、皇帝を気にしながらも小美を促す。小美は素直に頷いた。
「うん。それでは大哥、蒼大姐も。またね」
ちょこんと、皇帝と、少し後ろに控えたままの女性、蒼貴妃へと挨拶を残し、翔兄に手を引かれるままに歩き出す。
「二人とも、あまり走り回ったりしないようにね」
子供たちの背中へ向かってかけられた皇帝の声に、二人がそれぞれ頷くのを見て、皇帝は目を細めて微笑んだ。
「小美は相変わらず、随分おてんばなご様子ですこと」
おっとりと口を開いた蒼貴妃の声には、戸惑いが滲んだまま。皇帝はそんな蒼貴妃へと振り返る。
「なに。元気なことはいいことだよ」
「それは……確かに、そうかもしれませんけども」
あくまでも柔らかいままの皇帝の声音に、蒼貴妃の戸惑いが晴れることはなかった。
◇ ◇ ◇
後宮の中には、数多くの園林が設えられている。それらは、それぞれの宮や房を囲うように点在していた。
園林には木が不可欠であり、同時に様々な花が植わっていることも多い。翔兄が指し、小美と二人で目指していた木芙蓉もそんな園林の花木の一つ。
つないだ手を放さないまま辿り着いた木芙蓉の根元で、小美が、色鮮やかに咲いた薄紅色の花を見て目を細めた。
「翔兄の言っていた通りだわ」
綺麗、と思わずといった様子で唇から零れ落ちた呟きに、隣に並んだ翔兄もまた、笑みを深める。
「今年一番に咲いた木芙蓉だ。ああ、ほら、きっと明日はその隣の蕾が花開くだろうね」
視線の先を辿って小美は頷いた。
「なら、明日も見に来ないと」
「はは。そうだね。もし、お時間があるようなら母上も誘おうか。小律や小詩も」
小美よりも一つ上となる翔兄の同父母弟、玉律やまだ生まれて一年やそこらしか経たない、同じく同父母妹である詩佳の名を出した翔兄に小美は目を輝かせる。
「素敵! だったら大哥も誘ってはどうかしら? 玄貴妃に白貴妃、蒼大姐や小紬も!」
小紬は蒼貴妃の生んだ、小美よりも二つほど年下となる翔兄の異母妹で、現皇帝の子女はこの四人で全てだった。とはいえ、皇帝は元より、幾人もいる妃妾たちもまだ若く、今後増える可能性は大いにある。小美が兄妹のように接している子女たち全てと、懇意にしている貴妃たちの名を出すと、流石に難しいと翔兄が苦く笑った。小美の屈託のない爛漫さは、翔兄には少し眩しくも思える。
「明日となると急だから、どうかな……皆の予定が合えばいいけど」
他でもない小美からの提案だ。きっと可能な限り、都合をつけてくれるだろうと続けながら、翔兄は躊躇うように小美の様子を窺った。
幼く愛らしい横顔は、翔兄の方を振り返らず、一心に目の前の花を眺めている。
薄紅色の木芙蓉の花は、小美の白銀に輝く髪に映える。その可憐さに見惚れつつも、翔兄がおもむろに懐を探り、包みを取り出した。
「小美」
「なぁに、翔兄」
翔兄へと向き直った小美は、差し出された包みを見て、ぱちと一つ目を瞬かせる。はにかむような翔兄の様子はいつもと違っていて、いったい何事かと訝しむ小美に、翔兄ははらりと包みを開けた。
そこにあったのは、一本の簪。たくさんの小さな花が折り重なるように連なっていて、しゃらと垂らすようにしずく型の石があしらわれている。小美の、あるいは翔兄の目と同じ色の小さな琥珀だ。幼い小美が着けてもきっとおかしくはないだろう愛らしい簪に、小美が目を輝かせた。
「わぁ、可愛い」
「これを君に。似合うと思って。受け取ってくれる?」
翔兄の言葉に、小美は頷いた。
「勿論! 嬉しいわ」
「よかった」
輝かんばかりの笑顔を返す小美に、翔兄はほっと息を吐く。
元より小美が喜ばないのでは、と心配していたわけではない。けれど、それでも、こんなにも喜んでくれると嬉しい。
そんな翔兄を前に小美は、何かを思いついたのかぱちん、と小さく手を叩いた。
「そうだわ、翔兄、それを私の髪に挿して」
「え、今?」
「翔兄の手で。ほら、早く!」
「わかった。ちょっと待ってね」
いいことを思いついたとねだる小美に、翔兄は応えるようにして簪を髪に挿す。
