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1巻

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   序章


 頭がずきずきするし、喉も渇いた。

「み……みず……」

 枯れかけた草花のように水を欲し、声を絞り出すと何かが唇に触れ水が注ぎ込まれた。

「も……もっと」

 一回では足りなくて催促すると、再び水が注ぎ込まれて喉を潤す。

「ん……」

 水を注ぎ込んだ熱いものが、水を飲ませてくれた後も口を塞ぐ。それが気持ち良くて猫のように喉を鳴らすと、熱いものが口中に滑り込んできて口の中を舐め回した。

「やだ……」

 気持ち良くなった頃にそれが離れようとするのに抗議すると、くぐもった笑い声が聞こえた。それから頭をポンポンと優しく叩いて何かを言った。
 小さい頃、お母様にそうやってあやしてもらったな……ずいぶん前からそんな風にしてもらってなかったから嬉しくて、にへらと笑って「わかった」と、返事した。

「痛い」

 ずきずきするこめかみを押さえながら目が覚めると、知らない部屋にいた。

「えっと……」

 昨日は妹のトレイシーの結婚式で、ここがヘイルズ家の客間だったことを思い出す。
 結婚式の前日から家族でヘイルズ邸に泊まっている。

「え……やだ、何これ」

 痛む頭を押さえ、自分の状態を見て唖然とした。
 何も着ていない。素っ裸だった。

「へ!」

 胸元を見ると、あちこちに赤紫の斑点が散らばっている。特に胸の周りが激しい。
 発疹ほっしんかと思うほど、初心うぶではない。痒くもなんともないし、経験はないが、知識はある。
 これはいわゆるキスマークだ。

「え……え……」

 ガバッとシーツを取り払うと、寝台の中ほどに赤黒い染みが点々と……しかもほかの所も湿っている。何より、私のあそこが主張している。わずかな痛みと何かがこすれた感触の存在を。

「え……え……ちょっと待って……誰と?」

 少なくとも今私は一人だ。
 情事の相手は影も形も見当たらない。私がいる場所の右側の枕が人の頭の形にへこんでいる。
 痛む頭を抱えながら、眉間近くの額に指を当てて考え込み、記憶を呼び起こす。


 昨日の結婚式。空はどこまでも青く澄み渡り雲ひとつなく、空を横切る鳥たちも今日を祝福しているようだった。
 花婿が花嫁のベールを上げて誓いのキスをした瞬間、式は最高に盛り上がり私の涙腺も限界に達した。

「コリーナ姉様……」

 右隣から弟のルディが大量のハンカチを何枚も差し出す。
 私が用意していた自分のハンカチはすでにビチョビチョだ。

「あ……あでぃがど……」
「父上にも……」

 ルディが言うので左隣を見ると、父親のエリオットも涙と鼻水にまみれている。

「というか、泣きすぎ」
「そういうルディだって……」

 ルディも目尻に浮かぶ涙を今受け取ったハンカチでぬぐう。
 通路の向こうの花婿側の人たちが、そんな私たちのやり取りを生暖かい目で見ている。
 母親のケリーが亡くなったのは私が十八の歳だった。
 それから七年。
 今年二十歳になったトレイシーは今日、一歳上のルーファス・ユーバンク・ヘイルズと結婚する。
 母親代わりに妹たちを育ててきた私にとっては、ひとつ肩の荷が下りることになる。

「コリーナ、待っているから化粧を直してきなさい」

 自分も涙でグズグズになりながら、父が言った。男の人はいいな。
 涙でグズグズになって化粧も剥がれて、きっと酷いことになっているんだろう。
 妹たちの面倒を見ている内に私もいつしか二十五歳になっていた。
 同じ年の友人たちはとっくに結婚して子どもの一人二人は産んでいる。
 式も終わりに近づき、参列者はヘイルズ邸で開かれる披露宴へ移動する。
 私は慌てて化粧室へ向かった。

「きゃっ!」
「わ!」

 ハンカチで目頭を押さえながら歩いて角を曲がったところで、向こうから来た人と正面衝突した。
 勢い余って後ろに倒れそうになったところを、すんでのところでぶつかった相手が腕を掴んで止めた。

