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静かなる黎明へ
国家の存亡をかけて
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一九四五年八月十五日、早暁。 横須賀の海軍基地は
静まり返った闇の中に沈んでいた。
例年であれば、この時期の夜明けは蝉の声と共に蒸し暑い空気が立ち込めるはずだが
この日の朝は何故か、肌を刺すような冷ややかな風が海面を吹き抜けていた。
波間に浮かぶのは、全身を純白に塗り潰された四機の二式大型飛行艇である。
かつては、その圧倒的な航続距離と防御火力を誇り
連合国軍から「空の戦艦」と恐れられた猛禽、川西H8K。
だが、今この水面に並ぶ機体には、威嚇するための機銃も
急降下爆撃用の爆弾懸垂装置も存在しない。
ただ一面、雪のような白。それは、敗戦という
現実を象徴する白旗の色であるようにも見え、あるいは
死を覚悟した武人が纏う死装束のようにも見えた。
翼の端には、かつての日の丸ではなく、緑の十字が描かれている。
マッカーサー元帥からの要求に従った「緑十字機」としての偽装だが
その異様な静謐さは、見る者の胸を締め付けるような重圧を放っていた。
桟橋の先端には、数名の海軍将校が直立不動で立っていた。
その中心にいるのは、高倉が発った後に
連合艦隊司令長官に任命される古賀大将である。
彼は、隣に立つ高倉の肩にそっと手を置き、絞り出すような声で言った。
「高倉、君にすべてを押し付けることになった。この国の
そして陛下と国民の命運をこの白い機体一機に託さねばならぬ屈辱を
どうか許してほしい。我々軍人が犯した過ちの清算を
君一人に言葉の戦場で果たさせるのは、本来ならば耐え難きことだ」
高倉は、その言葉を遮るように静かに首を振った。
彼の表情には、悲壮感というよりも、透明なまでの覚悟が宿っていた。
「古賀長官、お気になさらないでください。私は外交官でもなければ
単なる海軍軍人でもありません。これまで多くの命を
戦場へと送り出してきた者として、その命の対価を最後にどう取り立てるか
その責任を果たしに行くだけです。この四年間
我々が失ってきたものの重さを考えれば
私の命一つなど、あまりにも安価な対価に過ぎません」
「……君は、生きて帰るつもりがないのだな」
古賀の問いに、高倉はかすかに微笑んだ。
「死ぬことが目的ではありません。ですが、米国の心臓部へ乗り込み
核という悪魔の力を盾に停戦を迫るのです。彼らが私の首一つで
満足してくれるのであれば、それは最も効率の良い外交と言えるでしょう。
長官、研究所から届けられた『二グラム』は、確かに私の鞄に収めました。
残りの六グラムを、我が国がどう使うか……
いえ、どう使わずに済ませるかは、これからの私の舌三寸にかかっています。
どうか、私がいなくなった後、陛下をお守りください」
二人は固く握手を交わした。それは、もはや言葉を必要としない
男たちの別れの儀式であった。高倉は背筋を伸ばし
ゆっくりとした足取りでタラップを登った。機内に入ると
そこには特設された客室があり、中央のテーブルには
鋼鉄製の重厚な鞄が固定されていた。 その中には
日本が極秘裏に開発を続けてきた核兵器の最終設計図と
理論を実証するための二グラムのプルトニウム、そして東郷外相と総理
さらには陛下からの全権委任状が収められている。
この数キロの重みが、数千万人の日本人の生死を左右することになる。
やがて、四基の火星エンジンが咆哮を上げた。
プロペラが巻き起こす飛沫が白い艦体を濡らし
二式大艇は水面を激しく叩きながら加速していく。浮揚の瞬間
高倉は窓の外に見える横須賀の山河を、目に焼き付けるように見つめた。
遠くに富士の山影が、黎明の光の中にうっすらと浮かび上がっていた。
これが、日本の美しき国土を見る最後になるかもしれない。
機が高度を上げるにつれ、海面は広大な蒼の世界へと変わっていった。
巡航高度へと達した機内で、高倉は目を閉じ、椅子に深く腰掛けた。
エンジンの低く重い振動が、彼の意識を過去へと引き戻していく。