「ありがとう。うふふ。似合うかしら」
翔兄の挿した簪を嬉しそうに示す小美に、翔兄の顔は自然と綻んだ。
「ああ、よく似合っているよ」
小美の、白銀の髪に小さな花の連なった簪と、近くには色鮮やかに咲いた薄紅色の木芙蓉。明るい午後の光は、まるできらきらと、二人を彩っているかのようだった。
◇ ◇ ◇
幼き日々は煌めきながら、けれど飛ぶように過ぎていく。
小美は実際の年齢より聡明で、同時に明るく闊達だった。正后の庇護の下、囲うように守られていたおかげもあるのだろう。小美は邪気など知らぬまま育っていった。
そんな小美に転機が訪れたのは、小美が九つとなった頃。三つ年上の翔兄が十二になり、後宮を出ることとなった時である。
これまで小美と翔兄は、ほとんど離れることがなかった。
座学も実技も共に学び、他の時間も可能な限り共に過ごす。勿論、寝室は別であったし、入浴などを一緒にすることはなかったが、それ以外の時間はずっと離れなかった。
とはいえ、翔兄には皇子としての公務などがあり、後宮の外へ出ることもしばしばだ。
一方、いくら兄妹同然に育ったとはいえ、あくまでも妃妾であり、間違っても公主ではない小美にはそういった諸々が割り当てられることなどない。当然、後宮から出るなど許されず、だからこそ翔兄といる時間が長かったのである。
けれど、これからはそうではない。なぜなら翔兄の起居する場所は、後宮ではなくなってしまうのだから。
この国の皇子は十二になると後宮を出て、学院に入らなければならない。それは古くからの慣習であり、たとえ嫌だと主張したところで拒否できない決まり事だった。
元より良家の子女は、学院に通うことが一般的だ。基本的な知識は家で学び、より高度な学問を修める為に学院に通う。何より、同じ年頃の子供を集めた学院は、人との関わり方を知り、親しい関係を築くのには必要不可欠で、それは皇子であるからといって、通わずとも済ませられるというようなものではなかった。
また、後宮という場所で施される呪も無視は出来ない。後宮は国防障壁の要であると同時に、次代の皇帝を育む場所でもあり、間違っても皇帝以外が子を成してはならなかった。その為、十二を過ぎて後宮に出入りする者は皆、魔力を自分の体から出せないようにする為の呪を施されることとなっている。そして、それは皇子や公主であっても変わらず、例外は皇帝本人と、次代皇帝となる皇太子のみ。
翔兄は第一皇子であり皇太子の立場にあるので、この呪の対象にこそ入っていなかった。けれど実弟となる玉律は呪を施さねばならない。そしてこの呪は、その特殊性故か、男性に施した場合のみ、呪を施していた期間の分だけ寿命を縮めるという作用を持っているのである。
女性である公主にはそういった作用が適用されないこの呪は、皇子である限り、必ず十二で後宮を出て、学園に通わねばならない理由の一つとなっていた。
いくら小美が寂しく思っても、翔兄が名残を惜しんでも、翔兄は後宮を出なければならない。
勿論、これ以降、後宮に入れなくなることはない。けれど、これまでのように過ごすことが出来なくなるのには間違いがなく、小美はそんな日が来るのが少しでも遅ければいいのにと願うばかりだったのである。
◇ ◇ ◇
小美の願いも空しく、ついに翔兄が後宮を出てしまうという前日の夜のこと。皆が寝静まった時間。翌朝には翔兄を見送らねばならぬ寂しさに、上手く寝付けなかった小美は、ひっそりと忍ぶように小美の寝所を訪れた翔兄にすぐに気付いた。
それまで、寝室は別であるとはいえ、共に寝たことは幾度かあって、このように翔兄が小美の元を訪れること自体は、それほど珍しいというわけではなかった。けれど、いつもよりずっと遅い時間だなと小美は思う。否、すぐに、こんな時間まで自分が起きていることこそが珍しいのだろうと思い直した。
「小美」
翔兄はどうやら、小美を起こすつもりはなかったらしく、小さく、微かな囁き声で小美の名を呼んだ。
