改大和型戦艦一番艦「若狭」抜錨す

みにみ

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開戦までのカウントダウン

弾着観測、電探射撃

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三月六日、午前七時二十分。
豊後水道南東海域は、冬の名残をわずかに引きずりながらも
春を思わせる穏やかな海況だった。
うねりは小さく、周期は長い。
艦の動揺は理論上、射撃に大きな悪影響を及ぼさない条件である。

改大和型戦艦一番艦若狭は、ゆっくりと左舷同航の針路を維持していた。
艦橋上部、九八式改三方位盤照準装置の周囲には
砲術・航海・通信の各担当士官が固唾を呑んで配置についている。

黒崎哲郎大佐は、艦橋後方の一段低い位置に立ち
視線を前方海面へ固定していた。視界の先、三万八千メートル余りの距離に、標的がある。
廃駆逐艦十九号。元江風型駆逐艦谷風。
かつて第一線で海面を駆けた艦は、今や塗装も剥げ
曳航されてここに据えられたただの鋼鉄の箱に過ぎない。
しかし、今日この瞬間、若狭の主砲にとっては世界で最も重要な存在だった。

黒崎は、耳元の受話器越しに響く航空機からの通信を待っていた。
艦載機瑞雲二二型、二番機。弾着観測担当。

「敵艦座標、二十の一二五。若狭以遠、三八七六〇」

乾いた無線音声が艦橋に流れた瞬間、空気が変わる。
測的符号、方位、距離。すべてが射撃系統に入力されるべき生の数字だ。

砲術長、吉岡貞雄大佐が、静かに、しかし確実な声で命じた。

「主砲左同航砲戦。弾種一式徹甲。各砲一基ずつ統制射撃。舵、主機、そのまま」

この短い一文に、砲戦の思想が凝縮されている。
同航砲戦。自艦の針路を変えず、相対運動を最小化し
射撃諸元の変動を抑える。50口径46センチ砲の
初速と弾道特性を、最も素直に引き出す方法だ。

黒崎は、その言葉を聞きながら
設計段階で何度も描いた理想の射撃線図を思い出していた。
理屈の上では、この距離、この海況、この速度なら
最初の斉射で照準中央付近に弾群が形成されるはずだった。

艦橋最上部。
九八式改三方位盤照準装置が、航空観測から得られた測的値を基に、瞬時に諸元を算出する。
角速度補正、視差修正、艦首動揺補正、地球曲率による僅かな落下角補正。
それらが歯車とカムと差動機構によって、物理的に処理されていく。

