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二章
28.二度目の黒パン
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目の前に置かれた紙には、ライ本人が書いた経歴があった。
そこには隠すことなく、キルグスの文字が記入されている。
「これを見て試験を受けさせるほうもどうかしてるが、堂々と書くあいつもどうかしているぞ?」
頭を抱えるバドルを見て、クラムも苦く笑った。
キルグス出身だと露見すれば、公の仕事に就けないことは常識だ。それどころか、町で暮らすことさえ難しい。
キルグスへの偏見は、それだけ根強いのだから。
人差し指と中指で経歴書を挟んだゼノは、虚ろな瞳にそれを映す。
「故意であろう。我が軍にはふさわしい」
緩んだ二本の指の間から、ひらりと紙は舞い落ちた。
それを見た二人の熟練の将は、太い息を吐く。
ゼノが将軍職を拝命してからというもの、国王からの嫌がらせは悪化の一途を辿っている。
兵の中に暗殺者が混じっていても、もはや驚く気にもなれなかった。毒物の入っていない食事のほうが珍しく、戦場に出れば敵はもちろん、味方にも警戒しなければならない。
治水工事を任されたと思えば、毎年のように氾濫する大河に、最低限の予算で向かわされる。そもそも、それは国軍の仕事ではなく、軍人達からは不満の声が上がっていた。
「貴族出身の軍人達は、大方が右軍に移って行きましたが、これは騎士階級も出て行きかねませんね」
穏やかな口調だが、かつては国一の軍師と呼ばれたクラムも、さすがに空笑いを上げるしかない。
「だが実力はある。上手く育て上げれば、良き将となろう」
年若い将軍はうそぶく。
それが本音なのか、強がりなのかは分からない。だが彼らが選ぶ道は、それしかないのだろう。
これが国王の指示であるのならば、彼らに拒否する権利はない。ここでライの入隊を断わったとて、何らかの理由を付けて入隊は決まるのだろう。あるいは、更なる難癖を付けられるか。
腕を組んだバドルは、今日何度目かの溜め息をもらす。一番被害を受けているはずの青年に目を向ければ、相変わらず無表情で座っていた。
※
ライは孤立していた。
その出自はすぐに広がり、軍人達の目は軽蔑に染まった。それと同時に、ライが入隊試験で行った行動にも、非難の声が上がっている。
命令違反をしたわけではない。二手に分かれて、敵軍を殲滅するか、あるいは時間が来た時に多く残っているほうが勝ちという、分かりやすい説明を受けただけだった。
始めは後方で、様子を見ていた。その内、そこにいる連中が、それほど強くはないと気付いた。
そこでライは動いた。
敵軍に一人で駆け込み、候補生たちの意識を刈る。けれど試験官たちは、その動きを目にとらえることができていなかった。
苛立ち、舌打ち交じりで悪態を吐けば、聞きとがめた候補生達が、ライに攻撃を仕掛けてきた。
これ幸いとばかりに全て返り討ちにして、最後に立っていたのは、ライだけだった。
結果、軍への入隊は果たせた。金も手に入った。ここまでは、上手くいったのだ。
視線を空から地上へと下ろすと、男ばかりの軍人が、汗を拭いながら昼食を取っている。
どこから出てきたのか、凝った料理を食べているのは貴族の倅どもだろう。肉だらけの食事は、騎士たちか。パンや野菜は下位の貴族の息子や騎士たち。
そしてさらに目を下ろせば――
「黒パンか。懐かしいな」
とつぜん背後から降ってきた声に、ライは驚いて振り返る。
背後に気配は感じていたが、その声は想定外だった。
「何か用ですか?」
ライはその男、自分の所属する軍の最上位に属する、将軍を見上げる。しかもこの男、ただの将軍ではない。この国の王子でもあるというのだ。
「特に用はないな。それより、一切れもらっても良いか?」