「大丈夫か?」

 眼鏡の向こうから菫色の瞳が私を覗き込む。

「あ……はい」

 体勢を立て直す間、彼は私の頭越しに外の様子を眺める。

「式はもう終わったのですね」

 ため息と共に反対側の手で眼鏡を押し上げる。

「はい。さっき……」

 私がぶつかった相手、レオポルド・ダッラ・スタエレンスはもう急いでも仕方ないと思ったのか、そこでため息を吐いた。
 ミディアムに切り揃えたダークブラウンの髪が汗で額に張り付いている。

「急いで来たのだが……間に合わなかったか」
「お忙しいのですね」
「いろいろと立て込んでいて……それでも今日は間に合わせたかったが……」
「どうぞ」

 流れる汗を拭くためのハンカチを差し出すと、彼はハンカチと私の顔を交互に見比べた。
 化粧が剥がれ落ちた顔をさらしていることに気づいて恥ずかしいが、今さら取り繕っても仕方ない。

「安心してください。未使用です。たくさんあるので返却も不要です」

 気にすると思い、私の涙を拭いたハンカチではないと説明すると、黙って受け取り額の汗を拭いた。

「ありがとう。君はルーファスの結婚相手の……」
「コリーナ・フォン・ペトリです。花嫁の姉です」

 彼とは一度親族の顔合わせで見かけていた。あの時も彼は遅れてやってきた。テーブルの端と端だったし、自己紹介もしなかったが、顔は覚えていたらしい。
 こっちは覚えているのに、私に興味がないんだろう。
 ブルーグレイの瞳と薄茶色の髪の私は、彼の目にはどう映っているんだろう。
 全体に色素が薄くて鼻は低い方。目は大きめ。顎の線もシャープさはなく、どちらかと言えば童顔だ。並べば確実に見劣りしそうだ。
 悔しいが、眼鏡をかけてすらりとした体つきの彼は、誰もが認める男前だ。
 外交の仕事をしていると聞いた。
 仕事ができてスタイルも良く、男前。嫌味なくらいすべてが揃っている。
 本人はまるで相手にしていないが、女性にもてるとルーファスも言っていた。
 ルーファスの家系は女性が多く生まれている。数少ない男性同士で歳は少し上だが、従弟いとこであるルーファスと仲がいいらしい。
 彼が頼んだのもあり、忙しい合間を縫ってヘイルズ家とペトリ家両家の顔合わせにも参加した。
 それでも肝心な結婚式にまで遅れてくるなんて、トレイシーに不満でもあるのだろうか。

「かなり感動的な式だったようだ」

 泣き腫らした私の顔を見て、そう思ったのだろう。

「大切な家族の門出ですもの、嬉しいに決まっています」

 泣いて何が悪いと開き直る。泣くのは性分ではないが、嬉しくて流す涙は別だ。

「すみません。ヘイルズ邸の披露宴に行かなければなりませんので、失礼してよろしいですか?」
「ああ失礼、私も花婿と花嫁に挨拶をしてきます。ハンカチ、ありがとう」

 それでレオポルドとの会話は終わった。
 私は化粧室へ行き、戻った時にはすでに参列者の半分はヘイルズ邸に移動していた。

「遅いよ、コリーナ姉様」
「ごめんなさい」
「お父様は?」
「先にヘイルズ邸に行ったよ。花嫁の家族全員が遅れるわけにいかないから」

 私は待っていてくれたルディと共に、馬車でヘイルズ邸に向かった。


 花婿花嫁が披露宴会場であるヘイルズ邸の中庭で、仲良く挨拶をする。
 庭での立食式パーティーが始まり、しばらくして花婿花嫁のファーストダンス、花嫁と花嫁の父とのダンスと続き、全員が踊り出した。
 結婚式は出会いの場でもある。花婿と花嫁の友人たちで、まだ特定の相手のいない人たちは、お互い相手を値踏みしてダンスに誘ったり、おしゃべりをしたり。
 ルディも例に洩れず引く手あまた。お父様は親族や仕事関係の人と何やかんやで話をしている。
 花嫁の母親代わりで年増としまの二十五歳の私は、そんな中で確実に浮きまくっていた。
 年の近い人は皆、婚約者や妻など決まった人がいて、花婿の友人はほとんどが年下。
 何人かが挨拶と簡単な会話を交わしてくれるが、父とルディとが踊りに誘ってくれた以外は、完全に壁の花だった。
 女性たちに囲まれているレオポルドが目にはいった。
 彼は確か私のひとつ上で独身。
 同じ年頃でもレオポルドは優良物件で、私は完全に廃棄寸前だ。
 周囲の視線に居たたまれなくて、ワイン瓶とつまみをいくつか持って人気のない場所へ逃げることにした。