「どうしたの? 翔兄」
すぐさま返事をした小美に、翔兄はひどく驚いたようだった。
「小美、起きていたの」
もう遅いのに、と、やはり小さく囁く声に、むくり、と寝台から身を起こした小美はしんなりと眉尻を下げて口を尖らせる。
「だって、上手く寝付けないんですもの」
どこか言い訳めいたことを口にしてしまったのは、咎められるのではと心配になったからだったのだろう。もう朝には離れ離れになってしまうというのに、こんな最後の最後で咎められたりなどしたくはない。小美の口調は常よりもどこか幼くなった。
そんな小美とは裏腹に、翔兄はただ柔らかく微笑んで、
「まったく。仕方がないなぁ、小美は」
などと言いながら、どこか嬉しそうに雰囲気を和ませる。
それはこれまでと何も変わらない、いつも通りの翔兄の様子だった。否、そのはずだった、なのに。
どうしてかこの時小美は、そんな翔兄に、どきり、と胸を高鳴らせていた。
翔兄はいつも優しく、小美を包み込んでくれる。
翔兄は小美にとって、絶対的な庇護者だった。だからか、翔兄にそうされると、小美はいつだって、ひどく居心地がよくて、その場所から決して離れたくはないと思うばかり。なのに、朝にはもう離れなければならない。
小美は寂しくてならなかった。
小美は逆らわず揺さぶられながら、もう何もわからなくなっていた。
「ぁっ、ぁっ、ぁっ、ぃやぁっ……! あぁんっ! あっ!」
喉からは高い声が迸る。見慣れているはずの天井が涙で滲んだ。
ああ、どうして。わからない。わからない、けれど。
「はっ、はっ、ぅっ、明妃、様、ああ、なんてお可愛らしい……お慕いしています、ええ、愛しているのです。ぅっ、くっ」
荒く息を吐き、うわごとのように愛を囁くのは、三ヶ月前から小美付きとなった宮人、涼。そのはずだった。なのに。
ああ、翔兄。
小美はそうとしか思えない。翔兄と涼が重なっていく。
ここ一ヶ月の間に繰り返し見た夢の中で、翔兄は今と全く同じように小美に触れていた。小美に触れて、愛を囁いて、硬く立ち上がった熱い腰の中心を小美の胎の中へと突き込んでは揺さぶり、愛を注いだ。何度も、何度も。小美の意識が遠くなるまで。否、その後だってきっと、空が白むまで。
けれど、今、小美を揺さぶっているのは翔兄ではなく涼だった。
「ぁっ、ぁっ、ぁん、もぉ、ぁっ! やぁっ……!」
熱がずっと引かず、体の奥が熱くて。もうどれほど揺さぶられているのかもわからない。今、自分に触れているのがいったい誰なのかさえも。否、わかっている、本当はわかっている。ああ、翔兄。
眩むような意識の中で、小美はただ、翔兄だけを求めていた。
第一章
大帝国『華』。あるいは単純に「華国」もしくは「華大国」と称されるこの国は、この世界の大陸の、ほとんど最北部に位置していた。
独自の文化を発展させてきた華国は、帝政を用いており皇帝が国首となっている。
彼の国の特色としてひときわ異彩を放つのが、皇帝の為に存在している後宮だった。
後宮そのものは他国にも数あれど、華国ほど厳格なる制度の下で運営されている所は存在しない、皇帝の寵を競う場所であり、そこでは多種多様な美姫たちが、それぞれの技法でもって、影ながらこの国を支えているのだとか。
一度入宮すると最低でも三年は出ることの叶わない後宮の最奥。
そこでは秘された花が蕾のまま、今も、花開く時を待って微睡んでいる。
◇ ◇ ◇
「では明妃様、この国の外では魔獣が闊歩していることは、すでにご存じですね」
昼下がり。後宮の中心に位置する、皇帝と唯一正式に婚姻を結んでいる正后が管理する棗央宮の一角に、老齢の講師の声が穏やかに響いていた。
明妃と呼ばれたのは、齢五つを少し超えるぐらいの、利発そうな眼差しをした少女。
「ええ、華国は国全体を覆う国防障壁によって魔獣の侵入を防いでいるのでしょう?」
少女は印象のまま、年に似合わぬ明朗な声で答え、しっかりと頷く。