将軍の視線の先には、ライの弁当である、黒パンがあった。
軍に入隊して給金を貰えるようになったとはいえ、仕送りやらなんやらで、余裕はない。元々食にはこだわらないから、食事は安い黒パンや芋が中心だ。
「王子様のお口には、合わないと思いますよ?」
眉をひそめながら、ライはふと気付く。
将軍の言葉には、奇妙な点があった。彼は黒パンを、懐かしいと言ったのだ。
「構わぬ」
そう答えた将軍の手が、黒パンに伸びる。手に取ったそれをしばらく見つめた後に、おもむろに口へと運んだ。
ゆっくりと租借し、そして咽の奥へと落とす。
眉間にしわが寄っていることに、ライは気付いた。
「ふむ。大抵の物は食べられるようになったと思ったのだが、やはり強敵だな」
「けんか売ってんですか?」
思わず口を突いて出た。
だが将軍は気にしない。食べかけの黒パンを、もう一口かじる。
「無理しなくて良いですよ? あとで腹壊して俺のせいにされたらたまらない」
顔をしかめて言ったが、やはり気にする素振りはない。
ふつうなら、手打ちにされても文句は言えない言動なのだが。
「柔らかいな。それに酸味も少ない。小麦などは混ざっていないようだが、なぜだ?」
問われてライは、盛大に顔を歪ませた。
普段、小麦を焼いた白パンしか食べていないであろう王子様が、黒パンを食べて柔らかいとはどういうことだろう? 酸味が少ないなんて、通気取りな発言を、貧乏人のパンにするとは、何事だ?
ライの頭の中は、混乱していた。
百面相しているライを見つめていたゼノは、立ち上がる。
「邪魔をした」
そう言い残すと、去って行った。
「なんだったんだ?」
後ろ姿を眺めながら、ライは呟いた。
数日後、ライは将軍に呼び出され、大将候補としてクラム大将から直接の指導を受けることとなる。
戦うことしか知らないのだろうと考えていたクラムは、ライの知識の広さと深さに目を見張ったが、貴族や王族と接するための礼儀作法に苦悶する姿には、苦笑をこぼしていたそうだ。
※
「焼き加減もありますけど、単純に焼いてからの日にちでしょうね」
庭園に現れた主の問いに、ハンスは答える。
「古いほど硬くなります。酸味に関しては、種の状態にもよりますね。今度、焼きましょうか?」
主は首を横に振る。
黒パンが食べたいわけではないのだ。ただ、それを与えてくれた少女に会いたいのだ。
ほんの小さな思い出に触れただけで、主の心は揺さぶられる。
胸に手を当てた主は、目を閉じる。
「石力は、減っている」
それだけが、主の生きる希望だった。
「いつか小鳥ちゃんにも、美味い料理を食べさせてあげたいですね」
「料理長以上の料理を、作れるか?」
主の視線がハンスに向かう。
かつて、主は彼女に食事を用意した。けれど彼女が食べたのは、添えの芋だけだった。
ハンスの口元に、苦笑が浮かんだ。
あの時は、城の厨房はちょっとした騒ぎになった。なにせ国一の腕を持つ料理長の料理が、袖にされたのだ。
「それは難しいですね」
あの料理長を超える料理を用意できる者など、この国にはいないだろう。もしかすると、世界中を探しても、見つからないかもしれない。
それほどまでに彼の作り出す料理は他を圧倒していた。だからこそ、ハンスは菓子職人を目指したのだから。
「でも、小鳥ちゃんが食べてくれる料理は作れますよ」
柔和な笑顔を浮かべて、ハンスは答える。
そう、あの日、誰が食べるのか知っていれば、あの料理長が失態を犯すことはなかった。
料理長はゼノが食べると思い、昼食を用意したのだ。
だが実際は、それを食べるはずだったのは、治癒力を持つ少女だった。
疑問を含んだ主の視線を感じ、ハンスは種を明かす。
「治癒の能力者は、菜食主義でなければならないのです。肉や魚を食べれば、その力は弱体化し、最終的に失われます。料理長の腕には劣りますが、小鳥ちゃんの喜ぶ、美味しい料理を用意しますよ」
にっこりと、ハンスは笑んだ。