この四年間、彼が歩んできた道は、常に血の臭いと硝煙の中にあった。
最初に脳裏に浮かんだのは、フィリピンでの泥沼の戦いだった。
ジャングルの湿気、腐敗した草木の臭い。そこで倒れていった無数の将兵たちは
故郷の家族の名を呼びながら、泥水をすすって息絶えた。
彼らにとって、この戦争にどんな大義があったのか。
高倉は、その問いに答えを出せないまま、彼らを死地へと送り出し続けた。
次に去来したのは、真珠湾の爆炎である。一九四二年十二月五日
富永少将が指揮しあの朝、雲海を抜けた飛行隊が見た
整然と並ぶ米戦艦群。勝利の凱歌と共に始まった物語が
まさかこれほどの惨劇を招くことになるとは、当時は誰も想像していなかった。
栄光は一瞬であり、その後に続いたのは、終わりのない消耗戦であった。
「……提督、お疲れのようですが、少しお休みになられては」
同行する通信官の安田大尉が、気遣わしげに声をかけた。
安田もまた、高倉と共に死地へ向かうことを自ら志願した若者だった。
「いや、安田。寝ている暇はない。これから会うのは
我々を蛇蝎のごとく嫌っている米国の中枢だ。彼らをどう説得し
どう脅し、どう妥協させるか。そのシミュレーションを
千回繰り返しても足りないほどだ。お前は、米側の通信プロトコルについて
もう一度復習しておけ。
向こうに入った瞬間、我々は一挙手一投足を監視されることになる」
「はっ。ですが、提督。本当にあのアメリカ人が、核の設計図と
このわずかなプルトニウムだけで、戦争を止めてくれるのでしょうか。
彼らはすでに、実験でその威力を実証しています。
我々が持っているものが、彼らのそれより進んでいるという確証があるのでしょうか」
高倉は鞄を見つめ、静かに答えた。
「威力そのものよりも、我々が『原理を理解し、実用化の寸前まで漕ぎ着けている』
という事実が重要なのだ。もし日本が降伏を拒み
最後の一グラムまでを特攻機に積み、米本土や進攻艦隊に対して
使用すればどうなるか。彼らはそのリスクを、合理的に計算するはずだ。
アメリカ人は強欲だが、無駄な損害を極端に嫌う。
我々が提示するのは、勝利ではない。お互いにとっての
『共倒れの回避』だ。これは外交ではない、高度な博術だ」
機は、ミッドウェー海域の上空へと差し掛かっていた。
かつて、日本海軍がその主力空母2隻を喪失し、戦争の転換点となった忌まわしき海。
その上空に、四つの銀色の光が近づいてくるのが見えた。
「敵機……いや、米軍の護衛機です!方位三時、高度同。P51ムスタングです」
窓の外を見ると、四機のムスタングが
二式大艇の左右に寄り添うように翼を並べていた。
アルミ合金の剥き出しの艦体が太陽を反射して眩しく輝いている。
かつては、見つければどちらかが落ちるまで撃ち合った宿敵。
そのパイロットの顔が見えるほどの距離で、彼らは高倉たちの護衛を務めている。
その皮肉な光景に、高倉は自嘲気味な笑いを漏らした。
「不条理だな、安田。昨日まで殺し合っていた相手が
今は我々の安全を保障している。これが戦争というものの正体なのかもしれない。
敵も味方も、ただ一つの大きな歯車に組み込まれ、その流れに抗うことができずにいる」
ムスタングのパイロットの一人が、高倉の視線に気づいたのか
軽く手を挙げて合図を送った。それは敬意ではなく
ただの確認であったかもしれない。
だが高倉は、その無機質な交流の中に、人間としての最後の矜持を見た気がした。
ハワイでの燃料補給は、極度の緊張感の中で行われた。
米軍基地に降り立った白い二式大艇は、集まってきた米兵たちの
好奇と憎しみの視線に晒された。だが、高倉は機体から一歩も出ることなく
室内で書類の整理を続けた。 サンフランシスコからワシントンへと向かう
大陸横断の旅路では、眼下に広がる
広大なアメリカ合衆国の豊かさを痛感させられた。
どこまでも続く麦畑、林立する煙突。日本がこれほどの国力を持つ相手と戦い
四年間も持ちこたえたこと自体が、ある種の奇跡だったのではないか。
高倉は、鞄の中から一枚の紙を取り出した。
それは、四国沖、北陸沖の海戦、そして大陸打通作戦やマリアナの戦いで没した