少女の名は白美月。周囲の者たちからは小美と呼ばれている、華国において、皇帝・正后に次ぐ地位にある四家の内、西領を治める白家当主の唯一の嫡出子だった。
それが故に、僅か二歳という幼さで妃妾として入宮し、以降、正后を後見にして育てられてきている。
白家の当主筋に生まれたということを考慮され、幼いながらも賜った官位は正后、四貴妃に次ぐ正二品となる明妃。実情はどうあれ、立場上は皇帝の妃の一人である。
講師はそんな小美の様子に、満足そうに小さく微笑んだ。
「ええ、そうです。障壁により、華国には一定以上の魔素濃度を有した存在は侵入できません。それは魔獣のみならず、他国の人間や商人であっても同じこと。入国には魔力の登録が必要で、国民であっても出生を届け出た際に、魔力の登録も済ませます」
「登録することによって、障壁への魔力の充填が可能になり、充填された魔力によって障壁が維持されているのよね」
「はい、よく覚えておられましたね。その通り、特にここ、後宮は障壁の要。皇帝及びその妃妾様方の居城であり、最も魔力負担の大きい場所となります」
他にも名家とされる各家も、他よりは魔力負担が大きくなるよう術式が組まれている。その為、魔力が低下し髪色が濃くなる者が多いのだと続けられた講師の話に、小美はちらと、長く伸ばされた自分の髪を見た。
褪せたような、白に近い髪色は濃いようには到底見えず、なんとなく後ろめたくなる。
気付いた講師が穏やかに笑んだ。
「明妃様も他の方と同じだけ、障壁へと魔力を送填しておられますよ。にもかかわらず御髪の色が淡くていらっしゃるのは、それだけ保有魔力量が多いからでしょう」
気に病む必要はないという講師の言葉に、小美は小さく頷いた。
この世界の人間は皆、魔力を有しており、魔力を用いて術式などを行使する。髪や目の色は魔力の影響を強く受け、魔力が多ければ多いほど色が淡い傾向にあった。
けれど、華国においては違う。今、講師が述べたように障壁の維持に膨大な魔力を必要とする為だ。
小美は少し前に習ったそれらを思い出し、気にせずにはいられなくなっていた。
そんな小美の様子は講師には好ましく映るのか、自然と眼差しが柔らかくなる。しかし気を取り直し、講師はまた口を開いた。
「明妃様はまだ幼くておられますから、閨のことはもう少し大きくなられてからになりますが、それ以外の後宮の制度や掟についてなどをお話しいたしましょう。まずは」
と、話し始めたところで、部屋の外から幼い少年の声が聞こえてくる。
「――……美、小美!」
小美はその声にぴくりと反応した。自分の名が呼ばれているというのがわかったからであり、また、その声が小美の一等好ましく思う相手のものであることを、瞬時に悟ったからでもあった。
「翔兄だわ! 老師!」
小美は期待を込めて講師を振り仰ぐ。ねぇ、いいでしょう、と無言のうちに問いかける小美の様子に、講師は眉尻を下げて苦笑した。
「仕方がありませんね。構いませんよ。今日の予定は終えておられますから。この続きは明日にいたしましょう」
講師の言葉に、小美は途端、ぱぁっと顔を輝かせ、
「ありがとう、老師!」
と、感謝もそこそこに机上に広げられていた教材などを手早く片付けると、飛び跳ねるようにして席を立つ。そのまま、瞬く間に部屋を飛び出していく小美を見送って、講師は改めて溜め息を吐いた。
なにぶん小美はまだ幼い。遊びが優先されるのも仕方がないことだった。
そこへ、同じように小美を見送っていたのだろう人物が、くすくすと笑いながら部屋を訪れる。
「小美には、振られてしまったみたいねぇ」
などと、可笑しそうに話しかけてきたのは、この棗央宮の主、智正后・玄瑛佳、その人だった。
「これはこれは正后陛下。こちらまでおいでになられるとは」
「ふふふ。小美の様子を聞いておこうかと思って。どう? 座学は順調かしら。お茶でも飲みながら聞かせてちょうだい」
おっとりとした柔らかな正后からの誘いかけに、講師は小さく頷いた。