直下の九八式改一射撃盤へ、計算結果が即座に送られた。
そして、それは艦内放送となって全艦に響く。

「主砲左舷。一番砲、三二・一四度。二番砲、三二・七六度。
 三番砲、三四・〇四度。仰角、各砲塔二九・三度、二九・五度、二九・八度に備え」

黒崎は、無意識のうちに拳を握っていた。
これが若狭の中枢だ。思想を数値に変え、数値を鋼鉄に伝える神経系。

「主砲、教練射撃。統制射。撃ち方始め」

吉岡の命令と同時に、一番砲塔が低く唸りを上げた。
巨大な砲身がわずかに揺れ、次の瞬間、世界が白く裂ける。

衝撃。
空気が潰れ、艦体が沈み込むような反動。
砲口炎は一瞬で消え、数秒遅れて、遠方の海面に白い柱が立ち上がった。

瑞雲から、即座に報告が入る。

「弾着観測。全弾、遠弾。右外れ」

黒崎は歯を食いしばった。
遠弾。つまり射程が足りていない。右外れは方位の過剰。

射撃盤の担当士官が、反射的に修正を口にする。

「各砲塔、左に〇・六度寄せ。仰角、マイナス〇・六度に再設定」

修正値としては、理にかなっている。
だが、黒崎の胸には、微かな違和感が生まれていた。
誤差が、理論値より大きい。

「次弾射撃。用意、てっ」

二斉射。
三斉射。

そのたびに瑞雲から届く声は、無慈悲なほど正確だった。

「全弾、遠弾。照準中央」
「仰角、さらにマイナス〇・六度。射撃準備完了次第、てっ」

修正、発射、観測。
修正、発射、観測。

六度、その作業が繰り返された。
射撃開始から四分四十秒。
時間としては短い。だが
艦橋にいる全員にとって、それは異様に長く感じられた。

そして、七斉射目。

「二番砲、砲弾夾叉、確認」

その一言が、艦橋の空気を解き放った。
黒崎は、思わず大きく息を吐いていた。

夾叉。
目標を挟み込む着弾。
すなわち、命中は時間の問題であるという証明。

「……やっと、だな」

吉岡が小さく呟いた。
その声音には、安堵と、わずかな苛立ちが混じっていた。

黒崎は理解していた。
これは失敗ではない。
しかし、成功とも言い切れない。

続いて行われたのは、電探射撃だった。
瑞雲による弾着観測を介さず
二号電波探信儀二型による測距・測角のみで射撃を行う。

「二号二型、探知よし。距離、三六八四〇」

電探室からの報告。
その数値が、直接射撃盤に送られる。

理屈の上では、こちらの方が速く、安定する。
人間の観測誤差を排し、電波による距離測定で一貫性を保てるからだ。

だが、現実は甘くなかった。
第四斉射でようやく夾叉。
夾叉率、二・八パーセント。

数字は、冷酷だった。

通常の光学照準より優れているはずの電探射撃が、実戦的には不安定。
測距は正確でも、その情報が射撃盤に届き
反映されるまでの過程に、見えない遅れと歪みが存在していた。

射撃終了後。
若狭は速力を落とし、回頭した。

黒崎は、艦橋から離れると、静かに目を閉じた。
自分が作り上げた防空思想。
電探と射撃を結合させた、未来の戦艦像。

それが、現場ではまだ噛み合っていない。



三月六日夜。
若狭艦内の一室に、異例とも言える顔触れが集まっていた。

電探員、砲術員、射撃盤担当、瑞雲搭乗員。
階級も兵科も異なる者たちが、同じテーブルを囲んでいる。

黒崎哲郎は、中央に座り、ゆっくりと口を開いた。

「今日の射撃は、失敗ではありません。しかし、成功とも言えない。
 私はそう考えています。数字は正直です。夾叉率二・八パーセント。
 この数値が示しているのは、装置が悪いのではなく
 我々の使い方が、まだ噛み合っていないという事実です」

誰も口を挟まない。
黒崎は続ける。

「電探情報の伝達が遅れている。これは、測距そのものではなく
 その後の処理と伝達経路に問題がある。
 射撃盤に反映されるまでに、艦がすでに次の動揺周期に入っている」

砲術員の一人が、意を決したように言った。

「ですが大佐、現場としては、あの速度で処理するのが限界です。
 これ以上早くすれば、確認が追いつかない」

黒崎は、即座に否定しなかった。
一度、言葉を飲み込んでから、丁寧に答える。

「その通りです。だから、現場を責めるつもりはありません。
 私が見落としていたのは、艦の動揺です。艦は不規則に揺れているように見えて
 実際には、ほぼ周期運動をしています。その周期を、射撃諸元に組み込めばいい」

沈黙。
やがて、瑞雲の観測員が口を開いた。

「つまり、艦が次にどちらへ傾くかを予測して、あらかじめ補正する、ということですか」

「そうです。これは理屈の話ではありません。
 皆さんが毎日、体で感じている揺れを、数字に落とし込むだけの話です」

黒崎の声は、以前よりも柔らかかった。
博士のような語り口ではない。
現場の人間と同じ言葉で話そうとしている。

「私は設計者として、完璧な装置を作ったつもりでいました。
 しかし、それは現場の負担になっていた。そこは、はっきり認めます」

その言葉に、室内の空気がわずかに変わった。

二週間後。
三月二十日。

再び若狭は、同じ海域にいた。
同じ標的。
同じ針路。

だが、艦内の雰囲気は違っていた。
修正された手順。
整理された伝達経路。
艦の動揺周期を組み込んだ補正値。

「射撃開始」

第一斉射。
第二斉射。

「着弾、至近」
「三番砲、夾叉確認」

修正は最小限で済んだ。
夾叉率、四・一パーセント。

数字以上に重要だったのは、その過程だった。
誰もが、自分の役割を理解し、他の部署を信頼していた。

射撃終了後、黒崎は甲板に出た。
潮風が、制服を揺らす。

若狭は、まだ完成していない。
だが、確実に一つになりつつある。

「思想の塊が、ようやく兵器になり始めたな」

黒崎は、そう呟いた。
その声は、誰に聞かせるでもなく、しかし確かな手応えを伴っていた。
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