彼の教え子や部下たちの名前を書き連ねたリストだった。
「お前たちの死を、無駄にはさせない。お前たちが守りたかったこの国を
私は、どんなに汚い手を使ってでも、どんなに辱めを受けてでも、存続させてみせる」
彼は、リストを胸のポケットに収め、空の青さを睨みつけた。
沖縄では、今この瞬間も、大和を失った第二艦隊の生き残りたちが
デヨ戦艦部隊との死闘を繰り広げ、そして散っていこうとしている。
あるいは、高間少将率いる十一水戦が、夜の海で最後の突撃を敢行しているかもしれない。
彼らが稼いでくれている一分、一秒が、高倉にとっての交渉のチップなのだ。
「武蔵も、日向も、霧島も……。みんな、私に背中を預けてくれた。
ならば私は、この言葉の戦場で、彼らに恥じぬ戦いを見せねばならん」
高倉は、手元に用意した対米交渉案を、一字一句見直した。
米国側の要求は、おそらく無条件降伏に近いものになるだろう。
だが、日本にはまだ「核」という伏せられたカードがある。
これをどのタイミングで提示するか。相手のブラフをどう見破るか。
スティムソン陸軍長官、バーンズ国務長官。歴戦の政治家たちを相手に
彼は一歩も引くことは許されない。
「安田、ワシントン到着まであと何時間だ」
「あと三時間ほどです、提督。すでに米側の航空管制からは
高度を維持しつつ指定の飛行場へ向かうよう指示が出ています。
現地の天候は晴天。視界は良好だそうです」
「そうか。皮肉なほどに、良い日和だな」
高倉は、最後の一杯となるであろう、日本から持参した茶を口にした。
冷え切った茶の苦味が、彼の意識を研ぎ澄ませていく。 ワシントン。
そこは、これまでのどんな戦場よりも過酷で、残酷な場所になるだろう。
彼は、自分が絞首台へと登る光景を、すでに予見していた。
だが、その足取りに迷いはなかった。 自分が死ぬことで
この国の「国体」が守られ、数百万の同胞が救われるのであれば
それは一人の武人にとって最高の栄誉であるはずだ。
「さあ、始めようか」
雲海を突き抜ける太陽の光が、機内を黄金色に染め上げた。
白い巨鳥は、孤独な翼を広げ、敵地の中枢へと降下を開始した。
それは、帝国海軍連合艦隊司令長官
高倉としての最後の、そして最も重要な「出撃」であった。
高倉の脳裏には、最後に交わした陛下の御言葉が響いていた。
「高倉よ、日本のために、死んでくれ」
その言葉の真意を、彼は痛いほどに理解していた。
陛下は、高倉を死なせたいのではない。高倉にしか
この国の絶望を背負うことはできないと、信頼されているのだ。
高倉は、軍帽を深く被り直し、椅子から立ち上がった。
「安田、着陸準備だ。背筋を伸ばせ。我々は、負けてここに来たのではない。
新しい平和を創るために、勝負しに来たのだ。米兵たちに、日本軍人の気概を見せてやれ」
「はっ! 了解しました!」
安田の力強い返辞を聞きながら、高倉は窓の下に広がるポトマック川の流れを見つめた。
ワシントンの白い建造物群が見えてくる。
そこには、自分を待ち構える「裁き」と「希望」が、複雑に絡み合って存在していた。
高倉は、鞄の取っ手を強く握り締めた。
中に入った二グラムの物質が、微かな熱を持っているかのように感じられた。
一九四五年八月中旬。 世界を焼き尽くした炎が
一人の男の孤独な旅路によって、静かに消されようとしていた。
だが、その代償は、あまりにも重く、そして美しいものでなければならなかった。
高倉の物語は、このワシントンの地で、真のクライマックスを迎えようとしていた。
彼は、一歩、また一歩と、運命の階段を登り始めた。
彼の背中には、この四年間で散っていった数多の魂が
静かに寄り添っているかのように、白い翼が夕日に光り輝いていた。
静まり返った闇の中に沈んでいた。
例年であれば、この時期の夜明けは蝉の声と共に蒸し暑い空気が立ち込めるはずだが
この日の朝は何故か、肌を刺すような冷ややかな風が海面を吹き抜けていた。
波間に浮かぶのは、全身を純白に塗り潰された四機の二式大型飛行艇である。
かつては、その圧倒的な航続距離と防御火力を誇り