「確か……温室の方へ行って……」

 早くに亡くなった母を思いながら、一人でお酒を飲み、自分の心を慰めていた。
 妹や弟たちを育てるのに必死だった。そのことは後悔していない。
 でも、母が今でも生きていたらとか、父が仕事以外のほかのことがまったくダメでなかったら、私は誰かと結婚して子どもがいたのかな、なんてグチグチと考えていた。
 母が生きていたとしても、誰かに見初められることなんてなかったかもしれないけれど。
 誰もが認める美女でもない。平々凡々な顔立ちなのは母の死に関係ない。
 管を巻いている内にワインを飲み干したようだ。元々お酒はそんなに強くない。いつもはグラス一杯程度の私が瓶一本をほとんど飲み干したらどうなるか。ぐでんぐでんに酔っぱらい、誰かに絡み……


 そこでサァーと血の気が引いた。すでに酔い潰れた頃、誰かが温室に入ってきた気がする。
 でも私の記憶はそこまで。
 その人に文句を言ってからんだように思うが、相手が誰で何を言ってどう受け答えしてくれたか、まるで記憶にない。
 そしてこの状態。もしかしなくても……

「私……やっちゃった?」

 あきらかな情事の跡。記憶がなくても体はしっかりと誰かの感覚を覚えている。
 でもどうして相手がいないのか。まさかのやり逃げ?
 完全なる二日酔いに苛まれる。
 コリーナ・フォン・ペトリ、二十五歳。
 妹の結婚式の夜、誰かわからない相手とやっちゃいました。



   第一章


 トレイシーの結婚式から二年半。今度はルディが結婚する。
 相手は昨年社交界デビューしたばかりのマーガレット・デ・ラドキン男爵令嬢。
 小柄で愛らしく、ルディの一目惚れだった。
 トレイシーは一年前に男の子を出産している。
 それから父が数か月前に再婚した。
 相手はジーナさんという女性だ。彼女の前夫が父の取引相手だったが五年前に他界し、父のもとで事務の仕事などを手伝っていた。子どもが一人いて、亡夫の実家の養子になり跡を継いでいる。貴族ではないが、子爵程度の我が家では特に問題はない。
 変わらないのは私だけ。結婚市場では確実に売れ残りとなりつつある。
 あの日、確かに誰かと致したが、トレイシーの結婚式の翌日以降、結局、誰からも何の連絡もなかった。
 一週間くらいは家に来客がある度にびくびくしていたが、一か月も経つと体よくやり逃げされたんだとわかった。
 せっかくの体験、記憶にないのは残念な気もするが、身持ちがどうとか悲観するのも馬鹿らしい。
 幸か不幸か、変なやつに体の関係を元に恐喝されることもなく、妊娠もしなかったのだから、不幸な事故にでもあったと思うことにした。
 父も再婚しトレイシーに続いてルディの結婚も決まった。後は私だけ。
 社交界にデビューしてすぐに母が病に倒れたので、私は花嫁候補としての一番のピークを逃した。それにほとんど社交界に知り合いもいない。
 何もしなければ相手も見つからない。ようやく夜会通いを始めたが、行動に出るのが遅すぎたと痛感した。
 夜会に出ても私と同年代はほぼ既婚者で、独身の者は一度失敗しているか、性格や財産状態にやや問題がある場合が多い。私もそんな風に見られているのは周りからの視線で何となく察しがつく。
 何人かとダンスをしたりしたものの、その後が続かず、毎回帰りの馬車で肩を落としていた。
 すでに夜会通いを始めてから二週間が経ち、気力も体力も限界だ。
 今夜の主催者のファシスール伯爵は交友関係も広く、夫人は完璧な淑女として名高い。
 いつもは父やルディと参加していたが、今夜は結婚相手を求める人たちに出会いの場を提供するということで、お一人様参加の夜会だった。
 これまでの夜会はただの社交の場だったが、ほかの夜会に来ていなかった人も今回はたくさん参加すると聞いて期待を胸に参加した。
 けれどここに来て場違いを痛感した。未婚の女性は皆、二十歳そこそこ。声をかけてくれる男性も何人かいるが、私が童顔だからで、年齢を聞くとそそくさと言い訳をして離れていくか、好みでない男性ばかりだった。