少し驚いた顔をした主は、
「そうだったのか」
と、呟いていた。
そうして時は流れていく。
そこには隠すことなく、キルグスの文字が記入されている。
「これを見て試験を受けさせるほうもどうかしてるが、堂々と書くあいつもどうかしているぞ?」
頭を抱えるバドルを見て、クラムも苦く笑った。
キルグス出身だと露見すれば、公の仕事に就けないことは常識だ。それどころか、町で暮らすことさえ難しい。
キルグスへの偏見は、それだけ根強いのだから。
人差し指と中指で経歴書を挟んだゼノは、虚ろな瞳にそれを映す。
「故意であろう。我が軍にはふさわしい」
緩んだ二本の指の間から、ひらりと紙は舞い落ちた。
それを見た二人の熟練の将は、太い息を吐く。
ゼノが将軍職を拝命してからというもの、国王からの嫌がらせは悪化の一途を辿っている。
兵の中に暗殺者が混じっていても、もはや驚く気にもなれなかった。毒物の入っていない食事のほうが珍しく、戦場に出れば敵はもちろん、味方にも警戒しなければならない。
治水工事を任されたと思えば、毎年のように氾濫する大河に、最低限の予算で向かわされる。そもそも、それは国軍の仕事ではなく、軍人達からは不満の声が上がっていた。
「貴族出身の軍人達は、大方が右軍に移って行きましたが、これは騎士階級も出て行きかねませんね」
穏やかな口調だが、かつては国一の軍師と呼ばれたクラムも、さすがに空笑いを上げるしかない。
「だが実力はある。上手く育て上げれば、良き将となろう」
年若い将軍はうそぶく。
それが本音なのか、強がりなのかは分からない。だが彼らが選ぶ道は、それしかないのだろう。
これが国王の指示であるのならば、彼らに拒否する権利はない。ここでライの入隊を断わったとて、何らかの理由を付けて入隊は決まるのだろう。あるいは、更なる難癖を付けられるか。
腕を組んだバドルは、今日何度目かの溜め息をもらす。一番被害を受けているはずの青年に目を向ければ、相変わらず無表情で座っていた。
※
ライは孤立していた。
その出自はすぐに広がり、軍人達の目は軽蔑に染まった。それと同時に、ライが入隊試験で行った行動にも、非難の声が上がっている。
命令違反をしたわけではない。二手に分かれて、敵軍を殲滅するか、あるいは時間が来た時に多く残っているほうが勝ちという、分かりやすい説明を受けただけだった。
始めは後方で、様子を見ていた。その内、そこにいる連中が、それほど強くはないと気付いた。
そこでライは動いた。
敵軍に一人で駆け込み、候補生たちの意識を刈る。けれど試験官たちは、その動きを目にとらえることができていなかった。
苛立ち、舌打ち交じりで悪態を吐けば、聞きとがめた候補生達が、ライに攻撃を仕掛けてきた。
これ幸いとばかりに全て返り討ちにして、最後に立っていたのは、ライだけだった。
結果、軍への入隊は果たせた。金も手に入った。ここまでは、上手くいったのだ。
視線を空から地上へと下ろすと、男ばかりの軍人が、汗を拭いながら昼食を取っている。
どこから出てきたのか、凝った料理を食べているのは貴族の倅どもだろう。肉だらけの食事は、騎士たちか。パンや野菜は下位の貴族の息子や騎士たち。
そしてさらに目を下ろせば――
「黒パンか。懐かしいな」
とつぜん背後から降ってきた声に、ライは驚いて振り返る。
背後に気配は感じていたが、その声は想定外だった。
「何か用ですか?」
ライはその男、自分の所属する軍の最上位に属する、将軍を見上げる。しかもこの男、ただの将軍ではない。この国の王子でもあるというのだ。
「特に用はないな。それより、一切れもらっても良いか?」
将軍の視線の先には、ライの弁当である、黒パンがあった。
軍に入隊して給金を貰えるようになったとはいえ、仕送りやらなんやらで、余裕はない。元々食にはこだわらないから、食事は安い黒パンや芋が中心だ。