連合国軍から「空の戦艦」と恐れられた猛禽、川西H8K。
だが、今この水面に並ぶ機体には、威嚇するための機銃も
急降下爆撃用の爆弾懸垂装置も存在しない。
ただ一面、雪のような白。それは、敗戦という
現実を象徴する白旗の色であるようにも見え、あるいは
死を覚悟した武人が纏う死装束のようにも見えた。
翼の端には、かつての日の丸ではなく、緑の十字が描かれている。
マッカーサー元帥からの要求に従った「緑十字機」としての偽装だが
その異様な静謐さは、見る者の胸を締め付けるような重圧を放っていた。
桟橋の先端には、数名の海軍将校が直立不動で立っていた。
その中心にいるのは、高倉が発った後に
連合艦隊司令長官に任命される古賀大将である。
彼は、隣に立つ高倉の肩にそっと手を置き、絞り出すような声で言った。
「高倉、君にすべてを押し付けることになった。この国の
そして陛下と国民の命運をこの白い機体一機に託さねばならぬ屈辱を
どうか許してほしい。我々軍人が犯した過ちの清算を
君一人に言葉の戦場で果たさせるのは、本来ならば耐え難きことだ」
高倉は、その言葉を遮るように静かに首を振った。
彼の表情には、悲壮感というよりも、透明なまでの覚悟が宿っていた。
「古賀長官、お気になさらないでください。私は外交官でもなければ
単なる海軍軍人でもありません。これまで多くの命を
戦場へと送り出してきた者として、その命の対価を最後にどう取り立てるか
その責任を果たしに行くだけです。この四年間
我々が失ってきたものの重さを考えれば
私の命一つなど、あまりにも安価な対価に過ぎません」
「……君は、生きて帰るつもりがないのだな」
古賀の問いに、高倉はかすかに微笑んだ。
「死ぬことが目的ではありません。ですが、米国の心臓部へ乗り込み
核という悪魔の力を盾に停戦を迫るのです。彼らが私の首一つで
満足してくれるのであれば、それは最も効率の良い外交と言えるでしょう。
長官、研究所から届けられた『二グラム』は、確かに私の鞄に収めました。
残りの六グラムを、我が国がどう使うか……
いえ、どう使わずに済ませるかは、これからの私の舌三寸にかかっています。
どうか、私がいなくなった後、陛下をお守りください」
二人は固く握手を交わした。それは、もはや言葉を必要としない
男たちの別れの儀式であった。高倉は背筋を伸ばし
ゆっくりとした足取りでタラップを登った。機内に入ると
そこには特設された客室があり、中央のテーブルには
鋼鉄製の重厚な鞄が固定されていた。 その中には
日本が極秘裏に開発を続けてきた核兵器の最終設計図と
理論を実証するための二グラムのプルトニウム、そして東郷外相と総理
さらには陛下からの全権委任状が収められている。
この数キロの重みが、数千万人の日本人の生死を左右することになる。
やがて、四基の火星エンジンが咆哮を上げた。
プロペラが巻き起こす飛沫が白い艦体を濡らし
二式大艇は水面を激しく叩きながら加速していく。浮揚の瞬間
高倉は窓の外に見える横須賀の山河を、目に焼き付けるように見つめた。
遠くに富士の山影が、黎明の光の中にうっすらと浮かび上がっていた。
これが、日本の美しき国土を見る最後になるかもしれない。
機が高度を上げるにつれ、海面は広大な蒼の世界へと変わっていった。
巡航高度へと達した機内で、高倉は目を閉じ、椅子に深く腰掛けた。
エンジンの低く重い振動が、彼の意識を過去へと引き戻していく。
この四年間、彼が歩んできた道は、常に血の臭いと硝煙の中にあった。
最初に脳裏に浮かんだのは、フィリピンでの泥沼の戦いだった。
ジャングルの湿気、腐敗した草木の臭い。そこで倒れていった無数の将兵たちは
故郷の家族の名を呼びながら、泥水をすすって息絶えた。
彼らにとって、この戦争にどんな大義があったのか。
高倉は、その問いに答えを出せないまま、彼らを死地へと送り出し続けた。
次に去来したのは、真珠湾の爆炎である。一九四二年十二月五日
富永少将が指揮しあの朝、雲海を抜けた飛行隊が見た
整然と並ぶ米戦艦群。勝利の凱歌と共に始まった物語が
まさかこれほどの惨劇を招くことになるとは、当時は誰も想像していなかった。