先程まで小美が着いていた卓を、正后に続いて入室してきた、正后付きの宮人が手早く整えていく。正后と講師はそのまま、向かい合わせに腰を下ろした。
なお、宮人とは後宮において、使用人の立場となる、正六品の者たちのことを指す。正后、正一品・四貴妃、正二品・妃、正三品・嬪、正四品・貴人、正五品・才人の、更にその次の地位である。また、妃と嬪はそれぞれ、五人、十人と定員が決まっているのだが、それよりも下位の者にはそのような制限はなかった。もっとも、今の後宮では、正式に皇帝の妃妾となる才人以上の者はそれほど多くはなく、先代から仕えている者も多い宮人は、少しばかり余っているような状況なのだが。
「それでは失礼して……いやはや、非常に優秀でございますよ。噂に違わぬとはこのことですね。このままですと遠からず、玉翔殿下と共にお教えしてもよいかもしれません」
玉翔というのは先程小美を呼ばわった、小美が翔兄と呼んで慕う人物であり、皇帝と正后の間に生まれた、近く立太子する予定の第一皇子のことだった。
「まぁ、小翔と? 三つも年の差があるのに。本当に優秀なのねぇ」
勿論、玉翔の方が上である。自分の実子よりも小美の方が優れていると言われたに等しいにもかかわらず、正后にそれを厭う様子はなく、講師もまたわかっていたからこそ口にしていた。後見といいつつ、正后が小美を我が子同然に可愛がっているのは周知の事実。元より気性の穏やかな正后はそのようなことを気に病む性質ではない。講師もまた、幼い小美に傾倒している者の一人で、それは正后も知っていた。
遠く、子供たちの声が聞こえてくる。耳を傾けながら正后は微かな溜め息を吐いた。
「小美が入宮してきてすでに三年。後宮から早く出してあげることが出来ればよかったのだけれど」
どうにも叶いそうもないと、やるせなく目を伏せる。講師もそっと俯いた。
「一度後宮を出てしまえば、再び入宮することは叶わない。仕方のないことでございましょう」
先程小美に教えようとした、制度や掟の一つだ。正后が頷く。
「そうねぇ。……今は、まだいいの。私の目も届いているし、周囲は小美の事情を知る者ばかり。でも、これからも後宮には新しい妃妾が入宮してくるわ。その者たちはどうなるかしら。情けない話だけど、全てを私が管理することなんて出来ないわ。そうなった時に、小美が辛い思いをしなければいいけど」
自分の威光をどこまで轟かせることが出来るのか。
ぽつり、と正后が落とした不安は、外でにぎやかな声を響かせる子供たちには届かないまま。正后と講師、二人の間を揺蕩っていった。
◇ ◇ ◇
先程までいた棗央宮の一室を後にした小美は、廊下を回って、建物の中心にある中庭へと出る。向かうのは先程、翔兄の声が聞こえた方。
「翔兄!」
勢いよく走り寄り、飛ぶように抱き着いてきた小美を、翔兄は危なげもなく受け止めた。
「小美! そんなに走ったら危ないよ」
口では咎めながら、しかし小美に向ける翔兄の眼差しは柔らかい。
「あら、翔兄は私を受け止められないっていうの?」
まさかそんなはずはないだろうと訊ねる小美に、翔兄は笑って答えた。
「勿論、僕が君を支えられないはずなんてないけどね」
ただ危ないことには違いがない。翔兄は小美の言葉を否定はせずに、けれど重ねて注意した。次いで、まるで抱擁のようになっていた体勢を解いて、代わりとばかりに手を差し出す。
「それより、行こう、小美。この先の東の園林で、木芙蓉が綺麗に咲いたんだ。早く君に見せたくて」
「あら。このところ翔兄が気にかけていた木芙蓉が?」
「そうさ。きっと朝には咲いていたんだろうけれど、僕も確認できたのがついさっきで……夕方にしぼむ前にって。去年よりも大きな花だよ」
明日にもまた、次の蕾が開花するだろうけれど。一番に咲いた花を見せたかったのだと輝くような笑みを浮かべる翔兄に、小美こそがまるで花のように笑う。
「素敵ね。早く見たいわ」
そう言うと、待ち切れないとばかり、翔兄の手を振り解いて走り出してしまったので、翔兄は慌てて追いかけ始めた。