「姉様、ちょっといい?」

 ルディの結婚式の朝、私はトレイシーとルディに呼ばれた。
 花婿の家族が結婚に際してあまり手を出すことはない。
 末っ子だがしっかり者のルディは、私の手をわずらわせることなく、式の準備は完璧なはずだ。それでも主役であるルディがここにいて大丈夫なのだろうか。

「何か問題でも?」

 直前まで気は抜けない。彼らの神妙な顔を見て深刻な問題が起こったのかと身構えた。

「僕も今日マーガレットと結婚します」
「そうね。いよいよね」
「母上が早くに亡くなり、父上の愛情は感じていましたが、僕がこうして伴侶を見つけて独り立ちできるのは、姉様がいてくれたからです」
「ありがとうございます、姉様」

 トレイシーと共に急に感謝の言葉を投げ掛けられてびっくりする。
 これは、少し早いがお世話になりました、的な展開? ヤバい……泣けてきたかも。

「父上もジーナさんと再婚して、僕たちも父上が寂しくなくなってほっとしている」
「そうね、お母様と言うには若いけど、ジーナさんは素敵な人だわ」

 私たち三人は父の再婚に特に異議は唱えなかった。
 母が亡くなって十年。男盛りをやもめで過ごしたのだからこれから父には幸せになってもらいたい。

「残る心配は姉様のことだ」

 そっちか……話の矛先ほこさきが見えて私は一気に涙が引っ込んだ。

「心配しなくても、どこかのやもめの人を探してその内結婚するわ」
「やもめ? 姉様は初婚なのに、どうして最初から後妻狙いなの?」
「それは、ほら、私ももう二十八でしょ。相手も初婚なんて年が……」
「姉様はいいの? それにまだ二十七だろ。僕は嫌だな。大事な姉様が後妻になるなんて」
「後二か月で二十八だから同じよ。気持ちは嬉しいけど、こればっかりは相手がいることだし……」

 姉を大事に思ってくれるのは嬉しいし、気持ちはわかる。私だって望むなら相手も初めてがいい。
 だが、この年まで独身の男にろくなのはいない。
 贅沢は言っていられない。自分もこの年まで独身なので、お互い様かもしれないが、たいていが女にだらしないか、女性に興味がないか、借金があるか、それなりに事情がある人が多い。中には運悪く婚期を逃しただけという人もいるだろうが、そんな人はごく稀だ。

「そこで姉様に結婚相手を紹介したいと思います」
「え?」

 ルディが前のめりに言い、トレイシーと頷き合う。

「姉様、これは父上も同意のことです」
「え……」

 家族総出? 逆にあまりの気合いの入れように引くしかない。
 これでは相手が気に入らなくても簡単に断れない。まさに崖に追い詰められた気分だ。

「気持ちは嬉しいけど、そんな相手が仮にいたとして、相手が私を気に入るかどうか……」

 ここは相手から断りを入れてもらうようにするしかない。
 結婚したくないわけではないが、こんな急に……心の準備だってある。

「大丈夫です。姉様も知っている人です。身分も容姿も……人柄も保証します」

 いや、今『人柄』のところで言葉がつっかえなかった?

「私が知っている人?」
「実は、相手にも今日ここに来てもらっているんです」
「え!」

 トレイシーの発言にまたもや驚いた。

「相手はその……私と結婚してもいいと言っているの?」

 正直、ここ最近の婚活ではいい結果は得られなかった。

「もちろんよ」
「まずは肩肘張らずに、今日の結婚式でダンスでも踊って軽く話してみてよ」
「でもそんな急に」

 弟の結婚式、最後まで無事に手抜かりなく終わるか、招待客に失礼がないか。気にしないといけないことがたくさんあるのに。よりによって家族総出で結婚相手候補を紹介されるとは!

「それで相手は?」
「大丈夫。向こうから姉様に声をかけてくれるから」

 そう言って二人はその人物が誰か教えてくれなかった。


 トレイシーの時と同じで、式は教会で行われ、その後我が家で披露宴が行われる。
 花婿側の参列者が座る列の一番前が私と父とジーナさん。
 教会の席は招待客で埋め尽くされている。

「ルーファス」
「遅くなってごめん」
「大丈夫よ。まだ式は始まっていないもの」

 トレイシーの夫のルーファスが慌ててやってきた。少し用事があってギリギリになると聞いていたが、間に合ってよかった。
 ルーファスの後ろにもう一人男性が立っていた。
 ダークブラウンの髪は綺麗に撫で付けられ、紺の三つ揃い姿も決まっている。