栄光は一瞬であり、その後に続いたのは、終わりのない消耗戦であった。
「……提督、お疲れのようですが、少しお休みになられては」
同行する通信官の安田大尉が、気遣わしげに声をかけた。
安田もまた、高倉と共に死地へ向かうことを自ら志願した若者だった。
「いや、安田。寝ている暇はない。これから会うのは
我々を蛇蝎のごとく嫌っている米国の中枢だ。彼らをどう説得し
どう脅し、どう妥協させるか。そのシミュレーションを
千回繰り返しても足りないほどだ。お前は、米側の通信プロトコルについて
もう一度復習しておけ。
向こうに入った瞬間、我々は一挙手一投足を監視されることになる」
「はっ。ですが、提督。本当にあのアメリカ人が、核の設計図と
このわずかなプルトニウムだけで、戦争を止めてくれるのでしょうか。
彼らはすでに、実験でその威力を実証しています。
我々が持っているものが、彼らのそれより進んでいるという確証があるのでしょうか」
高倉は鞄を見つめ、静かに答えた。
「威力そのものよりも、我々が『原理を理解し、実用化の寸前まで漕ぎ着けている』
という事実が重要なのだ。もし日本が降伏を拒み
最後の一グラムまでを特攻機に積み、米本土や進攻艦隊に対して
使用すればどうなるか。彼らはそのリスクを、合理的に計算するはずだ。
アメリカ人は強欲だが、無駄な損害を極端に嫌う。
我々が提示するのは、勝利ではない。お互いにとっての
『共倒れの回避』だ。これは外交ではない、高度な博術だ」
機は、ミッドウェー海域の上空へと差し掛かっていた。
かつて、日本海軍がその主力空母2隻を喪失し、戦争の転換点となった忌まわしき海。
その上空に、四つの銀色の光が近づいてくるのが見えた。
「敵機……いや、米軍の護衛機です!方位三時、高度同。P51ムスタングです」
窓の外を見ると、四機のムスタングが
二式大艇の左右に寄り添うように翼を並べていた。
アルミ合金の剥き出しの艦体が太陽を反射して眩しく輝いている。
かつては、見つければどちらかが落ちるまで撃ち合った宿敵。
そのパイロットの顔が見えるほどの距離で、彼らは高倉たちの護衛を務めている。
その皮肉な光景に、高倉は自嘲気味な笑いを漏らした。
「不条理だな、安田。昨日まで殺し合っていた相手が
今は我々の安全を保障している。これが戦争というものの正体なのかもしれない。
敵も味方も、ただ一つの大きな歯車に組み込まれ、その流れに抗うことができずにいる」
ムスタングのパイロットの一人が、高倉の視線に気づいたのか
軽く手を挙げて合図を送った。それは敬意ではなく
ただの確認であったかもしれない。
だが高倉は、その無機質な交流の中に、人間としての最後の矜持を見た気がした。
ハワイでの燃料補給は、極度の緊張感の中で行われた。
米軍基地に降り立った白い二式大艇は、集まってきた米兵たちの
好奇と憎しみの視線に晒された。だが、高倉は機体から一歩も出ることなく
室内で書類の整理を続けた。 サンフランシスコからワシントンへと向かう
大陸横断の旅路では、眼下に広がる
広大なアメリカ合衆国の豊かさを痛感させられた。
どこまでも続く麦畑、林立する煙突。日本がこれほどの国力を持つ相手と戦い
四年間も持ちこたえたこと自体が、ある種の奇跡だったのではないか。
高倉は、鞄の中から一枚の紙を取り出した。
それは、四国沖、北陸沖の海戦、そして大陸打通作戦やマリアナの戦いで没した
彼の教え子や部下たちの名前を書き連ねたリストだった。
「お前たちの死を、無駄にはさせない。お前たちが守りたかったこの国を
私は、どんなに汚い手を使ってでも、どんなに辱めを受けてでも、存続させてみせる」
彼は、リストを胸のポケットに収め、空の青さを睨みつけた。
沖縄では、今この瞬間も、大和を失った第二艦隊の生き残りたちが
デヨ戦艦部隊との死闘を繰り広げ、そして散っていこうとしている。
あるいは、高間少将率いる十一水戦が、夜の海で最後の突撃を敢行しているかもしれない。
彼らが稼いでくれている一分、一秒が、高倉にとっての交渉のチップなのだ。
「武蔵も、日向も、霧島も……。みんな、私に背中を預けてくれた。