「王子様のお口には、合わないと思いますよ?」
眉をひそめながら、ライはふと気付く。
将軍の言葉には、奇妙な点があった。彼は黒パンを、懐かしいと言ったのだ。
「構わぬ」
そう答えた将軍の手が、黒パンに伸びる。手に取ったそれをしばらく見つめた後に、おもむろに口へと運んだ。
ゆっくりと租借し、そして咽の奥へと落とす。
眉間にしわが寄っていることに、ライは気付いた。
「ふむ。大抵の物は食べられるようになったと思ったのだが、やはり強敵だな」
「けんか売ってんですか?」
思わず口を突いて出た。
だが将軍は気にしない。食べかけの黒パンを、もう一口かじる。
「無理しなくて良いですよ? あとで腹壊して俺のせいにされたらたまらない」
顔をしかめて言ったが、やはり気にする素振りはない。
ふつうなら、手打ちにされても文句は言えない言動なのだが。
「柔らかいな。それに酸味も少ない。小麦などは混ざっていないようだが、なぜだ?」
問われてライは、盛大に顔を歪ませた。
普段、小麦を焼いた白パンしか食べていないであろう王子様が、黒パンを食べて柔らかいとはどういうことだろう? 酸味が少ないなんて、通気取りな発言を、貧乏人のパンにするとは、何事だ?
ライの頭の中は、混乱していた。
百面相しているライを見つめていたゼノは、立ち上がる。
「邪魔をした」
そう言い残すと、去って行った。
「なんだったんだ?」
後ろ姿を眺めながら、ライは呟いた。
数日後、ライは将軍に呼び出され、大将候補としてクラム大将から直接の指導を受けることとなる。
戦うことしか知らないのだろうと考えていたクラムは、ライの知識の広さと深さに目を見張ったが、貴族や王族と接するための礼儀作法に苦悶する姿には、苦笑をこぼしていたそうだ。
※
「焼き加減もありますけど、単純に焼いてからの日にちでしょうね」
庭園に現れた主の問いに、ハンスは答える。
「古いほど硬くなります。酸味に関しては、種の状態にもよりますね。今度、焼きましょうか?」
主は首を横に振る。
黒パンが食べたいわけではないのだ。ただ、それを与えてくれた少女に会いたいのだ。
ほんの小さな思い出に触れただけで、主の心は揺さぶられる。
胸に手を当てた主は、目を閉じる。
「石力は、減っている」
それだけが、主の生きる希望だった。
「いつか小鳥ちゃんにも、美味い料理を食べさせてあげたいですね」
「料理長以上の料理を、作れるか?」
主の視線がハンスに向かう。
かつて、主は彼女に食事を用意した。けれど彼女が食べたのは、添えの芋だけだった。
ハンスの口元に、苦笑が浮かんだ。
あの時は、城の厨房はちょっとした騒ぎになった。なにせ国一の腕を持つ料理長の料理が、袖にされたのだ。
「それは難しいですね」
あの料理長を超える料理を用意できる者など、この国にはいないだろう。もしかすると、世界中を探しても、見つからないかもしれない。
それほどまでに彼の作り出す料理は他を圧倒していた。だからこそ、ハンスは菓子職人を目指したのだから。
「でも、小鳥ちゃんが食べてくれる料理は作れますよ」
柔和な笑顔を浮かべて、ハンスは答える。
そう、あの日、誰が食べるのか知っていれば、あの料理長が失態を犯すことはなかった。
料理長はゼノが食べると思い、昼食を用意したのだ。
だが実際は、それを食べるはずだったのは、治癒力を持つ少女だった。
疑問を含んだ主の視線を感じ、ハンスは種を明かす。
「治癒の能力者は、菜食主義でなければならないのです。肉や魚を食べれば、その力は弱体化し、最終的に失われます。料理長の腕には劣りますが、小鳥ちゃんの喜ぶ、美味しい料理を用意しますよ」
にっこりと、ハンスは笑んだ。
少し驚いた顔をした主は、
「そうだったのか」
と、呟いていた。
そうして時は流れていく。
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