『種族:樹人』を選んでみたら 異世界に放り出されたけれど何とかやってます

しろ卯

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魔王の遺跡編

228.黒いタールの海に

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 雪乃は黒いタールの海に浮かんでいた。

『嫌い』
「ごめんなさい」
『あなたのせいで』
「ごめんなさい」
『化け物』
「ごめんなさい」

 休むことなく頭に響いてくる言葉に、雪乃は謝ることしかできない。体は寒くて凍えそうだった。
 海の水に体温が奪われていったのか、それとも心が冷たく凍ろうとしているのか。
 雪乃には判断が付かない。流すことのできない涙を心のうちでこぼし、ひたすら謝罪の言葉を繰り返していた。

『世界に復讐を』
「しません」
『人間を滅ぼせ!』
「嫌です」
『魔王になりますか?』
「……。なりません」

 憎悪の言葉に混じって天の言葉が混じってきた。どこまでもぶれないようだ。
 呆れ混じりに、雪乃はお断りした。

『何故、報復を望まない?』
「誰かを傷つけても、私の傷は癒えません。むしろ傷は広がり、より深く刻み付けられるでしょう」
『憎め』
「嫌です」
『何故だ?』
「疲れるから」

 ぷかぷかと浮かぶ雪乃の頭の中には、繰り返し人間であった頃の記憶が甦っていた。
 母に厭われ、父には他人のように扱われ、毎夜声を殺して泣いた日々。
 その合間に流れてくる、誰の声とも分からぬ怨嗟の言葉。
 気持ちはどんどん落ち込んでいった。自分の存在価値など、すっかり分からなくなるほどに。それでも――

「憎むのって、すごく疲れるんですよ? 怒るのって、頭やお腹が痛くなって、大変なんです。私は自分が生きているだけで精一杯ですから、あなたの頼みを叶えてあげるような余力はありません。ごめんなさい」

 ぷかぷかと、雪乃は浮かび続ける。
 もう動く力など、残ってはいなかった。

『誰も迎えに来ないぞ?』

 ぴくりと、雪乃は震える。その反応に喜ぶように、タールの海は波立った。

「そうかもしれませんね」

 誰かを信じて待っていた気がしたが、もう思い出せなかった。

『我を受け入れれば、楽になれる。お前を傷つけた人間たちに、報復する力を手に入れることができる』
「いりません」

 はふうっと息を吐きながら、雪乃は呆れ混じりに答えた。

『なぜだ? なぜ望まぬ? あれほどに疎まれ、蔑まれ、虐げられてきたのだぞ? やっと見つけた、代わりと成りうる器だというのに』

 天の声が焦燥で揺らいだ。
 雪乃は紅い空を脳裏に映す。それからゆっくりと視界を閉じた。

「あの日、私は誓ったんです」

 世界に拒絶されたと思い込み、自分の命が消える日を待つだけだった日々。目の前に刃物が迫った時、心を満たしたのは恐怖よりも、歓喜だった。
 これで、解放されるのだと――。
 けれどそれは、阻まれた。

「私は私を嫌う人たちのために、自分を犠牲にはしません。申し訳ありませんが、私はあなたのお役に立てそうにありません。もう、放っておいてください」

 雪乃は視界を閉じた。
 まぶたも体も重くて、休みたかった。

『なぜだ? いったいどうなっている? まさかまた、あの男が』

 と、天の声が何かを言いかけたとき、タールの海に異変が起こった。
 雪乃はわずかに幹を捻り、視線を横に向ける。遠くのほうで、黒い煙が立ち昇っていた。
 火事だろうかと、ぼうっとする頭で考えていると、その煙はどんどん大きくなって、雪乃に近付いてくるではないか。

 徐々に姿が見えてくると、それが火事ではないことが分かる。
 煙ではなく水しぶき、いや、タール飛沫だ。飛沫というには、あまりに盛大だが。
 タールの海の上を、人間が走ってきている。ものすごいスピードで。

「ユキノちゃああーんっ!」
「ひいっ?!」

 雪乃の顔が引きつった。
 この勢いだと、確実に雪乃は轢かれる。
 逃げようと枝を動かしてみるが、粘りのあるタールの海では、思うように泳ぐことさえできない。
 走る人間は更に近付いてくる。

「ユキノちゃんっ!」
「ふみゃああーっ?!」

 突撃してきた人間は、止まることなく雪乃を掬いあげて抱きしめる。そのまま頬を寄せてすりすりしてきた。

「ユキノちゃんっ! ユキノちゃんっ! ユキノちゃーんっ!!」
「ふにゃああーっ?! 何事ですか?! セクハラですか?! ふんにゅー!」

 雪乃は精一杯、枝を突っ張っておっさんの頬を押しのける。しかしそんな努力も実らず、雪乃の葉には、おっさん魔法使いの無精ひげが生えた頬が、密着していた。

「ぐぬぬぬぬ……。ま、負けません……」

 何とか逃れようとするが、無駄な抵抗のようだ。

「ユキノちゃん、おとーさんが助けに来たよ? 大丈夫だった? 俺のこと分かる?」

 満足したのか、おっさん魔法使いは雪乃から頬を離して、顔を覗き込む。
 雪乃はじいっとその顔を見つめた。いったい誰だっただろうかと、記憶を探る。
 ぽてりと幹を傾げた雪乃を見て、ノムルの顔が絶望に染まった。

「そ、そんな……。ユキノちゃんがおとーさんのことを忘れるなんて……。ええーいっ! こんな世界、滅ぼしてくれる!」
「ちょっ?! 待ってください、落ち着いてください、ノムルさん!」

 暴走しかけるノムルを、雪乃は必死に止める。無意識に、彼の名が口からこぼれ出ていた。

「「あ。」」

 見詰め合う雪乃とノムル。見つめ……。

「ユキノちゃんっ!」
「ふんにゅー! だからどうしてノムルさんは、すぐに頬擦りをしたがるんですか?」

 枝を突っ張り、おっさんのほっぺ攻撃を耐える雪乃。ふっと、その枝先に加わる力が弱まった。
 雪乃は顔を上げて、ノムルを見る。

「あんまり心配掛けないでよ」

 泣き出しそうな笑顔で、ノムルは雪乃を見ていた。

「ごめんなさい」

 きゅっと、雪乃は草色のローブにしがみ付き、顔を埋めた。くすりという笑い声が耳に届き、幹を優しく撫でられる。

「さ、こんな趣味の悪い空間、さっさと出ようか?」
「はい」

 ノムルは雪乃を抱きかかえたまま、タールの海を歩いていく。
 コンクリートの地面を歩いていくような足取りのノムルに、雪乃は思わず下を覗きこんだ。

「さすがノムルさん。海の上を歩くとは」

 最強魔法使いに、不可能は無いようだ。

「ああ、これ? 俺としてはむしろ、ユキノちゃんが沈んでなかったことに驚いたんだけど?」

 雪乃はぽてりと幹を傾げる。
 そんな雪乃の仕草に、ノムルは戸惑いつつも嬉しそうに笑った。

「無自覚かあ。ユキノちゃんらしいけど」

 と、この海について説明してくれた。

「この黒いのはね、人間の負の感情を抽出したものなんだ」

 それは何となく予想していたので、雪乃はこくりと頷く。

「で、その感情に飲まれて憎悪や憤怒の感情を持つと、あっと言う間に沈んでいって取り込まれちゃうんだよ」
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