「あ、ちょっと、小美! 待って!」
ついさっき、窘めたばかりだというのに。座学にしても、実技にしても、小美はともすれば翔兄よりも優秀なこともあると講師たちが言っていた。けれど、小美にはこういう所がある。爛漫で闊達で、そして少しばかり落ち着きがないのだ。
今のように、何か楽しみなことがあるとすぐに走っていってしまう。そして。
「きゃっ」
「おっと……」
翔兄が危惧した通りに、前をよく見ていなかったのだろう小美は、どしんと、誰かの足にぶつかった。そのまま弾かれるように飛ばされ、尻もちをついた小美が見上げると、見慣れた男性が柔和な顔をして小美を見下ろしている。
「大丈夫かい? 私の小さなお嫁さん」
お嫁さんと称した通り、男性は形式上の小美の夫であり、ここ、華大国の皇帝でもある、光玉深だ。
皇帝は屈んで、小美を優しく支え起こす。
「父上!」
走り寄ってきた翔兄が呼びかけてくるのへも、皇帝は柔らかく微笑んだ。
「小翔。小美も、そんなに走ってはいけないよ。危ないだろう?」
やはりどこまでも穏やかにそう窘める。
「陛下」
皇帝の後ろに付き従っていた女性が、呼びかけることで立ち上がるようにと促すと、声に含まれた、戸惑うような響きに皇帝は小さく苦笑する。
「大事ないよ、硬いことを言わないように」
「そうは仰られても、陛下が膝をつかれるなんて……」
「これぐらいどうってことないさ。なぁ、小美」
言いながら、皇帝は小美を抱えて立ち上がった。幼い小美ぐらいならば、まだまだ抱き上げるのに支障などない。
そんな皇帝を目で追い、そのまま恨めしげな顔で見上げてくる翔兄に皇帝は笑う。
「うん? 小翔。お前も抱き上げてほしいのかい?」
違うとわかっていてのからかうような問いかけに、翔兄はふるりと首を横に振った。
「父上にそうされるのは恐れ多いです。ほら、小美も降りて」
そう、小美へと降りるように促す。
とてもではないが言葉の通りに恐れ多いと思っている態度ではない翔兄に、皇帝は笑みを崩さない。
小美は、そんな翔兄と皇帝を交互に見たかと思うと、皇帝へと訴えかける。
「大哥おろして」
「うん? 私の小さなお嫁さんはどうやら、小翔の方がいいらしい」
はっはっはと声を上げて笑った皇帝は、小美の望む通りに地面へとそっと降ろした。
すぐさま、小美の手をさっと取った翔兄が、
「父上、僕たちはこれで。蒼貴妃様も。ご挨拶もせず申し訳ございません、御前失礼いたします。――ほら、小美、行こう」
と、皇帝を気にしながらも小美を促す。小美は素直に頷いた。
「うん。それでは大哥、蒼大姐も。またね」
ちょこんと、皇帝と、少し後ろに控えたままの女性、蒼貴妃へと挨拶を残し、翔兄に手を引かれるままに歩き出す。
「二人とも、あまり走り回ったりしないようにね」
子供たちの背中へ向かってかけられた皇帝の声に、二人がそれぞれ頷くのを見て、皇帝は目を細めて微笑んだ。
「小美は相変わらず、随分おてんばなご様子ですこと」
おっとりと口を開いた蒼貴妃の声には、戸惑いが滲んだまま。皇帝はそんな蒼貴妃へと振り返る。
「なに。元気なことはいいことだよ」
「それは……確かに、そうかもしれませんけども」
あくまでも柔らかいままの皇帝の声音に、蒼貴妃の戸惑いが晴れることはなかった。
◇ ◇ ◇
後宮の中には、数多くの園林が設えられている。それらは、それぞれの宮や房を囲うように点在していた。
園林には木が不可欠であり、同時に様々な花が植わっていることも多い。翔兄が指し、小美と二人で目指していた木芙蓉もそんな園林の花木の一つ。
つないだ手を放さないまま辿り着いた木芙蓉の根元で、小美が、色鮮やかに咲いた薄紅色の花を見て目を細めた。
「翔兄の言っていた通りだわ」
綺麗、と思わずといった様子で唇から零れ落ちた呟きに、隣に並んだ翔兄もまた、笑みを深める。
「今年一番に咲いた木芙蓉だ。ああ、ほら、きっと明日はその隣の蕾が花開くだろうね」