「え……」

 ルーファスの後ろに立っていたのは彼の従兄いとこのレオポルドだった。
 彼に会うのはトレイシーの結婚式以来だ。小耳に挟んだ話では外国に行っていたらしい。
 ダークブラウンの髪に菫色の瞳。背が高くスタイルもよく正装がとても様になっている。
 トレイシーの結婚式でもたくさんの女性に囲まれていたが、彼が現れた途端参列者の女性たちの何人かからため息が漏れるのが聞こえた。

「やあ、君はレオポルドだったね」
「ご無沙汰しております、ペトリ卿。本日はおめでとうございます」
「私の妻のジーナに会うのは初めてだったね。ジーナ、彼がルーファスの従兄いとこでスタエレンス伯爵家のレオポルドだ」
「ジーナです。初めまして」
「こちらこそ、お会いできて光栄です」

 彼は父に挨拶をして、ジーナさんの手を取りその甲に唇をつけた。

「こんにちは、トレイシー。コリーナ嬢も。今日はお招きありがとう」
「こ、こんにちは」
「お久しぶりです」

 トレイシーと私の手の甲にもキスをする。
 こちらをちらりと見た流し目にどきりとする。
 二年半ぶりだが、彼はいい意味で歳を重ねたようだ。確実に色気が増している。こんなことを思うのは不謹慎だろうか。
 眼鏡の奥から覗く切れ長の菫色の瞳に高い鼻梁。厚くも薄くもない形の良い唇にすっきりとした顎のライン。ダークブラウンの髪は以前より少し伸びているが、確実に男前ぶりは上がっていて、紺のスーツに薄いグレーのシャツ姿も決まっている。
 もうすぐ式が始まるため、軽く挨拶だけでその場は終わった。
 通路側には家長である父が座り、その横にジーナさん、そして私とトレイシーが座るはずが、なぜか私の隣にレオポルドが座り、その隣にルーファスとトレイシーが続いた。

「今日は何枚ハンカチを持ってきているんですか?」
「はい?」

 質問された意味がわからず尋ね返した。

「妹さんの結婚式でも一枚では足りなかったようだし、今日も用意しているんですよね?」
「あ……はい。えっと三枚」

 トレイシーの結婚式で泣き腫らした顔で彼とぶつかったことを思い出した。

「三枚……それだけで足りる?」
「も、もちろんです。私だって成長しているんですよ」

 なんだか馬鹿にされたようで少しむきになった。
 そんな私の反応を見て、彼は口角をあげて少し笑いながらゴソゴソと上着の内ポケットに手を入れて何かを取り出した。

「足りなければこれもどうぞ」

 彼が取り出したのは薄いピンク色のハンカチだった。
 どこかで見たことがある。

「これって」
「君が私の汗をぬぐうためにくれたハンカチだ」
「え、まだ持っていらしたんですか」

 私でさえ今見るまで忘れていた。

「いつか返そうと、ずっと持っていました」
「そんな安物のハンカチ。捨ててくれてもよかったのに」
「もらったものを勝手に捨てるわけにはいかない」
「そうですか……では」

 そう言って彼からハンカチを受け取った。

「もしそれでも足りなければ」

 すっと彼が顔を近づけてささやいた。

「私の胸を貸そう」

 息がかかるくらい傍でささやかれてびっくりして目を丸くした。

「え……」

『胸を貸そう』って、私に彼の胸で泣けと言っているの?

「そんなこと……」

 できるわけがない。頬がひどく熱い。それを見て楽しそうに彼が笑った。

「か、からかっていらっしゃるのね」
「どうだろう」

 彼ってこんな冗談を言う人だった? いやそもそも彼がどんな人なのかよく知らない。
 知っているのは名前と、彼がルーファスの従兄いとこだということ。何をしているのか、どんな性格なのかも知らない。女性の視線を集めるのはうまそうだけど。

「あのレオポルドさん」
「しっ、式が始まる」

 文句を言おうとしたが、遮られた。神父様とルディが入ってきて祭壇の前に立ったのだ。
 私は喉まで出かかった文句を呑み込み、式に集中することにした。
 彼がどういうつもりで言ったのか知らないが、年齢のわりに恋愛経験は皆無なので、さっきのようなからかいにはまったく慣れていない。
 もうすぐ二十八になるのだから、それくらい聞き流せないとこの先やっていけない。
 式が始まるとすぐにそちらに気がいって、式の間中レオポルドが私の方をじっと見ていたことには気づかなかった。


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