ならば私は、この言葉の戦場で、彼らに恥じぬ戦いを見せねばならん」
高倉は、手元に用意した対米交渉案を、一字一句見直した。
米国側の要求は、おそらく無条件降伏に近いものになるだろう。
だが、日本にはまだ「核」という伏せられたカードがある。
これをどのタイミングで提示するか。相手のブラフをどう見破るか。
スティムソン陸軍長官、バーンズ国務長官。歴戦の政治家たちを相手に
彼は一歩も引くことは許されない。
「安田、ワシントン到着まであと何時間だ」
「あと三時間ほどです、提督。すでに米側の航空管制からは
高度を維持しつつ指定の飛行場へ向かうよう指示が出ています。
現地の天候は晴天。視界は良好だそうです」
「そうか。皮肉なほどに、良い日和だな」
高倉は、最後の一杯となるであろう、日本から持参した茶を口にした。
冷え切った茶の苦味が、彼の意識を研ぎ澄ませていく。 ワシントン。
そこは、これまでのどんな戦場よりも過酷で、残酷な場所になるだろう。
彼は、自分が絞首台へと登る光景を、すでに予見していた。
だが、その足取りに迷いはなかった。 自分が死ぬことで
この国の「国体」が守られ、数百万の同胞が救われるのであれば
それは一人の武人にとって最高の栄誉であるはずだ。
「さあ、始めようか」
雲海を突き抜ける太陽の光が、機内を黄金色に染め上げた。
白い巨鳥は、孤独な翼を広げ、敵地の中枢へと降下を開始した。
それは、帝国海軍連合艦隊司令長官
高倉としての最後の、そして最も重要な「出撃」であった。
高倉の脳裏には、最後に交わした陛下の御言葉が響いていた。
「高倉よ、日本のために、死んでくれ」
その言葉の真意を、彼は痛いほどに理解していた。
陛下は、高倉を死なせたいのではない。高倉にしか
この国の絶望を背負うことはできないと、信頼されているのだ。
高倉は、軍帽を深く被り直し、椅子から立ち上がった。
「安田、着陸準備だ。背筋を伸ばせ。我々は、負けてここに来たのではない。
新しい平和を創るために、勝負しに来たのだ。米兵たちに、日本軍人の気概を見せてやれ」
「はっ! 了解しました!」
安田の力強い返辞を聞きながら、高倉は窓の下に広がるポトマック川の流れを見つめた。
ワシントンの白い建造物群が見えてくる。
そこには、自分を待ち構える「裁き」と「希望」が、複雑に絡み合って存在していた。
高倉は、鞄の取っ手を強く握り締めた。
中に入った二グラムの物質が、微かな熱を持っているかのように感じられた。
一九四五年八月中旬。 世界を焼き尽くした炎が
一人の男の孤独な旅路によって、静かに消されようとしていた。
だが、その代償は、あまりにも重く、そして美しいものでなければならなかった。
高倉の物語は、このワシントンの地で、真のクライマックスを迎えようとしていた。
彼は、一歩、また一歩と、運命の階段を登り始めた。
彼の背中には、この四年間で散っていった数多の魂が
静かに寄り添っているかのように、白い翼が夕日に光り輝いていた。
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世界は二度目の世界大戦に突入した。ヒトラー率いるナチス・ドイツがフランス侵攻を開始する。同時にスターリン率いるコミンテルン・ソビエトは満州に侵入した。ヨーロッパから極東まで世界を炎に包まれる。悪逆非道のファシストと共産主義者に正義の鉄槌を下せ。今こそ日英同盟が島国の底力を見せつける時だ。
※超注意書き※
1.政治的な主張をする目的は一切ありません
2.そのため政治的な要素は「濁す」又は「省略」することがあります
3.あくまでもフィクションのファンタジーの非現実です
4.そこら中に無茶苦茶が含まれています
5.現実的に存在する如何なる国家や地域、団体、人物と関係ありません
以上をご理解の上でお読みください
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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