視線の先を辿って小美は頷いた。
「なら、明日も見に来ないと」
「はは。そうだね。もし、お時間があるようなら母上も誘おうか。小律や小詩も」
小美よりも一つ上となる翔兄の同父母弟、玉律やまだ生まれて一年やそこらしか経たない、同じく同父母妹である詩佳の名を出した翔兄に小美は目を輝かせる。
「素敵! だったら大哥も誘ってはどうかしら? 玄貴妃に白貴妃、蒼大姐や小紬も!」
小紬は蒼貴妃の生んだ、小美よりも二つほど年下となる翔兄の異母妹で、現皇帝の子女はこの四人で全てだった。とはいえ、皇帝は元より、幾人もいる妃妾たちもまだ若く、今後増える可能性は大いにある。小美が兄妹のように接している子女たち全てと、懇意にしている貴妃たちの名を出すと、流石に難しいと翔兄が苦く笑った。小美の屈託のない爛漫さは、翔兄には少し眩しくも思える。
「明日となると急だから、どうかな……皆の予定が合えばいいけど」
他でもない小美からの提案だ。きっと可能な限り、都合をつけてくれるだろうと続けながら、翔兄は躊躇うように小美の様子を窺った。
幼く愛らしい横顔は、翔兄の方を振り返らず、一心に目の前の花を眺めている。
薄紅色の木芙蓉の花は、小美の白銀に輝く髪に映える。その可憐さに見惚れつつも、翔兄がおもむろに懐を探り、包みを取り出した。
「小美」
「なぁに、翔兄」
翔兄へと向き直った小美は、差し出された包みを見て、ぱちと一つ目を瞬かせる。はにかむような翔兄の様子はいつもと違っていて、いったい何事かと訝しむ小美に、翔兄ははらりと包みを開けた。
そこにあったのは、一本の簪。たくさんの小さな花が折り重なるように連なっていて、しゃらと垂らすようにしずく型の石があしらわれている。小美の、あるいは翔兄の目と同じ色の小さな琥珀だ。幼い小美が着けてもきっとおかしくはないだろう愛らしい簪に、小美が目を輝かせた。
「わぁ、可愛い」
「これを君に。似合うと思って。受け取ってくれる?」
翔兄の言葉に、小美は頷いた。
「勿論! 嬉しいわ」
「よかった」
輝かんばかりの笑顔を返す小美に、翔兄はほっと息を吐く。
元より小美が喜ばないのでは、と心配していたわけではない。けれど、それでも、こんなにも喜んでくれると嬉しい。
そんな翔兄を前に小美は、何かを思いついたのかぱちん、と小さく手を叩いた。
「そうだわ、翔兄、それを私の髪に挿して」
「え、今?」
「翔兄の手で。ほら、早く!」
「わかった。ちょっと待ってね」
いいことを思いついたとねだる小美に、翔兄は応えるようにして簪を髪に挿す。
「ありがとう。うふふ。似合うかしら」
翔兄の挿した簪を嬉しそうに示す小美に、翔兄の顔は自然と綻んだ。
「ああ、よく似合っているよ」
小美の、白銀の髪に小さな花の連なった簪と、近くには色鮮やかに咲いた薄紅色の木芙蓉。明るい午後の光は、まるできらきらと、二人を彩っているかのようだった。
◇ ◇ ◇
幼き日々は煌めきながら、けれど飛ぶように過ぎていく。
小美は実際の年齢より聡明で、同時に明るく闊達だった。正后の庇護の下、囲うように守られていたおかげもあるのだろう。小美は邪気など知らぬまま育っていった。
そんな小美に転機が訪れたのは、小美が九つとなった頃。三つ年上の翔兄が十二になり、後宮を出ることとなった時である。
これまで小美と翔兄は、ほとんど離れることがなかった。
座学も実技も共に学び、他の時間も可能な限り共に過ごす。勿論、寝室は別であったし、入浴などを一緒にすることはなかったが、それ以外の時間はずっと離れなかった。
とはいえ、翔兄には皇子としての公務などがあり、後宮の外へ出ることもしばしばだ。
一方、いくら兄妹同然に育ったとはいえ、あくまでも妃妾であり、間違っても公主ではない小美にはそういった諸々が割り当てられることなどない。当然、後宮から出るなど許されず、だからこそ翔兄といる時間が長かったのである。
けれど、これからはそうではない。なぜなら翔兄の起居する場所は、後宮ではなくなってしまうのだから。
この国の皇子は十二になると後宮を出て、学院に入らなければならない。それは古くからの慣習であり、たとえ嫌だと主張したところで拒否できない決まり事だった。
元より良家の子女は、学院に通うことが一般的だ。基本的な知識は家で学び、より高度な学問を修める為に学院に通う。何より、同じ年頃の子供を集めた学院は、人との関わり方を知り、親しい関係を築くのには必要不可欠で、それは皇子であるからといって、通わずとも済ませられるというようなものではなかった。
また、後宮という場所で施される呪も無視は出来ない。後宮は国防障壁の要であると同時に、次代の皇帝を育む場所でもあり、間違っても皇帝以外が子を成してはならなかった。その為、十二を過ぎて後宮に出入りする者は皆、魔力を自分の体から出せないようにする為の呪を施されることとなっている。そして、それは皇子や公主であっても変わらず、例外は皇帝本人と、次代皇帝となる皇太子のみ。
翔兄は第一皇子であり皇太子の立場にあるので、この呪の対象にこそ入っていなかった。けれど実弟となる玉律は呪を施さねばならない。そしてこの呪は、その特殊性故か、男性に施した場合のみ、呪を施していた期間の分だけ寿命を縮めるという作用を持っているのである。
女性である公主にはそういった作用が適用されないこの呪は、皇子である限り、必ず十二で後宮を出て、学園に通わねばならない理由の一つとなっていた。
いくら小美が寂しく思っても、翔兄が名残を惜しんでも、翔兄は後宮を出なければならない。
勿論、これ以降、後宮に入れなくなることはない。けれど、これまでのように過ごすことが出来なくなるのには間違いがなく、小美はそんな日が来るのが少しでも遅ければいいのにと願うばかりだったのである。
◇ ◇ ◇
小美の願いも空しく、ついに翔兄が後宮を出てしまうという前日の夜のこと。皆が寝静まった時間。翌朝には翔兄を見送らねばならぬ寂しさに、上手く寝付けなかった小美は、ひっそりと忍ぶように小美の寝所を訪れた翔兄にすぐに気付いた。
それまで、寝室は別であるとはいえ、共に寝たことは幾度かあって、このように翔兄が小美の元を訪れること自体は、それほど珍しいというわけではなかった。けれど、いつもよりずっと遅い時間だなと小美は思う。否、すぐに、こんな時間まで自分が起きていることこそが珍しいのだろうと思い直した。
「小美」
翔兄はどうやら、小美を起こすつもりはなかったらしく、小さく、微かな囁き声で小美の名を呼んだ。
「どうしたの? 翔兄」
すぐさま返事をした小美に、翔兄はひどく驚いたようだった。
「小美、起きていたの」
もう遅いのに、と、やはり小さく囁く声に、むくり、と寝台から身を起こした小美はしんなりと眉尻を下げて口を尖らせる。
「だって、上手く寝付けないんですもの」
どこか言い訳めいたことを口にしてしまったのは、咎められるのではと心配になったからだったのだろう。もう朝には離れ離れになってしまうというのに、こんな最後の最後で咎められたりなどしたくはない。小美の口調は常よりもどこか幼くなった。
そんな小美とは裏腹に、翔兄はただ柔らかく微笑んで、
「まったく。仕方がないなぁ、小美は」
などと言いながら、どこか嬉しそうに雰囲気を和ませる。
それはこれまでと何も変わらない、いつも通りの翔兄の様子だった。否、そのはずだった、なのに。
どうしてかこの時小美は、そんな翔兄に、どきり、と胸を高鳴らせていた。
翔兄はいつも優しく、小美を包み込んでくれる。
翔兄は小美にとって、絶対的な庇護者だった。だからか、翔兄にそうされると、小美はいつだって、ひどく居心地がよくて、その場所から決して離れたくはないと思うばかり。なのに、朝にはもう離れなければならない。
小美は寂しくてならなかった。
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